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(8)チェコスロヴァキア事件からウクライナ危機へ――民族主義的な権力者の危険性

(8)チェコスロヴァキア事件からウクライナ危機へ――民族主義的な権力者の危険性

2月22日にロシア軍のウクライナ侵攻が始まってからすでに一か月半以上が経ったが、残念ながら今もロシア軍による烈しい攻撃が続き、市民の犠牲が増えている。

一方、日本では祖父の岸首相の古い理念を受け継ぎ戦前の価値観を美化したばかりでなく、プーチン大統領との27回の会談を重ねていた安倍元首相をはじめ自民党タカ派や維新の政治家が、この機会に乗じて声高に軍拡や「核武装」を主張し始めている。さらに、今日も安倍氏が「(ロシアのウクライナ侵攻で)ドイツですら防衛費をGDP比2%に引き上げる決断をした。日本も2%に拡大する努力をしていかなければならない」と語ったことが伝えられている。

一方、チェコスロヴァキア事件が起きた際に三島由紀夫はたびたび「二千語宣言」にも言及した「自由と権力の状況」1968年10月)で、「チェコの問題は、自由に関するさまざまな省察を促した。それは、ただ自由の問題のみではなく、小国の持ちうる、政治的なオプションの問題でもある」とし、「極端に言えば、あそこでは文学と戦車との対立が劇的に演じられたのである」と分析し(119頁)、1970年の「三島事件」では憲法改正のための蹶起を自衛隊に求めたのである。

それに対して堀田善衞はチェコスロヴァキア事件が起きると現地に飛んで老詩人スルコフの「ここに(胸に)苦痛をもって、兄弟国へ出兵をせざるをえなかったのである。そのことをどうか了解してもらいたい」という回答をえていた。その言葉は「弱肉強食」の論理を正当化する西欧列強から滅ぼされないためには、「祖国戦争」に勝利したロシア帝国を盟主とする「全スラヴ同盟」を結成して西欧列強と対抗すべきだと主張したダニレフスキーの「全スラヴ同盟」の思想がソ連になってからも影響を持ち続けていた可能性を示しているだろう。かつては盟主国を自認していたロシアは、社会主義になってからは長兄の役を演じようとしていたのである。

しかし堀田善衞は、「“友は選べるが、兄弟は選べない”」という題を付けた第12章では、プラハで出迎えに来てくれた知人に「友人は選べるものだが、兄弟は選べるものではないことを、ほとんど直感したのが若い彼らでした」という苦い失望を語らせることで、この理念がチェコスロヴァキア事件で崩壊したことを示していた。

たとえば、この侵攻の後では堀田も「モスクワから来ていたある日本人特派員氏と食事をしていたとき、思わずこの特派員氏がロシア語を口にすると、『ここではそんなことばを使わないでくれ』」と鋭く告げられていた(268)。

それゆえ、プラハ滞在を終えてモスクワに帰り、「少なからぬ人々に、実情を訊ねられた」堀田は、自分の観察を率直に次のように語った。「プラハやブラティスラバの人たちはこう言っています。『背中にヒ首あいくち(占領)を突刺しておいて、傷がなおったら(正常化)、そのヒ首を抜いてやろう』とはね。」

さらに、スルコフはサルトル、ボーボアール、アラゴン、バートランド・ラッセル卿」などの名前を挙げて、この出兵によって「多くの友人を失った」と語っていたが、そればかりでなくルーマニアやアルバニア、ユーゴスラヴィアからの批判を招き、対立を深めた中国との間には翌1969年に中ソ国境紛争が勃発することになった。

チェコスロヴァキア事件の後で再び東欧が民主化を勝ち取るのは、ソ連のゴルバチョフ政権が新思考外交を打ち出した1989年のことであった。そして、ゴルバチョフはソ連においてもペレストロイカ(再建)やグラースノスチ(情報公開)などの政策を打ち出して、遅ればせながら、チェコスロヴァキアで試みられていた「人間の顔をした社会主義」への改革を行い始めていた。しかし、その矢先に起きたチェルノブイリ原発事故はその歩みを大幅に遅らせたばかりでなく、放射能の被害にもあったバルト三国の離反を招き、保守派によるクーデターを鎮圧したエリツィン・ロシア大統領が権力を握った1991年にソ連は崩壊した。

