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書評 大木昭男著『ロシア最後の農村派作家――ワレンチン・ラスプーチンの文学』(群像社、 2015年)

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中編『生きよ、そして記憶せよ』(一九七四)と『火事』(一九八五)でソ連邦国家賞を二度受賞し、二〇〇〇年にはソルジェニーツィン賞を受賞した農村派の作家ラスプーチンが昨年の三月に亡くなった。 その報を受けて、 作家とは個人的にも旧知の間柄であり、『病院にて ソ連崩壊後の短編集』(群像社、二〇一三)の訳書もある大木昭男氏がこれまでの論稿をまとめたのが本書である。

作家の小説だけでなく、ルポルタージュや「我がマニフェスト」をも視野に入れた本書は、作家の全体像を把握できるような構成になっている(本稿では著者の表記「ドストエーフスキイ」で統一した)。

第一章 ロシア独自の道とインテリゲンチヤ

第二章 モスクワ騒乱事件直後のラスプーチン

第三章 ドストエーフスキイとラスプーチン――「救い」の問題試論

第四章 ラスプーチン文学に現れた母子像

第五章 ロシア・リアリズムの伝統とラスプーチン文学

第六章 失われた故郷への回帰志向―小説のフィナーレ

第七章 ラスプーチン文学に見る自然 エピローグ――「我がマニフェスト」翻訳とコメント

ドストエーフスキイとの関連で注目したいのは、「わたしはここ十年間ドストエーフスキイを何回も読み返しています」と一九八六年に語ったラスプーチンが、「ドストエーフスキイはわたしにとってどういう作家であるかといえば、気持ちの上で一番近い存在であり、精神的にもっとも影響を受けた作家であるという答えが一番正しい答えになると思います」と続けていたことである(第三章)。

この言葉を紹介して、ラスプーチンの「精神の中核にはやはり正教の人間観が厳然と在る」と指摘した大木氏は、「ドストエーフスキイの提唱した『土壌主義』は、『母なる大地』と融合したプーシキン文学の伝統を継承したもの」であり、「その伝統を現代において受け継いだ作家こそワレンチン・ラスプーチンなのである」と主張している(第四章)。

ただ、本書に収録されている作家の略年譜によれば、ラスプーチンが洗礼を受けたのは中編『マチョーラとの別れ』(一九七六)の後の一九八〇年のことだったことがわかる。では、なぜラスプーチンはこの作品の後で正教徒となったのだろうか。ここでは中編『火事』(一九八五)とドストエーフスキイの作品との関係を詳しく分析した第三章を中心に、この作品に至るまでとその後の作品を分析した著者の考察を追うことで、ラスプーチンのドストエーフスキイ観に迫ることにしたい。

*   *   *

一九三七年三月に今はダムの底に沈んだシベリアの小さな村に生まれたラスプーチンは、ナチス・ドイツとの「大祖国戦争」の苦しい時期に少年時代を過ごし、大学卒業後は新聞記者として勤めながら小説も書き始めた。 「ソ連崩壊後、国民の実に六〇%が貧困層に転落し、とりわけ年金生活者の多くが医療にもかかれないまま路頭に迷った。

ラスプーチンはそのような悲惨な現実をよく見据えている」と指摘した大木氏は、彼の作品を貫く方法について、ドストエーフスキイの第一作『貧しき人々』にも言及しながら、「ここにわたしは、一九世紀以来のロシア・リアリズムの伝統を感ずる」と書いている(第五章)。

「小説のフィナーレ」に注目しながらラスプーチンの主な作品を分析した第六章は、現実をしっかりと見つめて描くリアリズムが初期の段階からあったことを示すとともに、ドストエーフスキイの「土壌(大地)主義」への理解の深まりをも示していると思える。

すなわち、中編『マリヤのための金(かね)』(一九六七)では、コルホーズ議長の要請で小売店の売り子として勤めたが、決算時になって千ルーブルもの不足金があることが判明するという事件が発生し、不正などするはずのない純朴な農婦マリヤとその夫が苦境に陥るという出来事をとおして、「昔ながらの共同体的な相互扶助の精神」が廃れつつある状態が描かれている。

中編『アンナ婆さんの末期』(一九七〇)でも、村で百姓として一生を過ごしたアンナ婆さんの臨終の場面をとおして、村に残った子供と村を出て行った子供たちとの関係が描かれており、「夜中、婆さんは死んだ」という最後の文章に注意を促した大木氏は「寿命のつきた一個人の死ではあるが、もっと大きなものの死を暗示しているように思われる」と記している。

そのテーマは「大祖国戦争」で勇敢に戦って負傷したグシコフが、快復したあとで再び戦場に送られることを知って脱走したために、「故郷への回路」を断ち切られてしまうという悲劇を描いた中編『生きよ、そして記憶せよ』(一九七四)や、壮大なダム建設のために水没させられることになったためにアンガラ河の中州の島退去を迫られた農民たちの悲劇を描いた中編『マチョーラとの別れ』(一九七六)でも受け継がれている。

注目したいのは、島の名前の「マチョーラ」が「母」を意味する「マーチ」という単語から作られた固有名詞であると指摘した大木氏が、『マチョーラとの別れ』という題名は、「母なる大地」との別れも示唆していることに注意を促していることである。

ラスプーチンが洗礼を受けた後で書かれた中編『火事』(一九八五)では、ダムの建設によって水没した故郷の村を去り林業に従事することになった主人公イワンが、林業場倉庫の火事の現場で目撃した出来事が描かれている。 この 作品が「『マチョーラとの別れ』の続編とも言うべきもの」であると指摘した大木氏は、火事場で見た「無秩序な光景」について考え始めたイワンの思索が、「自分の内部の無秩序についての内省へと移っていく」ところに、ドストエーフスキイの手法との類似性を見ている。

注目したいのは、この小説のラストシーンで描かれている、「彼は今小さな林の陰に回り、永遠に姿を消してしまうのだ」という「謎めいた表現」は、「主人公の別世界への新たな旅立ちを意味するシーンである」と著者が解釈していることである。 訳出されている「あたかも夜の災厄のために苦しんでいたかのように、静かでもの悲しい秘められた大地がやわらかな雪の下に横たわっていた」という文章から、最後の「大地は沈黙している。/おまえは何であるのか、無言の我が大地よ、おまえはいつまで沈黙しているのか?/本当におまえは沈黙しているのか?」という詩的な文章に至る箇所は、ラスプーチンにおける「土壌(大地)主義」の重みを象徴的に物語っているように思える。

『罪と罰』のエピローグでも「一つの世界から他の世界への漸次的移行」が示唆されていることに注目した著者は、『カラマーゾフの兄弟』でも「ガリラヤのカナ」の章では、「天地を眺めて神の神秘にめざめ、大地を抱擁し、泣きながら接吻する」というアリョーシャの体験が描かれていることを指摘して、中編『火事』の結末においても、「キリスト教的な『過ぎ越し』」が描かれていると主張しているの である(第三章)。

残念ながら日本ではドストエーフスキイ作品を自分の主観でセンセーショナルに解釈する著作の人気が高いが、ドストエーフスキイが一八六四年に書いたメモで人類の発展を、一、族長制の時代、二、過渡期的状態の文明の時代、三、最終段階のキリスト教の時代の三段階に分類していたことを指摘した大木氏は、『白痴』における「サストラダーニエ(共苦)」や「美は世界を救う」という表現の重要性を強調している。

