高橋誠一郎 公式ホームページ

04月

(8)チェコスロヴァキア事件からウクライナ危機へ――民族主義的な権力者の危険性

2月22日にロシア軍のウクライナ侵攻が始まってからすでに一か月半以上が経ったが、残念ながら今もロシア軍による烈しい攻撃が続き、市民の犠牲が増えている。

一方、日本では祖父の岸首相の古い理念を受け継ぎ戦前の価値観を美化したばかりでなく、プーチン大統領との27回の会談を重ねていた安倍元首相をはじめ自民党タカ派や維新の政治家が、この機会に乗じて声高に軍拡や「核武装」を主張し始めている。さらに、今日も安倍氏が「(ロシアのウクライナ侵攻で)ドイツですら防衛費をGDP比2%に引き上げる決断をした。日本も2%に拡大する努力をしていかなければならない」と語ったことが伝えられている。

一方、チェコスロヴァキア事件が起きた際に三島由紀夫はたびたび「二千語宣言」にも言及した「自由と権力の状況」1968年10月)で、「チェコの問題は、自由に関するさまざまな省察を促した。それは、ただ自由の問題のみではなく、小国の持ちうる、政治的なオプションの問題でもある」とし、「極端に言えば、あそこでは文学と戦車との対立が劇的に演じられたのである」と分析し(119頁)、1970年の「三島事件」では憲法改正のための蹶起を自衛隊に求めたのである。

それに対して堀田善衞はチェコスロヴァキア事件が起きると現地に飛んで老詩人スルコフの「ここに(胸に)苦痛をもって、兄弟国へ出兵をせざるをえなかったのである。そのことをどうか了解してもらいたい」という回答をえていた。その言葉は「弱肉強食」の論理を正当化する西欧列強から滅ぼされないためには、「祖国戦争」に勝利したロシア帝国を盟主とする「全スラヴ同盟」を結成して西欧列強と対抗すべきだと主張したダニレフスキーの「全スラヴ同盟」の思想がソ連になってからも影響を持ち続けていた可能性を示しているだろう。かつては盟主国を自認していたロシアは、社会主義になってからは長兄の役を演じようとしていたのである。

しかし堀田善衞は、「“友は選べるが、兄弟は選べない”」という題を付けた第12章では、プラハで出迎えに来てくれた知人に「友人は選べるものだが、兄弟は選べるものではないことを、ほとんど直感したのが若い彼らでした」という苦い失望を語らせることで、この理念がチェコスロヴァキア事件で崩壊したことを示していた。

たとえば、この侵攻の後では堀田も「モスクワから来ていたある日本人特派員氏と食事をしていたとき、思わずこの特派員氏がロシア語を口にすると、『ここではそんなことばを使わないでくれ』」と鋭く告げられていた(268)。

それゆえ、プラハ滞在を終えてモスクワに帰り、「少なからぬ人々に、実情を訊ねられた」堀田は、自分の観察を率直に次のように語った。「プラハやブラティスラバの人たちはこう言っています。『背中にヒ首あいくち(占領)を突刺しておいて、傷がなおったら(正常化)、そのヒ首を抜いてやろう』とはね。」

さらに、スルコフはサルトル、ボーボアール、アラゴン、バートランド・ラッセル卿」などの名前を挙げて、この出兵によって「多くの友人を失った」と語っていたが、そればかりでなくルーマニアやアルバニア、ユーゴスラヴィアからの批判を招き、対立を深めた中国との間には翌1969年に中ソ国境紛争が勃発することになった。

チェコスロヴァキア事件の後で再び東欧が民主化を勝ち取るのは、ソ連のゴルバチョフ政権が新思考外交を打ち出した1989年のことであった。そして、ゴルバチョフはソ連においてもペレストロイカ(再建)やグラースノスチ(情報公開)などの政策を打ち出して、遅ればせながら、チェコスロヴァキアで試みられていた「人間の顔をした社会主義」への改革を行い始めていた。しかし、その矢先に起きたチェルノブイリ原発事故はその歩みを大幅に遅らせたばかりでなく、放射能の被害にもあったバルト三国の離反を招き、保守派によるクーデターを鎮圧したエリツィン・ロシア大統領が権力を握った1991年にソ連は崩壊した。

