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(6)「逆効果の“白書”」――ソ連型社会主義と「大国」の問題点の考察

(6)「逆効果の“白書”」――ソ連型社会主義と「大国」の問題点の考察

タシケントでの会議を終えた後に、モスクワに一度戻った堀田はこの出兵占領問題に関する公式の意見を聞いておこうと考えて、作家同盟の幹部中でも最古参の詩人アレクセイ・スルコフ氏との会見を申し込んだ。

「革命のときの内戦とスペイン戦争と祖国防衛戦争」の三度の戦争を経験していたスルコフは、出兵がどうしても必要であり「ソヴエトの兵士たちは、反革命の攻撃に対して抵抗をしてはいけないという命令をうけていたので、戦車が焼かれて、そのなかで黙って焼け死んでいったものさえが出た……」、「ここに(胸に)苦痛をもって、兄弟国へ出兵をせざるをえなかったのである。そのことをどうか了解してもらいたい」などと一時間以上にわたる熱弁をふるった。「その人自身の誠心誠意のこもった」弁明がそのまま記されている。

注目したいのは、この出兵によってサルトル、ボーボアール、アラゴン、バートランド・ラッセル卿、グレアム・グリーンやヘンリー・ミラーなどの多くの貴重な友人を失い、「彼らとの友情を回復するためには、一〇年では足りないかもしれない。二〇年はかかるかもしれない。それは本当に耐えがたいことだ」と認めたスルコフが、「三千万近い犠牲を払わなければならなかった」第二次世界大戦に言及して「しかし第三次大戦はもっと耐えがたい」と続けて出兵を正当化していたことである。

しかも、別れ際に『チェコスロヴァキアでの事件について、事実、記録、報道記事、目撃者の評価』という200頁近い“白書” を渡されたが、それは「党でもなければ、権威のある調査機関でもなく、「ソヴェトのジャーナリストたち」によって編集されたものであり、堀田はそのことに無責任さを感じた。

実際、「この〝白書〟を勉強しながら」読み進めて、「チェコスロヴァキアの人々の苦心と、社会主義更新のための苦痛にみちた試行錯誤の方に」、「心をひかれるものがあった」と記した堀田は、「小国がもたざるをえなかった運命が、大国にも影響を及ぼさないということはありえないのである」とし、その典型的な例として「ヴェトナムがアメリカの運命に対してもった関係であろう」と書いている。

そして、「ソルジェニツィンの検閲廃止の要請は、ソヴェトの作家同盟の大会では議題にもならなかったのに、チェコスロヴァキアの作家同盟の大会で(!)要請の全文が読まれ、一致しての支持をえている」ことを指摘した堀田は、ソヴェトの作家との「言わない部分の(太字は原文では傍点)多い、異様な会話」では「他に方法もあったろうに、五〇万も六〇万も軍隊をもって行くいとは、ちょっとぼくにはむかしの宗教裁判、異端糾問を思わせるね」と語る。 

その言葉は自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』に記されている『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」のテーマと深く関わっており、それはなぜ堀田が『ゴヤ』や『路上の人』、さらに『ミシェル 城館の人』で異端審問や宗教戦争の問題を描くことになるかをも示唆しているだろう。

こうして友人たちのほとんどから「出兵肯定派も抗議派もチェコスロヴァキアへ行って本当のところはどうなのかを見て来てくれ」と言われてモスクワを出発した堀田は、まずヘルシンキで長年の友人インド人のチャンドラが事務局長を勤める「世界平和評議会」を訪れる。

ここでのチェコスロヴァキア事件についての激しい議論を聞きながら、「“平和”ということばが、どうやらとうの昔に、実態を失ってしまっている」という感想を抱いた堀田は、「“平和”の概念、価値、基準、場所としての有効性をぶちこわすのに、もっとも貢献したものは、やはりアメリカのヴェトナム戦争であったであろうと思う」と書き、帰国して「佐藤首相の、沖縄の問題、または核三原則をめぐる答弁などを読んだり聞いたりしていて、ここでも彼の言うことばなるものをまったく信用することが出来なくなった」と続けている(237)。   

検閲が全くないストックホルムではマイクと録音機をかついであらゆる階層の人々に質問をしてまわる若い女の子の性生活が赤裸々に描かれているものの「無邪気な政治映画」で反戦映画でもある「おかしな黄色」というスウェーデン映画を観た堀田は、この映画と比較してソヴェトの『戦争と平和』には「ある頽廃を見る」とも記している。

自分が宿泊した家のあるじの教師がソ連の指導者が皆60歳以上であると高年齢化していることを痛烈に批判し、奴らに「四六歳のドプチェクが考える社会主義がわかるわけはないよ。奴らは不安になったのさ。ジェネレーション・ギャップだよ」と語ったことを記した堀田は、スウェーデンで政権にある社会民主党の代議士の25人が40歳以下であることや、この国の高額所得者の税金が「目の玉がとび出るほどに高いものである」ことも指摘している。

ロンドンでは1994年にアパルトヘイト政策が廃止されることになる南アフリカからロンドンに亡命して解放運動に従事していた青年との会話を記したあとで堀田は、「霧の濃いドーバー海峡をわたる船の上でウイスキーをがぶがぶあおりながら」、「いったいなぜ今度の事でチェコスロヴァキアのことを勉強し、なぜプラハに行ってまで事の正体をつきとめようと自分は決心したのか?」と自問した堀田は、「二、社会主義と自由とは両立しうるものなのか、どうか?」「三、社会主義国が一種の警察国家のようなものに堕して行くことは不可避なのか?」という形で具体的に問い直してこう続けている。

「この第三の設問は、言うまでもなく、なにもとりわけて社会主義とばかりかかわるものではない。第二の設問の社会主義を資本主義ととりかえてもよく、第三の設問においてもとりかえは可能であろう。それは広い意味において近代社会そのものに全体的にかかわるのであって、近代におけるその源流は、たとえばドストエフスキーの『悪霊』中に出て来る人物、徹底的に理論的なシガーレフ(ママ)のセリフ、「無限の自由より発して、無限の専制主義に到達するのだ」ということば、またこれを直接にうけてのカミュのことば、「人は正義を欲するより発して、ついに警察を組織するに終るものだ」(『正義の人々』)というところに帰する、巨大な問題である。」

(2022/04/06、改訂と改題)

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