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『白痴』

小林秀雄のヒトラー観(2)――「ヒットラーと悪魔」とアイヒマン裁判をめぐって

一、映画『十三階段への道』とアイヒマンの裁判

雑誌『文藝春秋』(1960年5月)に掲載された「ヒットラーと悪魔」の冒頭で小林秀雄は、「『十三階段への道』(ニュールンベルク裁判)という実写映画が評判を呼んでいるので、機会があったので見た」と記し、実写映画という性質に注意を促しながら、「観客は画面に感情を移し入れる事が出来ない。破壊と死とは命ある共感を拒絶していた。殺人工場で焼き殺された幾百万の人間の骨の山を、誰に正視する事が出来たであろうか。カメラが代ってその役目を果たしたようである」と書いた。

実際、NHKの佐々木敏全による日本版「解説」によれば、この映画は「裁判の記録映画」であるばかりでなく、「各被告の陳述にあわせ一九三三年から四五年までの十二年間、ナチ・ドイツの侵攻、第二次世界大戦、そしてドイツを降伏に導いた恐ろしい背景を、その大部分が未公開の撮影および録音記録によって」描き出したドラマチック・ドキュメンタリーであった。

ニュールンベルグの戦犯 13階段への道 – CROSS OF IRON

一方、カメラの役目を強調して「御蔭で、カメラと化した私達の眼は、悪夢のような光景から離れる事が出来ない」と続けた小林は、「私達は事実を見ていたわけではない。が、これは夢ではない、事実である、と語る強烈な精神の裡には、たしかにいたようである」と続けていた。

「事実」をも「悪夢」に帰着させているかのように見えるこの文章を読みながら思い出したのは、小林秀雄が1934年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」において、「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」と書き、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と解釈していたことであった(髙橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』参照)。

注意を払いたいのは、「何百万という人間、ユダヤ人、ポーランド人、ジプシーなどの、みな殺し計画」を実行し、敗戦後にはブラジルに潜んでいたアイヒマンがこの映画が公開されたのと同じ年の5月に逮捕されたことが5月25日に発表され、翌年の1961年には裁判にかけられたことである。

アイヒマン裁判

(アイヒマン裁判、写真は「ウィキペディア」より)

映画『十三階段への道』を見ていた小林秀雄は、この裁判をどのように見ていたのだろうか。ちなみに、1962年8月には、アイヒマンの裁判についても言及されている『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(G・アンデルス、C・イーザリー著、篠原正瑛訳、筑摩書房)が日本でも発行されたが、管見によれば、小林秀雄はこの著書に言及した書評や評論も書いていないように見える。「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)――良心の問題と「アイヒマン裁判」

商品の詳細 (書影は「アマゾン」より)

二、「ヒットラーと悪魔」とその時代

改めて「ヒットラーと悪魔」を読み直して驚いたのは、おそらく不本意ながら敗戦後の文壇事情を考慮して省かざるを得なかったヒトラーの「決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚」や「感傷性の全くない政治の技術」が、ドストエフスキー論にも言及することで政治的な色彩を薄めながらも、『我が闘争』からの抜き書きともいえるような詳しさで紹介されていたことである(太字は引用者)。

最初はそのことに戸惑いを覚えたが、この文章が掲載されたこの当時の政治状況を年表で確認したときその理由が分かった。東条英機内閣で満州政策に深く関わり戦争犯罪にも問われた岸信介は、首相として復権すると1957年5月には国会で「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」と答弁していた。そして、1960年1月19日にはアメリカで新安全保障条約に調印したのである。この条約を承認するために国会が開かれた5月は、まさに激しい「政治の季節」だったのである。

この時期の重要性については黒澤明監督の盟友・本多猪四郎監督が、大ヒットした映画《ゴジラ》に次いで原水爆実験の危険性を描き出した1961年公開の映画《モスラ》で描いているので、本論からは少し離れるが確認しておきたい、(『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』(のべる出版企画、2016年、45頁)。

すなわち、1960年の4月には全学連が警官隊と衝突するという事件がすでに起きていたが、5月19日に衆議院の特別委員会で新条約案が強行採決され、5月20日に衆議院本会議を通過すると一般市民の間にも反対の運動が高まり、国会議事堂の周囲をデモ隊が連日取り囲むようになった。そして6月15日には暴力団と右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出す一方で、国会議事堂正門前では機動隊がデモ隊と衝突してデモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死するという悲劇に至っていた。

一方、このような激しい安保条約反対運動に対抗するかのように、すでに1958年には神武天皇の即位は神話であり史実ではないとして強く批判し、「国が二月十一日を紀元節と決めたら、せっかく考古学者や歴史学者が命がけで積上げてきた日本古代の年代大系はどうなることでしょう。本当に恐ろしいことだと思います」との書簡を寄せ、「これに反発した右翼が三笠宮に面会を強要する事件」も発生していた(上丸洋一『「諸君!」「正論」の研究 保守言論はどう変容してきたか』岩波書店、10頁)。なぜならば、戦前の価値の復活を求める右翼や論客は「紀元節奉祝建国祭大会」などの活動を強めていたのである。