そのエリツィンによって大統領の退任前に首相から大統領代行に抜擢されたのが、元情報将校のプーチンであり、彼はエリツィンの政治手法を色濃く受け継いでいると思える。

それゆえ、大統領令によって自分を刑事訴追から免責させたエリツィンからプーチン政権への移行を、今回のウクライナ侵攻につながるような負の側面に焦点を当てて確認しておきたい。

最初に注目したいのは、エリツィンがウクライナ・ベラルーシの三国でソ連からの離脱と独立国家共同体(CIS) の樹立を宣言したように、歴史的・言語的に関係の深いこれら東スラヴの国々を重視するとともに、ロシアからの独立を主張したチェチェンに対しては強硬策を取って弾圧したことである。

翌年に首相を兼任してエリツィンは強権的な手法を議会でも用いて、縁故資本主義的な政策が批判されると大統領令を公布して超法規的に現行憲法を停止し、ロシア人民代議員大会と最高会議を強制的に解体した。このような手法に批判が集まり大統領選挙で苦戦すると新興財閥からの巨額の選挙資金などでようやく勝利したが、すると、第二次チェチェン紛争では辣腕を振るったプーチン首相を後継者に選び、不逮捕特権を得ていた。こうして、共産党政権の末期には「赤い貴族」が批判されるようになっていたが、エリツィンは政権の末期にはロシア帝国の皇帝のような独裁者に近くなっていた。

プーチンは大統領になった当初は、エリツィンとの癒着で莫大な富を得ていた新興財閥にも税金を課し、不正を取り締まったことで国民からの支持を得たが、2期目となる2004年には地方の知事を直接選挙から大統領による任命制に改めるなど中央集権化を進めて、エリツィンと同じように独裁者的な傾向を強めることになる。さらに、ソ連崩壊後の激しいグローバリゼーションに対抗するような形で世界の各国でナショナリズムの高揚が見られたが、プーチンの政策にもこのような民族主義的な傾向もみられるようになったと思える。

ことに大統領の正規の任期を終えた後で、もう一度首相に戻ってから再び大統領選に出るという非民主的な手法で再選された後ではエリツィンと同じような独裁者的な存在となった。さらに、精神的盟友とも言われるロシア正教会のキリル総主教との個人的な関係も深めていることが3月29日のNHK報道でも伝えられており、「 正教・ 専制・国民性」の道徳に従うことが求められたロシア帝国の時代に逆戻りしているようにさえ思えた。

安倍元首相が安倍元首相が独裁者的な傾向を強めていたプーチン大統領とクリミア併合の後で 27回もの会談を行ったのは、その民族主義的な思想に共感を抱いたからなのかもしれない。

しかし、堀田善衞が会見を求めた老詩人スルコフはチェコスロヴァキア事件によって「彼らとの友情を回復するためには、一〇年では足りないかもしれない。二〇年はかかるかもしれない」と語っていたが、単に戦車で言論を弾圧したばかりでなく、砲撃などで一般の市民の殺戮をも行っている今回のウクライナ侵攻がロシアに与える負の影響はより深く長く響くものになると思える。

そのことを考慮するならば、「君と僕は、同じ未来を見ている」とまで呼びかけていた安倍元首相が、国際的な非難がプーチンに集まると手のひらをかえして今度は核武装や軍拡にまで言及していることは危険極まりないといえるだろう。

次回はウクライナやポーランドを併合したロシア帝国と韓国を併合した大日本帝国の教育制度を比較することにより今回のウクライナ危機が日本に投げかけている問題の深さを考察 することにしたい。

(2022/04/11、修正)

(7)チェコスロヴァキアの歴史と「全スラヴ同盟」の思想

 パリで文献の収集を依頼していた堀田は、出版社の編集者から『存在の耐えられない軽さ』(1984年)を書くことになるミラン・クンデラの小説『冗談』の序文のゲラを読む機会を得た。そこで作家アラゴンはこの作品が1965年には完成していたのに67年末まで出版されなかったことにふれて、「プラハの春」で失脚したノボトニー前大統領を「専制君主」と呼び、さらに今度の事件で彼らは「ことばによる建築によって、かくも長くあの町にのしかかっていた暴君の銅像(注:スターリンの銅像)を再建してみせるであろう」と厳しい言葉をつらねていた。