実際、著者が指摘しているように、『白痴』の創作ノートでもムイシキンが「キリスト教的愛の感情に従って行動することを、ナスターシャ・フィリポヴナの救済と彼女の世話と見なして」おり、「長編における三つの愛」が「情熱的直接的愛――ロゴージン」、「虚栄心からの愛――ガーニャ」、そして「キリスト教的愛――公爵」であると明確に定義されているのである。

それゆえ、ラスプーチンが「魂の動きにおいては、ロシア的スタイルは、沢山の苦しみをなめた人へのサストラダーニエであり、思いやりであり」、「共同性である」と書いていることに注意を促した大木氏は、「この認識はドストエーフスキイの民衆観を継承している」と記している。

本書の構成は論文の執筆順になっているので最初に置かれているが、「ロシア独自の道とインテリゲンチヤ」と題された章では、一九九二年のインタビューで「今は検閲がなく、自由がありますが、文学がありません」と語ったラスプーチンの言葉を紹介しつつ、「欧米流マス文化」の氾濫による「精神的空虚と不安定の兆候」を指摘した大木氏は、異文化に対しても排他的な態度を取らない「文化的民族主義」を唱える作家の立場を「新スラヴ派」と位置づけている(第一章)。

短編『同じ土の中に』(一九九五)で「ソ連崩壊後のロシアは、またしても革命前の現実とほとんど同様の貧困と格差の社会になってしまった」ことを描き出したラスプーチンが、一九九七年に「我がマニフェスト」で『カラマーゾフの兄弟』にも言及しながら、「ロシアの作家にとって、再び民衆のこだまとなるべき時節が到来した。痛みも愛も、洞察力も、苦悩の中で刷新された人間も、未曾有の力をもって表現すべき時節が」と宣言したのは、このような時代的な背景によるものだったのである(エピローグ)。

最後の中編『イワンの娘、イワンの母』(二〇〇三)を考察した論文の冒頭で「ロシアの『母子像』といえば、先ず思い浮かべるのは、幼児イエスとその母マリヤの二人が描かれている聖母子イコンであろう。それは慈愛のシンボルであり、キリスト教的『救い』のイメージと結びついている」と記した大木氏は、「イワン」という名前が「ヨハネ」に由来しており、「イワンの日」と呼ばれる民衆的な祭りがあるほどこの名前はロシア人の間ではきわめてポピュラーで、ロシア正教会ではこの日が「洗礼者ヨハネの誕生日」とされていることも説明している(第四章)。

そして、「ロシア社会の重要な、最も救済力に富んだ革新は、勿論、ロシア人女性の役割に属する」とドストエーフスキイが『作家の日記』に書いていたことを紹介した著者は、「ロシア人女性の大胆さ」が描かれているこの小説は「『我がマニフェスト』の意欲的実践の作として評価されるべき」と書いている。 ラスプーチンの小説を高く評価した文化学者のリハチョーフが「文化環境の保護も自然環境の保護に限らず本質的な課題です」と書いていたことに関連して、ドストエーフスキイの「美は世界を救う」という表現にも言及した大木氏は、「その『美』とは、人間の精神的な美を意味する言葉であるが、自然環境の美が保たれてこそ、人間精神の美も育まれてゆくものであろう。ラスプーチンはそのような認識にもとづいて『バイカル運動』をはじめとする自然保護運動を積極的に展開してきたのであった」と続けている(第七章)。

中編『マチョーラとの別れ』論で大木氏は、経済的な観点からの「ダムの建設は環境破壊をもたらし、そこで暮らしている住民たちの土地と結びついた過去の記憶を奪うことになる」と指摘していたが、それは三・一一の大事故による放射能で故郷から追われた福島の人々にもあてはまるだろう。

国民には秘密裏に行われて成立したTPPの交渉では農業分野で大幅な譲歩をしていたことが明らかになり、近い将来日本でも農村の疲弊と大地の劣化が進む危険性が高い。 ラスプーチンの「民族主義」的な主張には違和感を覚えるところもあるが、シベリアの小さな村の出来事などとおしてロシアの厳しい現実を丹念に描き出したラスプーチンの小説が、「土壌(大地)主義」を唱えたドストエーフスキイの精神を受け継いでいることを明らかにした本書の意義は大きい。

(『ドストエーフスキイ広場』第25号、2016年、108~112頁)。

書評 『十八世紀ロシア文学の諸相―ロシアと西欧 伝統と革新』(金沢美知子編 水声社 二〇一六年)

18世紀ロシア文学、紀伊國屋(書影は紀伊國屋書店より)

 

十八世紀ロシア文学の諸相―ロシアと西欧 伝統と革新』金沢美知子編 水声社 二〇一六年)

編者の序文によれば本書は、「ここ十数年の十八世紀ロシア文学をめぐる仕事に現れた新たな動向を日本のロシア研究の中に位置づけることを目的とし,さらにその先へと研究が発展することを願って」出版された。

第一部「近代ロシア文学の形成過程」、第二部「文学をとりまく環境」、第三部「十八世紀ロシアへの視点」から成る本書には、文学だけでなく歴史や文化にかかわる多くの論文が収められている。ただ、『ドストエーフスキイ広場』に掲載する書評という性格上、ここでは作家との関連の深い論文に絞って論じることにしたい。そのことによってドストエフスキー作品の理解も深まると思えるからである(本稿では敬称は略し、名前の表記は統一した)。

たとえば、ロモノーソフという名前は、日本の一般的な読者にはあまりなじみがないと思われるが、ドストエフスキーはペトラシェフスキー事件の裁判で「ピョートル大帝時代のロシア語はどんなものだったでしょうか? ロシア語半分にドイツ語半分だったのです。…中略…だから、ピョートル大帝の直後、ロモノーソフの出現したことは、偶然ではないのです」と語っていた。

鳥山裕介は「ロモノーソフと修辞学的崇高――十八世紀ロシアにおける『精神の高揚』の様式化」で、「十七世紀フランスの崇高論」と比較しながら、ロモノーソフにおける「崇高な文体」の創出の試みをその詩も引用しながら描き出している。ここでは聖書の記されていた文字であるギリシャ語と古代スラブ語とのかかわりや、ピョートル大帝による文字の改革の試みなどにも言及してロシア語の特徴をも浮かび上がらせており、ドストエフスキーがロモノーソフの意義を高く評価した理由を明らかにしている。

三浦清美「ロモノーソフの神、デルジャーヴィンの神」と三好俊介「ヴラジスラフ・ホダセヴィチと十八世紀ロシア─評伝『デルジャーヴィン』をめぐって」は、彼らの生きた時代と詩作品との関わりをとおして、彼らの雄大な自然観や「神」の観念などを詳しく伝えているだけでなく、詩人たちの力強い生き方をも示している。このことはなぜドストエフスキーが、シベリア流刑後に書いた長編小説『虐げられた人々』においても、ロモノーソフのもとにエカチェリーナ二世自らが訪問したことなどを主人公に語らせることで文学の意義を説明していたかをも示唆しているだろう。

