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自衛隊

百田直樹氏の小説『永遠の0(ゼロ)』関連の記事一覧

先ほど、〈「平和安全法制整備法案」と小説『永遠の0(ゼロ)』の構造〉という記事をアップしました。

それゆえ、ここでは百田直樹氏の小説『永遠の0(ゼロ)』および、安倍首相との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』に関連する記事の一覧を掲載します。

(下線部をクリックすると記事にリンクします)。

 

『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』における「憎悪表現」

百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「愛国」の手法

宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠のO(ゼロ)』(1)

宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠の0(ゼロ)』(2)

宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠の0(ゼロ)』(3)

「特定秘密保護法」と「オレオレ詐欺

「集団的自衛権」と「カミカゼ」

「集団的自衛権」と『永遠の0(ゼロ)』

「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(1)

『永遠の0(ゼロ)』と「尊皇攘夷思想」

「ぼく」とは誰か ――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(2)

沈黙する女性・慶子――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(3)

隠された「一億玉砕」の思想――――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(4)

小林秀雄と「一億玉砕」の思想

「戦争の批判」というたてまえ――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(5

「作品」に込められた「作者」の思想――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(6)

「作者」の強い悪意――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(7)

「議論」を拒否する小説の構造――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(8)

黒幕は誰か――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(9)

モデルとしてのアニメ映画《紅の豚》――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(10)

歪められた「司馬史観」――――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(11)

侮辱された主人公――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(12)

主人公の「思い」の実現へ――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(1)

「ワイマール憲法」から「日本の平和憲法」へ――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(2)

「終末時計」の時刻と「自衛隊」の役割――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(3)

 

「国会」と「憲法」軽視の安倍内閣と国会前の「命懸け」スピーチ

自民党の高村正彦副総裁は11日の衆院憲法審査会で「自衛の措置が何であるかを考え抜くのは憲法学者ではなく政治家だ」と主張していましたが、18日の党首討論で安倍首相は「感情論、感情的な価値判断で答え」、「具体的説明を拒否」しました。

これにたいして民主党の岡田代表は、「時の内閣に武力行使や憲法判断を白紙委任しているのと一緒だ。立憲国家ではない」と厳しく批判したことを新聞各紙は伝えています(引用は「東京新聞」朝刊より)。

実際、国会での論戦を拒否して「政権与党の命令に従え」と語っているかのような安倍内閣の姿勢は、安倍首相の祖父の岸信介氏も閣僚として参加していた日米開戦前の「東条内閣」にきわめて近いようにさえ感じられます。

*   *

18日の衆院予算委員会で安倍首相は野党からの質問に対しては具体的説明を拒否する一方で、昨年7月の閣議決定については「国際情勢に目をつぶり、従来の解釈に固執するのは政治家としての責任放棄だ」と持論を繰り返しました。

しかし、「国際情勢に目をつぶり」たがっているのは、安倍首相の方でしょう。国家の安全のためにきちんとした「外交」を行うべき政治家が、交渉をするのではなく、相手国の非を一方的に述べ立てて挑発することは「戦争」へと国家を誘導していることになります。

「報復の権利」を主張して「戦争の大義」がないにもかかわらず強引にイラク戦争をはじめたブッシュ政権の負の遺産として、「復讐」を声高に唱える現在の「イスラム国」が生まれたことはすでによく知られています。

日本の自衛隊が「イスラム国」などとの戦争に「後方支援」として参加することは、攻撃の対象が広がることで自国民の被害が軽減される欧米各国からは歓迎されると思われます。しかし、それは日本の「国民」や「国土」を戦争の惨禍に再びさらすことになる危険性を伴っているのです。安倍氏は武器の輸出など一時的な利益に目がくらんで、若い「国民」の生命を犠牲にしようとしているのです。

さらに、テロとの戦いを名目としてこれらの戦争に「後方支援」として参加することは、「国際政治」の分野で、日本が独自の平和外交の機会を投げ捨てることに等しいと思われます。

長期的な視野で考えるならば、被爆国の日本が「憲法九条」を保持することが、「国際平和」を積極的に打ち立てることにつながるでしょう。これらの論点から目を逸らし相手からの鋭い追求に答えずに、持論を繰り返すことは、もはや国会の論争ではなく、むしろ独りよがりの独裁者の演説に近い性質のものでしょう。