こうしてアラゴンの序文を紹介した堀田はプラハに入って現地を観察する前に ヨーロッパに虐げられ続けてきた チェコスロヴァキアの歴史にも読者の注意を促している。

すなわち、「この文化の高い少数民族(チェコ人九〇〇万、スロヴアキア人四〇〇万)を、その地理的宿命のゆえに、ヨーロッパのありとあらゆる戦争にまき込みつづけ、オーストロ・ハンガリー帝国に含めさせて、第一次大戦後の一九一八年に、やっとのことで両民族の独立を認めた」が、「一九三八年のミュンヘン協定」で、「英仏両国はチェコスロヴァキアを裏切ってチェコをヒトラーにまかせ、スロヴァキアをヒトラーの保護領にすることを許した」ことを指摘した堀田は、さらにこう続けているのである。

「このヨーロッパの裏切りの、歴史的に見ての第一の事件は、古く一四一五年、プラハ大学の学長であり、宗教改革の先駆者であったヤン・フスが破門され、コンスタンツ公会議に臨むについて、帰国するための安全通行証を公会議から与えられながらも、公会議は約束を裏切って、帰国どころか、弁明もさせずに焚刑に処してしまった」(225-226)。

11月4日に13時30分パリ発のチェコスロヴァキア航空でプラハに着いた堀田は、迎えに来てくれた人から次のような詳しい情報を得る。

「八月二一日に、ソ連軍の戦車が多数入って来たとき、大きなプラカードに、『モスクワ・サーカス再来。ヴアツラフスキエ広場にて公演中。参観無料、ただし生命の保証はせず、また猛獣に餌をやるべからず』」などと書いた学生たちに続いて、ヒッピーたちが「広場で戦車をとめ、とりかこんで議論をし、ソ連兵のなかには泣出したものまでいました。兵士たちのなかにはどこにいるのかをさえ知らなかったのもいました。」

しかし、その後で迎えに来た人はこう続けた「私たちは、かつてヨーロッパの戦争という戦争の全部にまきこまれましたが、チェコスロヴァキアとしては、一度もロシアと戦争をしたことがないのです。戦ったのは、――戦わされたのは、いつでもオーストロ・ハンガリー帝国の一部として強制されたものです(……)とにかく、われわれはスラブ民族の一員なのです。ご存知のようにチェコ語は、スラブ語の一つですし、スロヴァキア語はマジャール語(ハンガリー語)の影響を強くうけています。ヨーロッパは、危機のときにはいつも裏切ります(……)また長い間にわたってドイツ語がプラハの支配階級のことばでした。/いつでも、歴史の上ででも、私たちはいつでも難難(かんなん)の時がくるごと、に、ロシアの方を眺めたものなのです。長きにわたるオーストロ・ハンガリー帝国の支配をうけていたときも、また第一次、第二次大戦のときのことも申すまでもないでしょう。ロシアはどんなときでも敵ではなかったのです。」

さらに ナチの占領時代に「カレル大学の学生が蜂起して抵抗運動を起し、多くが虐殺されたり収容所に送られたりしたことを悼んで設定された「国際学生行動日」に学生たちと行った討論で学生はフス戦争のことについてこう語った。「生きのびる、ということが、われわれチェコスロヴァキアの人民にとっては、歴史的にも至上命令なのです。一四一五年にヤン・フスが焚刑に処せられ、フス派の運動が挫折し、一六世紀に入って三〇年戦争、とくに「白山での戦い」に敗れてオーストロ・ハンガリー帝国に編入されて以後、ずっとそうなのです。一息つく暇もなかったのです。」

実際、フス派を異端として十字軍が派遣されたフス戦争(1419〜344)や、白山の戦い(1620)の後ではカトリックへの改宗か国を去るかの選択が求められ、弾圧は言語にも及んでドイツ語が行政や高等教育の場で強制されていたのである。

