高橋誠一郎 公式ホームページ

ブログ

映画《静かなる決闘》から映画《赤ひげ》へ――拙著の副題の説明に代えて

800px-Shizukanaru_ketto_poster

(《静かなる決闘》のポスター、図版は「ウィキペディア」より)

『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』を公刊したのは昨年のことになりますが、副題の一部とした黒澤映画《静かなる決闘》があまり知られていないことに気づきました。

ドストエフスキーの長編小説『白痴』を原作とした黒澤映画《白痴》の意義を知るうえでも重要だと思えますので、ここでは映画《赤ひげ》に至るまでの医師を主人公とした黒澤映画の内容を簡単に紹介しておきます。

*   *   *

1965年に公開された映画《赤ひげ》((脚本・井手雅人、小國英雄、菊島隆三、黒澤明)では、長崎に留学して最先端の医学を学んできた若い医師の保本登(加山雄三)と「赤ひげ」というあだ名を持つ師匠の新出去定(三船敏郎)との緊迫した関係が「患者」たちの治療をとおして描かれていることはよく知られています。

しかし、黒澤映画において「医者」と「患者」のテーマが描かれたのはこの作品が最初ではなく、戦後に公開された黒澤映画の初期の段階からこのテーマは重要な役割を演じていました。

たとえば、映画《白痴》(1951年)では沖縄で戦犯とされ死刑になる寸前に無実が判明した復員兵が主人公として描かれていましたが、1949年に公開された映画《静かなる決闘》(原作・菊田一夫『堕胎医』、脚本・黒澤明・谷口千吉)でも、軍医として南方の戦場で治療に当たっていた際に悪性の病気に罹っていた兵士の病気を移されてしまった医師・藤崎(三船敏郎)を主人公としていたのです。

しかも、最初の脚本では『罪なき罰』と題されていたこの映画では、自殺しようとしていたところを藤崎に助けられ見習い看護婦となっていた峰岸(千石則子)の眼をとおして、最愛の女性との結婚を強く願いながらも、病気を移すことを怖れて婚約を解消した医師が苦悩しつつも、貧しい人々の治療に献身的にあたっている姿が描かれていました。

さらに、その前年の1948年に公開された映画《酔いどれ天使》(脚本・植草圭之助・黒澤明)でも、どぶ沼のある貧しい街を背景に、闇市に君臨しつつも敗戦によって大きな心の傷を負って虚無的な生き方をしていたヤクザの松永(三船敏郎)と、「栄達に背を向けて庶民の中に」根をおろした開業医の真田(志村喬)との緊張した関係が描かれていました。

医師の真田は暴力的な脅しにも屈せずに、肺病に冒されていた松永の心身を治療して何とか更生させようとしていたのですが、真田の願いにもかかわらず、組織のしがらみから松永は殺されてしまいます。

しかし、《酔いどれ天使》の結末近くでは、肺病に冒されてこの病院に通っていた若い女子学生(久我美子)が、「ねえ、先生、理性さえしっかりしてれば結核なんてちっとも怖くないわね」と語り、医師の真田が「ああ、結核だけじゃないよ、人間に一番必要な薬は理性なんだよ!」と応じる場面があり、未来への希望も描かれていたのです。

長編小説『白痴』の主人公は、小林秀雄の解釈などではその否定的な側面が強調されていますが、ドストエフスキーはムィシキンに「治療者」としての性質も与えていました。それゆえ、医師を主人公としたこれらの映画は、長編小説『白痴』をより深く理解する助けにもなると思われます。

(2015年12月9日、図版を追加)

リンク→『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)

映画《白痴》と黒澤映画における「医師」のテーマ――国際ドストエフスキー・シンポジウムでの発表を踏まえて

はじめに 

『白痴』の発表から一五〇周年に当たる二〇一八年にブルガリアのソフィア大学で開催された国際ドストエフスキー・シンポジウムの円卓会議では映画《白痴》が取り上げられました。

ブルガリア、ソフィア大学 (ソフィア大学、出典はブルガリア語版「ウィキペディア」)

それゆえ、私はこのシンポジウムでは黒澤映画《白痴》における治癒者としての亀田(ムィシキン)の形象に注目することで、黒澤映画における医者の形象の深まりとその意義を明らかにしようとしました。

実は、黒澤明監督が映画化した長編小説『白痴』でも、シュネイデル教授をはじめ、有名な外科医ピロゴフ、そしてクリミア戦争の際に医師として活躍した「爺さん将軍」などがしばしば言及されています。ガヴリーラ(香山陸郎)から「いったいあなたは医者だとでもいうのですか?」と問い質されたムィシキン(亀田欽司)も、ロゴージン(赤間伝吉)に対してはナスターシヤ(那須妙子)について「あの人は体も心もひどく病んでいる。とりわけ頭がね。そしてぼくに言わせれば、十分な介護を必要としている」と説明していたのです。

残念ながら、今回の開催が急遽決まったこともあり千葉大学で行われた「国際ドストエフスキー集会」の時ほどは、黒澤映画の研究者が参加しておらず、映画《白痴》以外の作品についてはあまり知られていなかったようでした。

しかし、円卓会議では黒澤明研究会の運営委員・槙田寿文氏の世界各国の黒澤映画のポスターを集めた展覧会と映画『白痴』の失われた十四分)についての発表がブルガリア語への通訳付きで行われた。また、シンポジウムで「ドストエフスキーにおける癒しの人間学序節――ムィシュキン公爵のイデー・フィクスを軸に」(『ドストエーフスキイ広場』第28号参照)を発表された清水孝純氏の映画《白痴》論の発表も行われ、国際的な場で黒澤映画の意義を広めることができたのは有意義だったと感じています。

発表時間が短くて言及できなかった個所を補いながらシンポジウムと「円卓会議」で行った二つの発表をまとめた論考が、『会誌』41号に掲載されました。以下に、「はじめに」と「国際ドストエフスキー・シンポジウム」についてふれた第一節を省いた形で『会誌』に掲載された論考に一部加筆して転載します。

1,映画《白痴》の意義――『罪と罰』と『白痴』の受容をとおして

ドストエフスキーは長編小説『白痴』の構想について一八六八年一月一日の手紙で「この長編の主要な意図は本当に美しい人間を描くことです」と記していました。

若い頃からドストエフスキーの作品に親しんでいた黒澤明監督はそのような作者の意図を踏まえて第二次世界大戦の終了から数年後の一九五一年に映画《白痴》を公開して、場所と時代、登場人物を変更しながらも、二つの家族の関係と女主人公の苦悩などを主人公の視線をとおして『白痴』の世界を正確に描き出していました。

観客の入りを重視した会社側から大幅な削除を命じられて、作品は二時間四六分に短縮されたために映画《白痴》は、興行的には失敗して多くの日本の評論家からも「失敗作」と見なされました。

しかし、インタビューで黒澤明は次のように語っていました。「この作品は外国ではとても評判がよくて、特にソビエトではとても気に入られているのです。毎年何回か上映するのですが、それでもまだ見たい人があまりにも多くて、まだ見られないという人か随分いるのです」(『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、三四三頁)。

