高橋誠一郎 公式ホームページ

『白痴』

『黒澤明で「白痴」を読み解く』の紹介(ブルガリア・ドストエフスキー協会のサイトより)

ブルガリア・ドストエフスキー協会のサイトに日本語とロシア語で『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011年)の自著紹介が書影とともに掲載されました。→https://bod.bg/en/authors-books.html。ここでは日本語版を転載します。

 『黒澤明で「白痴」を読み解く』大ブルガリア、ソフィア大学

(ソフィア大学、出典はブルガリア語版「ウィキペディア」)

 『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011)

 はじめに――混迷の世界と「本当に美しい人」の探求

目次

序章 「謎」の主人公――方法としての文学と映

第一章 「ナポレオン風顎ひげ」の若者――ムィシキンとガヴリーラ

第二章 ロシアの「椿姫」――ナスターシヤとトーツキー

第三章  ロシアの「イアーゴー」――レーベジェフとロゴージン

第四章 「貧しき騎士」の謎――アグラーヤとラドームスキー

第五章  「死刑を宣告された者」――イッポリートとスペシネフ

第六章 ロシアの「キリスト公爵」―― 悲劇としての『白痴』

終章 ムィシキンの理念の継承――黒澤映画における『白痴』のテーマ

あとがき

索引

附録1 『白痴』関連年表

附録2 黒澤明関連年表

*   *   *

本書で私は黒澤明監督の視点と比較文学や比較文明学の方法によって、長編小説『白痴』を詳しく分析することによって、現代におけるこの長編小説の真の意義を明らかにしようと試みた。

ドストエフスキーは長編小説『白痴』の構想について姪のソフィアに宛てた一八六八年一月一日の手紙で、次のように記していた。「この長編の主要な意図は本当に美しい人間を描くことです。これ以上に困難なことはこの世にありません。…中略…。この世にただひとり無条件に美しい人物がおります。――それはキリストです。」

長編小説『白痴』でムィシキン公爵はギロチンによる死刑を批判しながら、「『殺すなかれ』と教えられているのに、人間が人を殺したからといって、その人間を殺すべきでしょうか? いいえ、殺すべきではありません。ぼくがあれを見たのはもう一月も前なのに、いまでも目の前のことのように思い起こされるのです。五回ほど夢にもでてきましたよ」と語っていた。

そして、ドストエフスキーはプーシキンの『貧しき騎士』や『けちな騎士』、『エヴゲーニイ・オネーギン』や、グリボエードフの『知恵の悲しみ』など多くのロシア文学や、ユゴーの『死刑囚の最後の日』や『レ・ミゼラブル』、デュマ・フィスの『椿姫』など西欧文学にも注意を払いながら、この長編小説『白痴』を書いていた。

一方、第二次世界大戦の終了から数年後の1951年にドストエフスキーの長編小説『白痴』を元にした同名の映画を公開した黒澤明監督は、「『白痴』演出前記」において、「僕は僕なりに、この主人公と作中人物を永い間愛して来た」と書いた黒澤は、映画《白痴》を「原作の深さ」には及ばないだろうとしながらも、「原作者に対する尊敬と映画に対する愛情を傾けて、せい一ぱい努力するつもりだ」と書いた。

実際、多くの文学作品を成功裏に映画化している黒澤は、場所と時代、登場人物を変更しながらも、二つの家族の関係と女主人公の苦悩を主人公の視線をとおして正確に描き出している。

ことに、真夜中の怖ろしい悲鳴と死刑になる場面を夢で見たという主人公の説明が描かれている冒頭のシーンと、映画の最後に綾子(アデライーダ)が主人公の世界観を讃えつつ、「私、なんて馬鹿だったんだろう……白痴だったの、わたしだわ!」と語っている場面は、この長編小説に対する監督の深い理解を物語っている。

残念ながら、この映画は会社の要求によって半分に短縮されたが、軽部(レーベジェフ)がシェークスピアの戯曲『オセロ』のイアーゴーと同じように、主人公たちを破滅へと導く狡猾な役割を果たしていることを暴露している映画の脚本は完全な形で残っている。

脚本においてもレーベジェフの娘ヴェーラやイッポリートの形象は欠如しているが、クリスマスの賛美歌「清しこの夜」が響いている映画《醜聞》(1950)では清純な心を持つ、卑劣な弁護士の娘が、映画《生きる》(1952)には病によって「死を宣告」されてイッポリートと同じように絶望した主人公が描かれている。こうしてこれらの映画は長編小説『白痴』の三部作とも呼べるような深い関わりを持っている。

さらに、長編小説『白痴』ではシュネイデル教授をはじめ、有名な外科医ピロゴフ、そしてクリミア戦争の際に医師として活躍した「爺さん将軍」などがしばしば言及されており、ガヴリーラもムィシキンに対して「いったいあなたは医者だとでもいうのですか?」と尋ねていた。

実際、ムィシキンはロゴージンにナスターシヤについて「あの人は体も心もひどく病んでいる。とりわけ頭がね。そしてぼくに言わせれば、十分な介護を必要としている」と説明していたのである。

一方、黒澤映画《酔いどれ天使》(1948)や《静かなる決闘》(1949)、《赤ひげ》(1965)では医師が非常に重要な役割を演じており、ことに映画《赤ひげ》ではドストエフスキーの長編小説『虐げられた人々』のネリーをモデルにした少女の患者と医者たちとの感動的な関係が描かれている。

ムィシキンのテーマの深まりからは、おそらく黒澤が、医師(人)が全力を尽くして患者の生命(肉体のみならず精神)を救うというテーマを、ドストエフスキーの主要なテーマと結びつけて考えていたのだと思える。

さらに、イッポリートが「公爵、あれは本当のことですか、あなたがあるとき、世界を救うのは『美』だと言ったというのは?」と質問していたことも考慮するならば、そのことは病んだ世界についてもいえるだろう。

こうして、本書では他の黒澤映画も検討しながら大地主義の意義も考察することによって、現代の世界における長編小説『白痴』の重要性を示した。

 

 

『若き日の詩人たちの肖像』と『夜明け前』――平田篤胤の思想をめぐって 

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

『若き日の詩人たちの肖像』では「『カラマーゾフの兄弟』中の、スペインの町に再臨したイエス・キリストが何故に宗教裁判、異端審問にかけられねばならなかったかという難問について」喋り続けるアリョーシャと呼ばれる若者が描かれていますが、「ガダルカナルでは陸軍は殲滅的な打撃をうけているらしい」ことが伝わってくるようになると、その彼は「突然正座して膝に手を置き、眼と額をぎらぎらと輝かして」次のように語ります〔下・305~306〕。

「だからキリストがだな、キリストが天皇陛下なんだ。つまり天皇陛下がキリストをも含んでいるんだ。キリストの全論理の、その上に、おわしましますんだ」。

そこではどうしてそのような結論になるのかは明かされていませんが、「いずれその日本のために戦って死なねばならぬとなれば、国学というものにはその日本の絶対によい所以(ゆえん)が書いてあるのであろう」と思い、「平田篤胤全集にとりかかった」主人公は、アリョーシャの言葉の論理的な背景を知ることになります〔下・320~323〕。

すなわち、そこでは「義の為にして窘難(きんなん)を被る者は、これ即ち真福にて、その已に天国を得て処死せざるとあるなり。これ神道の奥妙、豈人意を以て測度すべけむや」と書かれていたのですが、それは「幸福(さいわい)なるかな、義のために責められたる者、天国はその人のものなり」という「マタイ伝第五章にあるイエス・キリストの山上の垂訓」のほとんど引き写しだったからです。

それでも、「平田篤胤は、本当に前人未踏の地で苦闘をしているのである。天地創造の問題を神学的に処理するために彼は苦しみぬいているのである」と評価しようとした主人公は、アリョーシャの論理をこう説明しています。

「キリスト教や西洋天文学までを援用して儒仏を排するというところから発し、アダムもエヴァもわれらの古伝の訛りだということになれば、つづけて世界も宇宙も、つまりは八紘はわが国の天之御中主神の創造になるものであり、従って八紘はわが国の一宇であって、その天之御中主神が天皇陛下の御先祖様であるということになると、それはまったくアリョーシャの言ったように、天皇はキリストを含んで、という次第に、たしかになる。」