三笠宮は編著『日本のあけぼの 建国と紀元をめぐって』(光文社、1959年)の「序文」で「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた。……過去のことだと安心してはおれない。……紀元節復活論のごときは、その氷山の一角にすぎぬのではあるまいか」と書いていた。

上丸洋一(図版はアマゾンより)

書評『我が闘争』の『全集』への収録の際には省いていたヒトラーの「決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚」や「感傷性の全くない政治の技術」をより詳しく紹介した「ヒットラーと悪魔」は、まさにこのような時期に書かれていたのである。

三、「感傷性の全くない政治の技術」と「強者への服従の必然性」

映画についての感想を記したあとで、20年前に書いた書評の概要を記した小林は、「ヒットラーのような男に関しては、一見彼に親しい革命とか暴力とかいう言葉は、注意して使わないと間違う」とし、「彼は暴力の価値をはっきり認めていた。平和愛好や暴力否定の思想ほど、彼が信用しなかったものはない。ナチの運動が、「突撃隊」という暴力団に掩護されて成功した事は誰も知っている」ことを確認している。

しかし、その箇所で小林はヒトラーの「感傷性の全くない政治の技術」についても以下のように指摘していたが、それは現在の安倍政権の運営方法と極めて似ているのである。

「バリケードを築いて行うような陳腐な革命は、彼が一番侮蔑していたものだ。革命の真意は、非合法を一挙に合法となすにある。それなら、革命などは国家権力を合法的に掌握してから行えば沢山だ。これが、早くから一貫して揺がなかった彼の政治闘争の綱領である。」

そして、「暴力沙汰ほど一般人に印象の強いものはない。暴力団と警察との悶着ほど、政治運動の宣伝として効果的なものはない。ヒットラーの狙いは其処にあった」とした小林は、「だが、彼はその本心を誰にも明かさなかった。「突撃隊」が次第に成長し、軍部との関係に危険を感ずるや、細心な計画により、陰謀者の処刑を口実とし、長年の同志等を一挙に合法的に謀殺し去った」と続けている。

さらに、ヒトラーの人生観を「人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である」とした小林は、「獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者にどうして屈従し味方しない筈があるか」と書いて、ヒトラーの「弱肉強食の理論」を効果的に紹介している。

さらに小林はヒトラーの言葉として「大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう」と書き、「ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキイが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった」と続けている。

この表現はナチズムの危険性を鋭く指摘したフロムが『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社)で指摘していた記述を思い起こさせる。この本がすでに1951年には邦訳されていたことを考慮するならば、小林がこの本を強く意識していた可能性は大きいと思える。

しかしその結論は正反対で、小林秀雄はヒトラーの独裁とナチズムが招いた悲劇にはまったく言及していないのである。

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「ヒットラーと悪魔」をめぐって(4)――大衆の軽蔑と「プロパガンダ」の効用

(2017年9月17日、記述の一部を削除して主題を明確化し副題を変更。関連記事のリンク先を追加)

「表現の自由と情報へのアクセス」の権利と「差別とヘイトスピーチ」の問題――「特定秘密保護法」から「共謀罪」へ

現在、「共謀罪」の議論が国会で行われているが、6月2日の衆院法務委員会で金田法務大臣は、戦争に反対する人々を逮捕することを可能にした「治安維持法」を「適法」であったとし、さらに創価学会初代牧口会長も獄死するに至った「拘留・拘禁」などの「刑の執行も、適法に構成された裁判所によって言い渡された有罪判決に基づいて、適法に行われたものであって、違法があったとは認められません」 と答弁した。

一方、5月30日に最高裁は「サンデー毎日」(毎日新聞出版)が2014年10月5日号に掲載した「安倍とシンパ議員が紡ぐ極右在特会との蜜月」という記事を名誉毀損で訴えていた稲田朋美・防衛相の訴えが一審、二審判決につづいて稲田氏の上告を棄却する決定が出した。すなわち、稲田氏の資金管理団体「ともみ組」が2010年から12年のあいだに、ヘイトスピーチを繰り返していた「在特会」の有力会員や幹部など8人から計21万2000円の寄付を受けていたことを指摘したこの記事の正当性が最高裁でも認められたのである。

しかも、6月2日付の記事で「リテラ」が指摘しているように稲田氏は、〈元在特会事務局長の山本優美子氏が仕切る極右市民団体「なでしこアクション」が主催する集会に2012年に登壇しており、14年9月にはネオナチ団体代表とのツーショット写真の存在も発覚〉していた。それにもかかわらず、〈安倍首相は稲田氏をそれまでの自民党政調会長よりもさらに重い防衛相というポストにまで引き上げた。稲田氏と同じようにネオナチ団体代表と写真におさまっていた高市早苗総務相も据え置いたままである。〉

ヘイトスピーチ(写真の出典は「毎日新聞」)

なお、防衛相就任以前にも保守系雑誌などで「長期的には日本独自の核保有を国家戦略として検討すべきではないでしょうか」「文科省の方に『教育勅語のどこがいけないのか』と聞きました」などと述べていた稲田氏が、最近も月刊誌「月刊Hanada」(7月号)に論文を寄稿して、「大東亜戦争」の意義を強調するような持論を展開していたことが判明した。