では、日本と東欧圏におけるこのような映画《白痴》の評価の違いはどこにあるのでしょうか。私は黒澤映画《白痴》が文芸評論家・小林秀雄の『罪と罰』や『白痴』の解釈を根底から覆すような解釈を示したのに対し、ドストエフスキー論の権威とされていた小林がこの映画を完全に無視したことが一因だと考えています。

それゆえ、ここでは近著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(成文社)にも言及しながら、日本における『罪と罰』の受容までの流れをまず確認します。その後で、小林秀雄と黒澤明とのドストエフスキー解釈をめぐる「静かなる決闘」をとおして黒澤における『白痴』のテーマの深化を考察します。

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社

日本では徳川時代に厳しく弾圧されていたキリスト教が解禁になったのは、ようやく一八七三年のことでした。しかし、日本が開国に踏み切ってからはキリスト教にたいする青年層の知識と理解は増え続けていました。

日本で憲法が発布された一八八九年に、長編小説『罪と罰』を英訳で読んで、殺人の罪を犯した主人公が、「だんだん良心を責められて自首するに到る」筋から強い感銘を受けた内田魯庵は、二葉亭四迷の力も借りて長編小説を訳出したのです。

残念ながら、売れ行きが思わしくなかったこともあり魯庵はこの長編小説の前半部分を訳したのみで終わりましたが、この翻訳から強い衝撃を受けたのが、「『罪と罰』の殺人罪」を著わした北村透谷でした。ここで彼は、「『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥(しりぞ)くるようの事なかるべし」と書いて、勧善懲悪的な『罪と罰』論を厳しく批判するとともに、ラスコーリニコフの「非凡人の理論」の危険性を鋭く指摘していました。

一方、『文学界』の同人でもあった親友の島崎藤村は、『罪と罰』の筋や人物体系を詳しく研究して日露戦争後に長編小説『破戒』を自費出版しました。注目したいのは藤村が、「教育勅語」の「忠孝」の理念を説く校長や教員、議員たちの言動をとおして、現在の一部与党系議員や評論家によるヘイトスピーチに近いような用語による差別が広まっていたことを具体的に描いていたことです。

さらに日本の『罪と罰』論ではあまり重視されていない「良心」の問題も、「世に従う」父親の価値観と師・猪子との価値観との間で苦しむ丑松の心の葛藤をとおしてきちんと描かれていることです。

このような透谷や藤村の「良心」理解の深さには、かれらが一時は洗礼を受けていたこともかかわっていると思われます。なぜならば、キリスト教会でも「免罪符」を乱発するなどの腐敗が目立つようになってきた際にも、神の代理人としての地位が与えられていた教皇を正面から批判することは許されませんでしたが、権力者が不正を行っている場合にはそれを正すことのできる〈内的法廷〉としての重要な役割が「知」の働きを持つ「良心」に与えられたのです。帝政ロシアにおいても皇帝が絶対的な権力を持っていましたので、それに対抗できるような「良心」の働きが重要視されたのですが、その一方で革命が近づくと「良心」の過激な解釈もなされるようになったのです。

自らをナポレオンのような「非凡人」であると考えて、「悪人」と規定した「高利貸しの老婆」の殺害を正当化した主人公を描いた長編小説『罪と罰』でも、「良心に照らして流血を認める」ということが可能かという問題がラスコーリニコフと司法取調官ポルフィーリイとの間で論じられています。そして、それは主人公の心理や夢の描写をとおして詳しく検証されており、エピローグに記されているラスコーリニコフの「人類滅亡の悪夢」には、こうした精緻で注意深い考察の結論が象徴的に示されているのです。

明治初期の独裁的な藩閥政府との長い戦いを経て「憲法」を獲得した時代を体験していた内田魯庵や北村透谷、そして島崎藤村たちも、権力者からの自立や言論の自由などを保証し、個人の行動をも決定する「良心」の重要性を深く認識していたといえるでしょう。

なお、『破戒』は一九三〇年にロシア語訳が出版されましたが、黒澤映画《天国と地獄》が公開される前年の一九六二年には、市川崑監督の映画《破戒》が、市川雷蔵が主役の瀬川丑松を、彼の師・猪子蓮太郎を三國連太郎、学友の土屋銀之助を長門裕之、風間志保を藤村志保が演じるという豪華なキャストで公開されました。

破戒

(映画《破戒》、1962年、角川映画。脚本:和田夏十。図版は紀伊國屋書店のサイトより)

黒澤映画との関連で注意を払いたいのは、『罪と罰』のあとで『虐げられた人々』の訳を行い、後にはトルストイの『復活』も邦訳した内田魯庵が、できれば『白痴』も訳したいとの願いも記していたことです。

戦時中の一九四三年に公開された映画《愛の世界・山猫とみの話》ですでに『虐げられた人々』のネリー像を踏まえて脚本(ペンネームは「黒川慎」)を書いていた黒澤明が、一九六五年の映画《赤ひげ》でネリー像を掘り下げていることを考えるならば、一九五一年に映画《白痴》を公開した黒澤明のドストエフスキー理解は島崎藤村などの流れに連なっているといえるでしょう。

一方、文芸評論家の小林秀雄は「天皇機関説」事件で日本の「立憲主義」が崩壊する前年の一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、弁護士ルージンや司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いて「超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」と解釈していました。

 さらに、主人公ラスコーリニコフの「良心の呵責」を否定した小林秀雄は、「来るべき『白痴』はこの憂愁の一段と兇暴な純化であつた。ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」という大胆な解釈を示したのです。

こうして、ムィシキンを「罪の意識も罰の意識も」ついに現れなかったラスコーリニコフと結びつけた小林は、ナスターシヤをも「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定し、『白痴』の結末の異常性を強調して「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と記していました。

「殺すなかれ」と語るムィシキンを否定的に解釈したこのような小林秀雄の『白痴』論は、戦争を拡大していた軍部の方針に「忖度」したものだったといえるでしょう。しかし、戦後も自分のドストエフスキー観を大きく変更することはなかった小林秀雄は、その後「評論の神様」として称賛されるようになるのです。

そして、このような小林の解釈を受け入れた亀山郁夫氏も二〇〇四年に出版した『ドストエフスキー ――父殺しの文学』(NHK出版)で、貴族トーツキーによる性的な犯罪の被害者だったナスターシヤがマゾヒストだった可能性があるとし、ムィシキンをロゴージンにナスターシヤの殺害を「使嗾(しそう)」した「悪魔」であると解釈しました。

黒澤もインタビューでは小林にも言及しながら、ナスターシヤ殺害後のこの暗い場面にも言及しています。しかし、映画《白痴》のラストシーンで黒澤は、綾子(アグラーヤ)に「白痴だったのは私たちだわ」と語らせていたのです。

