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(4)「“人喰い鬼”の詩」と『プラウダ』の衝撃

(4)「“人喰い鬼”の詩」と『プラウダ』の衝撃

9月19日に日本を出発して直行便の飛行機でモスクワに降り立った堀田は、出迎えに来ていた友人の作家が「ほんのさっき入手した」ばかりのイギリスの詩人W・H・オーデンの「一九六八年八月」という題の英語の詩を見せられた。

自分の訳では「原文にある、韻を踏んでの深く荘重な感じがまったく出ないのが遺憾である」としながらも堀田は、自分の訳では「原文にある、韻を踏んでの深く荘重な感じがまったく出ないのが遺憾である」としながらも堀田は、この詩を次のように訳している。

「人喰い鬼はまことに人喰い鬼らしく/人にとって不可能なことをやってのけるものだ/しかし獲物として一つだけ奴の手の届かぬものがある/ 人喰い鬼は言葉をものにすることは出来ないのだ(後略)」。

この詩を渡した後では黙り込んでしまった「友人の絶望」の深さを感じ、この友人が去った後で「ノートに写しとったW・H・オーデンの詩をくりかえして読み、また別に『プラウダ (注:「真実」という意味のロシア語) 』宣言の英訳パンフレット」を読みつづけた堀田は、「それは頭が二つに分裂するような経験というもの」であると思い、さらに「ベトナム戦争をいまだにつづけているアメリカへ行く多くの私たちの同僚たちもまた、そういう分裂的な経験をしたものであったかどうか」と考えたと記している。

注目したいのは、堀田がこの詩から画家ゴヤの『わが子を喰うサトウルヌス』の絵を想起したと書いていることである。「戦中戦後を通じて、次第に私を内面からゴヤに、あるいはスペインに導いて行ったものは、ドストエフスキーの小説であった」と書き、ロシアの「祖国戦争」をも視野に入れながらスペインの独立戦争や異端審問の問題を描いた長編評伝『ゴヤ』でこの絵についての詳しい考察を行うことになる堀田のこの連想が示唆することの意味は重い。

 オーデンの詩からの連想はとはいえ、アメリカやソ連などの「大国」との関係でベトナムやチェコスロバキアなどの「小国」の問題を考えようとしていた堀田は、近代社会や大国の深い闇をも直視しようとしていたのだと思える。

言論の自由、多党性の問題にふれて『プラウダ』宣言の英訳パンフレットには次のような教条的な文章が記されていたのである。

「わが(ソ連)党の指導者は、この文献(二千語宣言)が反革命活動のより二層の強化のための土台としての危険性をもつものであることについて、A・ドプチェクの注意をもとめた」が、「大まかな言葉による非難のほかには、いかなる明確な処置もとられなかった。」

これだけの説明では分かりにくいが、4月のチェコスロバキア・党中央委員会総会で採択された『行動綱領』では、次のような新しい方針が盛り込まれていた。

これだけの説明では分かりにくいが、4月のチェコスロバキア・党中央委員会総会で採択された『行動綱領』では、次のような新しい方針が盛り込まれていた。1,党への権限の一元的集中の是正 2,粛清犠牲者の名誉回復 3,連邦制導入を軸とした「スロヴァキア問題」の解決 4,企業責任の拡大や市場機能の導入などの経済改革 5,言論や芸術活動の自由化

このような方針に対する市民の側からの支持や期待を表明するために著されたのが『二千語宣言』だった。それゆえ堀田はこの文章を読むと「ソ連の党」が「何を『不安と危惧』として出兵、占領までしたかが、実に明らかに透けて見えて来るのである」と記している。

 ここで堀田は出迎えに来ていた友人の名を挙げていないが、その理由についてはアジア・アフリカ作家会議との関りについてふれた「一人の作家の結びつき」でこう記されているのである。

「中ソ抗争のはなはだしかったときに、思い余って私は自分が仲介をして中国の作家たちとソ連の作家たちの話合いの場をつくり、どうにか一致点を見出し得るようにはからった」が、「そのこと自体が双方の作家たちのうちのどちらか、あるいはだれかに、政治的に不利なマイナスを形成したのではなかったか、と今は考えている」。

それゆえ、そういう作家たちの「名をあげるどころか、頭文字をあげることも私にははばかられる」とした堀田はこの文章では公式的な立場を代表している人物以外の作家の名前は一切記していない。

この記述からは当時の中ソの厳しい検閲や報道統制に接した堀田の深い苦悩が感じられるが、それはタシケントで行われた大会にも続いており、「この会議の草分け、あるいは創始者の一人」だった彼が、しばらく考えてから「東京を出る際に、わが家の女房が、〝それでもあなたは行くのか?″と言った」と語ると、「白い顔、黒い顔、浅黒い顔、黄色い(?)顔の爆笑が起ったが、爆笑はすぐに消えて」、アフリカ中央部から来ていた一人も、「おれのところでは、女房が学校の先生をしているのだが、おれがカバンの用意をしていると、やっぱりうちの女房も、それでもあんたは行くのか、と言った。」と言われたと語ったことを記している。

その場には「私が話合うことを求めて来ていた、アルジェリアの文学者たちの姿は見えなかった。アルジェリア作家同盟は一致して、五カ国軍によるチェコスロヴアキア占領に反対声明を出し、参加を拒否して来たものであった。それは私の胸にもこたえた。」

実際、第三世界の状況と比較しつつソヴェトの「民族政策はたいへんに成功した部類」としながらも、「コーカサスのチェチェン人七〇万人とクリミアのタタール人三万人がナチスとの協力を理由に家郷を追われるといったこと」()を堀田は指摘しているが、ソ連の崩壊後にこの問題は顕在化することになるのである。

タシケントでのシンポジウムでは「文学におけるナショナリズムとインタナショナリズム」というテーマで多くの人々が演壇にのぼったが多くは紋切型で空虚なものであり、二日目に会場の入ったものかどうかと迷っていた時には、「会場のなかには何もないよ」という「名言」をある作家から告げられたことを記している。

さらに第4章の「奴らとわれわれ」や「逆効果の“白書”」や「言わない部分の多い会話」などの章でも、“プレス・グループ”が作成した「白書」を考察してソヴェト型社会主義の硬直化した官僚主義の問題点が鋭く指摘されている。

ただ、これらの記述だけならば堀田が参加を決断してはるばるタシケントまで行ったことは無駄であり、無意味だったようにも思える。しかし、その後で夜の宴会と作家同盟の幹部中でも最古参に近いスルコフ氏との公式の面会での会話をとおして、堀田はロシアの作家の本音や第二次世界大戦を経験した老詩人の危惧に迫っている。

それはペレストロイカや言論の自由や報道の自由の回復を目指したゴルバチョフ政権の試みの必然性を示唆しているだろう。それとともに、チェルノブイリ原発事故が大きな引き金となってソヴェトが崩壊したあとに権力を握ったエリツィン政権を受け継いだプーチン政権によってなぜウクライナ侵攻が行われたのかの謎を解明することにもつながると思える。


『わが子を喰うサトウルヌス』 、チェコスロヴァキア事件の写真(Britannica)

(2022年4月2日、改訂)

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