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(9)日露の併合政策と教育制度の類似性

(9)日露の併合政策と教育制度の類似性

日本ではウクライナ危機を契機に自民党のタカ派や維新の議員が声高に軍拡や「改憲」を訴え、公明党や国民民主党などもその主張に流されているように見える。

しかし、ウクライナ危機が1968年の事件の際と決定的に異なるのは、ロシアに武力で攻撃されたことのなかったチェコスロヴァキアが武力による抵抗をしなかったのに対して、ロシア帝国に併合されていたという過去を持っていたウクライナが人的な被害をも顧みずに徹底的な抗戦をしていることである。

おそらく併合された民族の怒りや心的な深い傷について考えたことのなかったプーチン大統領はチェコスロヴァキア型の解決を予想していたのだと思われる。今回のウクライナ危機に際して、戦争に関連して日本人が考察すべきは、過去に併合されたことのある隣国の心的な傷の深さだろう。

『若き日の詩人たちの肖像』で日本に住む韓国人の屈折した心理をも描いた堀田善衞は、上京してからギターも習い始めた主人公の若者が、ロシア帝国によるポーランド併合と日韓併合についての類似性について、「ショパンの音楽は、たとえば朝鮮のアリラン節を洗練したようなものであり、ポーランドの旋律のもつ、あるあわれさとポーランド自身の運命は、東方における朝鮮のそれに酷似していた」(上巻・40頁)という感想を抱いたと描いている(『堀田善衞とドストエフスキー』群像社、57頁)。

ドストエフスキーが受けた教育とウクライナやポーランドとの関りについては、拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』でゴーゴリの場合などをとおして考察していたので、少し長くなるがまずそれらの個所を引用する〔文章中の「」はそのまま記し、省略した個所は(……)で示す〕。

「ドストエフスキー兄弟が学校に通い始めた頃、ロシアでは「祖国戦争」後に属国として併合したポーランドの政情ともからんで、大きな「教育改革」が始められていた。

 すなわち、デカブリストの乱の後に、自由主義的な思想の排除に努めていたニコライ一世は、一八二九年にポーランド王に即位すると、それまでポーランドには認められていた憲法の破棄などを断行しようとした。そのためにこれに対する激しい反発からポーランドでは翌年の一一月に蜂起が勃発していたが、これを鎮圧したニコライ一世はポーランドにおける憲法の無効を宣言し、ワルシャワやヴィリノ大学を閉鎖したのである。

 このような「教育改革」はすでに属国として併合されていたウクライナでも行われていた。ドストエフスキーが学んだチェルマーク寄宿学校の雰囲気を想像する手がかりとするためにも、少し回り道をすることになるが、作家のゴーゴリが一八二一年から二八年にかけて学んだウクライナの高等中学校(ギムナジウム)でおきたいわゆる「自由主義事件」をとおして、ウクライナの「教育改革」の問題を簡単に見ておきたい*7。

 ゴーゴリが入学したときのオルライ学長は医学と哲学の博士号をもった知識人で、一八一二年の「祖国戦争」に際しては、軍医として負傷者の手術にもあたったことがあり、時には他の学校と同じように鞭による体罰も行ったが、ペスタロッチの教授法による自由な学風を確立していた。それゆえ、学校では語学の修得のためにも演劇が推奨され、ドイツ語、フランス語やさらには、学校の正課には入っていなかったウクライナ語の劇が上演され、ゴーゴリも俳優としての才能を発揮していた。

 だが、学長が学校を去って問題が起きた。一八二五年のデカブリストの乱の後から密告が推奨され(……)寮生の持ち物検査をすると、学生たちの持ち物に当時は上演が禁じられていたグリボエードフの『知恵の悲しみ』や、危険視されていたプーシキンの『コーカサスの虜囚』や『強盗の兄弟』などの書物が見つかった。

 (……)卒業の時期が近づいて来るに従って、それまでベロウーソフを弁護していた学生たちが証言を覆し始めた。なぜならば、卒業時に与えられる官等は、その評価によって一二等官から一四等官までの差が出るからであり、学長も保守的なヤスノスキーに代わっていたのである。こうした結果、ベロウーソフ教授と最も親しいと見なされていたゴーゴリは、彼より出来ない学生が一三等官の官等を得たにも係わらず、結局、最下位の一四等官の地位しか与えられなかった。

 こうして、学校ではウクライナ語の詩も書いたりしていたゴーゴリは、卒業に際して「秩序」の厳しさを身にしみて味わわされ、ロシア語で作品を書く作家としてデビューすることになるのである。」(50~52頁)

 一方、ロシア帝国でもドストエフスキーが寄宿学校に入る前年の一八三三年に「わが皇帝の尊厳に満ちた至高の叡慮によれば、国民の教育は、正教と専制と国民性の統合した精神においてなされるべきである」とする通達を学校関係者や教育行政官に出されていた。

 「(ニコライ一世は)革命の成果を守るために国民軍の導入を果たしていた「国民国家」フランスとの国家の存亡を賭けた「祖国戦争」で辛うじて勝利をおさめた経験から、「普遍的な理念」とされロシアの若者にも影響力をもち始めていた「自由・平等・友愛」という理念によって西欧文明への崇拝者が増え、自国の「国家」としての骨格を崩されることを怖れて、ロシアの「伝統」に根拠を置いた「正教・専制・国民性」の「三位一体」を「ロシアの理念」として国民に徹底しようとしていたといえよう。

 しかし問題は、「ヨーロッパの理念」に対抗するために、西欧近代の「弱肉強食の思想」や「自然支配の思想」の批判をできるようなロシア発の「普遍的な理念」を打ち立てるのではなく、ロシアの貴族が既得権益を失うことのないように、ロシアの「伝統」が強調されたことである。