しかし、その後で主人公は「この洋学応用の復古神道――新渡来の洋学を応用して復古というのもまことに妙なはなしであったが――は、儒仏を排し、幕末にいたっては国粋攘夷思想ということになり、祭政一致、廃仏毀釈ということになり、あろうことか、恩になったキリスト教排撃の最前衛となる。それは溜息の出るようなものである。」と続けていました。

一方、文芸評論家の小林秀雄は1942年7月に行われた座談会「近代の超克」において、「近代人が近代に克つのは近代によってである」として欧米との戦争を評価していましたが(河上徹太郎、竹内好他『近代の超克』富山房百科文庫、昭和54年)、長編小説の主人公はこの座談会を想起しながら、「とにかく近代の超克もなにもあったものではなかった。近代を超克するというのなら、まず平田篤胤あたりから超克してかからなければならぬだろうと思う」と書いています。

しかも、登場人物に「平田篤胤がヤソ教から何を採って何をとらなかったかが問題なんだ、ナ」と語らせた堀田氏は、「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」と続けさせています。

この言葉は、「殺すなかれ」という理念を説いていたムィシキンを主人公とした長編小説『白痴』の結末について、「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と1934年に書いた「『白痴』についてⅠ」で解釈していた小林秀雄のドストエフスキー観の厳しい批判ともなっているでしょう。

そして、この長編小説で堀田善衛氏は主人公の心境を次のように描いているのです。「平田篤胤の研究は、男を本当にがっかりさせてしまった。何をするのもいやになってしまった。日本精神だとか、国学だとか、あるいはまた皇道ということばが印刷物に矢鱈に沢山出てくる。」(下、327)。

興味深いのは、このような厳しい批判が長編小説『竜馬がゆく』において、幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となり、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と記した作家・司馬遼太郎の指摘と重なることです。

その司馬は『この国のかたち』の第五巻で「篤胤は、国学を一挙に宗教に傾斜させた。神道に多量の言語をあたえたのである」と指摘し、「創造の機能には、産霊(むすび)という用語をつかい、キリスト教に似た天地創造の世界を展開した」と説明した後で、平田篤胤の言説が庄屋など「富める苗字(みょうじ)帯刀層にあたえた」影響を次のように記していました。

「平田国学によって幕藩体制のなかではじめて日本国の天地を見出させた、ということだった。奈良朝の大陸文化の受容以来、篤胤によって別国が湧出したのである」(太字は引用者)。

「昭和初期」を「別国」あるいは、「異胎」の時代と激しい言葉で呼んでいた司馬氏がここでも「別国」という独特の用語を用いていることは、昭和の「別国」と平田篤胤によってもたらされた「別国」との連続性を示唆していると思われます。

『夜明け前』1『夜明け前』2『夜明け前』3『夜明け前』4

(岩波文庫版『夜明け前』、図版は紀伊國屋書店より)

このような昭和初期の重苦しい時代に島崎藤村が描いた長編小説が、「黒船」の到来に危機感を煽られて古代を理想視した平田派の学問を学び、草莽の一人として活躍しながら明治維新の達成後には新政府に裏切られて絶望し、ついに発狂して亡くなった自分の父・島崎正樹(1831~86)を主人公のモデルとした『夜明け前』でした。

この長編小説は芥川龍之介が日本の検閲を厳しく批判した小説『河童』を書いたあとで、「ぼんやりした不安」を理由に自殺した2年後の昭和4年から連載が始まり昭和10年に完結しましたが、その年にはそれまで国家公認の憲法学説であった東大教授・美濃部達吉の天皇機関説が「国体に反する」との理由で右翼や軍部の攻撃を受けて、著者は公職を追われ、著書は発禁となるという事件が起きていました。

それゆえ、研究者の相馬正一は「田中ファシズム内閣が、〈国家〉の名において個人の言論・思想を封殺する狂気を実感しながら」島崎藤村が、「『夜明け前』の執筆と取り組んでいた」ことの意義を強調しています(『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』人文書館、2006年)。

実際、天皇機関説事件で「立憲主義」が否定された日本では、明治5年3月に廃止されて内務省神社局となっていた神祇省が皇紀2600年を祝った昭和15年に内務省の「外局神祇院に昇格」して、「国家神道は名実ともに絶頂期」を迎えました。

皇紀2600年

(1940年の紀元2600年記念式典会場、出典は「ウィキペディア」)

しかし、それは神武東征の神話を信じた日本が、「皇軍無敵」を唱えて無謀な太平洋戦争へと突入することを意味していました。

戦況が苦しくなると神風を信じて特攻隊をも編制してまでも戦争を続けた日本は、広島・長崎に原爆が落とされたあとでようやくポツダム宣言を受け入れたのです。

*   *

注目したいのは、司馬遼太郎や宮崎駿監督と行った鼎談で、堀田善衛が「『この国』という言葉遣いは私は島崎藤村から学んだのですけど、藤村に一度だけ会ったことがある。あの人は、戦争をしている日本のことを『この国は、この国は』と言うんだ」と語っていたことです(『時代の風音』朝日文庫、1997年、150頁)。

実際、『夜明け前』には「新たな外来の勢力、五か国も束になってやって来たヨーロッパの前に、はたしてこの国を解放したものかどうかのやかましい問題は、その時になってまだ日本国じゅうの頭痛の種になっていた」などという形で「この国」という表現が度々出てきます。

このように見てくるとき、大学受験のために上京した翌日に2.26事件に遭遇した主人公が「赤紙」によって召集されるまでの「昭和初期」の重苦しい日々を、若き詩人たちとの交友をとおして克明に描き出した堀田善衛の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』(1968年)は、馬篭宿の庄屋であり、「篤胤没後の門人」でもあった青山半蔵を主人公とした島崎藤村の『夜明け前』を強く意識して書かれていたといっても過言ではないでしょう。

堀田善衛、時代の風音、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

『若き日の詩人たちの肖像』と小林秀雄のドストエフスキー観(4)ーー『白痴』をめぐって

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

1,若き主人公と『白夜』冒頭の文章

第一章の題辞には「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた」という文章で始まる『白夜』の冒頭の言葉に続いて、祈りにも似た次のような言葉も引用されていた。

「空は一面星に飾られ非常に輝かしかつたので、それを見ると、こんな空の下に種々の不機嫌な、片意地な人間が果して生存し得られるものだらうかと、思はず自問せざるをえなかつたほどである。これもしかし、やはり若々しい質問である。親愛なる読者よ、甚だ若々しいものだが、読者の魂へ、神がより一層しばしばこれを御送り下さるやうに……。」(米川正夫訳)

しかし、泥沼の日中戦争に続いて英米とも開戦に踏み切った日本は、初戦の真珠湾攻撃で華々しい戦果を挙げたが、「特殊潜航艇による特別攻撃」に参加した二十歳前後の若者全員が、後の「神風特攻隊」を予告するかのように戻らなかったという事態も起きていたことを知った時に、若者は「腹にこたえる鈍痛を感じ」る(下巻、92頁)。

そして、長編小説の終わり近くで召集令状が来たことを知らせる実家からの電報が届き、「警察で殺されるよりも、軍隊の方がまだまし」と感じた男は、「新橋サロンの詩人たちにも、なにも言わないことにした」とし、『白夜』の文章にについてこう記すことになる。

「郵便局からの帰りに空を仰いでみると、冬近い空にはお星様ががらがらに輝いていたが、そういう星空を見るといつも思い出す、二十七歳のときのドストエフスキーの文章のことも、別段に感動を誘うということもなかった。なにもかもが、むしろひどく事務的なことに思われる。要するにおれは、あの夢のなかへ、二羽の鶴と牡丹の花と母の舞と銀襖の夢のなかへ死んで行けばいいというわけだ、と思う。」

2,「謎」のような言葉――主人公の『白痴』観

注目したいのは、12月9日の夕方に若者の家を訪れて、真珠湾攻撃の成果を「どうだ、やったろう」と誇った特高刑事をそのまま返すのが業腹で彼らを尾行していた若者は、「成宗の先生」(堀辰雄)と出会って立ち話をしていた際に、長編小説『白痴』に言及していることである。

すなわち、堀田善衛は特高警察の目つきから「殺意に燃えたラゴージンの眼」を思い出し「ほとんどうわの空」で、「ランボオとドストエフスキーは同じですね。ランボオは出て行き、ドストエフスキーは入って来る。同じですね」(下巻、83頁)と主人公の若者に「謎」のような言葉を語らせていた。

その後で堀田は、「鈍痛」を抱えながら閉じこもって『白痴』を読んだ若者にこの言葉の意味を説明させているのである(文庫本・下巻93頁~101頁)。ここでは長編小説『白痴』に対する作者の強い愛着が示されているので、少し長くなるが引用しておきたい。

「学校へも行かず、外出もせず、課された鈍痛は我慢をすることにし、若者はとじこもって本を読みつづけた。ドストエフスキーの『白痴』は、何度読んでも、大きな渦巻きのなかへ頭から巻き込むようにして若者を巻き込み、ときには、その大渦巻きの、回転する水の壁が見えるように思い、エドガー・ポオの大渦巻き(メイルストローム)さえが垣間見えるかと思うことさえあった。とりわけて、その冒頭が若者の思考や感情の全体を占めていた。

――なるほど! 絶対の不可能を可能にするには、こうすればいいのか!