『白痴』では一晩をムィシキンと語りあかしたロゴージンが、裁判ではきわめて率直に罪を認めて刑に服したと記されていることに留意するならば、ドストエフスキーはラスコーリニコフと同様にロゴージンにも「復活」の可能性を見ていたといえるでしょう。つまり、黒澤明は小林秀雄的な『白痴』観を映画《白痴》で映像をとおして痛烈に批判していたのです。

2、映画《白痴》と黒澤映画における「医師」のテーマ

映画《白痴》の前にも黒澤明は小林秀雄のドストエフスキー観を暗に批判するような映画を戦後に相次いで発表していました。

たとえば、終戦直後の一九四六年に黒澤は一九三五年の「天皇機関説事件」の前触れとなった滝川事件を背景にした《わが青春に悔なし》を公開して女性の自立を映像化していました。この滝川事件は、農奴の娘だったカチューシャと関係を持ちながら捨てても、「良心の痛み」も感じなかった貴族ネフリュードフの精神的な甦生を描いた長編小説トルストイの『復活』をとおして、法律の重要性を指摘していた滝沢教授の言説が咎められていたのです。

わが青春に悔なし No Regrets for Our Youth 1946 Opening Kurosawa …

この意味で注目したいのは、『破戒』と『罪と罰』との類似性に言及していた評論家の木村毅がこう書いていたことです。「トルストイは、ドストイエフスキーを最高に評価し、殊に『罪と罰』を感歎して措かなかった。したがってその『復活』は、藤村の『破戒』ほど露骨でないが、『罪と罰』の影響を受けたこと掩い難く、(中略)魯庵が『罪と罰』についで、『復活』の訳に心血を注いだのは、ひとつの系統を追うたものと云える」(『明治翻訳文学集』「解説」)。

実際、日露戦争の時期に『復活』の翻訳を連載した内田魯庵は、この長編小説の意義を次のように記していました。「社会の暗黒裡に潜める罪悪を解剖すると同時に不完全なる社会組織、強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」。

「円卓会議」では黒澤監督がインタビューで言及していた映画《白痴》のシーンだけでなく、《酔いどれ天使》(一九四八)、《静かなる決闘》(一九四九)、《赤ひげ》(一九六五)など医師が非常に重要な役割を演じている映画と、私が『白痴』三部作とも考えている映画《醜聞》(一九五〇)と《生きる》(一九五二)などの六作品から重要な場面を、松澤朝夫・元会員の技術援助と堀伸雄会員の協力で約一一分に編集したものを解説しながら上映しました。

ここではそれらのシーンを簡単な説明を補いながら紹介したいと思いますが、その前に黒澤が盟友・木下恵介監督のために書いた脚本による映画《肖像》(一九四八)の内容を簡単に見ておくことにします。なぜならば、『白痴』ではムィシキンの観察力や絵画論が強調されていましたが、この映画の老年の画家はムィシキンを想起させるばかりでなく、肖像画のモデルのミドリ(悪徳不動産屋の愛人)もナスターシヤを思い起こさせるからです。

たとえば、映画《白痴》で亀田(ムィシキン)は、写真館に掲示されている那須妙子(ナスターシヤ)の写真をみつめて、「綺麗ですねえ」と同意しながらも、「……しかし、何だかこの顔を見ていると胸が痛くなる」と続けていました。肖像画を描こうとした老画家も「でも、どうして、私なんか」と尋ねられると、「なんて言いますかな……不思議なかげがあるんですよ、あなたの顔には」と説明しているのです。

 しかも、あばずれを装っていたミドリは画家の義理の娘・久美子から「いいえ……どんな不幸が今のような境遇に貴女を追い込んだのか知らないけれど……本当は……貴女はやっぱり、お父さんが描いたような貴女に違いないんです」と説得されます。

「肖像  木下恵介 アマゾン」の画像検索結果

(黒澤明 DVDコレクション 32号『肖像』 [分冊百科] |、書影は「アマゾン」)

 その台詞もムィシキンがナスターシヤに「あなたは苦しんだあげくに、ひどい地獄から清いままで出てきたのです」と語った言葉を思い起こさせ、ミドリは結末近くで「死んだつもりで、出直して見るんだわ」と同じ稼業だった芳子に自立への決意を語ったのでした。

 こうして黒澤は老画家の肖像画をとおして、真実を見抜く観察眼の必要性と辛くても「事実」を見る勇気が、状況を変える唯一の方法であることをこの脚本で強調していたのであり、それは映画《白痴》の亀田(ムィシキン)像に直結しているのです。

 同じ年に公開された映画《酔いどれ天使》からは怪我をして駆け込んできたやくざの松永(三船)を医師の真田(志村喬)が治療する冒頭の「診察室」のシーンと、汚物の山やメタンの泡や捨てられた人形が浮いている湿地のほとりに佇む松永が真田から「そいつらときれいさっぱり手を切らねえ限り、お前はダメだな」と説得されたあとで松永が見る悪夢のシーンを紹介しました。

Yoidore tenshi poster.jpg(ポスターの図版は「ウィキペディア」より)

ここで松永は海辺の棺を斧で割ると棺の中に死んだ自分が横たわっているのを見て驚いて逃げ出すのですが、このシーンは松永の最期を予告しているばかりでなく、復員兵の亀田が北海道に向かう船の三等室で夜中に悲鳴をあげ、戦犯として死刑の宣告を受け、銃殺される場面を夢に見たと赤間に説明する場面にもつながっていると思えます。

「憲法」のない帝政ロシアで農奴解放や言論の自由、そして裁判の改革などを求めていたドストエフスキーは、ペトラシェフスキー事件で逮捕され、偽りの死刑宣告を受け、死刑の執行寸前に「皇帝による恩赦」により生命を救われるという体験をしていました。長編小説『白痴』でもムィシキンはギロチンによる死刑を批判しながら、「『殺すなかれ』と教えられているのに、人間が人を殺したからといって、その人間を殺すべきでしょうか? 」と問いかけ、「ぼくがあれを見たのはもう一月も前なのに、いまでも目の前のことのように思い起こされるのです。五回ほど夢にもでてきましたよ」と語っていました。

それゆえ、若きドストエフスキー自身の体験をも重ね合わせた亀田という人物設定は、ドストエフスキーの研究者たちには見事な表現と受け取られたのです。

200px-Hakuchi_poster

(松竹製作・配給、1951年、図版は「ウィキペディア」より)。

一九四九年の映画《静かなる決闘》からは、主人公の医師・藤崎(三船敏郎)が、軍医として南方の戦場で豪雨の中のテントで手術を行う主人公の首筋の汗を衛生兵が拭くシーンから、手袋を取り素手で手術をして指先に傷をつけてしまう場面までを紹介しました。

最初は『罪なき罰』と題されていたこの映画では、この際に悪性の病気をうつされた医師の苦悩を「良心」という言葉を用いて描写しつつ、それでも貧しい人々の治療に献身的にあたっている姿を描いていました。ことに、婚約者に「自分は結婚できない」と告げた主人公のセリフからは、黒澤監督のムィシキン観が強く感じられるのです。

800px-Shizukanaru_ketto_poster

(《静かなる決闘》のポスター、図版は「ウィキペディア」より)