 農奴制の問題を手つかずで残したままで、「正教・専制・国民性」を「ロシアの理念」として強調したことは、ロシアの「野蛮性」を批判する西欧諸国の批判に根拠を与えることとなってしまった。それゆえ、厳しく禁じられた「自由・平等・友愛」という理念に憧れる若者が増えることを未然に防ぐために、ロシアは西欧からの厖大な情報に対する検閲を強化し、その措置が西欧からの新たな批判を生むという悪循環を招くこととなったのである。」(52~54頁)

 若きドストエフスキーがデビュー作『貧しき人々』でプーシキンの『駅長』とゴーゴリの『外套』を詳しく分析していたことの意味については、拙著で詳しく考察したが、ニコライ一世の頃の国粋主義的な歴史理解の弊害をもドストエフスキーは深く理解していた。検閲で禁じられたベリンスキーのゴーゴリへの手紙をペトラシェフスキーの会でドストエフスキーが朗読したことは、そのことをよく示しているだろう。

すなわち、ゴーゴリは一八四七年の初めに『友人達との往復書簡選』(以下、『書簡選』と略す)を出版し、ここで「官製国民性」を高く掲げて、自己を棄てた「国家への奉仕」こそがロシアの危機を救うと主張した。

「この頃ゴーゴリは、『死せる魂』の第二部で主人公チチコフの回心を描こうとしていたが、この試みはなかなかうまくいかず、それまで書きためていた原稿をすべて燃やしてしまうなど精神的に追いつめられていた。こうした精神的危機の中で出版されたのがこの著作であった。

 ゴーゴリはこの『書簡選』でも「汚職」や「裏取引」が「人間の手段をもってしてはどうにもならぬほど多い」ロシアの現実を厳しく指摘して、「ロシアはまさに不幸である」と断言してはいる。

 しかし、このような現状認識を示しつつもゴーゴリは、ここでその原因をロシアにおける法律の不備や憲法の欠如に求めるのではなく、人々が「物質的利益に誘惑されエゴイズムに盲いて、よきロシア的伝統を見失っている」ためだとした。そしてゴーゴリは、「自己のための自己を全て殺し、全てをロシアに捧げ、ロシアにあって活動しなさい」として、制度的な腐敗を生み出している政府ではなく、その腐敗に苦しむ国民に対して道徳を説いたのである*44。

 しかも、ゴーゴリは神によって支配する者と支配される者が選別されているのだとして、「支配される立場に生まれた彼ら百姓たちが、その下に生を受けた権力に従順たらねばならぬ」ことを強調し、「国家内の全ての階級・全ての個人が己の分と義務を弁え」るように、ロシア人の教育にあたっては、「彼の属する階級の諸々の義務を教えこむこと」が必要だとも記していた。このようなゴーゴリの記述の方法は、個人の自立を阻むものとしてまさにドストエフスキーが『貧しき人々』で否定していたものであった。(……)

 注目しておきたいのは、ゴーゴリの『書簡選』が出版された年に、ウクライナ語で詩を書いていたシェフチェンコなど「キリル・メトディ団」が逮捕されるという事件が起きていたことである。」ウクライナ語を積極的に用いることは、「「国民国家」フランスの成立以降、どの国でも「中央」の言語として重要視されてきた「国語」の権威を揺るがすものとして危険視されたのである*45。」(157~158)

1848年にはフランスで2月革命が起きてヨーロッパは騒然としたが、「このような政治情勢下でドストエフスキーは文筆活動を続けるかたわら空想社会主義者フーリエの考えを信じて、「農奴制の廃止」や「言論集会の自由」などロシア社会の変革を求めて、印刷所を設けようとするなどの活動を秘密裏に行っていた。その年の一二月に『祖国雑記』に発表された作品」(168)が、堀田善衞が『若き日の詩人たちの肖像』第一部の題辞としてその冒頭の文章を引用した『白夜』だったのである。

「一八四九年四月二三日未明、ドストエフスキーは寝入りばなを起こされ逮捕された。その容疑はペトラシェフスキー・サークルの「集会に出席」し「出版の自由、農民解放、裁判制度の変更の三問題に関する討論に加わりゴロヴィンスキイの意見に賛成」したこと、および「ベリンスキーのゴーゴリへの手紙を朗読」したことであった。」(196)

「一方、オーストリア帝国からハンガリーへの派兵の要請を受けたニコライ一世は、一八四九年の七月に一〇万を超えるロシア軍を派遣して、八月には革命軍を降伏させた。このために国内で極端に保守的な政治を行っていたニコライ一世は、「ヨーロッパの憲兵」とも呼ばれるように」なったのである(205)。

この不幸な歴史は1956年のソ連軍によるハンガリー動乱の鎮圧で繰り返されることになり、私事になるが、かつてポーランドを旅していた際に私がロシア語で語りかけても返事をされないという経験をして、ロシアに併合された過去を持つポーランドにおけるロシア語に対する拒否感の強いことに驚かされ、創氏改名を強制した日本の韓国併合政策の過酷さを連想したことがある。

ソ連軍の侵攻の後でチェコスロヴァキアに入った堀田善衞も、「モスクワから来ていたある日本人特派員氏と食事をしていたとき、思わずこの特派員氏がロシア語を口にすると、『ここではそんなことばを使わないでくれ』」と鋭く告げらたことを記している(268)。

この侵攻の後ではチェコスロヴァキアにおいてもそれまでの信頼が崩壊し、ロシアは侵略国と見なされるようになっていたのである。

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