と、その冒頭の三頁ほどを、毎日毎日読みかえした。古本屋で買った英訳と、白柳君に借りた仏訳の双方があったので、米川正夫訳と三冊の本を対照しながら読み返してみていた。」

この後で長編小説『白痴』の冒頭の文章を書き写した著者は、「あのロシアの平べったい平原の、ところどころに森や林や広大な水たまりなどのあるところを、汽車がひた走りに走って行く、その走り方のリズムのようなものが、この文章に乗って来ていることが、じかに肌に感じられる」と記している。

そして、二人の旅客に注意を向けてロゴージンを描いた文章を引用した後で「向ひの席の相客は、思ひもかけなかつたらしい湿つぽい露西亜の十一月の夜のきびしさを、顫へる背に押しこたへねばならなかつたのである」とムィシキンを描写していることに注意を促してこう続けている。

「天使のような人物を、ロシアという現実のなかへ、人間の劇のなかへつれ込むのに、汽車という、当時としての新奇なものに乗せた、あるいは乗せなければなかった、そこに、ある痛切な、人間の悲惨と滑稽がすでに読みとられるのである」(下巻、96頁)。

3,「シベリヤから還つたムィシキン」という小林秀雄の解釈

一方、小林秀雄は二・二六事件が起きる2年前の1934年に書かれた「『罪と罰』についてⅠ」で、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」とし、エピローグは「半分は読者の為に書かれた」と解釈していた(『小林秀雄全集』第六巻、四五頁、五三頁)。

そして、エピローグにおけるラスコーリニコフの「復活」を否定した小林は、「ドストエフスキイは遂にラスコオリニコフ的憂愁を逃れ得ただらうか」と問いかけ、「来るべき『白痴』はこの憂愁の一段と兇暴な純化であつた。ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」というテキストを修正するような大胆な解釈を示して『白痴』論の方向性を示していた(『小林秀雄全集』第六巻、六三頁)。

続く「『白痴』についてⅠ」で小林は、貴族のトーツキーの妾となっていた美女のナスターシヤを、「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定していたが、それは厳しい格差社会であった帝政ロシアの現実を無視した解釈だろう。両親が火災で亡くなって孤児となったナスターシヤは、貴族のトーツキーに養育されたものの少女趣味のあった彼によって無理矢理に妾にさせられた被害者だったのである(『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』、31頁)。

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しかし、「ムイシュキンの正体といふものは読むに従つていよいよ無気味に思はれて来る」と続けた小林は、『白痴』の結末の異常性を強調して「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と記していた(拙著、47頁)。

4,「外界」から「入って」来るムィシキン

一方、『若き日の詩人たちの肖像』で堀田は、ムィシキンのような「天使」はやはり「外国、すなわち外界から汽車にでも乗せて入って来ざるをえないのだ」(下線の箇所は原文では傍点)と記していた。

この文章は『白痴』を映画化した黒澤明監督と同じように、作家・堀田善衛がこの長編小説を正確に読み解いていることを物語っているだろう。なぜならば、スイスでの治療をほぼ終えたムィシキン公爵が混沌としている祖国に帰国する決意をしたのは、母方の親戚の莫大な遺産を相続したとの知らせに接したためだったからである。

そして、ドストエフスキーは小説の冒頭で思いがけず莫大な遺産を相続したムィシキンとロゴージンの共通点を描くとともに、その財産をロシアの困窮した人々の救済のために用いようとした主人公と、その大金で愛する女性を所有しようとしたロゴージンとの友情と対立をとおして、彼らの悲劇にいたるロシア社会の問題を浮き彫りにしていた。

『若き日の詩人たちの肖像』については、2007年に上梓した拙著 『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』でも言及していたが、ムィシキンが「外界」から「入って」来たことに注意を促しているこの文章が、「ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」という解釈を行っていた小林秀雄の『白痴』論を強く念頭に置いて書かれていた可能性にようやく気付いたのは、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』を上梓したあとのことであった。

ここでムィシキンが「外界」から「入って」来ることを強調した堀田は、「小説を読み通して行って、その終末にいたって、天使はやはり人間の世界には住みつけないで、ふたたび外国の、外界であるスイスの癲狂院へもどらざるをえないのである」と小林とは正反対の解釈を記していたのである(下巻、100頁)。

そして、「白痴、というと何やら聞えはいいかもしれないが、天使は、人間としてはやはりバカであり阿呆でなければ、不可能、なのであった」と続けた著者は、若者が「成宗の先生」(堀辰雄)に語った「謎」のような言葉の意味をこう説明していることである。

「左様――ムイシュキン公爵は汽車に乗って入って来たが、ランボオは、詩から、その自由のある筈の詩の世界を捨てて出て行って」しまったというのが、「若者が成宗の先生に言ったことの、その真意であった」(下線は原文では傍点)。

そして、「しかしなんにしてもド氏の小説は面白い、面白くてやり切れなかった。とりわけて、ド氏が小説というものの枠やルールを無視して勝手至極なことをやらかしてくれるところが面白かった」と書いた堀田は、結末の異常性を強調した小林とは反対に「『白痴』はその終末で若者に泪を流させた」と続けていた。

ドストエーフスキイの会、第242回例会(報告者:齋須直人氏)のご案内

第242回例会のご案内を「ニュースレター」(No.143)より転載します。

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第242回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                    

日 時2017年11月25日(土)午後2時~5時       

場 所千駄ヶ谷区民会館

(JR原宿駅下車7分)  ℡:03-3402-7854 

報告者:齋須直人 氏 

題 目: 『白痴』、「大罪人の生涯」、『悪霊』における対話による道徳教育

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:齋須直人(さいす なおひと)

1986年生まれ。京都大学文学研究科スラブ語学スラブ文学専修博士課程に在中。論文「ザドンスクのチーホンの「自己に勝つ」ための教えとスタヴローギンの救済の問題について」(ロシア語ロシア文学研究49号、2017)、 «О влиянии Достоевского на творчество Т.Манна во время мировых войн (世界大戦期におけるドストエフスキーのトーマス・マンの作品への影響について)» (ドストエフスキーと現代―2014年 第29回 スターラヤ・ルッサ国際学会論集―、2015)、他。

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第242回例会報告要旨

題目:『白痴』、「大罪人の生涯」、『悪霊』における対話による道徳教育  

ドストエフスキー本人の宗教的立場と結びつけつつ、この作家の作品に見られる道徳教育のモチーフを論じることには困難がある。ドストエフスキーの作品は、ポリフォニック小説として読まれるようになってから、作品内で作家自身の立場も相対化されることとなり、作家の作品創造の目的や、作品全体を通して作家が何を主張したかったかについて考察することについて慎重になる必要が生じた。そのため、この作家の作品を、あたかも一定の作品創造の目的があるかのように解釈することが多かれ少なかれ必要とされるような読み方、例えば、登場人物の成長物語(ビルディングスロマン、聖者伝など)として読むことが容易ではなくなっている。作品の中での教育のモチーフ(特に道徳教育)を読み解く際も、教育がある程度一定の価値観に従って人を導くものである以上、同様の問題がある。しかし、ドストエフスキーの作品の中で、成長物語や教育の要素は独自のあり方で存在している。そして、これらの要素と作家自身の立場を完全に切り離すことはできない。特に、作品を描くさい、ドストエフスキーが若者の道徳教育に強い問題意識を持っていたとすれば尚更である。報告者は、作品の芸術的形式に十分注意を払いつつ、作家の宗教思想と作品の全体性が矛盾しないものとして作品を読み解くことを目標とし、ドストエフスキーの作品における、対話を通した道徳教育を研究テーマの一つとしている。