「ロシア感傷小説の最初の種まき」を行ったフョードル・エミンの活動に焦点を絞った金沢美知子の二本の論文「フョードル・エミンとロシア最初の書簡体小説── 現実の様式化へ向けて」、「フョードル・エミンと十八世紀ロシア」では、職を求めてロシアを訪れ、最初は翻訳局で働いた外国人のエミンの活動を紹介しながら、「東方を舞台とした愛と冒険の物語を書いていた」エミンが、手紙を「人間の内面吐露の手段として大いに利用して」いたことを指摘するとともに、女帝エリザヴェータやエカチェリーナ二世の時代の外国との積極的な交流が十九世紀ロシア文学の豊かな土壌を形成したことを説得的に描きだしている。

安達大輔は「カラムジンの初期評論における翻訳とその外部」で、「感受性」という語には「一、外部の刺激に対する身体的な反応・感応という物質面と、二、共感・同情・哀れな者への共苦という精神面との区別」があるが、「『倫理的』転回が起きるのはセンチメンタリズムにおいてである」と本書の寄稿者でもあるコチェトコーヴァが『ロシア・センチメンタリズム文学』において記していることに注意を促している。このことはドストエフスキーの初期の作品を理解する上でも重要だろう。シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』の翻訳の序文で、「わが作者の考えを私が変えたところはない、と言うのもそのようなことは翻訳者には許されないと考えたからだ」と記したカラムジンの言葉からは、ドストエフスキーの作品の邦訳の問題についても考えさせられた。カラムジンが戯曲『シャクンタラー』については「この戯曲は古代インドの美しい絵といえるかもしれない」と記すのみで翻訳の困難さには言及していないことに注意を向けて、「二種類の翻訳の存在」を指摘していたことも興味深い。

カラムジンの『哀れなリーザ』や書簡体で書かれたゲーテの『若きウェルテルの悩み』が、ドストエフスキーの第一作『貧しき人々』にも強い影響を与えたことはよく知られているが、「ロシア・センチメンタリズムに見る『死への憧憬』と『離郷願望』」で、「感傷小説」には「悲劇型」ばかりでなく、「めでたし型」も存在していたことを紹介した金沢美知子は、スシコフの『ロシアのウェルテル』などにおける主人公たちの自殺についての言動に注意を向けて、「作家と読者の中に、個人主義あるいは個人と社会の対立についての問題意識が育ち始めていたことを証している」とし、この主人公が「『余計者』の原型」であると指摘している。

大塚えりな「カラムジン『ロシア人旅行者の手紙』における虚実」は、カラムジンが『モスクワ新聞』に掲載した広告文で「私の友人に物好きなのがいて、ヨーロッパ各地を旅行して、…中略…考えたこと、創造したことを書きとめてきた」と書いて、「作家はあくまで編者の立場」をとっていることに注意を促すとともに、最新の研究資料を紹介してここには「個人的な『旅行記』としての側面」もあることを具体的に示している。この論文からは『冬に記す夏の印象』の書き出しの文がカラムジンの『ロシア旅行者の手紙』の「パロディという要素」が非常に強く、「自分の旅行を機縁にして、以前から考えていた西欧観を吐き出そうとしたもの」であるという川端香男里の指摘が思い出される。

金沢友緒は「ロシアで翻訳された最初のゲーテ文学――О・П・コゾダヴレフと悲劇『クラヴィーゴ』」で、『若きウェルテルの悩み』では「ドイツの旧いモラルと自由を求める個人の葛藤の中でドラマが展開する」のに対して、悲劇『クラヴィーゴ』では「複数の国家社会と文化の対立の構図をとおして」主人公の恋愛が描かれていることに注目している。そして、ドイツのライプツィッヒ大学に留学した翻訳者コゾダヴレフが、この劇に「異文化衝突のドラマ」を見たと指摘し、後に彼が「国家の様々な文化事業に関与し」、「教育システムの構築と雑誌の発行」に携わることになることとの関連を指摘している。それは小説の創作ばかりでなく、ヨーロッパの情勢をも伝える総合雑誌『時代』や『世紀』の発行にも関わっていたドストエフスキーの視野の広さにも深く関わっているだろう。

私がもっとも関心を持って読んだのは「古来さまざまな議論が行われている」プーシキンのラジシチェフ論をゲルツェン研究の視点からの解釈を示した長縄光男の論文「『ペテルブルグからモスクワへの旅』をめぐって──ラジシチェフ・プーシキン・ゲルツェン」であった。

よく知られているように、ラジシチェフは「ザイツォヴォ」という章で、「農民に対する地主の非人間的横暴」によって引き起こされた「農民による地主の集団的殺害事件」を担当した裁判所長官の良心の苦しみを描いていた。このエピソードは自分の父が農民たちによって殺害されたことを知った若きドストエフスキーの苦悩や良心観を理解する上でも重要と思えたために、拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』(成文社、二〇〇七年)で詳しく紹介するとともに、歴史家・國本哲夫の説に従ってプーシキンのラジシチェフ論が「イソップの言葉」によって記されていると解釈していた。

しかし、ラジシチェフがきわめて率直に農奴制を批判したのは、「ルソーやディドロやヴォルテールらと親密に付き合っていた」エカチェリーナ二世が、「若者たちにも彼らの思想を学ぶように奨励した」ためだったと説明した長縄は、プガチョフの乱が起きるなど時代は変化し、フランス革命の翌年に刊行されたこの本をエカチェリーナが「プガチョフより悪質だ」と評したことを紹介している。

そして、「プーシキンはラジシチェフと真逆の道筋――すなわち、モスクワからペテルブルグへという経路を辿った。この事実そのものに、まず、プーシキンのラジシチェフ批判の意図を読み取ることができるだろう」と指摘し、「『知恵の悲しみ』も今ではすでに古びた悲しいアナクロニズムでしかない」と書いたのは、「本音」だっただろうと書いている。

たしかに、若い頃と『エヴゲーニイ・オネーギン』を書き上げた頃のプーシキンの考えが大きく変わっていることに留意するならば一八三三年から三六年にかけて書かれたラジシチェフ論は、「イソップの言葉」ではなく「本音」で書かれていたと考えられる。

ドストエフスキーもシベリア流刑以降は、むしろグリボエードフの『知恵の悲しみ』を批判するようになった頃のプーシキンを理想として掲げていたのである。ただ、ここでは詳しく論じる余裕はないが、それは『罪と罰』のエピローグに記された「人類滅亡の悪夢」が示しているように、日本の近海にも及んだクリミア戦争など近代兵器の進化に伴って戦争がさらに世界的な規模へと広がることへの危険感とも深く結びついていたと思える。

乗松亨平は「ベリンスキーとロシアの十八世紀──『ロシア史』はいかに語られるか」で、デビュー評論で文学は「ナロードの内的な生を、最奥の深淵と鼓動にいたるまで表現する」がロシアにはまだ「文学はない」と宣言したベリンスキーの歴史観の変遷を考察している。すなわち、一八四〇年の初頭以降は「ロシアとヨーロッパ、教養階級と民衆の断絶が、漸減されていく過程としてロシア文学史を捉える」というベリンスキーの視点が基本的に変わっていないことを指摘するとともに、「ロシアの未熟さ、若さ」を未来の可能性として「ポジティヴに読みかえる」という論法をベリンスキーが、「生のあらゆる領域、あらゆる世紀と国へ自由に移動できるプーシキンの芸術的能力」にも用いていることを指摘した。