このようにトルコの支配下にあったブルガリアなど南スラヴの諸民族だけでなく、チェコスロヴァキアなどの西スラヴの諸民族もヨーロッパにおいては虐げられていたので、1848年の二月革命は少数民族としてオーストリア帝国で虐げられていたスラヴの諸民族に独立への機運をもたらし、六月には『チェコ民族史』の著者であるバラツキーが議長となり汎スラヴ会議がプラハで開かれていた(『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』、193頁。)

 一方、ロシアが敗北したものの善戦したクリミア戦争(一八五三~五六)は、同じような状況をオスマン帝国に支配されていたバルカン半島のスラヴ諸民族にもたらし、この戦争の後では、ブルガリアなどで独立運動が高まりを見せるようになった。

それゆえ、一八六七年の五月から六月にかけてモスクワではギリシャ正教の「キリルとメトディウスのスラヴ布教一千年を記念して国外からスラヴ諸民族の指導者たちを招待」して「スラヴ会議」が開かれ、そこにはオーストリア帝国内のスラヴ人や南スラヴ人など八一名が参加し、西欧列強に対抗するためにロシア帝国を盟主とするスラヴ連邦などの構想が話しあわれていた(『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、1~2頁)。

このような時期に西欧文明のみを「進歩」としアジアを「停滞」と規定する近代西欧の歴史観の問題点を鋭く批判して、「弱肉強食の思想」を正当化する西欧列強から滅ぼされないためには、「祖国戦争」で大国フランスを破って東欧のスラヴ諸国に独立の気概を教えたロシアを盟主とする「全スラヴ同盟」を結成して対抗すべきだと主張したダニレフスキーの歴史理論に注目が集まるようになった。そして、南スラヴの同胞をイスラム教国の圧政から解放する十字軍を派遣すべきと考えたドストエフスキーも露土戦争の頃にはかつては同じペトラシェフスキー・サークルの会員だったダニレフスキーの理論から強い影響を受けていた。

そして、「超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」とし、「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」とその義理の妹を殺した主人公のラスコーリニコフには、「罪の意識も罰の意識も」ついに現れなかったと断言したような小林秀雄の『罪と罰』解釈が流行った昭和初期には、日本でも「大東亜共栄圏」の思想が強調されたのである。

(6)「逆効果の“白書”」――ソ連型社会主義と「大国」の問題点の考察

タシケントでの会議を終えた後に、モスクワに一度戻った堀田はこの出兵占領問題に関する公式の意見を聞いておこうと考えて、作家同盟の幹部中でも最古参の詩人アレクセイ・スルコフ氏との会見を申し込んだ。

「革命のときの内戦とスペイン戦争と祖国防衛戦争」の三度の戦争を経験していたスルコフは、出兵がどうしても必要であり「ソヴエトの兵士たちは、反革命の攻撃に対して抵抗をしてはいけないという命令をうけていたので、戦車が焼かれて、そのなかで黙って焼け死んでいったものさえが出た……」、「ここに(胸に)苦痛をもって、兄弟国へ出兵をせざるをえなかったのである。そのことをどうか了解してもらいたい」などと一時間以上にわたる熱弁をふるった。「その人自身の誠心誠意のこもった」弁明がそのまま記されている。

注目したいのは、この出兵によってサルトル、ボーボアール、アラゴン、バートランド・ラッセル卿、グレアム・グリーンやヘンリー・ミラーなどの多くの貴重な友人を失い、「彼らとの友情を回復するためには、一〇年では足りないかもしれない。二〇年はかかるかもしれない。それは本当に耐えがたいことだ」と認めたスルコフが、「三千万近い犠牲を払わなければならなかった」第二次世界大戦に言及して「しかし第三次大戦はもっと耐えがたい」と続けて出兵を正当化していたことである。

しかも、別れ際に『チェコスロヴァキアでの事件について、事実、記録、報道記事、目撃者の評価』という200頁近い“白書” を渡されたが、それは「党でもなければ、権威のある調査機関でもなく、「ソヴェトのジャーナリストたち」によって編集されたものであり、堀田はそのことに無責任さを感じた。