1860~70年代、土壌主義者であるドストエフスキーは西欧の教育を受けた階級の人々と民衆との乖離をロシア社会の根本的な問題とみなしていた。彼はロシアのインテリゲンツィヤと民衆との一体化が、両者のロシア正教への信仰を基礎としてもたらされるものと考えた。特に、作家が懸念していたのはロシアの若者たちに、社会主義やポジティヴィズムを基礎としたニヒリズムが広まっていることだった。1870年3月25日のマイコフに宛てた書簡で、ドストエフスキーは「大罪人の生涯」の構想(結局書かれることなく終わった)について詳しく書いているが、それに際し、次のように述べている:「ニヒリズムについては何も言いません。待ってください、ロシアの土壌から引き離された、この上位層はまだ完全に腐っているのです。お分かりでしょうか、私には次のことが頭に浮かぶのです。つまり、この多くの最もろくでなしの若者たち、腐っている若者たちが、最終的には本物のしっかりした土壌主義者に、純粋なロシア人になるということが」。そして、後に、『悪霊』の創作ノートにおいて、作家は次のように記している:「我々は形(образы)を失ってしまった、それらはすぐさま拭い去られてしまい、新しい形も隠されてしまっている。(…)形を持たない人々は、信念や科学、いかなる支点も持たず、社会主義の何かしらの秘密を説いている。(…)全てのこれら確固としたものを持たない大衆を捕えているのは冷笑主義である。指導者を持たない若者たちは見捨てられている」。ドストエフスキーにとって、新しい世代への宗教・道徳教育についての問題は重要なものであった。彼は、迷える若者たちを導く肯定的な人間像(образ положительного человека)を創造することを自己の課題とした。そして、この課題を『白痴』、「大罪人の生涯」、『悪霊』において実現しようとした。

本報告では、作家本人の教育における立場や宗教観を適宜参照しつつ、これらの作品において対話を通した教育がいかに描かれているか検討する。これら3作品の変遷をたどることで、ドストエフスキーの作品の道徳教育のモチーフがいかに形成されていったかを明らかにしたい。『白痴』との関連では、1860年前後のヤースナヤ・ポリャーナにおけるレフ・ニコラエヴィチ・トルストイの教育活動が、主人公レフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキン像の形成にいかに用いられたかに着目する。「大罪人の生涯」、『悪霊』については、これらの作品の登場人物である僧チーホンと主人公との対話を、ドストエフスキーが参考にしたと考えられる、ザドンスクのチーホンの思想、また、スーフィズムとの関連に着目する。

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例会の「傍聴記」や「事務局便り」の主ななどは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。なお、「事務局便り」にも「国際ドストエフスキー研究集会」のことが掲載されましたのでその箇所を転載します。

◎来年2018年10月23日~26日に、ブルガリアの首都ソフィアで、国際ドストエフスキー研究集会がブルガリア・ドストエフスキー協会の主催で開催される模様です。『白痴』の公刊150周年ということで、黒澤明の『白痴』もテーマとしてとりあげられ、高橋さん所属の「黒澤明研究会」に協力要請が来ています。参加希望者は、詳しくは、高橋さんのHP-http://www.stakaha.com/ からお問い合わせてください。

「国際ドストエフスキー・シンポジウム」のお知らせ――ブルガリアとソフィアの画像

2018年10月23日から26日まで「国際ドストエフスキー・シンポジウム」がブルガリアの首都のソフィアで開催されます。

ブルガリア、ソフィア大学

(ソフィア大学、出典はブルガリア語版「ウィキペディア」)

長編小説『白痴』の発表150周年を記念して25日には映画《白痴》の円卓会議も開かれます。

このシンポジウムはブルガリア・ドストエフスキー協会の主催で行われますので、「国際ドストエフスキー学会」に加入されていない方も参加可能です。

詳細は次のURLを参照して下さい:https://bod.bg/bg/  

*   *   *

Ⅰ. ギリシャ正教の受容とブルガリア

ブルガリア – Wikipedia (図版の出典も「ウィキペディア」)

a.「大ボヘミアにおけるスラヴ的典礼の導入」とキュリロスとメトディオス兄弟

ミュシャ、ボヘミア大

ムハ(ミュシャ)画、「スラヴ叙事詩」、第3作「大ボヘミア(現在のチェコ)におけるスラヴ的典礼の導入」。

b.ブルガリアにおけるギリシャ正教の受容

ブルガリアSt_Clement_of_Ohrid

キュリロスとメトディオス兄弟の弟子・聖クリメントオフリドスキー

c. ブルガリア帝国における聖書のスラヴ語訳

ミュシャ、ブルガリア

ムハ(ミュシャ)画、「スラヴ叙事詩」、第4作「ブルガリア皇帝シメオン(在位:893~927年)」

Ⅱ. 現代のブルガリアと首都ソフィア

a.ブルガリアの地図と国旗

ブルガリアの地図ブルガリアの国旗

b.首都ソフィア

ブルガリア、ソフィア

(出典は「ウィキペディア」)

 

小林秀雄のヒトラー観(2)――「ヒットラーと悪魔」とアイヒマン裁判をめぐって

一、映画『十三階段への道』とアイヒマンの裁判

雑誌『文藝春秋』(1960年5月)に掲載された「ヒットラーと悪魔」の冒頭で小林秀雄は、「『十三階段への道』(ニュールンベルク裁判)という実写映画が評判を呼んでいるので、機会があったので見た」と記し、実写映画という性質に注意を促しながら、「観客は画面に感情を移し入れる事が出来ない。破壊と死とは命ある共感を拒絶していた。殺人工場で焼き殺された幾百万の人間の骨の山を、誰に正視する事が出来たであろうか。カメラが代ってその役目を果たしたようである」と書いた。

実際、NHKの佐々木敏全による日本版「解説」によれば、この映画は「裁判の記録映画」であるばかりでなく、「各被告の陳述にあわせ一九三三年から四五年までの十二年間、ナチ・ドイツの侵攻、第二次世界大戦、そしてドイツを降伏に導いた恐ろしい背景を、その大部分が未公開の撮影および録音記録によって」描き出したドラマチック・ドキュメンタリーであった。

ニュールンベルグの戦犯 13階段への道 – CROSS OF IRON

一方、カメラの役目を強調して「御蔭で、カメラと化した私達の眼は、悪夢のような光景から離れる事が出来ない」と続けた小林は、「私達は事実を見ていたわけではない。が、これは夢ではない、事実である、と語る強烈な精神の裡には、たしかにいたようである」と続けていた。

「事実」をも「悪夢」に帰着させているかのように見えるこの文章を読みながら思い出したのは、小林秀雄が1934年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」において、「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」と書き、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と解釈していたことであった(髙橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』参照)。

注意を払いたいのは、「何百万という人間、ユダヤ人、ポーランド人、ジプシーなどの、みな殺し計画」を実行し、敗戦後にはブラジルに潜んでいたアイヒマンがこの映画が公開されたのと同じ年の5月に逮捕されたことが5月25日に発表され、翌年の1961年には裁判にかけられたことである。

アイヒマン裁判

(アイヒマン裁判、写真は「ウィキペディア」より)

映画『十三階段への道』を見ていた小林秀雄は、この裁判をどのように見ていたのだろうか。ちなみに、1962年8月には、アイヒマンの裁判についても言及されている『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(G・アンデルス、C・イーザリー著、篠原正瑛訳、筑摩書房)が日本でも発行されたが、管見によれば、小林秀雄はこの著書に言及した書評や評論も書いていないように見える。「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)――良心の問題と「アイヒマン裁判」

商品の詳細 (書影は「アマゾン」より)

二、「ヒットラーと悪魔」とその時代

改めて「ヒットラーと悪魔」を読み直して驚いたのは、おそらく不本意ながら敗戦後の文壇事情を考慮して省かざるを得なかったヒトラーの「決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚」や「感傷性の全くない政治の技術」が、ドストエフスキー論にも言及することで政治的な色彩を薄めながらも、『我が闘争』からの抜き書きともいえるような詳しさで紹介されていたことである(太字は引用者)。