そして乗松は、その手法が「プーシキンのロシア特有の天才は、きわめて多様な感情や人々を描けることにある」として「プーシキンの詩的創造の全世界性を称賛」したプーシキン像除幕式講演におけるドストエフスキーにも通じることを強調している。ベリンスキーと晩年のドストエフスキーのプーシキン観の意外な類似性をも指摘したこの記述からは、ドストエフスキーとベリンスキーの関係を再考察する必要性を感じさせられる。

文学について考察した論文ではないが、豊川浩一の「十八世紀ロシアにおける国家と民間習俗の相克──シンビルスクの『魔法使い(呪術師)』ヤーロフの裁判を中心に」は、ドストエフスキー初期の作品『主婦』に描かれた世界を理解するのに役立つだろう。矢沢英一の論文「イワン・ドルゴルーコフの回想記から見えてくるもの」は、ロシアの貴族たちの間でどのようにアマチュア演劇が広まり、大規模な農奴劇場が生まれたかを詳しく記しており、子供の頃に『知恵の悲しみ』を感激して見たドストエフスキーがシベリアの監獄で演じられた民衆芝居について『死の家の記録』で記していたこととの関連で非常に興味深く読んだ。

モスクワ大公国時代の儀礼との比較をとおしてピョートル改革後の特徴の解明を試みて、「信念の祝賀」や、「聖水式」などを考察した田中良英の「十八世紀初頭におけるロシア君主の日常的儀礼とその変化」は、視覚的な資料も多く掲載されている大野斉子の「女帝の身体」とともに、当時の宮廷の衣裳や風俗の特徴を浮かび上がらせている。

中神美砂「E・R・ダーシコヴァに関するロシアにおける研究と動向」も頁数は少ないが読み応えがあり、ナターリヤ・ドミトリエヴナ・コチェトコーヴァによるロシア科学アカデミー・ロシア文学研究所の詳しい紹介論文「プーシキンスキー・ドームの十八世紀ロシア文学研究部門──その歴史と現在」も、ロシアにおける研究史を知る上で役立つ。

これらの論文からはドストエフスキーの作品と十八世紀ロシアの密接な関係が浮かび上がってくる。また、かつて文明論的な視点からロモノーソフのことを少し調べたことのある私は、その後の研究分野の広がりと深まりには刮目させられるとともに多くの知見を得ることができた。本書がロシア文学の研究者だけでなく、比較文学や歴史の研究者、そしてロシアに関心を持つ多くの方に読まれることを期待したい。

(『ドストエーフスキイ広場』第26号、2017年、141~145頁より転載)

 

書評 『「罪と罰」をどう読むか〈ドストエフスキー読書会〉』(川崎浹・小野民樹・中村邦生著 水声社 二〇一六年)

『罪と罰』をどう読むか(書影は紀伊國屋書店より)

『「罪と罰」をどう読むか〈ドストエフスキー読書会〉』(川崎浹・小野民樹・中村邦生著 水声社 二〇一六年)

本書はウォルィンスキイの『ドストエフスキイ』やレイゾフ編『ドストエフスキイと西欧文学』など多くの訳書があるロシア文学者の川崎浹氏と、『新藤兼人伝──未完の日本映画史』などの著作がある研究者の小野民樹氏と、ドストエフスキーの作中人物をも取り込んだ小説『転落譚』がある中村邦生氏の鼎談を纏めたものである。

『罪と罰』の発表から一五〇年にあたる二〇一六年には、それを記念した国際ドストエフスキー学会が六月にスペインのグラナダで開かれたが、冒頭で『罪と罰』を翻訳し「恰も広野に落雷に会って目眩き耳聾ひたるがごとき、今までに会って覚えない甚深な感動を与えられた」という内田魯庵の言葉が紹介されている本書もそのことを反映しているだろう。

さらに本書の「あとがき」では学術書ではないので、「お世話になった方々の氏名をあげるにとどめる」として本会の木下豊房代表をはじめ、芦川氏や井桁氏など主なドストエフスキー研究者の名前が挙げられており、それらの研究書や最新の研究動向も踏まえた上で議論が進められていることが感じられる。

以下、本稿では『罪と罰』という長編小説を解釈する上できわめて重要だと思われる「エピローグ」の問題を中心に六つの章からなる本書の特徴に迫りたい。

「『罪と罰』への道」と題された第一章では、若きドストエフスキーが巻き込まれたペトラシェフスキー事件など四〇年代末期の思想動向やシベリアへの流刑の後で書かれた『死の家の記録』などの流れが簡潔に紹介されている。

ことに、農奴解放などの「大改革」が中途半端に終わったことで、過激化していく学生運動などロシアの時代風潮がチェルヌイシェフスキーとの相克や『何をなすべきか』との関わりだけでなく、一八六五年には「モスクワでグルジア人の青年が高利貸しの老婆二人を殺害、裁判が八月に行われ、その速記録が九月上旬の『声』紙に連載」されていたことや、「大学紛争で除籍されたモスクワ大学の学生が郵便局を襲って局員を殺そうとした話」など当時の社会状況が具体的に記されており、そのことは主人公・ラスコーリニコフの心理を理解する上で大いに役立っていると思われる。

当初は一人称で書かれていたこの小説が三人称で書かれることによって、長編小説へと発展したことなど小説の形式についても丁寧に説明されている。

本書の特徴の一つには重要な箇所のテキストの引用が適切になされていることが挙げられると思うが、第二章「老婆殺害」でも『罪と罰』の冒頭の文章が長めに引用され、この文章について小野氏が「なんだか映画のはじまりみたいですね。ドストエフスキーの描写はひじょうに映像的で、描写どおりにイメージしていくと、理想的な舞台装置ができあがる」と語っている。

この言葉にも表れているように、三人の異なった個性と関心がちょうどよいバランスをなしており、モノローグ的にならない<読書会>の雰囲気が醸し出されている。

また、『罪と罰』を内田魯庵の訳で読んだ北村透谷が、お手伝いのナスターシャから「あんた何をしているの?」と尋ねられて、「考えることをしている」と主人公が答える場面に注目していることに注意を促して、「北村透谷のラスコーリニコフ解釈は、あの早い時期としては格段のもの」であり、この頃に「日本で透谷がドストエフスキーをすでに理解していたというのは誇らしい」とも評価されている。

さらに、「ドストエフスキーの小説はたいてい演劇的な構成だと思います。舞台に入ってくる人間というのは問題をかかえてくる」など、「ドストエフスキーの小説は、ほとんどが何幕何場という構成に近い」ことが指摘されているばかりでなく、具体的に「ラスコーリニコフとマルメラードフの酒場での運命的な出遭いというのは、この小説のなかでも心に残る場面ですね」とも語られている。

たしかに、明治の『文学界』の精神的なリーダーであった北村透谷から強い影響を受けた島崎藤村の長編小説『破戒』でも、主人公と酔っ払いとの出遭いが重要な働きをなしており、ここからも近代日本文学に対する『罪と罰』の影響力の強さが感じられる。

また、『罪と罰』とヨーロッパ文学との関連にも多く言及されている本書では、ナポレオン軍の騎兵将校として勤務していた『赤と黒』の作家スタンダールが、「モスクワで零下三〇度の冬将軍」に襲われていたことなど興味深いエピソードが紹介されており、若い読者の関心もそそるだろう。