このような安倍氏の主張には、満州では棄民政策を行い、米国の原爆投下の「道義的な責任」を問わなかった岸・元首相と同じように、自分の政策の誤りで起きた原発事故の責任問題などから国民の視線を逸らそうとする意図さえも感じられるようです。

*   *

18日夜、東京・永田町の国会議事堂近くで繰り広げられた安全保障関連法案に反対する抗議行動に参加した作家で僧侶の瀬戸内寂聴氏(93)は、「このまま安倍晋三首相の思想で政治が続けば、戦争になる。それを防がなければならないし、私も最後の力を出して反対行動を起こしたい」との決意を語りました(「東京新聞」19日朝刊)。。

そして、太平洋戦争に際しては「この戦争は天皇陛下のため、日本の将来のため、東洋平和のため」と教えられていたが、「戦争に良い戦争は絶対にない。すべて人殺しです」と続けた瀬戸内氏は、次のように結んでいました。

「最近の日本の状況を見ていると、なんだか怖い戦争にどんどん近づいていくような気がいたします。せめて死ぬ前にここへきてそういう気持ちを訴えたいと思った。どうか、ここに集まった方は私と同じような気持ちだと思うが、その気持ちを他の人たちにも伝えて、特に若い人たちに伝えて、若い人の将来が幸せになるような方向に進んでほしいと思います。」

仏陀だけでなく、イエスも「殺すなかれ」と語っていたことを思い起こすならば、憲法学者や歴史学者だけでなく、すべての宗教者が瀬戸内氏の呼びかけに答えてほしいと願っています。

 

「終末時計」の時刻と「自衛隊」の役割――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(3)

『永遠の0(ゼロ)』の第2章で百田氏は長谷川に、「あの戦争が侵略戦争だったか、自衛のための戦争だったかは、わしたち兵士にとっては関係ない」と語らせていました。

しかし、政治家や高級官僚が決めた「国策」に対してその問題点をきちんと考えることをせずに、「わしたち兵士にとっては関係ない」として「考えること」を放棄し、「国策」に従順に従ったことが、満州や中国、韓国だけでなく、ガダルカナルや沖縄、さらに広島と長崎の悲劇を生んだのではないでしょうか。

若い頃に学徒動員で満州の戦車部隊に配属された作家の司馬遼太郎氏は、「日露戦争が終わると、日本人は戦争が強いんだという神秘的な思想が独り歩きした。小学校でも盛んに教育が行われた」とことを証言しています。そして、自分もそのような教育を受けた「その一人です」と語った司馬氏は、「迷信を教育の場で喧伝して回った。これが、国が滅んでしまったもと」であると分析していました(「防衛と日本史」『司馬遼太郎が語る日本』第5巻)。

こうして司馬氏は、「愛国心」を強調しつつ、「国家」のために「白蟻」のように勇敢に死ぬことを青少年に求める一方で、このような「国策」を批判した者を「非国民」として投獄した戦前の教育観を鋭く批判していたのです。

*   *

文芸評論家の小林秀雄は一九三九年に書いた「歴史について」と題する『ドストエフスキイの生活』の序で、「歴史は決して繰返しはしない。たゞどうにかして歴史から科学を作り上げようとする人間の一種の欲望が、歴史が繰返して呉れたらどんなに好都合だらうかと望むに過ぎぬ」と記して、科学としての歴史的方法を否定していました〔五・一七〕。

しかし、人が一回しか生きることができないことを強調したこの記述からは、一種の「美」は感じられますが、親から子へ子から孫へと伝えられ、伝承される「思想」についての認識が欠けていると思われます。

たとえば、絶大な権力を一手に握ったことで「東条幕府」と揶揄された東条英機内閣で商工大臣として満州政策にも関わっていた岸信介氏は、首相として復権した1957年5月には「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」とさえ国会で答弁して、「放射能の危険性」と「核兵器の非人道性」を世界に訴えることなく、むしろその「隠蔽」に力を貸していたのです。

そのような祖父の岸氏を敬愛する安倍首相は戦前の日本を高く評価しているばかりでなく、岸内閣の元で進められた「原子力政策」を福島第一原子力発電所事故の後でも継続しようとしており、安倍政権が続くと満州事変から太平洋戦争へと突入した戦前の日本と同じ悲劇が「繰り返される」危険性が高いと思われるのです。

過去を美しく描いて「過去の栄光」を取り戻そうとするだけでは、問題は何も解決できません。今回は「核兵器」の限定使用の危険性が高まっている現在の状況を踏まえて、「平和学」的な意味での「積極的平和主義」の視点から、日本の「自衛隊」が何をすることが世界平和にもっとも効果的かを考察することにします。