映画《生きる》からは、余命わずかなことを知った主人公が「メフィストフェレス」と名乗る人物とともに歓楽街を彷徨する場面と、映画《白痴》上映の前にソフィア大学の学生への短い挨拶の際に劇《その前夜》との関連でふれた「ゴンドラの唄」を歌うシーンを流しました。

ことに最初のシーンは余命わずかなことを知り絶望に陥ったイッポリートをめぐる長編小説『白痴』のエピソードが上手に組み込まれていると思われるからです。

生きる(プレビュー) – YouTube

メインテーマの映画《白痴》からは、冒頭の夜の連絡船の場面と、有名な写真館の前での妙子の写真を見つめる亀田に赤間が「どうしたんだ、おめえ涙なんか流して」から「やさしい気持ちになりやがる」と「香山家」で妙子に対して赤間の「じゃあ、百万だ」と競り値を上げる場面から、黒澤明がインタビューでも語っている亀田の「あなたはそんな人ではない」と言われて、性悪女のようなことばかりしていたナスターシヤが、「本当に図星を指されたからにやっと」する場面を紹介しました。

映画《白痴》ラストシーンについてはこの稿の最期に映画《醜聞》(一九五〇)との関連で考察することにしますが、このあとも黒澤明が『白痴』の考察をしていたことは一九六五年の映画《赤ひげ》で明らかでしょう。

すなわち、高熱を出しながらも必死に床の雑巾(ぞうきん)がけをしていた少女おとよを力ずくで養生所に引き取った赤ひげの「この子は体も病んでいるが、心はもっと病んでいる。火傷のようにただれているんだ」というセリフは、『白痴』のナスターシヤについての考察とも深く結びついていると思われます。

safe_image(図像は、facebookより引用)

終わりに

映画《醜聞》ではゴシップ雑誌『アムール』に写真入りで、スキャンダル記事を書かれて裁判に訴えた若い山岳画家の青江(三船敏郎)と有名な声楽家の美也子(山口淑子)が、弁護士の蛭田から裏切られために厳しい状況に追い込まれていく経緯が描かれています。

この内容は一見、『白痴』とは無縁のように見えますが、実は『白痴』でも彼が相続した遺産をめぐってムィシキンに対する中傷記事が書かれ、その裏では弁護士の資格を得ていたレーベジェフが暗躍するという出来事も描かれているのです。しかも、そこでドストエフスキーはレーベジェフを一方的に悪く描くのではなく、産後の肥立ちが悪くて亡くなった母親の赤ん坊をいつも胸に抱いていると描かれている彼の娘ヴェーラ(名前の意味は「信」)がムィシキンのことを真摯に面倒をみる姿も記述していました。

Shubun_poster

(映画《醜聞(スキャンダル)》の「ポスター」、図版は「ウィキペディア」による)

実際、小林秀雄はアグラーヤ(綾子)の花婿候補だったラドームスキーをムィシキンの厳しい批判者として解釈していましたが、悲劇の後で彼は変わってムィシキンの病気を回復させようと奔走しただけでなく、ヴェーラとの文通を重ねており。将来二人が結婚する可能性も示唆されていたのです。

映画《醜聞》でも卑劣な弁護士・蛭田の裏切り行為だけでなく、父親が依頼者の青江たちへの背信行為をしているのではないかと心配する娘・正子も描かれていました。この映画からは、重い病気で寝たきりの正子を慰めるためのクリスマス・ツリーが飾られ、オルガンを弾く青江と「聖夜」を歌っている美也子を見ながら、銀紙の冠を頭に載せた正子が幸せそうに笑っている姿を、帰宅した蛭田が障子のガラスごしに覗くというシーンを紹介しました。娘の純真な笑顔を見た弁護士の蛭田は激しく後悔し、娘の死後に行われた最後の公判で自分が被告から賄賂を受け取っていたことを告白したのです。

映画《白痴》では舞台を日本に移したことで、ムィシキンが語るマリーや驢馬のエピソードなど『新約聖書』の逸話が削られていましたが、映画《醜聞》ではクリスマスの「樅の木」や「清しこの夜」の合唱などキリスト教的な雰囲気も伝えられていました。こうして、黒澤明は蛭田の娘・正子の形象をとおしてヴェーラの見事な映像化を果たしているといっても過言ではないように思えます。

さらにイッポリートが、「公爵、あれは本当のことですか、あなたがあるとき、世界を救うのは『美』だと言ったというのは?」と質問していたことも思い起こすならば、黒澤明が映画《肖像》の脚本だけでなく、この映画で山岳画家を主人公として描いているのは、「本当の美」を示す必要性を感じていたためでしょう。

一方、映画《白痴》は綾子(アグラーヤ)が、「そう! ……あの人の様に……人を憎まず、ただ愛してだけ行けたら……私……私、なんて馬鹿だったんだろう……白痴だったの、わたしだわ!」と語るシーンで終わっています。

長編小説『白痴』ではアグラーヤが亡命伯爵を名乗るポーランド人と駆け落ちしたと描かれているので、そこだけを見ればこのシーンは明らかに原作とは異っています。しかし、原作の数多くの登場人物の複雑な人間関係をより分かりやすくするために、映画《白痴》では軽部がレーベジェフだけでなく高利貸しのプチーツィンをも兼ねた形で描かれるなどの工夫がされていました。

 そのことに留意するならば、このエピローグで描かれている綾子のセリフはアグラーヤだけでなく、映画《白痴》では省略されていたヴェーラの思いも兼ねていると言えるでしょう。しかし、ラドームスキーをムィシキンの単なる批判者と解釈していた小林秀雄には、黒澤映画の深みは理解できなかったのだと思えます。

「殺すなかれ」と語ったイエスは十字架に磔にされて死にましたが、キリスト教社会でイエスは無力で無残に亡くなった者としてではなく、「本当に美しい」人間としてその「記憶」は長く語り継がれたのです。ドストエフスキーも『白痴』においてムィシキンを「記憶」に長く残る「本当に美しい」人間として描いていたのです。

映画《夢》では、ゴッホとの出会いだけでなく、福島第一原子力発電所の大事故を予告するような「赤富士」のシーンも描かれていることに注目するならば、黒澤監督はムィシキン的な形象を、単に病んだ人間を治癒する者としてだけではなく、病んだ世界を治癒しようとした者と捉えていたといえるかもしれません。

黒澤明が日本においては大胆と思える解釈をなしえたのは、彼が学問的な権威には従属しない映画という表現方法によったことも大きいと思われます。

まもなくドストエフスキーの生誕200周年を迎えるにあたって、ドストエフスキー作品の黒澤明的な解釈が日本でも深まることを願っています。

86l005l

 

黒澤監督没後二〇周年と映画《白痴》の円卓会議

映画《白痴》と『椿姫』――ソフィア大学での挨拶

『黒澤明で「白痴」を読み解く』の紹介(ブルガリア・ドストエフスキー協会のサイトより)

映画《白痴》とポスター

 

200px-Hakuchi_poster

(松竹製作・配給、1951年、図版は「ウィキペディア」より)。

 