最初はそのことに戸惑いを覚えたが、この文章が掲載されたこの当時の政治状況を年表で確認したときその理由が分かった。東条英機内閣で満州政策に深く関わり戦争犯罪にも問われた岸信介は、首相として復権すると1957年5月には国会で「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」と答弁していた。そして、1960年1月19日にはアメリカで新安全保障条約に調印したのである。この条約を承認するために国会が開かれた5月は、まさに激しい「政治の季節」だったのである。

この時期の重要性については黒澤明監督の盟友・本多猪四郎監督が、大ヒットした映画《ゴジラ》に次いで原水爆実験の危険性を描き出した1961年公開の映画《モスラ》で描いているので、本論からは少し離れるが確認しておきたい、(『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』(のべる出版企画、2016年、45頁)。

すなわち、1960年の4月には全学連が警官隊と衝突するという事件がすでに起きていたが、5月19日に衆議院の特別委員会で新条約案が強行採決され、5月20日に衆議院本会議を通過すると一般市民の間にも反対の運動が高まり、国会議事堂の周囲をデモ隊が連日取り囲むようになった。そして6月15日には暴力団と右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出す一方で、国会議事堂正門前では機動隊がデモ隊と衝突してデモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死するという悲劇に至っていた。

一方、このような激しい安保条約反対運動に対抗するかのように、すでに1958年には神武天皇の即位は神話であり史実ではないとして強く批判し、「国が二月十一日を紀元節と決めたら、せっかく考古学者や歴史学者が命がけで積上げてきた日本古代の年代大系はどうなることでしょう。本当に恐ろしいことだと思います」との書簡を寄せ、「これに反発した右翼が三笠宮に面会を強要する事件」も発生していた(上丸洋一『「諸君!」「正論」の研究 保守言論はどう変容してきたか』岩波書店、10頁)。なぜならば、戦前の価値の復活を求める右翼や論客は「紀元節奉祝建国祭大会」などの活動を強めていたのである。

三笠宮は編著『日本のあけぼの 建国と紀元をめぐって』(光文社、1959年)の「序文」で「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた。……過去のことだと安心してはおれない。……紀元節復活論のごときは、その氷山の一角にすぎぬのではあるまいか」と書いていた。

上丸洋一(図版はアマゾンより)

書評『我が闘争』の『全集』への収録の際には省いていたヒトラーの「決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚」や「感傷性の全くない政治の技術」をより詳しく紹介した「ヒットラーと悪魔」は、まさにこのような時期に書かれていたのである。

三、「感傷性の全くない政治の技術」と「強者への服従の必然性」

映画についての感想を記したあとで、20年前に書いた書評の概要を記した小林は、「ヒットラーのような男に関しては、一見彼に親しい革命とか暴力とかいう言葉は、注意して使わないと間違う」とし、「彼は暴力の価値をはっきり認めていた。平和愛好や暴力否定の思想ほど、彼が信用しなかったものはない。ナチの運動が、「突撃隊」という暴力団に掩護されて成功した事は誰も知っている」ことを確認している。

しかし、その箇所で小林はヒトラーの「感傷性の全くない政治の技術」についても以下のように指摘していたが、それは現在の安倍政権の運営方法と極めて似ているのである。

「バリケードを築いて行うような陳腐な革命は、彼が一番侮蔑していたものだ。革命の真意は、非合法を一挙に合法となすにある。それなら、革命などは国家権力を合法的に掌握してから行えば沢山だ。これが、早くから一貫して揺がなかった彼の政治闘争の綱領である。」

そして、「暴力沙汰ほど一般人に印象の強いものはない。暴力団と警察との悶着ほど、政治運動の宣伝として効果的なものはない。ヒットラーの狙いは其処にあった」とした小林は、「だが、彼はその本心を誰にも明かさなかった。「突撃隊」が次第に成長し、軍部との関係に危険を感ずるや、細心な計画により、陰謀者の処刑を口実とし、長年の同志等を一挙に合法的に謀殺し去った」と続けている。

さらに、ヒトラーの人生観を「人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である」とした小林は、「獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者にどうして屈従し味方しない筈があるか」と書いて、ヒトラーの「弱肉強食の理論」を効果的に紹介している。

さらに小林はヒトラーの言葉として「大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう」と書き、「ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキイが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった」と続けている。

この表現はナチズムの危険性を鋭く指摘したフロムが『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社)で指摘していた記述を思い起こさせる。この本がすでに1951年には邦訳されていたことを考慮するならば、小林がこの本を強く意識していた可能性は大きいと思える。

しかしその結論は正反対で、小林秀雄はヒトラーの独裁とナチズムが招いた悲劇にはまったく言及していないのである。

関連記事一覧

小林秀雄のヒトラー観(1)――書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」をめぐって

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(3)――PKO日報破棄隠蔽問題と「大きな嘘」をつく才能

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(4)――大衆の軽蔑と「プロパガンダ」の効用

(2017年9月17日、記述の一部を削除して主題を明確化し副題を変更。関連記事のリンク先を追加)

「表現の自由と情報へのアクセス」の権利と「差別とヘイトスピーチ」の問題――「特定秘密保護法」から「共謀罪」へ

現在、「共謀罪」の議論が国会で行われているが、6月2日の衆院法務委員会で金田法務大臣は、戦争に反対する人々を逮捕することを可能にした「治安維持法」を「適法」であったとし、さらに創価学会初代牧口会長も獄死するに至った「拘留・拘禁」などの「刑の執行も、適法に構成された裁判所によって言い渡された有罪判決に基づいて、適法に行われたものであって、違法があったとは認められません」 と答弁した。

一方、5月30日に最高裁は「サンデー毎日」(毎日新聞出版)が2014年10月5日号に掲載した「安倍とシンパ議員が紡ぐ極右在特会との蜜月」という記事を名誉毀損で訴えていた稲田朋美・防衛相の訴えが一審、二審判決につづいて稲田氏の上告を棄却する決定が出した。すなわち、稲田氏の資金管理団体「ともみ組」が2010年から12年のあいだに、ヘイトスピーチを繰り返していた「在特会」の有力会員や幹部など8人から計21万2000円の寄付を受けていたことを指摘したこの記事の正当性が最高裁でも認められたのである。

しかも、6月2日付の記事で「リテラ」が指摘しているように稲田氏は、〈元在特会事務局長の山本優美子氏が仕切る極右市民団体「なでしこアクション」が主催する集会に2012年に登壇しており、14年9月にはネオナチ団体代表とのツーショット写真の存在も発覚〉していた。それにもかかわらず、〈安倍首相は稲田氏をそれまでの自民党政調会長よりもさらに重い防衛相というポストにまで引き上げた。稲田氏と同じようにネオナチ団体代表と写真におさまっていた高市早苗総務相も据え置いたままである。〉

ヘイトスピーチ(写真の出典は「毎日新聞」)

なお、防衛相就任以前にも保守系雑誌などで「長期的には日本独自の核保有を国家戦略として検討すべきではないでしょうか」「文科省の方に『教育勅語のどこがいけないのか』と聞きました」などと述べていた稲田氏が、最近も月刊誌「月刊Hanada」(7月号)に論文を寄稿して、「大東亜戦争」の意義を強調するような持論を展開していたことが判明した。

これらの人物を大臣に任命した安倍首相の責任はきわめて重たく、この問題は国連のデービッド・ケイ特別報告者の「対日調査報告書」ともかかわると思える。

*   *   *

すでにみたようにピレイ国連人権高等弁務官は2013年に強行採決された「特定秘密保護法」について、12月2日にジュネーブで開かれた記者会見で「表現の自由と情報へのアクセスという二つの権利」に関わるこの法案については、人権高等弁務官事務所も注目しているが、「法案には明 確さが不十分な箇所があり、何が秘密かの要件が明確ではなく、政府が不都合な情報を秘密として特定できてしまう」と指摘し、次のように続けていた。

「政府および国会に、憲法や国際人権法で保障されている表現の自由と情報へのアクセスの権利の保障措置(セーフガード)を規定するまで、法案 を成立させないよう促したい」。

今回も「共謀罪」法案を衆議院で強行採決した日本政府に対して、国連人権高等弁務官事務所は、「メディアの独立性に懸念を示し、日本政府に対し、特定秘密保護法の改正と、政府が放送局に電波停止を命じる根拠となる放送法四条の廃止を勧告した」、「対日調査報告書」を公表した。