これらの人物を大臣に任命した安倍首相の責任はきわめて重たく、この問題は国連のデービッド・ケイ特別報告者の「対日調査報告書」ともかかわると思える。

*   *   *

すでにみたようにピレイ国連人権高等弁務官は2013年に強行採決された「特定秘密保護法」について、12月2日にジュネーブで開かれた記者会見で「表現の自由と情報へのアクセスという二つの権利」に関わるこの法案については、人権高等弁務官事務所も注目しているが、「法案には明 確さが不十分な箇所があり、何が秘密かの要件が明確ではなく、政府が不都合な情報を秘密として特定できてしまう」と指摘し、次のように続けていた。

「政府および国会に、憲法や国際人権法で保障されている表現の自由と情報へのアクセスの権利の保障措置(セーフガード)を規定するまで、法案 を成立させないよう促したい」。

今回も「共謀罪」法案を衆議院で強行採決した日本政府に対して、国連人権高等弁務官事務所は、「メディアの独立性に懸念を示し、日本政府に対し、特定秘密保護法の改正と、政府が放送局に電波停止を命じる根拠となる放送法四条の廃止を勧告した」、「対日調査報告書」を公表した。

一方、産経新聞によれば、高市早苗総務相は2日午前の閣議後の記者会見で、この「対日調査報告書」について「わが国の立場を丁寧に説明し、ケイ氏の求めに応じて説明文書を送り、事実把握をするよう求めていた。にもかかわらず、われわれの立場を反映していない報告書案を公表したのは大変、残念だ」と述べていた。

しかし、「言論と表現の自由」に関する調査のために来日した国連特別報告者・デービッド・ケイ氏が公式に面会を求めていたにもかかわらず、それを拒否していた高市早苗総務相がこのような形で国連特別報告者の「報告書」を非難することは、「日本会議」などの右派からは支持されても、国際社会の強い批判を浴びることになるだろう。

この意味で注目したいのは、5月31日に掲載された読売新聞の「報告書」では「差別とヘイトスピーチ」の項目もあるが、要旨が記された記事では略されており、日本政府の「反論書」要旨にもそれに対する反論は記されていないことである。そのことは「差別とヘイトスピーチ」にふれられることを安倍首相や閣僚が嫌っていることを物語っているようにも見える。

現在、国連と安倍内閣との間に生じている強い摩擦や齟齬は、「特定秘密保護法」案が強行採決された時から続いているものであり、今回の「勧告」は戦前の価値観を今も保持している「日本会議」系の議員を重用している安倍内閣の政権に対する強い不信感を物語っているだろう。

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「特定秘密保護法」強行採決への歩み(3)

私は憲法や法律、政治学などの専門家ではないが、主に専門のドストエフスキー作品の考察をとおして、強行採決された「特定秘密保護法」の問題点に迫った記事の題名とリンク先を挙げる。

なぜならば、「表現の自由と情報へのアクセスという二つの権利」が許されていなかったニコライ一世の治世下の「暗黒の30年」に、ドストエフスキーは作品を「イソップの言葉」を用いて書くことによって、「憲法」の発布や農奴制の廃止、言論の自由を強く求めていたからである。

彼の作品は戦時中にヒトラーの『わが闘争』を賛美していた文芸評論家・小林秀雄の解釈によって矮小化されたが、シベリアに流刑になった以降もさまざまな表現上の工夫をするとともに「虚構」という方法を用いて、重たい「事実」に迫ろうとしていた。

残念ながら、現在も文芸評論家の小林秀雄の影響が強い日本では、ドストエフスキーの作品を「父殺しの文学」と規定する刺激的な解釈をして「二枚舌」の作家と位置づけている小説家もいるが、それは作家ドストエフスキーだけでなく「文学」という学問をも侮辱していると思える。

ドストエフスキーの作品研究においても、「農奴の解放」や「裁判の公平」そして、「言論の自由」を求めていたドストエフスキーの姿勢もきちんと反映されねばならないだろう。

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 『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)

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「『地下室の手記』の現代性――後書きに代えて」(7月9日)

憲法96条の改正と「臣民」への転落ーー『坂の上の雲』と『戦争と平和』(7月16日)

TPPと幕末・明治初期の不平等条約(7月16日)

「ブラック企業」と「農奴制」――ロシアの近代化と日本の現在(7月17日 )

「蟹工船」と『死の家の記録』――俳優座の「蟹工船」をみて(7月17日 )

「憲法」のない帝政ロシア司馬遼太郎の洞察力――『罪と罰』と 『竜馬がゆく』の現代性10月31日

ソ連の情報公開と「特定秘密保護法」→グラースノスチ(情報公開)とチェルノブイリ原発事故(10月17日 )

現実の直視と事実からの逃走→「黒澤映画《夢》の構造と小林秀雄の『罪と罰』観」11月5日

小林秀雄のドストエフスキー観テキストからの逃走――小林秀雄の「『白痴』についてⅠ」を中心に  

上からの近代化とナショナリズムの問題日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって11月8日

「特定秘密保護法案」に対する国際ペン会長の声明11月22日

「特定秘密保護法」の強行採決と日本の孤立化11月26日

(2017年6月3日、6月9日、11日、題名を変更し改訂、図版を追加)