実際、「この〝白書〟を勉強しながら」読み進めて、「チェコスロヴァキアの人々の苦心と、社会主義更新のための苦痛にみちた試行錯誤の方に」、「心をひかれるものがあった」と記した堀田は、「小国がもたざるをえなかった運命が、大国にも影響を及ぼさないということはありえないのである」とし、その典型的な例として「ヴェトナムがアメリカの運命に対してもった関係であろう」と書いている。

そして、「ソルジェニツィンの検閲廃止の要請は、ソヴェトの作家同盟の大会では議題にもならなかったのに、チェコスロヴァキアの作家同盟の大会で(!)要請の全文が読まれ、一致しての支持をえている」ことを指摘した堀田は、ソヴェトの作家との「言わない部分の(太字は原文では傍点)多い、異様な会話」では「他に方法もあったろうに、五〇万も六〇万も軍隊をもって行くいとは、ちょっとぼくにはむかしの宗教裁判、異端糾問を思わせるね」と語る。 

その言葉は自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』に記されている『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」のテーマと深く関わっており、それはなぜ堀田が『ゴヤ』や『路上の人』、さらに『ミシェル 城館の人』で異端審問や宗教戦争の問題を描くことになるかをも示唆しているだろう。

こうして友人たちのほとんどから「出兵肯定派も抗議派もチェコスロヴァキアへ行って本当のところはどうなのかを見て来てくれ」と言われてモスクワを出発した堀田は、まずヘルシンキで長年の友人インド人のチャンドラが事務局長を勤める「世界平和評議会」を訪れる。

ここでのチェコスロヴァキア事件についての激しい議論を聞きながら、「“平和”ということばが、どうやらとうの昔に、実態を失ってしまっている」という感想を抱いた堀田は、「“平和”の概念、価値、基準、場所としての有効性をぶちこわすのに、もっとも貢献したものは、やはりアメリカのヴェトナム戦争であったであろうと思う」と書き、帰国して「佐藤首相の、沖縄の問題、または核三原則をめぐる答弁などを読んだり聞いたりしていて、ここでも彼の言うことばなるものをまったく信用することが出来なくなった」と続けている(237)。   

検閲が全くないストックホルムではマイクと録音機をかついであらゆる階層の人々に質問をしてまわる若い女の子の性生活が赤裸々に描かれているものの「無邪気な政治映画」で反戦映画でもある「おかしな黄色」というスウェーデン映画を観た堀田は、この映画と比較してソヴェトの『戦争と平和』には「ある頽廃を見る」とも記している。

自分が宿泊した家のあるじの教師がソ連の指導者が皆60歳以上であると高年齢化していることを痛烈に批判し、奴らに「四六歳のドプチェクが考える社会主義がわかるわけはないよ。奴らは不安になったのさ。ジェネレーション・ギャップだよ」と語ったことを記した堀田は、スウェーデンで政権にある社会民主党の代議士の25人が40歳以下であることや、この国の高額所得者の税金が「目の玉がとび出るほどに高いものである」ことも指摘している。

ロンドンでは1994年にアパルトヘイト政策が廃止されることになる南アフリカからロンドンに亡命して解放運動に従事していた青年との会話を記したあとで堀田は、「霧の濃いドーバー海峡をわたる船の上でウイスキーをがぶがぶあおりながら」、「いったいなぜ今度の事でチェコスロヴァキアのことを勉強し、なぜプラハに行ってまで事の正体をつきとめようと自分は決心したのか?」と自問した堀田は、「二、社会主義と自由とは両立しうるものなのか、どうか?」「三、社会主義国が一種の警察国家のようなものに堕して行くことは不可避なのか?」という形で具体的に問い直してこう続けている。