テキストの解釈の面では、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』など書簡体小説の影響を受けていると思われる母親からの長い手紙の意味がさまざまな視点から詳しく考察されているところや、なぜ高利貸しの義理の妹リザベータをも殺すことになったかをめぐって交わされる「六時過ぎか七時か」の議論、さらに「ふいに」という副詞の使用法についての会話もロシア語を知らない読者にとっては興味深いだろう。

犯罪の核心に迫る第三章「殺人の思想」では、「先ほどネヴァ川の光景が出てきましたけど、夕陽のシーンが小説全体のように現れることが、実に面白いですね」、「重要な場面で必ず夕陽が出てくるし、『夕焼け小説』とでもいいたいほどです」と語られているが、映画や演劇の知識の豊富さに支えられたこの鼎談をとおして、視覚的な映像が浮かんでくるのも本書の魅力だろう。

さらに、井桁貞義氏はドストエフスキーにおける「ナポレオンのイデア」の重要性を指摘していたが、本書でも「ナポレオンとニーチェ」のテーマも視野に入れた形で「良心の問題」がこの小説の中心的なテーマとして、「非凡人の理論」や「新しいエルサレム」にも言及しながらきちんと議論されている。

本書の冒頭では『罪と罰』から強い感動を与えられたと記した内田魯庵の言葉をひいて、「読んだ人には皆覚えがある筈だ」と指摘し、「残念な事には誰も真面目に読み返そうとしないのである」と続けていた文芸評論家の小林秀雄の文章も引用されていた。本章における「良心の問題」の分析は、一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、ラスコーリニコフには「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と解釈していた小林秀雄の良心観を再考察する機会にもなると思える。

第四章「スヴィドリガイロフ、ソーニャ、ドゥーニャ」や、「センナヤ広場へ」と題された第五章でも多くの研究書や研究動向も踏まえた上で、主な登場人物とその人間関係が考察されており興味深い。

ことに私がつよい関心を持ったのは、ソーニャが「ラザロの復活」を読むシーンに関連して一八七三年の『作家の日記』(昔の人々)でも、ドストエフスキーがルナンの『イエスの生涯』について、「この本はなんといってもキリストが人間的な美しさの理想であって、未来においてすらくり返されることのない、到達しがたい一つの典型であるとルナンは宣言していた」ことに注意が促されていたことである。

そして、このようなドストエフスキーのキリスト理解をも踏まえて第六章「『エピローグ』」の問題」では、『死の家の記録』に記されていたドストエフスキー自身がシベリアのイルティシ川から受けた深い感銘もきちんと引用されており、そのことが『罪と罰』の読みに深みを与えている。

たとえば、ドストエフスキーは「首都から千キロも離れたオムスクの監獄と流刑地のセミパラチンスクで過ごしたことにより、ロシアの懐の深さを知って帰ってきた」と語った川崎氏は、「その背景があって作家は『エピローグ』を書いた」と説明している。

そして、「『ラズミーヒンはシベリア移住を固く決意した』と『エピローグ』に書かれていますが、彼のシベリア行きはちょっと不自然に思いました」との感想に対しては、「ラズミーヒンがドゥーニャといっしょにシベリアに行って根付こうというときに、あそこは『土壌が豊かだから』と彼自身はっきりと言って」いると語っているのである。

さらに私は囚人たちが大切に思っている「ただ一条の太陽の光、鬱蒼(うっそう)たる森、どこともしれぬ奥まった場所に、湧きでる冷たい泉」が、ラスコーリニコフが病院で見た「人類滅亡の悪夢」に深く関わっていると考えてきたが、この鼎談でもこの文章に言及した後で悪夢が詳しく分析されている。

すなわち、この悪夢には「ヨハネの黙示録」が下敷きになっていることを確認するとともに、ドストエフスキーがすでに一八四七年に書いた『ペテルブルグ年代記』で「インフルエンザと熱病はペテルブルグの焦点である」と書いていることや、その頃に熱中したマクス・シュティルネルの『唯一者とその所有』では、個人主義の行き過ぎが指摘されていることも確認されている。

そして、「この熱に浮かされた悪夢の印象がながい間消え去らないのに悩まされた」とドストエフスキーが書いていることにふれて、それは「悪夢の役割の大きさを作家が強調したかったのでしょう」と記されている。

ただ、『罪と罰』が連載中の一八六六年五月に起こった普墺戦争では、先のデンマークとの戦争では連合して戦ったプロイセン王国とオーストリア帝国とが戦ってプロイセンが圧勝したことで、今度はフランス帝国との戦争が懸念されるようになっていた。そのことをも留意するならば、この悪夢は将来の世界大戦ばかりでなく、最新兵器を擁する大国に対するテロリズムが広がる現代へのドストエフスキーの洞察力をも物語っているように思える。

鼎談では「ドストエフスキーの文学」と現代との関わりも強く意識されていたが、川崎氏にはシクロフスキイの『トルストイ伝』やロープシンの『蒼ざめた馬』などの翻訳があるので、そこまで踏み込んで解釈してもよかったのではないかと私には思われた。

なぜならば、『地下室の手記』でドストエフスキーは、バックルによれば人間は「文明によって穏和になり、したがって残虐さを減じて戦争もしなくなる」などと説かれているが、実際にはナポレオン(一世、および三世)たちの戦争や南北戦争では「血は川をなして流れている」ではないかと主人公に鋭く問い質させていたからである。

『罪と罰』の最後をドストエフスキーが、「『これまで知ることのなかった新しい現実を知る人間の物語』が新しい作品の主題になると予告している」と書いていることに注意を促して、「そこにはどうしても『白痴』という実験小説が結びつかざるを得ません」と続けた川崎氏の言葉を受けて、「そこに私たちの新たな関心の方位があるということですね」と語った中村氏の言葉で本書は締めくくられている。

冒頭に掲げられている一八六五年の「ペテルブルグ市 街図」や、ロシア人独特の正式名称や愛称を併記した「登場人物一覧」、さらに「邦訳一覧」が収録されており、この著書は格好の『罪と罰』入門書となっているだろう。

川崎氏は「あとがき」で〈ドストエフスキー読書会〉という副題のある本書が、一三年間かけてドストエフスキーの全作品を二度にわたって読み込んだ上で、『罪と罰』についての鼎談を纏めたと発行に至る経緯を記している。

本書でもふれられていたルナンの『イエスの生涯』についてのドストエフスキーの関心は長編小説『白痴』とも深く関わっているので、次作『白痴』論の発行も待たれる。

(『ドストエーフスキイ広場』第26号、2017年、132~136頁より転載)

 

 

昨年総選挙での「争点の隠蔽」関連の記事一覧

先ほど、新国立競技場契約の「見切り発車」の問題と安倍政権が示唆している法案の強行採決の類似性を指摘した〈「安全保障関連法案」の危険性(3)――「見切り発車」という手法〉という題名の記事をアップしました。

急いでいたために書き忘れましたが、こうした三代目の「ボンボン」のような「放漫経営」的な手法を行っても、福島第一原子力発電所事故の場合でよく分かるように、「政治家」自身は責任を負うことはありません。その巨額のツケを後で払わされることになるのは、私たちやその子孫などの「国民」なのです。