一方、産経新聞によれば、高市早苗総務相は2日午前の閣議後の記者会見で、この「対日調査報告書」について「わが国の立場を丁寧に説明し、ケイ氏の求めに応じて説明文書を送り、事実把握をするよう求めていた。にもかかわらず、われわれの立場を反映していない報告書案を公表したのは大変、残念だ」と述べていた。

しかし、「言論と表現の自由」に関する調査のために来日した国連特別報告者・デービッド・ケイ氏が公式に面会を求めていたにもかかわらず、それを拒否していた高市早苗総務相がこのような形で国連特別報告者の「報告書」を非難することは、「日本会議」などの右派からは支持されても、国際社会の強い批判を浴びることになるだろう。

この意味で注目したいのは、5月31日に掲載された読売新聞の「報告書」では「差別とヘイトスピーチ」の項目もあるが、要旨が記された記事では略されており、日本政府の「反論書」要旨にもそれに対する反論は記されていないことである。そのことは「差別とヘイトスピーチ」にふれられることを安倍首相や閣僚が嫌っていることを物語っているようにも見える。

現在、国連と安倍内閣との間に生じている強い摩擦や齟齬は、「特定秘密保護法」案が強行採決された時から続いているものであり、今回の「勧告」は戦前の価値観を今も保持している「日本会議」系の議員を重用している安倍内閣の政権に対する強い不信感を物語っているだろう。

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「特定秘密保護法」強行採決への歩み(3)

私は憲法や法律、政治学などの専門家ではないが、主に専門のドストエフスキー作品の考察をとおして、強行採決された「特定秘密保護法」の問題点に迫った記事の題名とリンク先を挙げる。

なぜならば、「表現の自由と情報へのアクセスという二つの権利」が許されていなかったニコライ一世の治世下の「暗黒の30年」に、ドストエフスキーは作品を「イソップの言葉」を用いて書くことによって、「憲法」の発布や農奴制の廃止、言論の自由を強く求めていたからである。

彼の作品は戦時中にヒトラーの『わが闘争』を賛美していた文芸評論家・小林秀雄の解釈によって矮小化されたが、シベリアに流刑になった以降もさまざまな表現上の工夫をするとともに「虚構」という方法を用いて、重たい「事実」に迫ろうとしていた。

残念ながら、現在も文芸評論家の小林秀雄の影響が強い日本では、ドストエフスキーの作品を「父殺しの文学」と規定する刺激的な解釈をして「二枚舌」の作家と位置づけている小説家もいるが、それは作家ドストエフスキーだけでなく「文学」という学問をも侮辱していると思える。

ドストエフスキーの作品研究においても、「農奴の解放」や「裁判の公平」そして、「言論の自由」を求めていたドストエフスキーの姿勢もきちんと反映されねばならないだろう。

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 『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)

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「『地下室の手記』の現代性――後書きに代えて」(7月9日)

憲法96条の改正と「臣民」への転落ーー『坂の上の雲』と『戦争と平和』(7月16日)

TPPと幕末・明治初期の不平等条約(7月16日)

「ブラック企業」と「農奴制」――ロシアの近代化と日本の現在(7月17日 )

「蟹工船」と『死の家の記録』――俳優座の「蟹工船」をみて(7月17日 )

「憲法」のない帝政ロシア司馬遼太郎の洞察力――『罪と罰』と 『竜馬がゆく』の現代性10月31日

ソ連の情報公開と「特定秘密保護法」→グラースノスチ(情報公開)とチェルノブイリ原発事故(10月17日 )

現実の直視と事実からの逃走→「黒澤映画《夢》の構造と小林秀雄の『罪と罰』観」11月5日

小林秀雄のドストエフスキー観テキストからの逃走――小林秀雄の「『白痴』についてⅠ」を中心に  

上からの近代化とナショナリズムの問題日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって11月8日

「特定秘密保護法案」に対する国際ペン会長の声明11月22日

「特定秘密保護法」の強行採決と日本の孤立化11月26日

(2017年6月3日、6月9日、11日、題名を変更し改訂、図版を追加)

書評 『「罪と罰」をどう読むか〈ドストエフスキー読書会〉』(川崎浹・小野民樹・中村邦生著 水声社 二〇一六年)

『罪と罰』をどう読むか(書影は紀伊國屋書店より)

『「罪と罰」をどう読むか〈ドストエフスキー読書会〉』(川崎浹・小野民樹・中村邦生著 水声社 二〇一六年)

本書はウォルィンスキイの『ドストエフスキイ』やレイゾフ編『ドストエフスキイと西欧文学』など多くの訳書があるロシア文学者の川崎浹氏と、『新藤兼人伝──未完の日本映画史』などの著作がある研究者の小野民樹氏と、ドストエフスキーの作中人物をも取り込んだ小説『転落譚』がある中村邦生氏の鼎談を纏めたものである。

『罪と罰』の発表から一五〇年にあたる二〇一六年には、それを記念した国際ドストエフスキー学会が六月にスペインのグラナダで開かれたが、冒頭で『罪と罰』を翻訳し「恰も広野に落雷に会って目眩き耳聾ひたるがごとき、今までに会って覚えない甚深な感動を与えられた」という内田魯庵の言葉が紹介されている本書もそのことを反映しているだろう。

さらに本書の「あとがき」では学術書ではないので、「お世話になった方々の氏名をあげるにとどめる」として本会の木下豊房代表をはじめ、芦川氏や井桁氏など主なドストエフスキー研究者の名前が挙げられており、それらの研究書や最新の研究動向も踏まえた上で議論が進められていることが感じられる。

以下、本稿では『罪と罰』という長編小説を解釈する上できわめて重要だと思われる「エピローグ」の問題を中心に六つの章からなる本書の特徴に迫りたい。

「『罪と罰』への道」と題された第一章では、若きドストエフスキーが巻き込まれたペトラシェフスキー事件など四〇年代末期の思想動向やシベリアへの流刑の後で書かれた『死の家の記録』などの流れが簡潔に紹介されている。

ことに、農奴解放などの「大改革」が中途半端に終わったことで、過激化していく学生運動などロシアの時代風潮がチェルヌイシェフスキーとの相克や『何をなすべきか』との関わりだけでなく、一八六五年には「モスクワでグルジア人の青年が高利貸しの老婆二人を殺害、裁判が八月に行われ、その速記録が九月上旬の『声』紙に連載」されていたことや、「大学紛争で除籍されたモスクワ大学の学生が郵便局を襲って局員を殺そうとした話」など当時の社会状況が具体的に記されており、そのことは主人公・ラスコーリニコフの心理を理解する上で大いに役立っていると思われる。

当初は一人称で書かれていたこの小説が三人称で書かれることによって、長編小説へと発展したことなど小説の形式についても丁寧に説明されている。

本書の特徴の一つには重要な箇所のテキストの引用が適切になされていることが挙げられると思うが、第二章「老婆殺害」でも『罪と罰』の冒頭の文章が長めに引用され、この文章について小野氏が「なんだか映画のはじまりみたいですね。ドストエフスキーの描写はひじょうに映像的で、描写どおりにイメージしていくと、理想的な舞台装置ができあがる」と語っている。

この言葉にも表れているように、三人の異なった個性と関心がちょうどよいバランスをなしており、モノローグ的にならない<読書会>の雰囲気が醸し出されている。

また、『罪と罰』を内田魯庵の訳で読んだ北村透谷が、お手伝いのナスターシャから「あんた何をしているの?」と尋ねられて、「考えることをしている」と主人公が答える場面に注目していることに注意を促して、「北村透谷のラスコーリニコフ解釈は、あの早い時期としては格段のもの」であり、この頃に「日本で透谷がドストエフスキーをすでに理解していたというのは誇らしい」とも評価されている。

さらに、「ドストエフスキーの小説はたいてい演劇的な構成だと思います。舞台に入ってくる人間というのは問題をかかえてくる」など、「ドストエフスキーの小説は、ほとんどが何幕何場という構成に近い」ことが指摘されているばかりでなく、具体的に「ラスコーリニコフとマルメラードフの酒場での運命的な出遭いというのは、この小説のなかでも心に残る場面ですね」とも語られている。