* 「『終末時計』残り3分に」 *

まず注目したいのは、アメリカの科学誌『原子力科学者会報』が、2015年01月22日に、核戦争など人類が生み出した技術によって世界が滅亡する時間を午前0時になぞらえ、残り時間を「0時まであと何分」という形で象徴的に示す「終末時計」が、再び残り3分になったと発表したことです。

このことを伝えた「The Huffington Post」紙は、コストや安全性、放射性廃棄物、核兵器への転用への懸念などをあげて「原子力政策は失敗している」ことを強調し、核廃棄物に関する議論などを積極的に行うよう求めています。

1947年に創設された終末時計は東西冷戦による核戦争の危機を評価の基準として、当初は「残り7分」に設定されていましたが、ソ連も原爆実験に成功した1949年からは「残り3分」に、米ソで競うように水爆実権が繰り返されるようになる1953年1960年までは最悪の「残り2分」となりました(下の表を参照)。

その後、核戦争が勃発する寸前にまで至った「キューバ問題」を乗り越えたことから「終末時計」は「残り12分」に戻ったものの、アメリカ・スリーマイル島原発事故やチェルノブイリ原発事故で状況が悪化した「終末時計」は、ようやくアメリカとソ連が戦略兵器削減条約に署名した1991年に「残り17分」にまで回復しました。

ソ連が崩壊したことで冷戦が解消されたことでしばらくはそこに留まったのですが、皮肉なことにソ連が崩壊してアメリカが唯一の超大国となったあとで時計の針が再び前に動き、「福島第一原発の事故後の2012年には終末まで5分に進められた」。そして、今回は悪化する地球環境問題などを踏まえて、1949年と同じ「残り3分」にまで悪化しているのです。

終末時計

 

*   *

『永遠の0(ゼロ)』で百田氏は「もちろん戦争は悪だ。最大の悪だろう」と語った長谷川に、「だが誰も戦争をなくせない」と続けさせていました。

たしかに、これまでの人類の歴史には戦争が絶えることはありませんでした。しかし、「終末時計」の時刻が示している事態は、「武力」では何も根本的な解決ができないことを何よりも雄弁に物語っているだけでなく、「核兵器」が用いられるような戦争がおきれば、《生きものの記録》の主人公が恐れたように地球自体が燃え上がってしまうということです。

一方、アメリカ軍に「平和」の問題を預けていた日本政府は冷戦という状況もあり、これまでは「核兵器の廃絶」に積極的には動いてきませんでした。このことが世界における「放射能」の危険性の認識が深まらなかった一因だと思われます。

また、今日の「日本経済新聞」(デジタル版)は、「日本の火山、活動期入りか 震災後に各地で活発との見出しで、「国内の火山活動が活発さを増している」ことを報じています。

それゆえ私は、「自衛隊」が世界で尊敬される組織として存在するためには、「防衛力」は、自国を「自衛することができるだけの力」にとどめて、巨大な自然災害から「国民」を守るだけでなく、広島や長崎における「放射能」被害の大きさ学んでそれを世界に伝える「部隊」を設立して、世界各国の軍関係者への広報活動を行うべきだと考えています。

*   *

むろん、このようなことは沖縄の住民など「国民の声」を聞く耳を持たないばかりでなく、地球を創造し日本列島を地殻変動で形成するなど、人間の科学力では予知し得ないような巨大なエネルギーを有している「自然への畏怖の念」も感じられない安倍政権では一笑にふされるだけでしょう。

しかし、現在の地球が置かれている状況を直視するならば、「核の時代」では戦争が地球を滅ぼすという「平凡な事実」をきちんと認識して、核兵器の廃絶と脱原発への一歩を「国民」が勇気を持って踏み出す時期に来ていると思います。

 

「十字軍」の歴史とBBCの報道姿勢

 

30日の夜9時現在もまだ、人質になっている後藤健二さんとヨルダン人のモアズ・カサスベ中尉の解放は行われていません。なんとか、交渉が成立して無事に戻られる事を願っています。

このような中、25日のNHK・日曜討論での発言に続いて安倍首相は、「読売新聞」(デジタル版)によれば、29日の衆院予算委員会でも民主党議員の質問に対して「領域国の受け入れ同意があれば、自衛隊の持てる能力を生かし、救出に対して対応できるようにすることは国の責任だ」と答弁していました。