総選挙のまえに菅官房長官は「秘密法・集団的自衛権」は、「争点にならず」と発言していましたが、案じていたように、政権の幹部はこの法案については先の総選挙でも充分に議論され、「信認を得て、多くの議席を得たという確信を持って、間違いなく我々はやってきた」という説明を始めています(太字、引用者)。

それゆえ、ここでは経済の問題を前面に出すことで「安全保障関連法案」の問題を隠していた昨年末の総選挙の危険性を指摘した記事を執筆順に掲載します。

 

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映画人も「安全保障関連法案」反対のアピール

すでにご存じの方も多いと思いますが、「朝日新聞」によれば15日に強行採決への抗議声明を出していた団体に続いて、映画関係者らで作る「映画人九条の会」も16日に、安全保障関連法案に反対するアピールに賛同する映画人が446人に達したとの発表を行いました。

このアピールの呼び掛け人の一人である高畑勲監督は、「自公の議員も(審議の進め方などに)全面的に賛成していないのに、どんどん進んでしまっている。日本人にはズルズル体質がある。重大な物事を決める時に大勢に順応し、破局に至っても誰も責任を取らない。ズルズル体質を自覚し、一線を越えてはならない」と語ったとのことです。

この指摘は「新国立競技場の建設計画」にも当てはまるでしょう。このことについては前回のブログでふれましたが、高畑監督の指摘は無責任な「安倍政権」に原発の再稼働などを委ねることの危険性も物語っているでしょう。

 

高畑監督ら呼びかけ安保法案反対 大物監督・俳優ら賛同:朝日新聞デジタル

http://www.asahi.com/articles/ASH7J5RGXH7JULZU00R.html …

映画『新聞記者』を読み解く(2)――権力の腐敗の問題に新聞と映画はどれだけ切り込むことができるか

 新聞社では文科省元トップ官僚の女性スキャンダルのニュースに緊張が走る。テレビなどのマスコミは、先を争うように「その人物の社会的信用を失墜させる」疑惑を報道。ことに大手の新聞社は特ダネを一面で大々的に報じた。しかし、通常は地方版では異なるはずの紙面は不思議なことにどこも同じであった。

そのことに疑問を抱いた女主人公の吉岡(シム・ウンギョン)は、真実を求めて文科省元トップ官僚の直撃取材を敢行し、総理の伝記を書いた人物を告発する本を書いた女性への中傷や罵倒がツイッターに氾濫するようになると、自分の考えをツイートする。

こうして、この映画では「官邸権力と報道メディア」(出演者:望月衣塑子、前川喜平、マーティン・ファクラー、南彰)という題名の討論番組の映像も組み込みながら、「情報」の「真偽」をめぐって緊迫した筋が展開していくことになる。

→討論「権力とメディア

興味深いのはトークイベントで河村光庸プロデューサーが、「新聞記者」製作の発端が「伊藤詩織さんの事件です」と明かし、こう続けていることである。「国家権力が逮捕状を出しておいてそれを取り下げるなんてことがあっていいのかと。そこまで来ちゃったのかと。大変な危機感を持ってなんとしてでもこの映画を作らなければと思いました」。

「新聞記者」トークイベントの様子。左から河村光庸、前川喜平、石田純一、高橋純子。

https://natalie.mu/eiga/news/343077(写真は「映画ナタリー」より)。

この言葉から私が思い出したのは、黒澤監督がロマノフ朝・最後の皇帝ニコライ2世とその一族の最期を当時のニュースフイルムや記録フィルムをも取り込んで壮大なスケールで描いた映画『アゴニヤ(断末魔))』を高く評価していたことである。

日本では《ロマノフ王朝の最期》という題で公開されたこの映画では、政府の汚職がはびこり、民衆の飢餓が拡がっていた帝政ロシアの末期に皇后や女官たちに巧みに取り入った怪僧ラスプーチンが犯した犯行も罪に問われなかったことが描かれていたのである。

ロマノフ王朝の最期【デジタル完全復元版】 [DVD]

(原題は『断末魔』、アマゾンより)

国連特別報告者は「日本政府に対し、特定秘密保護法の改正と、政府が放送局に電波停止を命じる根拠となる放送法四条の廃止を勧告した」が、安倍政権は無視し続け、報道の自由度は9年前の11位から67位にまで落ち、日本の「報道の自由」は危険水域に達しているように見える。

官僚たちが権力者の意向を「忖度」し、狂信的な宗教者が重用されるとき、国家は崩壊へと向かうといえよう。

   *   *

一方、菅官房長官の記者会見でも歯切れの良い口調で質問を行っている望月衣塑子記者の新書『新聞記者』(角川新書、2017年)を原案としたこの映画でも、国民の「知る権利」を守るために精力的な取材を続ける著者の姿勢が描かれている。

新聞記者 (角川新書)

しかも、この映画では原作にとらわれずに、女主人公の吉岡(シム・ウンギョン)に日本人の父と韓国人の母の間に生まれてアメリカで育ったという多元的なアイデンティティを与えることで、女主人公の人物像に深みを与ええている。

ある夜、新聞社の社会部に「医療系大学の新設」に関する極秘公文書が匿名のファックスで送られてくる、その書類を託された吉岡は調査を開始するが、その表紙に描かれていた眼が真っ黒に塗りつぶされた「羊」の絵は、エリート官僚の杉原(松坂桃李)と彼女を結びつけることになる。

前川喜平、寺脇研、望月衣塑子講演会

 

映画『新聞記者』を読み解く(1)――権力による情報の「操作」と「隠蔽」の問題に鋭く切り込む快心作

「映画 新聞記者」の画像検索結果

映画『新聞記者』では人気俳優の松坂桃李が主人公の一人を演じているにも関わらず、テレビでは映画『新聞記者』の前宣伝を見ることは全くなかった。それゆえ、私には戦前や戦中と同じような厳しい「報道統制」が敷かれているのかとすら思えた。

しかし、政府による言論の弾圧と常に直面している「報道」の問題をとおして、自民党の「憲法」案に記されている緊急事態条項の危険性にも肉薄しているこの映画は、上映館数はそれほど多くないにも関わらず、一時は映画興行収入のランキングで8位も記録した。

ソ連の末期には「言論の自由の重要性」を訴えた劇の切符を求める長い行列ができていた。

ここでは黒澤映画などと比較することにより、「言論の自由」がなくなり始めている現代日本の政治の闇に鋭く迫ることで、観客にも現実を変革する一歩を踏み出すことを求めるような力を有しているこの映画の内容と特徴を紹介することにしたい。

   *   *   *

【 映画パンフレット 】 新聞記者

 国会議事堂が中央に白く浮かび上がる夜の風景が映っている映画『新聞記者』のパンフレットを開くと、記者たちが働く大きな部屋の写真が見開きで載っており、その下に「この国に”新聞記者”が必要なのか――?」という文字が白い文字で打ち込まれている。

 実際、官房長官の記者会見などで見られるように、問題のある発言に対しても鋭い質問は飛ばず、ほとんどの記者が黙ってワープロを打つ映像がしばしばみられる。

8月9日には「上からの指示で公文書」を改ざんをさせられ、自殺した近畿財務局職員がいたにもかかわらず、森友問題では元財務省幹部らが再び不起訴となった。一方、この映画はフィクションという手法で、政府による言論の弾圧と常に直面している「報道」の問題を、主人公たちの内面をとおして描いており、テレビだけでなく警察や特捜までもが沈黙するようになり、高級官僚の「法意識」や「道徳観」が地に落ちたとも思えるこの時代に、報道に携わる「新聞記者」が政治の闇にどこまで迫れるかを鋭く問う力作となっている。

