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蟹工船

「蟹工船」と『死の家の記録』――俳優座の「蟹工船」をみて

「グローバリゼーション」の名の下に、「新自由主義」が幅をきかすようになった日本では、「弱肉強食の思想」が復活して「格差社会」が進み、ここ一〇年以上にわたって毎年三万人以上の自殺者が出るようになった。

このような状況を受けて劇団俳優座は、「おい、地獄さ行(え)ぐんだで!」というセリフで始まり、酷寒のオホーツク海でソ連の領海を侵しつつ苛酷な仕事に従事する労働者たちの覚醒に至る過程を描いた小林多喜二(一九〇三~一九三三)の小説「蟹工船」(一九二九)を昨年の五月に創立六五周年記念として公演した。

全部で十の節と附記からなるこの小説を、全三九場からなる劇とした演出家の安川修一は、この脚本で小林多喜二自身を地の文の語り手[男七]として登場させ、この小説の背景を忠実に語らせるとともに、「闇があるから光がある。そして闇から出てきた人こそ、一番ほんとうの光の有難さが分る。世の中は幸福ばかりで満ちているものでもない……」という多喜二の日記の一節を引用しながら曖昧屋の酌婦として売られていた恋人のタキとの物語をも組み込んでいる(第一三場、一四場)。そのことで安川は、殺伐とした「蟹工船」の空間とは別の遊女の一室をも描き出して、劇に奥行きを与えているだけでなく、彼女を救い出そうとする主人公の意思をとおして、劇の結末をも示唆し得ている。

しかも多喜二は、この作品の第四節で「ドストイェフスキーの死人の家な、ここから見れば、あれだって大したことではないって気がする」と学生に語らせていた。ドストエフスキー研究者の視点からもっとも興味深かったのは、この言葉に注目した安川がその脚本で、酷使されたあげくに亡くなった[学生二]が持っていたドストエフスキーの『死の家の記録』についての議論をとおして、「自由」と「連帯」の意味に迫っていることである。

実際、「床という床はすっかり腐って」いる、「老朽しきった、木造」の要塞監獄に収容され、「たえず笞刑(ちけい)の恐怖におびえながら」強制労働に従事させられていた「死の家」の状況と、「糞壺(くそつぼ)」と呼ばれる船室に閉じこめられて苛酷な労働に従事させられた「蟹工船」の状況は、きわめて似ている。

すなわち手塚英孝によれば、「蟹工船はかん詰工場の設備を供えた工船で、川崎船という付属の小型漁船を使って、底刺し網でとった蟹を加工する、移動かん詰工場のような漁船であった」。そのため「工場船」として航海法は適用されず、日露戦争当時の病院船や輸送船など廃船同様の「ボロ船」が用いられていた(「作品解説」、角川文庫)。

しかも小説の第一節(劇の第二場)で、労働者たちに「この蟹工船の事業」を「一会社の儲け仕事と見るべきでなく」、「大日本帝国の大きな使命のために、俺たちは命を的に、北海の荒波をつっ切って行くのだ」と演説した[監督]の浅川は、僚船「秩父」からのS・O・Sの無線を受けた船長が救助に向かおうとすると、「余計な寄り道を誰が許しただ。」と問い詰め、「会社が傭船(チャタァ)してるんで、金払って。ものを言えるのァ会社代表の須田さんとこの俺だ。…中略…それに、秩父には勿体ない位の保険が掛けてあるんだ。ボロ船だ、沈んだら、かえって得するんだ」と説明する(第二節、劇の第九場)。

さらに、病気のために働けなくなった雑夫をも、怠けているとみなして殴りつけ、さらには便所に閉じこめて殺した[監督]の浅川は、競争に勝った組みに「賞品」を与える一方で、一番働きの少ないものには、「鉄棒を真っ赤に焼いて、身体にそのまま当てる」という「焼き」を入れること思いつき、それを貼紙にしたのである。

このような蟹工船の状況を原作に則って描いたあとで、安川は『死の家の記録』をめぐる主人公たちの会話をとおして、ドストエフスキーが『死の家の記録』で鋭く分析した権力者の心理と、「自由」を求める囚人たちの抵抗の意味をも明らかにしていく。

たとえば、ドストエフスキーは虐げられた者による犯罪のきっかけには、差別があることも次のように分析していた。すなわち、彼は「おれはツァーリだ、おれは神様だ」などという看守や領主の言葉ほど、「身分の低い者たちを憤慨させるものはない」とし、「この自分はえらいのだという傲慢な気持、この自分は正しいという誇張された考えが、どんな従順な人間の心の中にも憎悪を生み、最後のがまんの緒を切らせるのである」(工藤精一郎訳、第一部第八章)。ここには現代の犯罪やテロリズムにも通じるような「支配と服従」の透徹した心理分析がある(高橋、『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、2002年)。

まず注目したいのは、安川が脚本で[学生一]にこの本を所有していた[学生二]の名前を消させるとともに、「俺が消したんだ。ここでは、俺も、奴も、あんたも、ここの男たちみんな名前なんか必要ないからな」と説明させていることである(第一九場)。