書評 『「罪と罰」をどう読むか〈ドストエフスキー読書会〉』(川崎浹・小野民樹・中村邦生著 水声社 二〇一六年)

『罪と罰』をどう読むか(書影は紀伊國屋書店より)

『「罪と罰」をどう読むか〈ドストエフスキー読書会〉』(川崎浹・小野民樹・中村邦生著 水声社 二〇一六年)

本書はウォルィンスキイの『ドストエフスキイ』やレイゾフ編『ドストエフスキイと西欧文学』など多くの訳書があるロシア文学者の川崎浹氏と、『新藤兼人伝──未完の日本映画史』などの著作がある研究者の小野民樹氏と、ドストエフスキーの作中人物をも取り込んだ小説『転落譚』がある中村邦生氏の鼎談を纏めたものである。

『罪と罰』の発表から一五〇年にあたる二〇一六年には、それを記念した国際ドストエフスキー学会が六月にスペインのグラナダで開かれたが、冒頭で『罪と罰』を翻訳し「恰も広野に落雷に会って目眩き耳聾ひたるがごとき、今までに会って覚えない甚深な感動を与えられた」という内田魯庵の言葉が紹介されている本書もそのことを反映しているだろう。

さらに本書の「あとがき」では学術書ではないので、「お世話になった方々の氏名をあげるにとどめる」として本会の木下豊房代表をはじめ、芦川氏や井桁氏など主なドストエフスキー研究者の名前が挙げられており、それらの研究書や最新の研究動向も踏まえた上で議論が進められていることが感じられる。

以下、本稿では『罪と罰』という長編小説を解釈する上できわめて重要だと思われる「エピローグ」の問題を中心に六つの章からなる本書の特徴に迫りたい。

「『罪と罰』への道」と題された第一章では、若きドストエフスキーが巻き込まれたペトラシェフスキー事件など四〇年代末期の思想動向やシベリアへの流刑の後で書かれた『死の家の記録』などの流れが簡潔に紹介されている。

ことに、農奴解放などの「大改革」が中途半端に終わったことで、過激化していく学生運動などロシアの時代風潮がチェルヌイシェフスキーとの相克や『何をなすべきか』との関わりだけでなく、一八六五年には「モスクワでグルジア人の青年が高利貸しの老婆二人を殺害、裁判が八月に行われ、その速記録が九月上旬の『声』紙に連載」されていたことや、「大学紛争で除籍されたモスクワ大学の学生が郵便局を襲って局員を殺そうとした話」など当時の社会状況が具体的に記されており、そのことは主人公・ラスコーリニコフの心理を理解する上で大いに役立っていると思われる。

当初は一人称で書かれていたこの小説が三人称で書かれることによって、長編小説へと発展したことなど小説の形式についても丁寧に説明されている。

本書の特徴の一つには重要な箇所のテキストの引用が適切になされていることが挙げられると思うが、第二章「老婆殺害」でも『罪と罰』の冒頭の文章が長めに引用され、この文章について小野氏が「なんだか映画のはじまりみたいですね。ドストエフスキーの描写はひじょうに映像的で、描写どおりにイメージしていくと、理想的な舞台装置ができあがる」と語っている。

この言葉にも表れているように、三人の異なった個性と関心がちょうどよいバランスをなしており、モノローグ的にならない<読書会>の雰囲気が醸し出されている。

また、『罪と罰』を内田魯庵の訳で読んだ北村透谷が、お手伝いのナスターシャから「あんた何をしているの?」と尋ねられて、「考えることをしている」と主人公が答える場面に注目していることに注意を促して、「北村透谷のラスコーリニコフ解釈は、あの早い時期としては格段のもの」であり、この頃に「日本で透谷がドストエフスキーをすでに理解していたというのは誇らしい」とも評価されている。

さらに、「ドストエフスキーの小説はたいてい演劇的な構成だと思います。舞台に入ってくる人間というのは問題をかかえてくる」など、「ドストエフスキーの小説は、ほとんどが何幕何場という構成に近い」ことが指摘されているばかりでなく、具体的に「ラスコーリニコフとマルメラードフの酒場での運命的な出遭いというのは、この小説のなかでも心に残る場面ですね」とも語られている。

たしかに、明治の『文学界』の精神的なリーダーであった北村透谷から強い影響を受けた島崎藤村の長編小説『破戒』でも、主人公と酔っ払いとの出遭いが重要な働きをなしており、ここからも近代日本文学に対する『罪と罰』の影響力の強さが感じられる。

また、『罪と罰』とヨーロッパ文学との関連にも多く言及されている本書では、ナポレオン軍の騎兵将校として勤務していた『赤と黒』の作家スタンダールが、「モスクワで零下三〇度の冬将軍」に襲われていたことなど興味深いエピソードが紹介されており、若い読者の関心もそそるだろう。

テキストの解釈の面では、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』など書簡体小説の影響を受けていると思われる母親からの長い手紙の意味がさまざまな視点から詳しく考察されているところや、なぜ高利貸しの義理の妹リザベータをも殺すことになったかをめぐって交わされる「六時過ぎか七時か」の議論、さらに「ふいに」という副詞の使用法についての会話もロシア語を知らない読者にとっては興味深いだろう。