大学の講義のための参考資料として、上記のポスターをHPに掲載していました。

しかしこのポスターを見ているうちに、私の内にあった強い違和感の理由に気づきましたので少し記しておきます。

*   *

よく知られているように、黒澤明監督の映画《白痴》(1951)は、残念ながら、当初4時間32分あった映画が、映画会社の意向で長すぎるとして2時間46分にカットされたこともあり、日本ではあまりヒットしませんでした。

しかし、日本やロシアの研究者だけでなく、「ドストエフスキーの最良の映画」として映画《白痴》を挙げたタルコフスキーをはじめとして本場ロシアの多くの映画監督からも絶賛されました。

その理由はおそらく彼らが原作をよく知っていたために、カットされた後の版からでもこの映画が原作の本質を伝え得ていることを認識できたからでしょう。実際、拙著で詳しく検証したように、上映時間が限られるために登場人物などを省略し、筋を変更しながらも、黒澤明監督はオリジナル版で驚くほど原作に近い映像を造りあげていたのです。

収益を重視した会社の意向でカットされた後の版でも、ナスターシャ(那須妙子)を妾としたトーツキー(東畑)や、さまざまな情報を握って人間関係を支配しようとしたレーベジェフ(軽部)、さらにエパンチン将軍(大野)やイーヴォルギン将軍(香山)の家族も制限されたかたちではあれ、きちんと描かれていました。

*   *

一方、小林秀雄氏は1934年から翌年にかけて書いた「『白痴』についてⅠ」において、この長編小説について「殆ど小説のプロットとは言ひ難い」と断定し、多くの重要な登場人物については、ほとんど言及していないのです。それは小林氏の『罪と罰』論について論じた際にも記したように、これれらの重要な登場人物の存在は、彼の論拠を覆す危険性を有していたからでしょう。

つまり、小林氏は多くの重要な登場人物については「沈黙」を守る、あるいはかれらwお「無視」することにより、自分の読みに読者を誘導していたと私には思えるのです。

映画《白痴》のために作成されたはずの上記のポスターは、黒澤氏の映像を用いつつも、ナスターシャをめぐるムィシキン(亀田)とロゴージン(赤間)の三角関係を中心に考察した小林秀雄氏の解釈に従った構図を示していたのです。

*   *

視覚に訴えることのできるポスターは、単なる文章よりも強い影響力を持ちやすいと思えます。おそらく会社側の意向に沿って製作されたと思われるこのポスターは、黒澤映画《白痴》よりも、小林氏の『白痴』論のポスター化であり、そのことがいっそう観客の映画に対する違和感を強めたのではないかとさえ思えるのです。

 

リンク→「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(3)

リンク→「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観

リンク→「不注意な読者」をめぐってーー黒澤明と小林秀雄の『白痴』観

 

映画《白痴》と『椿姫』――ソフィア大学での挨拶

はじめに

私が『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社)を出版したのは、2011年のことでしたが、その後、相沢直樹氏の『甦る『ゴンドラの唄』── 「いのち短し、恋せよ、少女」の誕生と変容』(新曜社、2012年)と「黒澤明の映画『白痴』の戦略」が付論として収められている清水孝純氏(九州大学名誉教授)の『白痴』を読む――ドストエフスキーとニヒリズム』(九州大学区出版会、2013年)が相次いで出版されました。

黒澤明で「白痴」を読み解く甦る「ゴンドラの唄」『白痴』を読む

このことを踏まえて2013年10月28日にホームページの「映画・演劇評」の頁に書いた記事ではこう記しました。

「日本では不遇だった黒澤映画《白痴》が甦り、映画《生きる》とともに力強く世界へと羽ばたく時期が到来しているのではないかとの予感を抱く。」

劇中歌「ゴンドラの唄」が結ぶもの――劇《その前夜》と映画《白痴》

  それゆえ、2018年にブルガリアで開催される国際ドストエフスキー・シンポジウムで、映画《白痴》の「円卓会議」が開かれることになったことを知った際には、私の予感が当たったように思えて、少し無理をしてでも参加することにしました。

幸い、日本からは清水孝純先生や黒澤明研究会幹事の槙田寿文氏も参加されて、盛り上がった会議となり、映画《白痴》の上映会も開かれた。その際に行った短い挨拶の文章が『異文化交流』に掲載されたのでここに転載します。

   *    *

今年(2018年)の10月23日から26日までブルガリアの首都ソフィアで、ブルガリアの科学アカデミー、国立文学博物館などの共催による「国際ドストエフスキー・シンポジウム」が開かれ、黒澤明監督の映画《白痴》の円卓会議も開かれました。

 東海大学の交換留学生としてソフィア大学などで学んだことが、円卓会議につながったことに深い感慨を覚えるとともに、語学学習の重要性も改めて感じました。ソフィア大学での映画《白痴》上映の前に語った挨拶の言葉を、一部、分かり易いように内容を補ったうえで、以下に掲載します。

ブルガリア、ソフィア大学(ソフィア大学、出典はブルガリア語版「ウィキペディア」)

 

親愛なる学生のみなさん

この度、皆さんに黒澤明の映画《白痴》についての紹介をすることが出来るのはたいへんな喜びです。私がほぼ半世紀前にソフィア大学で学んだ際にはブルガリアについては日本ではまだ広く知られていませんでしたが、モスクワ大学に留学していたブルガリア人の若者を描いたツルゲーネフの『その前夜』を読んだことで、この国のことについては知っていました。

そして著名な黒澤明監督もこの小説のことをよく知っていたと思われます。なぜならば、日本の「芸術座」がこの劇をすでに1915年に上演していたからです*1。注目したいのは、『その前夜』においては、ブルガリアの若者インサーロフと結婚したエレーナがヴェネツィアで聞いたヴェルディのオペラ《ラ・トラヴィアータ(椿姫)》の印象も詳しく描かれていたことです。

日本における『その前夜』の上演に際しては主演女優が歌った「ゴンドラの唄」はたいへんヒットしましたが、黒澤明監督は映画《白痴》の次に撮った映画《生きる》で主人公にこの歌を二度歌わせています*2。

しかも、長編小説『白痴』においてもナスターシヤはトーツキーを「椿紳士」と呼んでいましたが、この長編小説における『椿姫』の重要性を理解していた黒澤監督は、綾子(アグラーヤ)に、「椿姫」という単語を用いて、妙子(ナスターシヤ)を「あなたは椿姫を気取っている」と非難させることで、妙子(ナスターシヤ)がなぜ絶望的な行動へと駆り立てられたかを見事に示唆していたのです。

残念ながらこの映画は、会社側の意向で半分に切られてしまいましたが、映画《サクリファイス》を撮ったロシアの監督タルコフスキーは、この映画を『白痴』のもっともすぐれた映画化であると記していました。

 みなさんがこの映画を満喫されることを願っています。

 ご清聴ありがとうございました。

 