たしかに、明治の『文学界』の精神的なリーダーであった北村透谷から強い影響を受けた島崎藤村の長編小説『破戒』でも、主人公と酔っ払いとの出遭いが重要な働きをなしており、ここからも近代日本文学に対する『罪と罰』の影響力の強さが感じられる。

また、『罪と罰』とヨーロッパ文学との関連にも多く言及されている本書では、ナポレオン軍の騎兵将校として勤務していた『赤と黒』の作家スタンダールが、「モスクワで零下三〇度の冬将軍」に襲われていたことなど興味深いエピソードが紹介されており、若い読者の関心もそそるだろう。

テキストの解釈の面では、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』など書簡体小説の影響を受けていると思われる母親からの長い手紙の意味がさまざまな視点から詳しく考察されているところや、なぜ高利貸しの義理の妹リザベータをも殺すことになったかをめぐって交わされる「六時過ぎか七時か」の議論、さらに「ふいに」という副詞の使用法についての会話もロシア語を知らない読者にとっては興味深いだろう。

犯罪の核心に迫る第三章「殺人の思想」では、「先ほどネヴァ川の光景が出てきましたけど、夕陽のシーンが小説全体のように現れることが、実に面白いですね」、「重要な場面で必ず夕陽が出てくるし、『夕焼け小説』とでもいいたいほどです」と語られているが、映画や演劇の知識の豊富さに支えられたこの鼎談をとおして、視覚的な映像が浮かんでくるのも本書の魅力だろう。

さらに、井桁貞義氏はドストエフスキーにおける「ナポレオンのイデア」の重要性を指摘していたが、本書でも「ナポレオンとニーチェ」のテーマも視野に入れた形で「良心の問題」がこの小説の中心的なテーマとして、「非凡人の理論」や「新しいエルサレム」にも言及しながらきちんと議論されている。

本書の冒頭では『罪と罰』から強い感動を与えられたと記した内田魯庵の言葉をひいて、「読んだ人には皆覚えがある筈だ」と指摘し、「残念な事には誰も真面目に読み返そうとしないのである」と続けていた文芸評論家の小林秀雄の文章も引用されていた。本章における「良心の問題」の分析は、一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、ラスコーリニコフには「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と解釈していた小林秀雄の良心観を再考察する機会にもなると思える。

第四章「スヴィドリガイロフ、ソーニャ、ドゥーニャ」や、「センナヤ広場へ」と題された第五章でも多くの研究書や研究動向も踏まえた上で、主な登場人物とその人間関係が考察されており興味深い。

ことに私がつよい関心を持ったのは、ソーニャが「ラザロの復活」を読むシーンに関連して一八七三年の『作家の日記』(昔の人々)でも、ドストエフスキーがルナンの『イエスの生涯』について、「この本はなんといってもキリストが人間的な美しさの理想であって、未来においてすらくり返されることのない、到達しがたい一つの典型であるとルナンは宣言していた」ことに注意が促されていたことである。

そして、このようなドストエフスキーのキリスト理解をも踏まえて第六章「『エピローグ』」の問題」では、『死の家の記録』に記されていたドストエフスキー自身がシベリアのイルティシ川から受けた深い感銘もきちんと引用されており、そのことが『罪と罰』の読みに深みを与えている。

たとえば、ドストエフスキーは「首都から千キロも離れたオムスクの監獄と流刑地のセミパラチンスクで過ごしたことにより、ロシアの懐の深さを知って帰ってきた」と語った川崎氏は、「その背景があって作家は『エピローグ』を書いた」と説明している。

そして、「『ラズミーヒンはシベリア移住を固く決意した』と『エピローグ』に書かれていますが、彼のシベリア行きはちょっと不自然に思いました」との感想に対しては、「ラズミーヒンがドゥーニャといっしょにシベリアに行って根付こうというときに、あそこは『土壌が豊かだから』と彼自身はっきりと言って」いると語っているのである。

さらに私は囚人たちが大切に思っている「ただ一条の太陽の光、鬱蒼(うっそう)たる森、どこともしれぬ奥まった場所に、湧きでる冷たい泉」が、ラスコーリニコフが病院で見た「人類滅亡の悪夢」に深く関わっていると考えてきたが、この鼎談でもこの文章に言及した後で悪夢が詳しく分析されている。

すなわち、この悪夢には「ヨハネの黙示録」が下敷きになっていることを確認するとともに、ドストエフスキーがすでに一八四七年に書いた『ペテルブルグ年代記』で「インフルエンザと熱病はペテルブルグの焦点である」と書いていることや、その頃に熱中したマクス・シュティルネルの『唯一者とその所有』では、個人主義の行き過ぎが指摘されていることも確認されている。

そして、「この熱に浮かされた悪夢の印象がながい間消え去らないのに悩まされた」とドストエフスキーが書いていることにふれて、それは「悪夢の役割の大きさを作家が強調したかったのでしょう」と記されている。

ただ、『罪と罰』が連載中の一八六六年五月に起こった普墺戦争では、先のデンマークとの戦争では連合して戦ったプロイセン王国とオーストリア帝国とが戦ってプロイセンが圧勝したことで、今度はフランス帝国との戦争が懸念されるようになっていた。そのことをも留意するならば、この悪夢は将来の世界大戦ばかりでなく、最新兵器を擁する大国に対するテロリズムが広がる現代へのドストエフスキーの洞察力をも物語っているように思える。

鼎談では「ドストエフスキーの文学」と現代との関わりも強く意識されていたが、川崎氏にはシクロフスキイの『トルストイ伝』やロープシンの『蒼ざめた馬』などの翻訳があるので、そこまで踏み込んで解釈してもよかったのではないかと私には思われた。

なぜならば、『地下室の手記』でドストエフスキーは、バックルによれば人間は「文明によって穏和になり、したがって残虐さを減じて戦争もしなくなる」などと説かれているが、実際にはナポレオン(一世、および三世)たちの戦争や南北戦争では「血は川をなして流れている」ではないかと主人公に鋭く問い質させていたからである。

『罪と罰』の最後をドストエフスキーが、「『これまで知ることのなかった新しい現実を知る人間の物語』が新しい作品の主題になると予告している」と書いていることに注意を促して、「そこにはどうしても『白痴』という実験小説が結びつかざるを得ません」と続けた川崎氏の言葉を受けて、「そこに私たちの新たな関心の方位があるということですね」と語った中村氏の言葉で本書は締めくくられている。

冒頭に掲げられている一八六五年の「ペテルブルグ市 街図」や、ロシア人独特の正式名称や愛称を併記した「登場人物一覧」、さらに「邦訳一覧」が収録されており、この著書は格好の『罪と罰』入門書となっているだろう。

川崎氏は「あとがき」で〈ドストエフスキー読書会〉という副題のある本書が、一三年間かけてドストエフスキーの全作品を二度にわたって読み込んだ上で、『罪と罰』についての鼎談を纏めたと発行に至る経緯を記している。

本書でもふれられていたルナンの『イエスの生涯』についてのドストエフスキーの関心は長編小説『白痴』とも深く関わっているので、次作『白痴』論の発行も待たれる。

(『ドストエーフスキイ広場』第26号、2017年、132~136頁より転載)

 

 

長編小説『白痴』の世界と黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》(1960)

86l黒澤明、悪い奴ほど

(ポスターの図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

長編小説『白痴』の世界と黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》(1960)

東京地検が甘利前経済再生担当相と元秘書2人を「現金授受問題」で不起訴としたとの報道が5月31日の「東京新聞」朝刊に載っていました。

長編小説『白痴』との関連で黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》(脚本・久板栄二郎、黒澤明、小國英雄、菊島隆三、橋本忍)について考察した箇所を拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011年)より一部改訂して再掲します。

父親の恨みを晴らすために上司の娘との結婚を果たした主人公をとおして汚職の問題などが描かれている1960年に公開された映画《悪い奴ほどよく眠る》の世界が、安倍政権下の日本では今も生き続けているのを強く感じるからです。

「アベノミクス」の詐欺性(4)――TPP秘密交渉担当・甘利明経済再生相の辞任

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一九六〇年に公開されたこの映画の冒頭では、土地開発公団・副総裁の娘佳子と秘書の西との華やかな結婚披露宴の場で、司会を務めるはずだった課長補佐が逮捕されて動揺する幹部の姿や新聞記者たちの動きが描写されていた。