「この第三の設問は、言うまでもなく、なにもとりわけて社会主義とばかりかかわるものではない。第二の設問の社会主義を資本主義ととりかえてもよく、第三の設問においてもとりかえは可能であろう。それは広い意味において近代社会そのものに全体的にかかわるのであって、近代におけるその源流は、たとえばドストエフスキーの『悪霊』中に出て来る人物、徹底的に理論的なシガーレフ(ママ)のセリフ、「無限の自由より発して、無限の専制主義に到達するのだ」ということば、またこれを直接にうけてのカミュのことば、「人は正義を欲するより発して、ついに警察を組織するに終るものだ」(『正義の人々』)というところに帰する、巨大な問題である。」

(2022/04/06、改訂と改題)

「群像社通信」130号、「図書紹介」より

愛媛新聞、下野新聞 2021年12月19日/ 信濃毎日新聞 2021年12月25日 ほか

生誕200年のドストエフスキーの「日本での受容を語る上で欠かせないのが堀田善衞である。終戦直前の東京大空襲と広島、長崎へ原爆投下という事態に出合って彼は、ドストエフスキーの現代的理解を深めていくからだ。」「原爆投下に関わった米国人パイロットの苦悩を通して、核戦争が起これば人類滅亡の可能性があることを示し、登場人物たちの「罪」と「罰」を描き出」した作品『審判』はじめ堀田作品を読み解き、「黙示録的時代と向き合った2人の作家の共鳴の軌跡を追う。」(共同通信配信)。

(5)「ロシアの“魂”」とペレストロイカの挫折

「会場のなかには何もないよ」という「名言」を記した堀田善衞は、その後で「検閲その他に見られるような自身の欠如は、いったいどうしたものなのであろうか。大国主義とは自己自身に対しての自信を欠いている大国を意味する」と記している。

ただ、そのような重苦しい雰囲気に覆われた大会においても、「夜の宴会というものを軽く見ることは出来ない、ということを強調したいと思う。宴会や晩餐において、ロシア人たちはおどろくほど率直になるのであって、ドストエフスキーが描いたロシアの〝魂″は、まだまだ人々の深部に生きていて、そこではたとえ外国人が同席していようとも、その外国人とよく知合っているとするならば、ソルジェニツィン書簡(注:検閲の中止を求めた)でもチェコスロヴアキアでもなんでもが真に裸になって飛出してくる。チェコスロヴァキア占領には、自分は反対だ、だが反対だと公表する勇気が自分にはない、だからおれは偽善者だ! という、真に痛切な叫びを私は何度聞いたことであろうか! 」

 私事になるが、私がロシアに留学したのは1975年のことであったが、このような「痛切な叫び」はすでに上映されていた映画やドストエフスキー劇をとおして聞くことができ、ロシアにおいても言論や報道の自由が徐々にではあれ拡がっているのを確認することができた。

それゆえ、ゴルバチョフが書記長として就任した1985年に学生の引率として再びモスクワを訪れた際には多くのドストエフスキー劇を観劇することができた。これらの劇についての簡単な劇評を書き、『罪と罰』を分析して「どんな『良心』も『知性』を欠いては、あるいはどんな『知性』も『良心』を欠いては、世界を理解し、改造することはできない」というカリャーキンの言葉を紹介した。

→モスクワの演劇――ドストエフスキー劇を中心に

翌年にゴルバチョフはペレストロイカ(再建)をスローガンとして進め、さらにグラースノスチ(情報公開)をも大胆に試みたことで1987年12月には中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)が成立し、西欧社会との共存も進むかに見えた。

しかし、チェルノブイリ原発事故の影響は予想以上に深く、ゴルバチョフ政権に対するクーデターが発覚し、それを鎮圧したエリツィン・ロシア大統領が1991年にロシア・ウクライナ・ベラルーシ三国のソ連からの離脱と独立国家共同体 (CIS) の樹立を宣言したことで、ソヴェトは一気に崩壊した。

劇《石棺》から映画《夢》へ

エリツィンが急激な市場経済を導入したために、一時はモスクワのスーパーの棚にはロシア産の商品がないような状態も生じて、「エリツィンは共産党政権ができなかったアメリカ型の資本主義の怖さを短期間で味わわせた」との小話も流行った。その一方で、第一次チェチェン紛争での強硬策の失敗や腐敗も見られたために、第二回目の大統領選挙では共産党に僅差まで追い上げられ、新興財閥からの巨額の選挙資金などでかろうじて乗り切ったものの、その後は新興財閥との癒着や民族主義的傾向も強まり、政権末期にはそれまでのNATOとの融和的な路線も修正されていた。