*1 芸術座については、木村敦夫「トルストイの『復活』と島村抱月の『復活』」、東京藝術大学音楽学部紀要、第39集、2014年参照。

*2 相沢直樹『甦る『ゴンドラの唄』── 「いのち短し、恋せよ、少女」の誕生と変容』新曜社、2012年。

   (『異文化交流』第19号、2018年、164~165頁より転載、10月2日、改題)

『黒澤明で「白痴」を読み解く』の紹介(ブルガリア・ドストエフスキー協会のサイトより)

 

映画《生きものの記録》――原水爆の脅威と知識人のタイプ

430px-Ikimono_no_kiroku_poster

(東宝製作・配給、1955年、「ウィキペディア」)。

映画《生きものの記録》では、都内で鋳物工場を経営して成功し、妻と三人の妾とのあいだに多くの子供をもうけているワンマンな経営者の中島喜一(三船敏郎)が、「核実験」や「核戦争」の被害から家族を守るために、海外に移住しようとするが、自分たちの財産が無くなってしまうことを恐れた長女や息子たちから裁判に訴えられた出来事を、裁判所の調停委員として関わることになった歯科医・原田の眼をとおして描いている。

すなわち、「(沈鬱に)死ぬのはやむを得ん……だが殺されるのはいやだ!!」と語った喜一は、受け身的な形で「核の不安」に対処しようとすることを拒否して移住計画を進めるが、そのことを知った息子たちの要請で予定より早く二回目の審判が開かれた。

興味深いのはどのような結論を出すべきかの調停員の会議で、移住という手段をとってでも愛する家族たちの生命を守ろうとする喜一の行動力に感心もしていた調停員の原田が、「原水爆に対する不安は我々だって持っている」、「日本人全部に、強弱の差こそあれ、必ず有る気持ちです」と弁護していることである。

審判室に呼び出された喜一も「儂(わし)は、原水爆だって避ければ避けられる……あんなものにムザムザ殺されてたまるか、と思うとるからこそ、この様に慌てとるのです」と語り、さらに「(昂然と)ところが、臆病者は、慄え上がって、ただただ眼をつぶっとる」と続けていた。

しかし、「準禁治産者」の判定を下された後で工場に放火した喜一は、ついには精神病院に収容されることになる。注目したいのは、自分が加わった調停で心ならずも喜一に厳しい判決を下した歯医者の原田が、放火事件の後で喜一が収監された精神病院を訪れる場面で、原田と長女よしの夫・山崎の反応をとおして二つのタイプの「知識人」が見事に描き出されていたことである。

すなわち、病院に見舞いに訪れていた中島家の家族が病室から出てきた場面で、「しかし、何だな……結局……お父さんにとってはあれが一番倖せなんじゃないかな」と語った長女よしの夫・山崎に、喜一の家族全員が「無言の反撥を示す」ことが描かれたあとで偶然に出会った原田も、「私……どうも……気がとがめまして……」と見舞いの理由を説明し、「……いやそもそもあの裁判が間違っていたんじゃないか……と……」と続ける。

すると山崎は、苛立ちながら「大体、父の事を裁判所へ持ち込んだのが間違いなんです……最初から、ここへ連れてくればよかったンですよ」と断言し、「国策」に従わずに移住しようとする反抗的な喜一を「法律の手」で束縛したほうがよいと説明していた裁判所の参与と同じ見解を語ったのである。

個人的な印象になるが、私には最初、妻の父親の裁判にも積極的に参加しようとしていた長女の夫・山崎という人物像がよくわからなかった。しかし、映画《生きものの記録》の公開後に文学者の武田泰淳や後に「四騎の会」を共に起ち上げることになる木下恵介監督との鼎談で、「あの作品のなかでね、武田さん、僕は山崎という男ですよ」と語った黒澤が、「フランス文学者の……?」と武田から質問されると「ウン、あのくらいですよ」と答えているのを読んだ時に少し理解できたかと感じた。

すなわち、このやり取りからは山崎が、「国策」として遂行された「戦争」には保身のために反対しなかった黒澤自身の戯画であるとともに、戦後も「原子力エネルギー」の危険性も認識しながらも、原発が「国策」となると沈黙してしまうようなタイプの「知識人」全体の戯画でもあると思えたのである、

そのような「国権」に従順なタイプの「知識人」への批判は、喜一の治療にあたっていた精神科の医師の次のような言葉をとおして強調されている。「この患者を診ていると……なんだか……その……正気でいるつもりの自分が妙に不安になるんです……狂っているのは、あの患者なのか……こんな時世に正気でいられる我々がおかしいのか」。

ここにはチェーホフの短編『六号室』を思い起こさせるような深い考察があるが、この精神科医の言葉の後に置かれている映画《生きものの記録》の最後のシーンでは、『罪と罰』の主人公がシベリアの流刑地で見る「世界滅亡の悪夢」のような圧巻とも呼べるような光景が描かれている、

澄み切った明るい顔で鉄格子の病室に座り、地球を脱出して安全な星に居ると思いこんでいた喜一は、窓の外の燃えるような落日を見て、「燃えとる!! 燃えとる!! とうとう地球が燃えてしまった!!」と叫ぶのである。

主役の老人の役を三船敏郎が見事に演じただけでなく、前作の映画《七人の侍》と同じように黒澤明、橋本忍、小國英雄の共同脚本による映画《生きものの記録》は話題作となりヒットすることは確実だとも思われた。

しかし、脚本の共同執筆者であった橋本忍が書いているように、「『七人の侍』では日本映画開闢以来の大当たり、それに続く黒澤作品であり、ポスターも黒澤さん自身が斬新でユニークな絵を描き、宣伝も行き届いていた」にもかかわらず、「頭から客の姿は劇場にはなく、まったくの閑古鳥なのだ、まるで底なし沼に滅入り込むような空恐ろしい不入り」だったのである。

その理由は黒澤明と小林秀雄との「対談記事」が消えたことにも深くかかわっていると思えるので、稿を改めて考察することにしたい。

『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、2014年より、第2章の当該箇所を再構成して引用)。

映画《母と暮せば》を見て

山田洋次監督の映画《母と暮せば》を見ました。

NHKBS1で放送されたドキュメンタリー番組「BS1スペシャル 戦争を継ぐ ~山田洋次・84歳の挑戦~」でその苦労が詳しく描かれていた冒頭の教室での被爆とインク瓶が溶ける場面は、やはり圧巻でした。

映像では、原爆の悲惨さを示すような生々しい映像はほとんど用いられていませんが、息子を喪った母親(吉永小百合)や快活だった医学生の息子(二宮和也)、その恋人(黒木華)などがきちんと描かれていました。

広島で被爆した娘のもとに父親が亡霊となって現れ、生き残ったことに罪悪感を持つ娘を励ますという井上ひさし氏の『父と暮せば』の構想を引き継いだこの映画でも、長崎で被爆して亡くなった若者の婚約者が、再び前を向いて生きようとするまでのエピソードを丹念に描いて、平和の大切さがじんわりと伝わる説得力のある映画になっていると感じました。