すると、語り手でもある[男七]は「シベリア流刑地の囚人群像。強制的な共同生活の苦悩か……こんな環境の中で、良く読んでいたな……。…中略…以前、ドスト氏は俺も好きで、食事をする時間を惜しんでよく読んだ……でもこんな所で出会うとは」とつぶやく。

一方、[学生一]は「死の家」の状況は「ここからすれば、大したことはない。」としながらも、「あの浅川は死の家の指揮官の少佐とダブル。叩き上げの無能、無教育な軍人で、好き勝手我儘放題のくせに、囚人に威張り散らし、いいがかりをつけてはぶん殴る。まさに浅川そのものだ!」と続けるのである。

その言葉を受けて[男七]は、『死の家の記録』では「この男の横暴に囚人たちが抗議の列を組むと、貴族出の政治犯のドスト氏が自ら抗議の列に加わって行く」ように描かれていると指摘する。すると、[学生一]も縛られ晒し者にされて死んだ[学生二]のことを思いつつ「俺は、奴のようにカムサッカで死にたくない。なにがなんでも生き抜いてやる。ドストエフスキーが流刑地で生き抜いたように、肉体も精神も強靱に……」と語る。

ここには後期のドストエフスキーは「虐待される人間の快楽を正当化するという戦法をとる」(亀山郁夫『父殺しの文学』)として、流行の「新自由主義」的な視点から作品を解釈しようとする姿勢とは根本的に異なる骨太のドストエフスキー理解がある。

しかも、安川は[学生一]に,「ドスト氏は『悪霊』の中で『神が存在しないなら、人間が一切の判定者である。人は死の恐怖を克服さえすれば、神と同じ人神になれるはずだ』この理論は正しいと思う。(本を叩き)殺人の共犯者にすること、いや、なることによって僕たちの結束を強めるしかないのか? 残酷卑劣な浅川!」とも語らせている。

このような『悪霊』における記述は、ドストエフスキー自身の見方ではなく、登場人物の見方であることには注意を払わねばならない。しかし、安川は語り手の[男七]にこのような考えに同意させつつも、「俺たちは、なにがあっても人間として生きるんだ。いいか自分を見失うな。思考力を無くすな。」と語らせ、さらに[男三]が怒りのあまり[監督]を殺そうとした際にはそれを止めさせている。そのことによって安川は、「俺たちが一切の判定者だ」ということが、力を得ることで「欲望」に身を任すのではなく、虐げられた者たちへのやさしさや、責任を持って行動することが必要になるという多喜二の思想を明らかにしているのである。

成功したかに見えた漁夫、火夫、雑夫たちのサボタージュ(サボ)は、国民を守ってくれると信じていた駆逐艦の士官によって、「露助の真似をする売国奴」と罵られ、「日本帝国に反逆した罪」で首謀者の九人が連行されるという結末に至る。

しかし、多喜二はその後の附記で、「二度目の『サボ』は、マンマと成功した」と書き、さらに、蟹工船では絶対的な権力者としてふるまっていた[監督]が、「漁夫達よりも惨めに」首を切られた際に、「俺ァ今迄、畜生、だまされていた!」と叫んだとも記している。

この文章はドストエフスキーが、「いいか、行動に気をつけろ! …中略…さもないと……体刑だぞ! ちょっとした罪があっても……む、む、笞だ」と宣告していた看守長の少佐が、囚人たちの抗議によって更迭された後では下男じみてきたことにふれて、「軍服を着てこそ彼は雷であり、神であった」と権力者についての鋭い分析を記していたことを思い起こさせる(第二部第八章)。

一九二六年五月の日記で『死の家の記録』について、「トルストイ、ロマンローラン(ママ)ともにこれを賞賛している」と書きながらも、「退屈だった」との感想も記していた多喜二が、「蟹工船」の執筆の際には、厳しい検閲に抗しながら人間の「尊厳」と「自由」の重要性を描き出したドストエフスキーのこの作品を改めて深く読み直していることが感じられるのである。

「蟹工船」において漁夫が歌う「ストトン節」にも触れていた多喜二は、第九節では「威張んな、この野郎」という言葉が「皆の間で流行り出した」ことを描いていた。このような描写を踏まえて、安川はそれまで[監督]の暴虐に虐げられてきた漁夫たちが、蟹を解体する際に包丁でリズムをとりながら、「威張んな!」と連呼する場面を描いている(第三〇節)。この場面からは、演劇が持つエネルギーが感じられた。多喜二役の脇田康弘の押さえた声での語りや、若い俳優たちのきびきびした動きもあいまって、引き締まった見応えのある劇であった。

(本稿の執筆に際しては、次の文献を参考にした。小林多喜二『蟹工船・党生活者』(角川文庫、二〇〇八年、新装改訂版)、『定本 小林多喜二全集』(第一三巻、第一四巻、一九六九年、新日本出版社)、雑誌『テアトロ』(二〇〇九年、五月号)、「劇団俳優座、公演№二九七『蟹工船』、パンフレット」。なお、HPへの掲載に際し、一カ所改訂した)。

(『ドストエーフスキイ広場』第19号、2010年)