犯罪の核心に迫る第三章「殺人の思想」では、「先ほどネヴァ川の光景が出てきましたけど、夕陽のシーンが小説全体のように現れることが、実に面白いですね」、「重要な場面で必ず夕陽が出てくるし、『夕焼け小説』とでもいいたいほどです」と語られているが、映画や演劇の知識の豊富さに支えられたこの鼎談をとおして、視覚的な映像が浮かんでくるのも本書の魅力だろう。

さらに、井桁貞義氏はドストエフスキーにおける「ナポレオンのイデア」の重要性を指摘していたが、本書でも「ナポレオンとニーチェ」のテーマも視野に入れた形で「良心の問題」がこの小説の中心的なテーマとして、「非凡人の理論」や「新しいエルサレム」にも言及しながらきちんと議論されている。

本書の冒頭では『罪と罰』から強い感動を与えられたと記した内田魯庵の言葉をひいて、「読んだ人には皆覚えがある筈だ」と指摘し、「残念な事には誰も真面目に読み返そうとしないのである」と続けていた文芸評論家の小林秀雄の文章も引用されていた。本章における「良心の問題」の分析は、一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、ラスコーリニコフには「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と解釈していた小林秀雄の良心観を再考察する機会にもなると思える。

第四章「スヴィドリガイロフ、ソーニャ、ドゥーニャ」や、「センナヤ広場へ」と題された第五章でも多くの研究書や研究動向も踏まえた上で、主な登場人物とその人間関係が考察されており興味深い。

ことに私がつよい関心を持ったのは、ソーニャが「ラザロの復活」を読むシーンに関連して一八七三年の『作家の日記』(昔の人々)でも、ドストエフスキーがルナンの『イエスの生涯』について、「この本はなんといってもキリストが人間的な美しさの理想であって、未来においてすらくり返されることのない、到達しがたい一つの典型であるとルナンは宣言していた」ことに注意が促されていたことである。

そして、このようなドストエフスキーのキリスト理解をも踏まえて第六章「『エピローグ』」の問題」では、『死の家の記録』に記されていたドストエフスキー自身がシベリアのイルティシ川から受けた深い感銘もきちんと引用されており、そのことが『罪と罰』の読みに深みを与えている。

たとえば、ドストエフスキーは「首都から千キロも離れたオムスクの監獄と流刑地のセミパラチンスクで過ごしたことにより、ロシアの懐の深さを知って帰ってきた」と語った川崎氏は、「その背景があって作家は『エピローグ』を書いた」と説明している。

そして、「『ラズミーヒンはシベリア移住を固く決意した』と『エピローグ』に書かれていますが、彼のシベリア行きはちょっと不自然に思いました」との感想に対しては、「ラズミーヒンがドゥーニャといっしょにシベリアに行って根付こうというときに、あそこは『土壌が豊かだから』と彼自身はっきりと言って」いると語っているのである。

さらに私は囚人たちが大切に思っている「ただ一条の太陽の光、鬱蒼(うっそう)たる森、どこともしれぬ奥まった場所に、湧きでる冷たい泉」が、ラスコーリニコフが病院で見た「人類滅亡の悪夢」に深く関わっていると考えてきたが、この鼎談でもこの文章に言及した後で悪夢が詳しく分析されている。

すなわち、この悪夢には「ヨハネの黙示録」が下敷きになっていることを確認するとともに、ドストエフスキーがすでに一八四七年に書いた『ペテルブルグ年代記』で「インフルエンザと熱病はペテルブルグの焦点である」と書いていることや、その頃に熱中したマクス・シュティルネルの『唯一者とその所有』では、個人主義の行き過ぎが指摘されていることも確認されている。

そして、「この熱に浮かされた悪夢の印象がながい間消え去らないのに悩まされた」とドストエフスキーが書いていることにふれて、それは「悪夢の役割の大きさを作家が強調したかったのでしょう」と記されている。

ただ、『罪と罰』が連載中の一八六六年五月に起こった普墺戦争では、先のデンマークとの戦争では連合して戦ったプロイセン王国とオーストリア帝国とが戦ってプロイセンが圧勝したことで、今度はフランス帝国との戦争が懸念されるようになっていた。そのことをも留意するならば、この悪夢は将来の世界大戦ばかりでなく、最新兵器を擁する大国に対するテロリズムが広がる現代へのドストエフスキーの洞察力をも物語っているように思える。

鼎談では「ドストエフスキーの文学」と現代との関わりも強く意識されていたが、川崎氏にはシクロフスキイの『トルストイ伝』やロープシンの『蒼ざめた馬』などの翻訳があるので、そこまで踏み込んで解釈してもよかったのではないかと私には思われた。

なぜならば、『地下室の手記』でドストエフスキーは、バックルによれば人間は「文明によって穏和になり、したがって残虐さを減じて戦争もしなくなる」などと説かれているが、実際にはナポレオン(一世、および三世)たちの戦争や南北戦争では「血は川をなして流れている」ではないかと主人公に鋭く問い質させていたからである。