黒澤映画《夢》の「トンネル」のシーンと戯曲『父と暮せば』との関連については、拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)で少し触れましたが、この映画でも映画《夢》の「トンネル」のシーンを彷彿とさせる場面があり、黒澤監督の理念の継承も感じられました。

*   *   *

安保関連法案を強行採決した安倍政権は軍需産業や原発産業の育成に力を入れていますが、今年は原爆が日本に落とされてから70年目に当たります。

原爆が日本に落とされたことに責任を感じたアインシュタインは、哲学者のラッセルとともにパグウォッシュ会議を組織して、戦争の危険性を強く科学者や市民に訴えましたが、今年はその会議が初めて長崎市で行われました。

戦後70年を迎えた今こそ、原水爆の危険性を深く思い起こすべき時期だと思われます。

リンク→映画『母と暮せば』予告 – YouTube

映画《夢》と映画《生きものの記録》――「黒澤明死して15年直筆ノートにあった…」

8月20日のブログでは映画《生きものの記録》に関連して、特集「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」と題する企画についての仙台出身の岩井俊二監督とスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーとの対談記事の紹介をしました。

昨日は黒澤明研究会からの知らせで、「報道ステーション」で放映された「黒澤明死して15年直筆ノートにあった…」というタイトルの映像がYou Tubeにアップされていることを知りました。

15分足らずの短い映像ですが、熊田雅彦制作主任と野上照代氏、さらに黒澤久雄氏や橋本忍氏などの証言と映画のシーンをとおして黒澤監督の切実な思いが見事に編集されていました。

  原発の危険性を予告していた映画《夢》の「赤富士」の映像だけでなく、被爆の問題を扱った映画《生きものの記録》の映像も用いることで、「直筆ノート」に記された黒澤明監督の先見性や映画に込められた深い思想も伝わってきます。You Tubeにアップされているこの番組を、ぜひ多くの人に見て頂きたいと思っています。

映画《八月の狂詩曲(ラプソディ)》と映画《父と暮せば》

黒澤監督が映画《白痴》を撮ったことはよく知られていますが、長崎を舞台にした晩年の映画《八月の狂詩曲(ラプソディ)》からも、ドストエフスキーの理解の深さが感じられます。

このように書くと多くの人は奇異に感じるでしょうが、夏休みに長崎を訪れた孫たちの眼をとおして、原爆で夫を失った祖母の悲しみと怒りがたんたんと描かれているこの作品は、次のような点で『白痴』を連想させます。

1,場所の移動によって生じる主人公の祖母と子供たちとのふれあい(ここでは『白痴』とは異なり、移動してくるのは子供たちですが、その後に起こる事態は似ています)。

2,悲惨な事実には眼をつぶってでも、金儲けをしようとする打算的な世代に対する主人公と子供たちの怒り。

3,原爆という「非人道的な兵器」に、「殺意」を持った「眼」を感じる祖母の感性。

4,激しい雷から、原爆を連想して正気を失い、夫を助けようと雨の中を走り出す祖母の姿。

映画《白痴》に見られたような人間関係の激しい描写はあまりありませんが、『白痴』のテーマは響いており、心にしみこむような作品になっています。

広島を舞台に原爆によって亡くなった父と、生き残った娘との心の交流を描くほのぼのとした中にも鋭い問題提起も含んだ作家井上ひさしの劇の映画化である黒木和雄監督の《父と暮せば》とともに、「広島原爆の日」と「長崎原爆の日」には、「公共放送」であるNHKには毎年放映して頂きたいと願っています。

〈 「映画・演劇評」に「長崎原爆の日」にちなんで映画《八月の狂詩曲(ラプソディ)》を掲載しました〉より改題。(5月8日)

リンク→黒澤映画《八月の狂詩曲(ラプソディー)》

 

映画《七人の侍》と映画《もののけ姫》

220px-Seven_Samurai_poster2%e3%82%82%e3%81%ae%e3%81%ae%e3%81%91%e5%a7%ab

(東宝製作・配給、1954年、図版は「ウィキペディア」より)、(《もののけ姫》、図版は「Facebook」より)。

 

2014年10月24日のブログ記事で、『七人の侍』誕生60周年を記念し、黒澤明監督の作品全30本を上映する「黒澤明映画祭」が、大阪・九条のシネ・ヌーヴォで8週間にわたって開催されるとの情報を掲載しました。リンク→「シネ・ヌーヴォ」で「黒澤明映画祭」が開催

その後、11月に宮崎駿監督がアメリカ・アカデミー賞の第87回名誉賞を受賞したとの朗報が入ってきました。これは1989年に黒澤明監督が第62回の名誉賞を日本人として初めて受賞したのに続く快挙です。

実は、黒澤明研究会でも『七人の侍』誕生60周年を記念した特集を組むとのことでしたので、「《七人の侍》と《もののけ姫》」と題した論文を投稿するつもりで半分ほど書き上げていました。

しかし、今年は映画《ゴジラ》の60周年でもあるため、原爆や原発の問題を扱った映画《夢》との深い関連を明らかにするために、急遽「映画《ゴジラ》から映画《夢》へ」という論文の執筆に切り替えました。

そのため「《七人の侍》と《もののけ姫》」について詳しい考察はいずれ機会を見て発表することにし、ここではかつて映画《もののけ姫》について書いた短い記事と、前著 『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、2011年)の一部を抜粋して紹介することで、宮崎駿監督が黒澤明監督から受け継いだこととその意味を簡単に考えて見ることにします。

*   *   *

映画《もののけ姫》の現代的な意義については、地球環境の問題との関連で次のような短い記事を1997年に書きました。

「(前略)文明理論の授業で未来に対するイメージを質問したところ、多くの学生から悲観的な答えが帰って来て驚いたことがある。しかし、一二月に温暖化を防ぐ国際会議が京都で持たれるが、消費文明の結果として、一世紀後には海面の水位が九五センチも上がる危険性が指摘され、洪水の多発など様々な被害が発生し始めている。(中略) こうして、現代の若者たちを取り巻く環境は、きわめて厳しい。大和政権に追われたエミシ族のアシタカや人間に棄てられ山犬に育てられた少女サンの怒りや悲しみを、彼らは実感できるのだ。

『もののけ姫』には答えはない。だが、難問を真正面から提示し、圧倒的な自然の美しさや他者との出会いを描くことで、観客に「生きろ」と伝え得ている。」

*  *   *

映画《七人の侍》が高く評価される一方で、映画《白痴》は日本ではあまり高い評価を受けていません。そのことについて長い間考えていた私は、日本においては強い影響力を持っている文芸評論家・小林秀雄が、「『白痴』についてⅡ」の第九章で、「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだろう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである」と断定していたことが大きいだろうと考えるようになりました。

しかも、「大地主義」を「穏健だが何等独創的なものもない思想であり、確固たる理論も持たぬ哲学であつた」とした小林は、「彼らの教義の明瞭な表象といふより寧ろ新雑誌の商標だつた」と続けていたのです。