場面が進むにつれて新郎の西(三船敏郎)が五年前に起きた汚職事件の捜査の過程で、上司たちの保身のために飛び降り自殺をさせられていた課長補佐の私生児であり、他人と自分の戸籍を代えることまでして父親の復讐を果たそうとしていたことが次第に明らかになる。

つまり、子供の頃に負った怪我で足をひきずるようになったが、「赤ン坊」のように純粋な心を持っていた佳子(香川京子)と結婚することで、西は副総裁にまで出世していた父の上司(森雅之)に接近し秘書に取り立てられていたのである(『全集 黒澤明』第5巻・24頁、50頁)。

秘書としての地位を利用することで西は、その時の事件の隠蔽工作に関わったが今度は殺されそうになった人物を捕らえることに成功し、汚職の真相を暴露する一歩手前のところまで佳子の父親でもある副総裁を追い詰めた。しかし、なんとか罪が暴かれることを防ごうとした副総裁は、娘婿の生命を案じるフリをしてその居所を娘から聞き出して、証人たちとともに娘婿を抹殺した。

ドストエフスキーの長編小説『白痴』は、複雑な性格のガヴリーラやイッポリートの家族をとおして、当時の混迷したロシアの社会情勢とムィシキン公爵の苦悩を描き出していたが、この映画も父親の計略によって夫が殺されたことを知ったことで、純粋な精神を持っていた佳子がムィシキンと同じように発狂してしまうことを描いて終わる。

こうして、この映画は「汚職事件が多発して、真相が分からぬままに課長補佐、係長等が謎の自殺を遂げるという、痛ましい事件」が続いていた時代を背景に、企業と癒着した官僚が汚職で富を築き、発覚しそうになると容赦なく罪を部下に押しつけるような体質になっていた戦後の日本社会の腐敗をえぐり出していた*7。

そして《悪い奴ほどよく眠る》が描いていた社会状況は、クリミア戦争後に西欧のさまざまな思想がどっと入ってきて「価値の混乱」が見られ、高官による公金の使い込みや自殺なども見られるようになっていたロシアの社会状況とも重なっていたのである。

(『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、59頁~60頁より一部改訂して再掲。2017年5月19日、図版を追加)

 

日露戦争の勝利から太平洋戦争へ(2)――「勝利の悲哀」と「玉砕の美化」

前回は「迷信を教育の場で喧伝して回った。これが、国が滅んでしまったもと」であると分析して、教育の問題にも注意を促した司馬遼太郎氏の記述を紹介したあとで、次のように結んでいました。

〈「歴史的な事実」ではなく、「情念を重視」した教育が続けば、アメリカに対する不満も潜在化しているので、今度は20年を経ずして日本が「一億玉砕」を謳いながら「報復の権利」をたてにアメリカとの戦争に踏み切る危険性さえあるように思われるのです。〉

この結論を唐突なように感じる読者もいると思われますが、1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、作家の林房雄は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」と「一億玉砕」を美化するような発言をしていたのです。

しかも、この鼎談でナポレオンを英雄としたばかりでなく、ヒトラーも「小英雄」と呼んで「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語った評論家の小林秀雄は、「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」という林の問いかけに「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と無責任な発言をしていました(太字は引用者、「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁((不二出版、復刻版、2008~2011年)。

『白痴』など多くの長編小説でドストエフスキーが「自殺」の問題を取り上げて厳しく批判していたことに留意するならば、当時からドストエフスキー論の権威と認められていた評論家の小林秀雄は、「玉砕」を美化するような林房雄の発言をきびしく批判すべきだったと思われます。しかし、鼎談では林のこのような発言に対する批判はなく、敗戦間際になると大本営発表などで「玉砕」と表現された部隊の全滅が相次いだのです。

(2016年4月30日。一部、削除)

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前回の論考の副題を「勝利の悲哀」としたのは、日露戦争が始まった時にはトルストイの反戦論「爾曹(なんじら)悔改めよ」に共感しなかった徳富蘆花が、戦後には近代戦争としての日露戦争の悲惨さやナショナリズムの問題に気づいて、終戦の翌年の明治三九年にロシアを訪れて、ヤースナヤ・ポリャーナのトルストイのもとで五日間を過ごし散策や水泳を共にしながら、宗教・教育・哲学など様々な問題を論じた徳富蘆花が1906(明治39)年12月に第一高等学校で「勝利の悲哀」と題して講演していたからです。

リンク→『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』(東海教育研究所、2005年)。

トルストイは蘆花に対して欧米を「腐朽せむとする皮相文明」と呼びながら、力によって「野蛮」を征服しようとする英国などを厳しく批判する一方で、墨子の「非戦論」を高く評価し、日本やロシアなどには「人生の真義を知り人間の実生活をなす」という「特有の使命」があると指摘していました。

蘆花も「勝利の悲哀」において、ナポレオンとの「祖国戦争」に勝利した後で内政をおろそかにして「諸国民の解放戦争」に参加した帝政ロシアをエピローグで批判していた長編小説『戦争と平和』を強く意識しながら、ロシアに侵攻して眼下にモスクワを見下ろして勝利の喜びを感じたはずのナポレオンがほどなくして没落したことや、さらに児玉源太郎将軍が二二万もの同胞を戦場で死傷させてしまったことに悩み急死したことにふれて、戦争の勝利にわく日本が慢心することを厳しく諫めていたのです。

そして、蘆花は日本の独立が「十何師団の陸軍と幾十万噸(トン)の海軍と云々の同盟とによつて維持せらるる」ならば、それは「実に愍(あは)れなる独立」であると批判し、言葉をついで「一歩を誤らば、爾が戦勝は即ち亡国の始とならん、而して世界未曾有の人種的大戦乱の原とならん」と強い危機感を表明して、「日本国民、悔改めよ」と結んでいました。

ここでは詳しく考察する余裕はありませんが、司馬氏は『坂の上の雲』を執筆中の昭和47年5月に書いた「あとがき五」で、幸徳秋水が死刑に処された時に行った徳冨蘆花の「謀反論」にふれて、蘆花は「国家が国民に対する検察機関になっていくことを嫌悪」したと書き、蘆花にとっては父や「父の代理的存在である兄蘇峰」が「明治国家というものの重量感とかさなっているような実感があったようにおもわれる」と書いていました。

しかも、『坂の上の雲』では旅順の激戦における「白襷隊(しろだすきたい」の「突撃」が描かれる前に南山の激戦での日本軍の攻撃が次のように描かれていました。

「歩兵は途中砲煙をくぐり、砲火に粉砕されながら、ようやく生き残りがそこまで接近すると緻密な火網(かもう)を構成している敵の機関銃が、前後左右から猛射してきて、虫のように殺されてしまう。それでも、日本軍は勇敢なのか忠実なのか、前進しかしらぬ生きもののようにこのロシア陣地の火網のなかに入ってくる」。

この記述に注目するならば、司馬氏がくりかえし突撃の場面を描いているのは、「国家」と「公」のために自らの死をも怖れなかった明治の庶民の勇敢さや気概を描くためではなく、かれらの悲劇をとおして、「神州不滅の思想」や「自殺戦術とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学」を広めた日露戦争後の日本社会の問題を根源的に反省するためだったと思えます。

「忠君愛国」の思想を唱えるようになった徳富蘇峰は、第一次世界大戦の時期に書いた『大正の青年と帝国の前途』においては、白蟻の穴の前に危険な硫化銅塊を置いても、白蟻が「先頭から順次に其中に飛び込み」、その死骸でそれを埋め尽し、こうして「後隊の蟻は、先隊の死骸を乗り越え、静々と其の目的を遂げたり」として、集団のためには自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを讃えるようになっていたのです。

前回もふれたように「『坂の上の雲』を書き終えて」というエッセイで司馬氏は、「政治家も高級軍人もマスコミも国民も神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と厳しく批判していました(「防衛と日本史」『司馬遼太郎が語る日本』第5巻)。

司馬氏が「“雑貨屋”の帝国主義」で、「日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦」までの40年を「異胎」の時代と名付けたとき、「日本国民、悔改めよ」と結んでいた蘆花の講演「勝利の悲哀」ばかりでなく、「玉砕」を美化した蘇峰の思想をも強く意識していたことはたしかでであるように思われます。

(2016年4月30日。一部、削除)