『罪と罰』の最後をドストエフスキーが、「『これまで知ることのなかった新しい現実を知る人間の物語』が新しい作品の主題になると予告している」と書いていることに注意を促して、「そこにはどうしても『白痴』という実験小説が結びつかざるを得ません」と続けた川崎氏の言葉を受けて、「そこに私たちの新たな関心の方位があるということですね」と語った中村氏の言葉で本書は締めくくられている。

冒頭に掲げられている一八六五年の「ペテルブルグ市 街図」や、ロシア人独特の正式名称や愛称を併記した「登場人物一覧」、さらに「邦訳一覧」が収録されており、この著書は格好の『罪と罰』入門書となっているだろう。

川崎氏は「あとがき」で〈ドストエフスキー読書会〉という副題のある本書が、一三年間かけてドストエフスキーの全作品を二度にわたって読み込んだ上で、『罪と罰』についての鼎談を纏めたと発行に至る経緯を記している。

本書でもふれられていたルナンの『イエスの生涯』についてのドストエフスキーの関心は長編小説『白痴』とも深く関わっているので、次作『白痴』論の発行も待たれる。

(『ドストエーフスキイ広場』第26号、2017年、132~136頁より転載)

 

 

長編小説『白痴』の世界と黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》(1960)

86l黒澤明、悪い奴ほど

(ポスターの図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

長編小説『白痴』の世界と黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》(1960)

東京地検が甘利前経済再生担当相と元秘書2人を「現金授受問題」で不起訴としたとの報道が5月31日の「東京新聞」朝刊に載っていました。

長編小説『白痴』との関連で黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》(脚本・久板栄二郎、黒澤明、小國英雄、菊島隆三、橋本忍)について考察した箇所を拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011年)より一部改訂して再掲します。

父親の恨みを晴らすために上司の娘との結婚を果たした主人公をとおして汚職の問題などが描かれている1960年に公開された映画《悪い奴ほどよく眠る》の世界が、安倍政権下の日本では今も生き続けているのを強く感じるからです。

「アベノミクス」の詐欺性(4)――TPP秘密交渉担当・甘利明経済再生相の辞任

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一九六〇年に公開されたこの映画の冒頭では、土地開発公団・副総裁の娘佳子と秘書の西との華やかな結婚披露宴の場で、司会を務めるはずだった課長補佐が逮捕されて動揺する幹部の姿や新聞記者たちの動きが描写されていた。

場面が進むにつれて新郎の西(三船敏郎)が五年前に起きた汚職事件の捜査の過程で、上司たちの保身のために飛び降り自殺をさせられていた課長補佐の私生児であり、他人と自分の戸籍を代えることまでして父親の復讐を果たそうとしていたことが次第に明らかになる。

つまり、子供の頃に負った怪我で足をひきずるようになったが、「赤ン坊」のように純粋な心を持っていた佳子(香川京子)と結婚することで、西は副総裁にまで出世していた父の上司(森雅之)に接近し秘書に取り立てられていたのである(『全集 黒澤明』第5巻・24頁、50頁)。

秘書としての地位を利用することで西は、その時の事件の隠蔽工作に関わったが今度は殺されそうになった人物を捕らえることに成功し、汚職の真相を暴露する一歩手前のところまで佳子の父親でもある副総裁を追い詰めた。しかし、なんとか罪が暴かれることを防ごうとした副総裁は、娘婿の生命を案じるフリをしてその居所を娘から聞き出して、証人たちとともに娘婿を抹殺した。

ドストエフスキーの長編小説『白痴』は、複雑な性格のガヴリーラやイッポリートの家族をとおして、当時の混迷したロシアの社会情勢とムィシキン公爵の苦悩を描き出していたが、この映画も父親の計略によって夫が殺されたことを知ったことで、純粋な精神を持っていた佳子がムィシキンと同じように発狂してしまうことを描いて終わる。

こうして、この映画は「汚職事件が多発して、真相が分からぬままに課長補佐、係長等が謎の自殺を遂げるという、痛ましい事件」が続いていた時代を背景に、企業と癒着した官僚が汚職で富を築き、発覚しそうになると容赦なく罪を部下に押しつけるような体質になっていた戦後の日本社会の腐敗をえぐり出していた*7。

そして《悪い奴ほどよく眠る》が描いていた社会状況は、クリミア戦争後に西欧のさまざまな思想がどっと入ってきて「価値の混乱」が見られ、高官による公金の使い込みや自殺なども見られるようになっていたロシアの社会状況とも重なっていたのである。

(『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、59頁~60頁より一部改訂して再掲。2017年5月19日、図版を追加)

 

日露戦争の勝利から太平洋戦争へ(2)――「勝利の悲哀」と「玉砕の美化」

前回は「迷信を教育の場で喧伝して回った。これが、国が滅んでしまったもと」であると分析して、教育の問題にも注意を促した司馬遼太郎氏の記述を紹介したあとで、次のように結んでいました。

〈「歴史的な事実」ではなく、「情念を重視」した教育が続けば、アメリカに対する不満も潜在化しているので、今度は20年を経ずして日本が「一億玉砕」を謳いながら「報復の権利」をたてにアメリカとの戦争に踏み切る危険性さえあるように思われるのです。〉