しかし、拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002年)に記したように、クリミア戦争の敗戦後にシベリアから首都に帰還して雑誌『時代』を創刊したドストエフスキーが、「貴族と民衆との和解」の必要性を強調して、「農奴の解放」や「言論の自由」、「農民への教育」などを訴えたのが「大地主義」だったのです。

「大地主義」との関連に注意を払うならば、長編小説『白痴』は貴族の横暴さや傲慢さを認識した名門貴族の主人公ムィシキンが遺産を得たことで、自分の非力さを知りつつも「貴族と民衆との和解」をなんとか行おうとし、激しい情熱を持ちつつもそのエネルギーを使う方向性を見いだせなかったロシアの商人ロゴージンに新しい可能性を示そうとしつつも、複雑な人間関係やレーベジェフの企みなどによって果たせず、ついに再び正気を失ってしまうという悲劇を描いているといえるでしょう。

このことに注目する時、黒澤映画《白痴》が舞台を敗戦直後の日本を舞台に主人公も復員兵とし、さらには長編小説の流れとは異なるシーンを描きつつも、クリミア戦争敗戦後の混乱した時代を舞台したドストエフスキーの長編小説『白痴』の本質を見事に映像化していたと思われます。

*   *   *

「大地主義」に対する深い理解は1954年に公開された映画《七人の侍》(脚本・黒澤明、橋本忍、小國英雄)にも現れており、三船敏郎が演じた強いエネルギーを持つ農民出身の若者・菊千代はロゴージン的な役割を担っているといえるでしょう。

なぜならば、依頼者の百姓たちが落ち武者狩りをしていたことを知った浪人の勘兵衛たちは怒って去ろうとしたときに菊千代は、百姓たちに落ち武者狩りをさせたのは戦いや略奪を繰り返してきた侍だと叫んで、百姓たちの気持ちを代弁していたからです。

映画《七人の侍》は戦いに勝ったあとで、百姓たちが行っていた田植えの場面を大写しにしながら、勘兵衛に「いや……勝ったのは……あの百姓たちだ……俺たちではない」と語らせ、さらに「侍はな……この風のように、この大地の上を吹き捲って通り過ぎるだけだ……土は……何時までも残る……あの百姓たちも土と一緒に何時までも生きる!」と続けさせているのです。

宮崎駿監督は黒澤明監督との対談の後で、《七人の侍》が「日本の映画界に一つの基準線を作った」ことを認めて、「その時の経済情勢や政治情勢や人々の気持ちや、そういうもののなかで、まさにあの時代が生んだ作品でもある」と続けた後で、「今、自分たちが時代劇を作るとしたら、それを超えなきゃいけないんです」と結んでいました(黒澤明・宮崎駿『何が映画か 「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』徳間書店、1993年)。

この言葉はきついようにも見えますが、両者が同じように映画の創作に関わっていることを考えるならば、黒澤映画を踏まえつつ新しい作品を造り出すことこそが、黒澤明監督への深い敬意を現すことになるといえるでしょう。実際、宮崎監督は1997年にアニメ映画《もののけ姫》を公開することになるのです。

*   *   *

残念ながら、現代の日本はまだ宮崎監督が映画《もののけ姫》で描いたような厳しい状況から抜け出ていません。しかし、現状を直視することによってのみ解決策は生まれると思います。

宮崎監督の最後の長編アニメ映画《風ちぬ》について記したブログには、今も多くの閲覧者の方が訪れられていますが、宮崎駿監督がアメリカ・アカデミー賞の名誉賞を受賞されたこの機会に、《もののけ姫》の源流の一つとなっている《七人の侍》だけでなく、多くの黒澤映画を鑑賞して頂きたいと願っています。

追記:映画《七人の侍》(1954年)にはドストエフスキーの作品からだけではなく、『戦争と平和』からの影響も見られ、一方、黒澤監督を敬愛したタルコフスキー監督の映画(映画《アンドレイ・ルブリョフ》には、《七人の侍》からの影響が見られます。

(2016年1月10日。誤記を訂正し、追記とポスターの図版を追加)

映画《ゴジラ》考――「ゴジラ」の怒りと「核戦争」の恐怖

 「第五福竜丸」事件が起きた年に映画《ゴジラ》(原作:香山滋。脚本:村田武雄・本多猪四郎)が製作されてから、今年が60周年に当たります。アメリカで製作された《Godzilla ゴジラ》がヒットしていることもあり、NHKのBSで7月8日にデジタルリマスター版《ゴジラ》の第一作が放映されました。

 久しぶりにこの映像を見直すと、志村喬の演じた古代生物学者の山根博士などの言葉をとおして、水爆の危険性と核エネルギーの問題点が鋭く指摘されていたことに気づかされます。

 昨年の「終戦記念日」にはブログ記事の〈終戦記念日と「ゴジラ」の哀しみ〉で、原爆が投下された後の広島を見た体験について語った本多猪四郎監督の言葉を紹介しながら、映画《ゴジラ》が核の危険性を鋭く指摘していたことを紹介しました。

 最近、『初代ゴジラ研究読本』(洋泉社MOOK、2014年)に《ゴジラ》の脚本が掲載されましたので、今日と「広島原爆の日」の明後日の2回にわたって「映画・演劇評」のページで、黒澤映画《生きものの記録》も視野に入れながら映画《ゴジラ》を考えてみたいと思います。

 第一回の今回は〈「ゴジラ」の怒りと放射能の隠蔽〉と題して、スピルバーグ監督の映画《ジョーズ》(1975年)にも言及しながら、「情報」の隠蔽の問題がこれらの作品でどのように描かれているかを考察し、第二回には〈「ゴジラ」の恐怖と「核戦争」の恐怖〉と題して、タルコフスキーの映画《サクリファイス》にも言及しながら、冷戦下の軍備拡大の恐怖とソ連から観た映画《ゴジラ》の問題を考察することにします。

リンク→映画《ゴジラ》考Ⅰ――映画《ジョーズ》と「事実」の隠蔽

リンク→映画《ゴジラ》考Ⅱ――「大自然」の怒りと「核戦争」の恐怖

リンク→映画《ゴジラ》考Ⅲ――映画《モスラ》と「反核」の理念

リンク→映画《ゴジラ》考Ⅳ――「ゴジラシリーズ」と《ゴジラ》の「理念」の変質

リンク→映画《ゴジラ》考Ⅴ――ハリウッド版・映画《Godzilla ゴジラ》と「安保関連法」の成立

%e3%82%b4%e3%82%b8%e3%83%a9%e3%81%ae%e5%93%80%e3%81%97%e3%81%bf%e3%82%ab%e3%83%90%e3%83%bc%e8%a1%a8%e5%b8%af%e4%bb%98%e3%82%b4%e3%82%b8%e3%83%a9%e3%81%ae%e5%93%80%e3%81%97%e3%81%bf%e8%a1%a8%e7%b4%99%e3%82%ab%e3%83%90%e3%83%bc%e8%a3%8f%e5%b8%af%e4%bb%98

 リンク→『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』(のべる出版企画)の目次

(2015年10月30日、リンク先を追加。2016年1月2日、リンク先と書影を追加)