「人質の生命」が問題となっているこの時期に、「武力」があればこのような事態を解決できるとして自衛隊の積極的な海外での活用を促すことは、「人質」の救出に真剣に取り組んでいる交渉にも影響を与える危険な発言だと思えます。

*   *

このような発言は「十字軍」の歴史についてのきちんとした認識の欠如とも結びついていると思えます。かつてイギリスに研究で滞在していた際に「リチャード獅子心王はならず者だった」というBBCの放送を見て強い感銘を受けたことがありました。

イスラム教が支配地域の宗教については寛容であったことは知られていますが、一九九四年にイギリスで見たBBCの番組は、これまで十字軍の英雄とされてきた「リチャード獅子心王がならず者であった」ことを明らかにしていたのです。さらに、この番組は、「正義の戦争」とされてきた十字軍遠征が、実際には利権を確保するための嘘と略奪と欺瞞に満ちた戦争であり、それがジハードと呼ばれるイスラム教徒の抵抗を生み出したことをも具体的に説明していました。

かつて自国の軍隊が行った非道な行為を冷静に客観的に検証しようとするBBCのこの番組を見た際には、日本のNHKとの報道姿勢や「公共」意識の違いに驚かされました。

それゆえ、このことにふれた2004年の記事で私は、「十字軍遠征に加わらなかった日本は、イスラム教徒とキリスト教徒との仲介者たる地位を保持するためにも、キリスト教原理主義を基盤とするブッシュ政権によって要請された自衛隊の派遣を取りやめて、一刻も早くにイラクからの撤退を決断するべきであろう」と結んでいました。

*   *

しかし、安倍政権の下で政権の言うなりになっている籾井会長や「憎悪表現」を多用している作家の百田氏などが重用されることにより、現在の日本の「公共放送」NHKからは、世界的な視野を持つ「歴史認識」が急速に失われているように感じられます。

さらに問題は、兵器や原発の輸出にも舵を切った安倍政権がこのようなNHKを利用することで戦争への気概を国民に植え付けようとし、「自衛隊」の海外派遣にその頃よりもはるかに前のめりになっていることです。

「五族協和」や「王道楽土」などの「美しいスローガン」のもとに建国された「満州国」に渡った「開拓民」が敗戦時に被った被害についてはすでに触れましたが、大企業や目先の利益を重視したこのような政策では、海外に派兵される「自衛隊員」ばかりでなく、日本の国民も再び未曾有の悲劇に巻き込まれる危険性が高いと思われます。

それゆえ、「核の時代」における「新しい自衛隊」のあり方を考察することで、「『永遠の0(ゼロ)』を超えて」のシリーズを終えるようにしたいと思います。

人質殺害の報に接して

残念ながら、人質となっていた湯川さんが殺害されたことが明らかになりました。

むろんこのような残虐非道な行為は許されるべきではなく、その罪は厳しく問われねばならないでしょう。

ただ、問題だと思えるのは25日のNHK・日曜討論に出演した安倍首相が、このことを踏まえて「この(テロ殺害事件)ように海外で邦人が危害に遭ったとき、自衛隊が救出できるための法整備をしっかりする」との発言をしたことです(「日刊ゲンダイ」デジタル版)。

「武力」があればこのような事態は防げたとするこのような発言には、これまでの戦争の歴史のきちんとした認識の欠如から来る大きな落とし穴があると思われます。

それゆえ、前回アップした「戦争と文学――自己と他者の認識に向けて」の記事の前に、現在の状況と以前の戦争との関わりについての考察を追加した増補版を掲載します。

リンク→戦争と文学 ――自己と他者の認識に向けて

 

追記

記事をアップした後で「東京新聞」の今日の夕刊・第一面に下記の記事が載っていましたので、その一部を転載します。

宗教という単語から古いと感じる人も多いようですが、「核の時代」においては、「殺すなかれ」という思想はきわめて現代的な考えだと思われるからです。

ジャーナリストの後藤さんは戦場における子供の問題など広い視点から活動されており、「安倍政権」が人質の救出に動かない中、何とか救出を試みられていた方なので、解放されることを強く望みます。