この結論を唐突なように感じる読者もいると思われますが、1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、作家の林房雄は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」と「一億玉砕」を美化するような発言をしていたのです。

しかも、この鼎談でナポレオンを英雄としたばかりでなく、ヒトラーも「小英雄」と呼んで「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語った評論家の小林秀雄は、「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」という林の問いかけに「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と無責任な発言をしていました(太字は引用者、「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁((不二出版、復刻版、2008~2011年)。

『白痴』など多くの長編小説でドストエフスキーが「自殺」の問題を取り上げて厳しく批判していたことに留意するならば、当時からドストエフスキー論の権威と認められていた評論家の小林秀雄は、「玉砕」を美化するような林房雄の発言をきびしく批判すべきだったと思われます。しかし、鼎談では林のこのような発言に対する批判はなく、敗戦間際になると大本営発表などで「玉砕」と表現された部隊の全滅が相次いだのです。

(2016年4月30日。一部、削除)

*   *   *

前回の論考の副題を「勝利の悲哀」としたのは、日露戦争が始まった時にはトルストイの反戦論「爾曹(なんじら)悔改めよ」に共感しなかった徳富蘆花が、戦後には近代戦争としての日露戦争の悲惨さやナショナリズムの問題に気づいて、終戦の翌年の明治三九年にロシアを訪れて、ヤースナヤ・ポリャーナのトルストイのもとで五日間を過ごし散策や水泳を共にしながら、宗教・教育・哲学など様々な問題を論じた徳富蘆花が1906(明治39)年12月に第一高等学校で「勝利の悲哀」と題して講演していたからです。

リンク→『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』(東海教育研究所、2005年)。

トルストイは蘆花に対して欧米を「腐朽せむとする皮相文明」と呼びながら、力によって「野蛮」を征服しようとする英国などを厳しく批判する一方で、墨子の「非戦論」を高く評価し、日本やロシアなどには「人生の真義を知り人間の実生活をなす」という「特有の使命」があると指摘していました。

蘆花も「勝利の悲哀」において、ナポレオンとの「祖国戦争」に勝利した後で内政をおろそかにして「諸国民の解放戦争」に参加した帝政ロシアをエピローグで批判していた長編小説『戦争と平和』を強く意識しながら、ロシアに侵攻して眼下にモスクワを見下ろして勝利の喜びを感じたはずのナポレオンがほどなくして没落したことや、さらに児玉源太郎将軍が二二万もの同胞を戦場で死傷させてしまったことに悩み急死したことにふれて、戦争の勝利にわく日本が慢心することを厳しく諫めていたのです。

そして、蘆花は日本の独立が「十何師団の陸軍と幾十万噸(トン)の海軍と云々の同盟とによつて維持せらるる」ならば、それは「実に愍(あは)れなる独立」であると批判し、言葉をついで「一歩を誤らば、爾が戦勝は即ち亡国の始とならん、而して世界未曾有の人種的大戦乱の原とならん」と強い危機感を表明して、「日本国民、悔改めよ」と結んでいました。

ここでは詳しく考察する余裕はありませんが、司馬氏は『坂の上の雲』を執筆中の昭和47年5月に書いた「あとがき五」で、幸徳秋水が死刑に処された時に行った徳冨蘆花の「謀反論」にふれて、蘆花は「国家が国民に対する検察機関になっていくことを嫌悪」したと書き、蘆花にとっては父や「父の代理的存在である兄蘇峰」が「明治国家というものの重量感とかさなっているような実感があったようにおもわれる」と書いていました。

しかも、『坂の上の雲』では旅順の激戦における「白襷隊(しろだすきたい」の「突撃」が描かれる前に南山の激戦での日本軍の攻撃が次のように描かれていました。

「歩兵は途中砲煙をくぐり、砲火に粉砕されながら、ようやく生き残りがそこまで接近すると緻密な火網(かもう)を構成している敵の機関銃が、前後左右から猛射してきて、虫のように殺されてしまう。それでも、日本軍は勇敢なのか忠実なのか、前進しかしらぬ生きもののようにこのロシア陣地の火網のなかに入ってくる」。

この記述に注目するならば、司馬氏がくりかえし突撃の場面を描いているのは、「国家」と「公」のために自らの死をも怖れなかった明治の庶民の勇敢さや気概を描くためではなく、かれらの悲劇をとおして、「神州不滅の思想」や「自殺戦術とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学」を広めた日露戦争後の日本社会の問題を根源的に反省するためだったと思えます。

「忠君愛国」の思想を唱えるようになった徳富蘇峰は、第一次世界大戦の時期に書いた『大正の青年と帝国の前途』においては、白蟻の穴の前に危険な硫化銅塊を置いても、白蟻が「先頭から順次に其中に飛び込み」、その死骸でそれを埋め尽し、こうして「後隊の蟻は、先隊の死骸を乗り越え、静々と其の目的を遂げたり」として、集団のためには自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを讃えるようになっていたのです。

前回もふれたように「『坂の上の雲』を書き終えて」というエッセイで司馬氏は、「政治家も高級軍人もマスコミも国民も神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と厳しく批判していました(「防衛と日本史」『司馬遼太郎が語る日本』第5巻)。