しかも、政治の腐敗や汚職などで裁判にかけられることを恐れたエリツィンは、刑事訴追から免責するという条件で、第二次チェチェン紛争を強引に収束させた元情報将校のプーチンを自分の後継者に指名していたのである。

こうして、堀田善衞は1968年の夜の宴会では、「おれは偽善者だ!」という痛切な叫びばかりでなく、「チェコスロヴァキアにおいてソ連兵一〇万の死者を出して得た権益を、なんでムザムザと西欧にわたしてたまるものか」という、「率直な主張とが、同じテーブルにおいて、実に率直に飛びかうのである」と書いていたが(208)、エリツィン政権の末期には1968年よりも好戦的な傾向がむしろ強まっていたように思える。

(2022/04/05、改題)

(4)「“人喰い鬼”の詩」と『プラウダ』の衝撃

9月19日に日本を出発して直行便の飛行機でモスクワに降り立った堀田は、出迎えに来ていた友人の作家が「ほんのさっき入手した」ばかりのイギリスの詩人W・H・オーデンの「一九六八年八月」という題の英語の詩を見せられた。

自分の訳では「原文にある、韻を踏んでの深く荘重な感じがまったく出ないのが遺憾である」としながらも堀田は、自分の訳では「原文にある、韻を踏んでの深く荘重な感じがまったく出ないのが遺憾である」としながらも堀田は、この詩を次のように訳している。

「人喰い鬼はまことに人喰い鬼らしく/人にとって不可能なことをやってのけるものだ/しかし獲物として一つだけ奴の手の届かぬものがある/ 人喰い鬼は言葉をものにすることは出来ないのだ(後略)」。

この詩を渡した後では黙り込んでしまった「友人の絶望」の深さを感じ、この友人が去った後で「ノートに写しとったW・H・オーデンの詩をくりかえして読み、また別に『プラウダ (注:「真実」という意味のロシア語) 』宣言の英訳パンフレット」を読みつづけた堀田は、「それは頭が二つに分裂するような経験というもの」であると思い、さらに「ベトナム戦争をいまだにつづけているアメリカへ行く多くの私たちの同僚たちもまた、そういう分裂的な経験をしたものであったかどうか」と考えたと記している。

注目したいのは、堀田がこの詩から画家ゴヤの『わが子を喰うサトウルヌス』の絵を想起したと書いていることである。「戦中戦後を通じて、次第に私を内面からゴヤに、あるいはスペインに導いて行ったものは、ドストエフスキーの小説であった」と書き、ロシアの「祖国戦争」をも視野に入れながらスペインの独立戦争や異端審問の問題を描いた長編評伝『ゴヤ』でこの絵についての詳しい考察を行うことになる堀田のこの連想が示唆することの意味は重い。

 オーデンの詩からの連想はとはいえ、アメリカやソ連などの「大国」との関係でベトナムやチェコスロバキアなどの「小国」の問題を考えようとしていた堀田は、近代社会や大国の深い闇をも直視しようとしていたのだと思える。

言論の自由、多党性の問題にふれて『プラウダ』宣言の英訳パンフレットには次のような教条的な文章が記されていたのである。

「わが(ソ連)党の指導者は、この文献(二千語宣言)が反革命活動のより二層の強化のための土台としての危険性をもつものであることについて、A・ドプチェクの注意をもとめた」が、「大まかな言葉による非難のほかには、いかなる明確な処置もとられなかった。」

これだけの説明では分かりにくいが、4月のチェコスロバキア・党中央委員会総会で採択された『行動綱領』では、次のような新しい方針が盛り込まれていた。

これだけの説明では分かりにくいが、4月のチェコスロバキア・党中央委員会総会で採択された『行動綱領』では、次のような新しい方針が盛り込まれていた。1,党への権限の一元的集中の是正 2,粛清犠牲者の名誉回復 3,連邦制導入を軸とした「スロヴァキア問題」の解決 4,企業責任の拡大や市場機能の導入などの経済改革 5,言論や芸術活動の自由化