そのエリツィンによって大統領の退任前に首相から大統領代行に抜擢されたのが、元情報将校のプーチンであり、彼はエリツィンの政治手法を色濃く受け継いでいると思える。

それゆえ、大統領令によって自分を刑事訴追から免責させたエリツィンからプーチン政権への移行を、今回のウクライナ侵攻につながるような負の側面に焦点を当てて確認しておきたい。

最初に注目したいのは、エリツィンがウクライナ・ベラルーシの三国でソ連からの離脱と独立国家共同体(CIS) の樹立を宣言したように、歴史的・言語的に関係の深いこれら東スラヴの国々を重視するとともに、ロシアからの独立を主張したチェチェンに対しては強硬策を取って弾圧したことである。

翌年に首相を兼任してエリツィンは強権的な手法を議会でも用いて、縁故資本主義的な政策が批判されると大統領令を公布して超法規的に現行憲法を停止し、ロシア人民代議員大会と最高会議を強制的に解体した。このような手法に批判が集まり大統領選挙で苦戦すると新興財閥からの巨額の選挙資金などでようやく勝利したが、すると、第二次チェチェン紛争では辣腕を振るったプーチン首相を後継者に選び、不逮捕特権を得ていた。こうして、共産党政権の末期には「赤い貴族」が批判されるようになっていたが、エリツィンは政権の末期にはロシア帝国の皇帝のような独裁者に近くなっていた。

プーチンは大統領になった当初は、エリツィンとの癒着で莫大な富を得ていた新興財閥にも税金を課し、不正を取り締まったことで国民からの支持を得たが、2期目となる2004年には地方の知事を直接選挙から大統領による任命制に改めるなど中央集権化を進めて、エリツィンと同じように独裁者的な傾向を強めることになる。さらに、ソ連崩壊後の激しいグローバリゼーションに対抗するような形で世界の各国でナショナリズムの高揚が見られたが、プーチンの政策にもこのような民族主義的な傾向もみられるようになったと思える。

ことに大統領の正規の任期を終えた後で、もう一度首相に戻ってから再び大統領選に出るという非民主的な手法で再選された後ではエリツィンと同じような独裁者的な存在となった。さらに、精神的盟友とも言われるロシア正教会のキリル総主教との個人的な関係も深めていることが3月29日のNHK報道でも伝えられており、「 正教・ 専制・国民性」の道徳に従うことが求められたロシア帝国の時代に逆戻りしているようにさえ思えた。

安倍元首相が安倍元首相が独裁者的な傾向を強めていたプーチン大統領とクリミア併合の後で 27回もの会談を行ったのは、その民族主義的な思想に共感を抱いたからなのかもしれない。

しかし、堀田善衞が会見を求めた老詩人スルコフはチェコスロヴァキア事件によって「彼らとの友情を回復するためには、一〇年では足りないかもしれない。二〇年はかかるかもしれない」と語っていたが、単に戦車で言論を弾圧したばかりでなく、砲撃などで一般の市民の殺戮をも行っている今回のウクライナ侵攻がロシアに与える負の影響はより深く長く響くものになると思える。

そのことを考慮するならば、「君と僕は、同じ未来を見ている」とまで呼びかけていた安倍元首相が、国際的な非難がプーチンに集まると手のひらをかえして今度は核武装や軍拡にまで言及していることは危険極まりないといえるだろう。

次回はウクライナやポーランドを併合したロシア帝国と韓国を併合した大日本帝国の教育制度を比較することにより今回のウクライナ危機が日本に投げかけている問題の深さを考察 することにしたい。

(2022/04/11、修正)

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