*   *

「後藤さん救って、空爆もやめて 命と平和 宗教超え祈り」

イスラム教スンニ派の過激派組織「イスラム国」とみられるグループに拘束されたフリージャーナリスト後藤健二さん(47)の解放を求め、キリスト教や仏教などの信者が二十七日、内閣官房に要請書を提出し、首相官邸周辺で祈念集会を開いた。イスラム教徒らも賛同し後藤さんの無事を祈る中、参加者は「宗教は違っても、平和への思いと命が大事なことは同じ」と訴えた。

 

 

「集団的自衛権」と「カミカゼ」

前回、指摘した「特定秘密保護法」と同じように「集団的自衛権」もきわめて重大な問題を含んでいます。私は防衛の専門家でもないのですが、「カミカゼ」という視点から、日本本土が攻撃される危険性を指摘しておきたいと思います。

*  *

私が「カミカゼ」という言葉を衝撃を持って受け止めたのは、研究のためにイギリスに1年間、滞在していたときに起きた「チェチェン紛争」の際でした。

その際にも日本からはほとんど取材陣は派遣されていなかったようですが、イギリスの放送局は、現在は「テロリスト」と呼ばれている「チェチェンの独立派」への密着取材を行っており、指導者の一人から「我々は絶対に降伏しない。いざとなればモスクワへの『カミカゼ』攻撃を行ってでも、独立を達成する」と語っていたのです。

チェチェンや中東での戦争については日本ではあまり報道されないこともあり、日本とは関係の薄い遠い国の出来事のように捉えられているようです。

しかし、2014年7月1日に安倍政権は憲法解釈を変更し、以下の場合には集団的自衛権を行使できるという閣議決定をしました。

「日本に対する武力攻撃、又は日本と密接な関係にある国に対して武力攻撃がなされ、かつ、それによって「日本国民」に明白な危険」がある場合は「必要最小限度の実力行使に留まる」集団的自衛権行使ができる。

文面だけを読むと「自衛隊」とはあまり関係がないようにも読めますが、かつてブッシュ大統領が「報復の権利」を主張して行ったイラクやアフガンの情勢は、アメリカ軍だけでは制圧できないほどに混沌としてきています。

世界有数の軍事力を保持するようになった「自衛隊」への支援要請が早晩来るのは確実と思われ、その際に安倍政権はその要請を断ることができないでしょう。

ここで注目したいのは、アフガンへの攻撃にブッシュ政権が踏み切ろうとしていた際にアメリカの新聞が、アフガンの歴史にも言及しながら、その危険性を指摘したことです。拙著よりその箇所を引用しておきます。

*   *

ニューヨーク・タイムズ紙の記者フランク・リッチもアメリカでの同時多発テロへの「報復」をうたった「今回の戦争には、反対しない」としながらも、「(アメリカ)国民の多数は、米国が冷戦中にアフガニスタンでイスラム過激派をソ連と戦わせていたことも、そしてその後にソ連が退却すると、アフガニスタンを見捨てたことも、理解していない」と指摘している*29。

つまり、アメリカ政府は「テロ」の「野蛮さ」を強調する一方で、なぜテロリストが生まれたのかを国民に説明しないまま「新しい戦争」へと突き進んだのである。

リンク→『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、2002年)

*   *

トルコを含むイスラム圏で日本人が高い尊敬を受けている理由の一つは、日本が勝利の可能性が少ないにもかかわらず、日露戦争や太平洋戦争でロシアやアメリカなどの「大国」と戦っていたからです。

そしてことに、イスラムの過激派が深い尊敬の念を抱いているのは、戦いが圧倒的に不利になると日本軍が「カミカゼ」攻撃を行って戦争を続ける意思を示してていたからなのです。

その日本の「自衛隊」がアメリカ軍の「護衛」という形であっても参戦した場合、彼らの激しい憎しみが、自分たちがモデルとしていた「カミカゼ」を行っていた日本にも向けられる可能性は高いと思われます。

つまり、十分な審議もなく閣議で決定された「集団的自衛権」は、「日本国民」の生命を守るどころか、「明白な危険」を生み出す可能性がある危険な法律なのです。

リンク→「集団的自衛権」と『永遠の0(ゼロ)』

今回の総選挙では「アベノミクス」が争点だと明言したことで、閣議決定された「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」の問題には、言及されていません。

それゆえ、総選挙後もこれらの問題に対する「国民」の審判を受けたと安倍政権は主張することはできないでしょう。

しかし、そのことも「争点」になっていることも忘れてはならないでしょう。「特定秘密保護法」と同じように、安倍政権はこれらの法律の危険性が国民に知られる前に総選挙を行おうとしている可能性さえあるからです。