しかも、強大化した官邸の権力に高級官僚もひれ伏すようになるなかで、内閣情報調査室に出向して現政権を維持するために公安と連携して政敵のスキャンダルを創り上げることを命じられた元外務相のエリート官僚の苦悩をとおして彼の「良心」の問題にも迫っている。

8月8日に丸の内ピカデリーで映画『新聞記者』を再び観た際にも、冒頭から最後の場面まで一気に引きこまれて見入ってしまった。私が黒澤映画に熱中するようになったのは、映画《白痴》で小林秀雄の『白痴』論とはまったく異なる解釈を行っているように、黒澤監督には勝れた文学作品のすぐれた理解があった。また、NHKで大河ドラマ化された長編小説『坂の上の雲』の作者・司馬遼太郎も、「つくる会」によって「明治の賛美者」に仕立てられたが、ロシア文学に親しんでいた彼は「幕末から現代に至る「神国思想」の厳しい批判者であった。それゆえ、本稿では黒澤明の映画や司馬の幻の長編小説『ノモンハン』に注意を向けながら、映画『新聞記者』を読み解くことにしたい。

映画『新聞記者』予告編

→討論「権力とメディア

 
(書き進める中でこの稿は何度も書き直しているので、全部を書き終えた時から改訂の日時を記すことにする。2019年8月21日)。

(参考:パンフレット『新聞記者』)。

映画《風立ちぬ》論Ⅵ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(2)

前回は夏目漱石の『草枕』が「大好きですね」と宮崎監督が語っていることの紹介から始めましたが、次の言葉からは熱烈な愛読者であることが伝わってきます。

「いずれにしましてもぼく、『草枕』が大好きで、飛行機に乗らなきゃいけないときは必ずあれを持っていくんです。どこからでも読めるところも好きなんです。終わりまで行ったら、また適当なところを開いて読んでりゃいい。ぼくはほんとうに、『草枕』ばかり読んでいる人間かもしれません(笑)」(『腰抜け愛国談義』文春ジブリ文庫、2013年)。

*    *   *

『漱石先生ぞな もし』(文春文庫)の作者でもある半藤一利氏が「それはともかく、『草枕』は一種のファンタジーです。漱石がつくりだした桃源郷と言ってもいい」語ると宮崎監督も「惨憺たる精神状態のときに書いたものだと言われるけれど、だからこそいいものになったような気もします」と答えています。

 

私にとって興味深かったのは、「おっしゃるとおり『草枕』は、ノイローゼがいちばんひどかったときの作品なんですね」と指摘した半藤氏が、「これは私呑んだときによくしゃべることなんですけれどね。『草枕』という小説は、若い頃につくった俳句を引っぱりだしてきて、漱石はそれを眺めながら、うん、こいつを使おうと考えた。それら俳句に詠んだ描写を書いているんです」と語り、「ですからあの小説は、漱石自ら『俳句小説』だといっていますね」と続けていることです。

この説明を聞いて、宮崎監督は「そういえばはじめて読んだとき、主人公の青年は絵描きなのに、なぜ俳句ばかり詠んでいるんだろうと不思議に思ったのを思い出しました(笑)。でも、いや、ぼくは『草枕』は好きです。何度読んでも好きです」と応じています。

*    *   *

宮崎監督と半藤氏とのこれらの会話を読んで思い出したのは、夏目漱石と正岡子規との関係でした。

たとえば、冒頭の文章に続いて、風景を詠もうとする画工(えかき)の試みが次のように描かれています。

「やがて、長閑(のどか)な馬子唄(まごうた)が、春に更(ふ)けた空山(くうざん)一路の夢を破る。憐(あわ)れの底に気楽な響きがこもって、どう考えても画にかいた声だ。/ 馬子唄の鈴鹿(すずか)越ゆるや春の雨/ と、今度は斜(はす)に書き付けたが、書いて見て、これは自分の句でないと気が付いた。」

全集の注はこの句も子規が明治25年に書いた「馬子唄の鈴鹿(すずか)上るや春の雨」を踏まえていることを示唆しています。

半藤氏は漱石が「若い頃につくった俳句を引っぱりだしてきて」、それをこの小説で用いていると指摘していましたが、現在、執筆中の『司馬遼太郎の視線(まなざし)――子規と「坂の上の雲」と』では、新聞記者となる子規と漱石との深い交友にも焦点をあてて書いています。その中で改めて感じるのは、漱石という作家が子規との深い交友とお互いの切磋琢磨をとおして生まれていることです。

このことを踏まえるならば、この時、漱石は漫然と若い頃を思い出していたのではなく、病身をおして木曽路を旅した子規が翌年の明治二五年五月から六月にかけて「かけはしの記」と題して新聞『日本』に連載した紀行文のことを思い浮かべていたのではないかと思えるのです。

ことに『草枕』の冒頭の「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。/智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい」という文章は、大胆すぎる仮説かもしれませんが、「かけはしの記」の冒頭に記されている次のような文章への「返歌」のような性質を持っているのではないかと思えます。

「浮世の病ひ頭に上りては哲学の研究も惑病同源の理を示さず。行脚雲水の望みに心空になりては俗界の草根木皮、画にかいた白雲青山ほどにきかぬもあさまし」。

漱石の処女作となった『吾輩は猫である』が、子規の創刊した『ホトトギス』に掲載されたことはよく知られていますが、結核を患って若くして亡くなった子規が漱石に及ぼした影響については、さらに研究が深められるべきでしょう。

*    *   *

宮崎監督はロンドンのテムズ川の南、チェイスというところにある漱石記念館やテート・ギャラリーを訪れたことに関連して、『三四郎』における絵画について語っています。

すなわち、「記念館に足を踏み入れたとき、ぼくはもうそれだけで胸がいっぱい。なにかもう、『漱石さん、あのときはご苦労さまでした』って感じで」と語った宮崎監督は、「ロンドンではテート・ギャラリーの、漱石が足しげく通ったというターナーとラファエル前派の部屋にも行きました」と語り、次のように続けているのです。

「絵を前にして立っていると、ああ、ここに漱石が立っていたに違いない、と。そのなかに羊の群れが丘の上でたわむれている絵がありまして、ああ、これがきっと、『三四郎』の「ストレイシープ」だなんて思って、また胸が(笑)。」

このブログでは司馬遼太郎氏が「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と記していた漱石の『三四郎』についてたびたび言及してきました。

実は、『草枕』でも女主人公・那美の従兄弟の久一が招集されて戦地に赴くことだけでなく、彼女の別れた夫が一旗あげようとして満州に渡ろうとしているなど日露戦争の影も色濃く描かれているのです。

映画《風立ちぬ》における時代の鋭い描写には、宮崎監督の漱石の深い理解が反映されていると思えます。

*    *   *

興味深いのは、半藤氏が「『草枕』という小説は、言葉が古くて難しいからいまの若い人たちには読めないんですよ。だから私、若い人たちに『草枕』は英語で読め、と言っています」と語ったことに対して、宮崎監督が「どこかでそうお書きになっていましたね。ぼくはわかんないとこは平気でとばして読んでいます(笑)」とやんわりと反論していたことです。

