「会場のなかには何もないよ」という「名言」を記した堀田善衞は、その後で「検閲その他に見られるような自身の欠如は、いったいどうしたものなのであろうか。大国主義とは自己自身に対しての自信を欠いている大国を意味する」と記している。
ただ、そのような重苦しい雰囲気に覆われた大会においても、「夜の宴会というものを軽く見ることは出来ない、ということを強調したいと思う。宴会や晩餐において、ロシア人たちはおどろくほど率直になるのであって、ドストエフスキーが描いたロシアの〝魂″は、まだまだ人々の深部に生きていて、そこではたとえ外国人が同席していようとも、その外国人とよく知合っているとするならば、ソルジェニツィン書簡(注:検閲の中止を求めた)でもチェコスロヴアキアでもなんでもが真に裸になって飛出してくる。チェコスロヴァキア占領には、自分は反対だ、だが反対だと公表する勇気が自分にはない、だからおれは偽善者だ! という、真に痛切な叫びを私は何度聞いたことであろうか! 」
私事になるが、私がロシアに留学したのは1975年のことであったが、このような「痛切な叫び」はすでに上映されていた映画やドストエフスキー劇をとおして聞くことができ、ロシアにおいても言論や報道の自由が徐々にではあれ拡がっているのを確認することができた。
それゆえ、ゴルバチョフが書記長として就任した1985年に学生の引率として再びモスクワを訪れた際には多くのドストエフスキー劇を観劇することができた。これらの劇についての簡単な劇評を書き、『罪と罰』を分析して「どんな『良心』も『知性』を欠いては、あるいはどんな『知性』も『良心』を欠いては、世界を理解し、改造することはできない」というカリャーキンの言葉を紹介した。
→モスクワの演劇――ドストエフスキー劇を中心に
翌年にゴルバチョフはペレストロイカ(再建)をスローガンとして進め、さらにグラースノスチ(情報公開)をも大胆に試みたことで1987年12月には中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)が成立し、西欧社会との共存も進むかに見えた。
しかし、チェルノブイリ原発事故の影響は予想以上に深く、ゴルバチョフ政権に対するクーデターが発覚し、それを鎮圧したエリツィン・ロシア大統領が1991年にロシア・ウクライナ・ベラルーシ三国のソ連からの離脱と独立国家共同体 (CIS) の樹立を宣言したことで、ソヴェトは一気に崩壊した。
→ 劇《石棺》から映画《夢》へ
エリツィンが急激な市場経済を導入したために、一時はモスクワのスーパーの棚にはロシア産の商品がないような状態も生じて、「エリツィンは共産党政権ができなかったアメリカ型の資本主義の怖さを短期間で味わわせた」との小話も流行った。その一方で、第一次チェチェン紛争での強硬策の失敗や腐敗も見られたために、第二回目の大統領選挙では共産党に僅差まで追い上げられ、新興財閥からの巨額の選挙資金などでかろうじて乗り切ったものの、その後は新興財閥との癒着や民族主義的傾向も強まり、政権末期にはそれまでのNATOとの融和的な路線も修正されていた。
しかも、政治の腐敗や汚職などで裁判にかけられることを恐れたエリツィンは、刑事訴追から免責するという条件で、第二次チェチェン紛争を強引に収束させた元情報将校のプーチンを自分の後継者に指名していたのである。
こうして、堀田善衞は1968年の夜の宴会では、「おれは偽善者だ!」という痛切な叫びばかりでなく、「チェコスロヴァキアにおいてソ連兵一〇万の死者を出して得た権益を、なんでムザムザと西欧にわたしてたまるものか」という、「率直な主張とが、同じテーブルにおいて、実に率直に飛びかうのである」と書いていたが(208)、エリツィン政権の末期には1968年よりも好戦的な傾向がむしろ強まっていたように思える。
(2022/04/05、改題)
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