高橋誠一郎 公式ホームページ

(3)二つの侵攻との比較――ロシア軍の満州国侵攻と日本軍のシベリア侵攻(改訂版)

(3)二つの侵攻との比較――ロシア軍の満州国侵攻と日本軍のシベリア侵攻(改訂版)

前回は小国の運命・大国の運命』の目次を記すことで全体像を示したが、本書は大きく分けると三つの部分から構成されている。

すなわち、第2章「“人喰い鬼”の詩」から第5章「逆効果の“白書”」までがロシアやソヴィエトの作家たちのチェコスロヴァキア事件についての考えや対応が、第6章「言わない部分の多い会話」の途中から第10章「パリでの時間表」まではヘルシンキやパリなどでのこの事件にたいする反応が記され、第11章の「プラハに入る」から第16章「スロヴァキアの民心」でチェコとスロヴァキアの民衆や知識人の対応が観察されている。

注目したいのは、第9章「チェコの歴史と作家の心」でチェコスロヴァキアに入国する前に調べたこの国の歴史が記述されているように、今起きている出来事だけでなく、遠くフス戦争との関りをも明らかにしていることである。この問題を深く分析することは、後に詳しく考察するようにダニレフスキーの「全スラヴ同盟」の思想が帝政ロシアの崩壊後も続いていたことを示すことにつながるだろう(拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、157~163頁参照)。

さらに堀田は、ドストエフスキーの『悪霊』中に出て来るシガリョフの「無限の自由より発して、無限の専制主義に到達するのだ」というセリフに言及することにより、社会主義の問題だけでなく「近代社会そのもの」の問題にも迫っている。

スターリンの時代の政治を考察した章で、「プラハの、旧王宮(大統領官邸)のある丘からほど遠からぬ、同じくブルタワ河に臨むレトナーの丘の上に」、「背丈二〇メートルを越す、巨大とも怪異とも、なんとも言いきれぬスターリン像が、赤軍兵士たちとチェコスロヴァキア国民とを統率した格好でたっていた」ことを指摘した堀田は、「大東亜共栄圏」を主張して「鬼畜米英」との戦争を宣言した日本とも比較してこう記している。

「かつて皇軍と称していた日本軍隊も、南京にも溝陽にもシンガポールにも巨大な神社を建立したものであったが、いったい彼らが、〝解放″したすべての国に、そういう巨像を作ることを許したスターリン、あるいはスターリニスムの心理、あるいは神経というものも現代の謎の一つであろう。」

 ダニレフスキーなどが唱えた「全スラヴ同盟」と太平洋戦争時の「大東亜共栄圏」の思想との詳しい比較は本稿の最後に行うことにしたいが、ここではまずチェコスロヴァキアへの問題を考える前に、ロシア軍の満州国侵攻と日本軍のシベリア侵攻の問題を簡単に比較しておきたい。

2015年8月8日の産経新聞・デジタル版では「ソ連軍157万人が満州侵攻 戦車に潰された王道楽土の夢」という題で日ソ中立条約を破って終戦間際に参戦してきたロシア軍の満州国侵攻の問題を大きく取り上げている。「満州国」の実態が「王道楽土」や「五族協和」のスローガンとは大きくかけ離れていたことは、このブログでも何回も取り上げて来たが、すでに三島由紀夫は自決前に行った「学生とのティーチ・イン」でロシア軍を批判しつつ、次のように日本軍の下士官の行動を賛美していた。

「私が一番好きな話は、多少ファナティックな話になるけれども、満州でロシア軍が入ってきたときに――私はそれを実際にいた人から聞いたのでありますが――在留邦人が一カ所に集められて、いよいよこれから武装解除というような形になってしまって、大部分の軍人はおとなしく武器を引き渡そうとした。その時一人の中尉がやにわに日本刀を抜いて、何万、何十万というロシア軍の中へ一人でワーツといって斬り込んで行って、たちまち殴(なぐ)り殺されたという話であります。/私は、言論と日本刀というものは同じもので、何千万人相手にしても、俺一人だというのが言論だと思うのです。」

日ソ中立条約を破って終戦間際に参戦してきたロシア軍の蛮行についてはよく知られているので、降伏に甘んじずに切り込んだ中尉の話は勇ましく聞こえるが、実際には関東軍の将校たちだけでなく、司馬遼太郎が記しているように現地の日本人を守るべき戦車隊も、いち早く日本に引き揚げていたのである。日ソ中立条約を破って終戦間際に参戦してきたロシア軍の蛮行についてはよく知られているので、降伏に甘んじずに切り込んだ中尉の話は勇ましく聞こえる。

しかし、日本ではあまり知られていないものの、堀田善衞が1955年に発行された長編小説『夜の森』で描いたように、ソ連が建国された1918年に日本がアメリカなどの連合国とともにシベリア出兵に踏み切っていた際には、日本軍もロシア人の村を焼き払い住民を殺戮するなどの蛮行をすでに行っていた。

しかもその際に「出兵数は間違いなく、一万ないし一万二千以下である」ことや、「ウラジオストック以外の方面に出動したり、増援部隊を派遣したりすることは決してない」と日本が確約していたにもかかわらず、10月末にはすでに7万2千に上る日本軍将兵が戦闘任務に従事していた(細谷千博『シベリア出兵の史的研究』岩波現代文庫、209~210頁)。しかも日本軍は協定に違反してイルクーツクの一部も占領下に置き、アメリカなどの連合軍が1920年に引き上げたあとも1922年まで残って傀儡国家の樹立を策していた。

ナポレオンのロシア侵攻の前にもイワン雷帝後の動乱の時代にポーランドによるモスクワ占領を経験していたロシア帝国では、同じキリスト教でも宗派が異なるゆえにフス派が被ったような西欧からの「十字軍」の派遣を潜在的に恐れていたが、建国当初の連合国によるシベリア出兵もそのようなトラウマにつながった可能性は否定できないだろう。

大東亜会議に参加した各国首脳の写真(ツイート右下)。 左からバー・モウ(ビルマ)、張景恵(満州国)、汪兆銘(中華民国)、東條英機(大日本帝国)、ワンワイタヤーコーン(タイ王国)、ホセ・ラウレル(フィリピン第二共和国)、スバス・チャンドラ・ボース(自由インド仮政府)

(2022/04/07、改稿と改題)

« »

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です