私も宮崎監督に同感で、初めのうちは分かりにくくても、やはり日本語で読むことで『草枕』という小説が持つ日本語のリズムも伝わってくるし、何度も読み返すことで、その面白さや深さやも伝わってくると考えています。

宮崎監督がこの後で、「なにしろ『草枕』は、ほんとに情景がきれいなんです。しかもその鮮度がいまでもまったく失われていないんです」と語ると、その言葉を受けて半藤氏も、「漱石の小説で、絵巻になっているのは『草枕』だけですね」と応じています。

ロンドンのテート・ギャラリーには、『三四郎』の「ストレイシープ」に関わる画だけでなく、悲劇『ハムレット』のヒロイン・オフェリヤを描いたジョン・エヴァレット・ミレイの絵や朦朧体で描かれたターナーの絵も多く飾られていました。

これらの絵画からの印象も映画《風立ちぬ》における深い叙情に反映されているのではないかと思えます。

*    *   *

半藤氏はカナダのピアニストのグレン・グールドが『草枕』とトーマス・マンの『魔の山』を、「二十世紀の最高傑作に挙げた」ことも指摘しています。

映画《風立ちぬ》における『魔の山』のテーマについてはすでに記していましたが、この二つの作品を読むことにより映画で描かれている時代の理解も深まるでしょう。

 

リンク→《風立ちぬ》論Ⅲ――『魔の山』とヒトラーの影

 

映画《風立ちぬ》論Ⅴ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(1)

 

宮崎監督は夏目漱石の『草枕』が「大好きですね」と語っています。

元編集者で『漱石先生ぞな もし』(文春文庫)の作者でもある半藤一利氏がそれを受けて「それにあれは、絵画的世界でもありますね」と指摘すると、監督は「那美さんが川舟のなかで、スッと春の山をゆび指すでしょう。『あの山の向うを、あなたは越して入(い)らしった』と。とてもきれいなんです。絵にしたいんです。でも自分の画力では絵にできません」と続けているのです。

この二人の対談『腰抜け愛国談義』(文春ジブリ文庫、2013年)に注目しながら映画《風立ちぬ》を見るとき、この映画が堀辰雄の作品や優れた設計者の堀越二郎の伝記だけでなく、漱石の『草枕』の世界をも踏まえて創られているのだろう思えてきます。

ただ、『草枕』は少し古い作品なので、今回はこの内容も紹介しながら映画《風立ちぬ》との関係を考えてみたいと思います。

*    *   *

日露戦争終結の翌年に発表された『草枕』は次のような有名な冒頭の言葉で始まります。

「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。

智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい。

住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画(え)が出来る。」

 

こうして『草枕』では、画工である主人公が逗留した山中の温泉宿での景色や、そこで出会った「今まで見た女のうちで尤(もつと)もうつくしい所作をする」薄幸の女性・那美さんとの関わりをとおして独自の芸術論が語られているのです。

*    *   *

その舞台となったのが熊本の小天(おあま)温泉でしたが、そこに「どうしても行きたくなって」しまった宮崎監督は、「社員旅行のときに『熊本に行こう!』と言い張って(笑)。二百何十人で出かけて行ったことがありました」と語っています。

宮崎「念願かなって行ったのですが、物語にでてくる峠道を歩くことはできませんでした。時間があまりなくてバスで行ってしまったものですから。」

半藤「それは残念でしたね。」

宮崎「物語の最後のところで、吉田の停留場(ステーション)まで川舟で川を下りますでしょう。あの川にはなんとしても行ってみたいと思ったのですが、ところが地図をいくら調べてもない。」

半藤「あれはつくり話なんです。漱石が自分でも描いた山水画の世界です。」

*    *   *

『草枕』で注目したいのは、戦争が始まってからはほとんど湯治の客も来なくなった温泉の主人の娘・那美(なみ)が、最初からシェークスピアの悲劇『ハムレット』のヒロイン・オフェリヤと結びつけられて描かれていることです。

すなわち、茶店の老婆が「わたしゃ、お嫁入りのときの姿が、まだ眼前(めさき)に散らついている。裾(すそ)模様の振袖(ふりそで)に、高島田で、馬に乗って……」と源(げん)さんに話しかけているのを聞いた主人公は、写生帖をあけて「この景色は画になる」と考えるのです。ただ、「花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影(おもかげ)が忽然(こつぜん)と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった」と描かれています。

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「ウィキペディア」より

さらに主人公に「昔しこの村に長良の乙女と云う、美くしい長者の娘」が、二人の男から懸想されて「淵川(ふちかわ)へ身を投げて果てました」と語った老婆は、那美も親の強い意向で「ここの城下で随一の物持ち」に嫁いだものの、「今度の戦争で、旦那様の勤めて御出の銀行がつぶれ」て戻ってきたと語ったのです。

こうして、人づてに那美についての話を聞いて、よい画の主題を得たと思い始めた主人公は、第7章では思いがけず風呂場に入ってきて朦朧とした湯けむりのなかに見える彼女の姿を、「あまりにも露骨(あからさま)な肉の美」を描く西欧の裸体画と比較しつつ、「神代の姿を雲のなかに呼びお起こしたるが如く自然である」と描いています。

*    *   *

「映画『風立ちぬ』と日本の明日」と題された第二部では、半藤氏が「映画のなかで堀越二郎が菜穂子と暮らした黒川邸のような家は、昭和初期にはたくさんあったように思いますねえ」と語っています。

興味深いのは、その言葉を受けた宮崎監督が、女主人公の菜穂子が治療中のサナトリウムを抜け出して黒川夫妻の元で祝言を挙げ、命を燃やすように濃密な時間を二人で生きた黒川邸の離れについてこう語っていることです。

「『草枕』の舞台となった熊本の小天温泉に出かけて行った話を前回しましたが、漱石が泊まった前田家別邸の離れを見たときに『あ、これはいつか使える。覚えておこう』と思ったんです。黒川邸の離れはあそこがモデルなんです。」

自由民権運動に深くかかわった熊本の名士・前田案山子のこの別邸には中江兆民が訪れていたこともあり、漱石関連の書籍で写真を見ていたことが、私が映画《風立ちぬ》から強い印象を受けた一因かもしれません

*    *   *

(本稿は昨日書いた同名のブログ記事の全面的な改訂版です。アップした文章を読み直したところ、漱石の『草枕』をまだ読んでいない人には難しいことが分かりましたので、2回に分けて掲載することにしました)。

 

 

映画《風立ちぬ》論Ⅳ~Ⅵを「映画・演劇評」Ⅱに追加

 

映画《風立ちぬ》を論じた下記の記事が抜けていましたので、「映画・演劇評」Ⅱに追加します。

《風立ちぬ》論Ⅳ――ノモンハンの「風」と司馬遼太郎の志

映画《風立ちぬ》論Ⅴ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(1)

映画《風立ちぬ》論Ⅵ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(2)

 

なお、映画《風立ちぬ》と『永遠の0(ゼロ)』を比較した下記の3本の記事は、いずれ 「文明論(地球環境・戦争・憲法)」の3-2,「昭和初期の別国」に、掲載する予定です。

宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠のO(ゼロ)』(1)

宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠の0(ゼロ)』(2)

宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠の0(ゼロ)』(3)