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(7)チェコスロヴァキアの歴史と「全スラヴ同盟」の思想

(7)チェコスロヴァキアの歴史と「全スラヴ同盟」の思想

 パリで文献の収集を依頼していた堀田は、出版社の編集者から『存在の耐えられない軽さ』(1984年)を書くことになるミラン・クンデラの小説『冗談』の序文のゲラを読む機会を得た。そこで作家アラゴンはこの作品が1965年には完成していたのに67年末まで出版されなかったことにふれて、「プラハの春」で失脚したノボトニー前大統領を「専制君主」と呼び、さらに今度の事件で彼らは「ことばによる建築によって、かくも長くあの町にのしかかっていた暴君の銅像(注:スターリンの銅像)を再建してみせるであろう」と厳しい言葉をつらねていた。

こうしてアラゴンの序文を紹介した堀田はプラハに入って現地を観察する前に ヨーロッパに虐げられ続けてきた チェコスロヴァキアの歴史にも読者の注意を促している。

すなわち、「この文化の高い少数民族(チェコ人九〇〇万、スロヴアキア人四〇〇万)を、その地理的宿命のゆえに、ヨーロッパのありとあらゆる戦争にまき込みつづけ、オーストロ・ハンガリー帝国に含めさせて、第一次大戦後の一九一八年に、やっとのことで両民族の独立を認めた」が、「一九三八年のミュンヘン協定」で、「英仏両国はチェコスロヴァキアを裏切ってチェコをヒトラーにまかせ、スロヴァキアをヒトラーの保護領にすることを許した」ことを指摘した堀田は、さらにこう続けているのである。

「このヨーロッパの裏切りの、歴史的に見ての第一の事件は、古く一四一五年、プラハ大学の学長であり、宗教改革の先駆者であったヤン・フスが破門され、コンスタンツ公会議に臨むについて、帰国するための安全通行証を公会議から与えられながらも、公会議は約束を裏切って、帰国どころか、弁明もさせずに焚刑に処してしまった」(225-226)。

11月4日に13時30分パリ発のチェコスロヴァキア航空でプラハに着いた堀田は、迎えに来てくれた人から次のような詳しい情報を得る。

「八月二一日に、ソ連軍の戦車が多数入って来たとき、大きなプラカードに、『モスクワ・サーカス再来。ヴアツラフスキエ広場にて公演中。参観無料、ただし生命の保証はせず、また猛獣に餌をやるべからず』」などと書いた学生たちに続いて、ヒッピーたちが「広場で戦車をとめ、とりかこんで議論をし、ソ連兵のなかには泣出したものまでいました。兵士たちのなかにはどこにいるのかをさえ知らなかったのもいました。」

しかし、その後で迎えに来た人はこう続けた「私たちは、かつてヨーロッパの戦争という戦争の全部にまきこまれましたが、チェコスロヴァキアとしては、一度もロシアと戦争をしたことがないのです。戦ったのは、――戦わされたのは、いつでもオーストロ・ハンガリー帝国の一部として強制されたものです(……)とにかく、われわれはスラブ民族の一員なのです。ご存知のようにチェコ語は、スラブ語の一つですし、スロヴァキア語はマジャール語(ハンガリー語)の影響を強くうけています。ヨーロッパは、危機のときにはいつも裏切ります(……)また長い間にわたってドイツ語がプラハの支配階級のことばでした。/いつでも、歴史の上ででも、私たちはいつでも難難(かんなん)の時がくるごと、に、ロシアの方を眺めたものなのです。長きにわたるオーストロ・ハンガリー帝国の支配をうけていたときも、また第一次、第二次大戦のときのことも申すまでもないでしょう。ロシアはどんなときでも敵ではなかったのです。」

さらに ナチの占領時代に「カレル大学の学生が蜂起して抵抗運動を起し、多くが虐殺されたり収容所に送られたりしたことを悼んで設定された「国際学生行動日」に学生たちと行った討論で学生はフス戦争のことについてこう語った。「生きのびる、ということが、われわれチェコスロヴァキアの人民にとっては、歴史的にも至上命令なのです。一四一五年にヤン・フスが焚刑に処せられ、フス派の運動が挫折し、一六世紀に入って三〇年戦争、とくに「白山での戦い」に敗れてオーストロ・ハンガリー帝国に編入されて以後、ずっとそうなのです。一息つく暇もなかったのです。」

実際、フス派を異端として十字軍が派遣されたフス戦争(1419〜344)や、白山の戦い(1620)の後ではカトリックへの改宗か国を去るかの選択が求められ、弾圧は言語にも及んでドイツ語が行政や高等教育の場で強制されていたのである。

このようにトルコの支配下にあったブルガリアなど南スラヴの諸民族だけでなく、チェコスロヴァキアなどの西スラヴの諸民族もヨーロッパにおいては虐げられていたので、1848年の二月革命は少数民族としてオーストリア帝国で虐げられていたスラヴの諸民族に独立への機運をもたらし、六月には『チェコ民族史』の著者であるバラツキーが議長となり汎スラヴ会議がプラハで開かれていた(『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』、193頁。)

 一方、ロシアが敗北したものの善戦したクリミア戦争(一八五三~五六)は、同じような状況をオスマン帝国に支配されていたバルカン半島のスラヴ諸民族にもたらし、この戦争の後では、ブルガリアなどで独立運動が高まりを見せるようになった。

それゆえ、一八六七年の五月から六月にかけてモスクワではギリシャ正教の「キリルとメトディウスのスラヴ布教一千年を記念して国外からスラヴ諸民族の指導者たちを招待」して「スラヴ会議」が開かれ、そこにはオーストリア帝国内のスラヴ人や南スラヴ人など八一名が参加し、西欧列強に対抗するためにロシア帝国を盟主とするスラヴ連邦などの構想が話しあわれていた(『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、1~2頁)。

このような時期に西欧文明のみを「進歩」としアジアを「停滞」と規定する近代西欧の歴史観の問題点を鋭く批判して、「弱肉強食の思想」を正当化する西欧列強から滅ぼされないためには、「祖国戦争」で大国フランスを破って東欧のスラヴ諸国に独立の気概を教えたロシアを盟主とする「全スラヴ同盟」を結成して対抗すべきだと主張したダニレフスキーの歴史理論に注目が集まるようになった。そして、南スラヴの同胞をイスラム教国の圧政から解放する十字軍を派遣すべきと考えたドストエフスキーも露土戦争の頃にはかつては同じペトラシェフスキー・サークルの会員だったダニレフスキーの理論から強い影響を受けていた。

そして、「超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」とし、「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」とその義理の妹を殺した主人公のラスコーリニコフには、「罪の意識も罰の意識も」ついに現れなかったと断言したような小林秀雄の『罪と罰』解釈が流行った昭和初期には、日本でも「大東亜共栄圏」の思想が強調されたのである。

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