このような方針に対する市民の側からの支持や期待を表明するために著されたのが『二千語宣言』だった。それゆえ堀田はこの文章を読むと「ソ連の党」が「何を『不安と危惧』として出兵、占領までしたかが、実に明らかに透けて見えて来るのである」と記している。

 ここで堀田は出迎えに来ていた友人の名を挙げていないが、その理由についてはアジア・アフリカ作家会議との関りについてふれた「一人の作家の結びつき」でこう記されているのである。

「中ソ抗争のはなはだしかったときに、思い余って私は自分が仲介をして中国の作家たちとソ連の作家たちの話合いの場をつくり、どうにか一致点を見出し得るようにはからった」が、「そのこと自体が双方の作家たちのうちのどちらか、あるいはだれかに、政治的に不利なマイナスを形成したのではなかったか、と今は考えている」。

それゆえ、そういう作家たちの「名をあげるどころか、頭文字をあげることも私にははばかられる」とした堀田はこの文章では公式的な立場を代表している人物以外の作家の名前は一切記していない。

この記述からは当時の中ソの厳しい検閲や報道統制に接した堀田の深い苦悩が感じられるが、それはタシケントで行われた大会にも続いており、「この会議の草分け、あるいは創始者の一人」だった彼が、しばらく考えてから「東京を出る際に、わが家の女房が、〝それでもあなたは行くのか?″と言った」と語ると、「白い顔、黒い顔、浅黒い顔、黄色い(?)顔の爆笑が起ったが、爆笑はすぐに消えて」、アフリカ中央部から来ていた一人も、「おれのところでは、女房が学校の先生をしているのだが、おれがカバンの用意をしていると、やっぱりうちの女房も、それでもあんたは行くのか、と言った。」と言われたと語ったことを記している。

その場には「私が話合うことを求めて来ていた、アルジェリアの文学者たちの姿は見えなかった。アルジェリア作家同盟は一致して、五カ国軍によるチェコスロヴアキア占領に反対声明を出し、参加を拒否して来たものであった。それは私の胸にもこたえた。」

実際、第三世界の状況と比較しつつソヴェトの「民族政策はたいへんに成功した部類」としながらも、「コーカサスのチェチェン人七〇万人とクリミアのタタール人三万人がナチスとの協力を理由に家郷を追われるといったこと」()を堀田は指摘しているが、ソ連の崩壊後にこの問題は顕在化することになるのである。

タシケントでのシンポジウムでは「文学におけるナショナリズムとインタナショナリズム」というテーマで多くの人々が演壇にのぼったが多くは紋切型で空虚なものであり、二日目に会場の入ったものかどうかと迷っていた時には、「会場のなかには何もないよ」という「名言」をある作家から告げられたことを記している。

さらに第4章の「奴らとわれわれ」や「逆効果の“白書”」や「言わない部分の多い会話」などの章でも、“プレス・グループ”が作成した「白書」を考察してソヴェト型社会主義の硬直化した官僚主義の問題点が鋭く指摘されている。

ただ、これらの記述だけならば堀田が参加を決断してはるばるタシケントまで行ったことは無駄であり、無意味だったようにも思える。しかし、その後で夜の宴会と作家同盟の幹部中でも最古参に近いスルコフ氏との公式の面会での会話をとおして、堀田はロシアの作家の本音や第二次世界大戦を経験した老詩人の危惧に迫っている。

それはペレストロイカや言論の自由や報道の自由の回復を目指したゴルバチョフ政権の試みの必然性を示唆しているだろう。それとともに、チェルノブイリ原発事故が大きな引き金となってソヴェトが崩壊したあとに権力を握ったエリツィン政権を受け継いだプーチン政権によってなぜウクライナ侵攻が行われたのかの謎を解明することにもつながると思える。


『わが子を喰うサトウルヌス』 、チェコスロヴァキア事件の写真(Britannica)

(2022年4月2日、改訂)