司馬氏が「“雑貨屋”の帝国主義」で、「日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦」までの40年を「異胎」の時代と名付けたとき、「日本国民、悔改めよ」と結んでいた蘆花の講演「勝利の悲哀」ばかりでなく、「玉砕」を美化した蘇峰の思想をも強く意識していたことはたしかでであるように思われます。

(2016年4月30日。一部、削除)

大木昭男著『ロシア最後の農村派作家――ワレンチン・ラスプーチンの文学』(群像社、 2015年)

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中編『生きよ、そして記憶せよ』(一九七四)と『火事』(一九八五)でソ連邦国家賞を二度受賞し、二〇〇〇年にはソルジェニーツィン賞を受賞した農村派の作家ラスプーチンが昨年の三月に亡くなった。

その報を受けて、 作家とは個人的にも旧知の間柄であり、『病院にて ソ連崩壊後の短編集』(群像社、二〇一三)の訳書もある大木昭男氏がこれまでの論稿をまとめたのが本書である。作家の小説だけでなく、ルポルタージュや「我がマニフェスト」をも視野に入れた本書は、作家の全体像を把握できるような構成になっている(本稿では著者の表記「ドストエーフスキイ」で統一した)。

第一章 ロシア独自の道とインテリゲンチヤ

第二章 モスクワ騒乱事件直後のラスプーチン

第三章 ドストエーフスキイとラスプーチン――「救い」の問題試論

第四章 ラスプーチン文学に現れた母子像

第五章 ロシア・リアリズムの伝統とラスプーチン文学

第六章 失われた故郷への回帰志向―小説のフィナーレ

第七章 ラスプーチン文学に見る自然

エピローグ――「我がマニフェスト」翻訳とコメント

ドストエーフスキイとの関連で注目したいのは、「わたしはここ十年間ドストエーフスキイを何回も読み返しています」と一九八六年に語ったラスプーチンが、「ドストエーフスキイはわたしにとってどういう作家であるかといえば、気持ちの上で一番近い存在であり、精神的にもっとも影響を受けた作家であるという答えが一番正しい答えになると思います」と続けていたことである(第三章)。

この言葉を紹介して、ラスプーチンの「精神の中核にはやはり正教の人間観が厳然と在る」と指摘した大木氏は、「ドストエーフスキイの提唱した『土壌主義』は、『母なる大地』と融合したプーシキン文学の伝統を継承したもの」であり、「その伝統を現代において受け継いだ作家こそワレンチン・ラスプーチンなのである」と主張している(第四章)。

ただ、本書に収録されている作家の略年譜によれば、ラスプーチンが洗礼を受けたのは中編『マチョーラとの別れ』(一九七六)の後の一九八〇年のことだったことがわかる。では、なぜラスプーチンはこの作品の後で正教徒となったのだろうか。ここでは中編『火事』(一九八五)とドストエーフスキイの作品との関係を詳しく分析した第三章を中心に、この作品に至るまでとその後の作品を分析した著者の考察を追うことで、ラスプーチンのドストエーフスキイ観に迫ることにしたい。

*   *   *

一九三七年三月に今はダムの底に沈んだシベリアの小さな村に生まれたラスプーチンは、ナチス・ドイツとの「大祖国戦争」の苦しい時期に少年時代を過ごし、大学卒業後は新聞記者として勤めながら小説も書き始めた。

「ソ連崩壊後、国民の実に六〇%が貧困層に転落し、とりわけ年金生活者の多くが医療にもかかれないまま路頭に迷った。ラスプーチンはそのような悲惨な現実をよく見据えている」と指摘した大木氏は、彼の作品を貫く方法について、ドストエーフスキイの第一作『貧しき人々』にも言及しながら、「ここにわたしは、一九世紀以来のロシア・リアリズムの伝統を感ずる」と書いている(第五章)。

「小説のフィナーレ」に注目しながらラスプーチンの主な作品を分析した第六章は、現実をしっかりと見つめて描くリアリズムが初期の段階からあったことを示すとともに、ドストエーフスキイの「土壌(大地)主義」への理解の深まりをも示していると思える。

すなわち、中編『マリヤのための金(かね)』(一九六七)では、コルホーズ議長の要請で小売店の売り子として勤めたが、決算時になって千ルーブルもの不足金があることが判明するという事件が発生し、不正などするはずのない純朴な農婦マリヤとその夫が苦境に陥るという出来事をとおして、「昔ながらの共同体的な相互扶助の精神」が廃れつつある状態が描かれている。

中編『アンナ婆さんの末期』(一九七〇)でも、村で百姓として一生を過ごしたアンナ婆さんの臨終の場面をとおして、村に残った子供と村を出て行った子供たちとの関係が描かれており、「夜中、婆さんは死んだ」という最後の文章に注意を促した大木氏は「寿命のつきた一個人の死ではあるが、もっと大きなものの死を暗示しているように思われる」と記している。

そのテーマは「大祖国戦争」で勇敢に戦って負傷したグシコフが、快復したあとで再び戦場に送られることを知って脱走したために、「故郷への回路」を断ち切られてしまうという悲劇を描いた中編『生きよ、そして記憶せよ』(一九七四)や、壮大なダム建設のために水没させられることになったためにアンガラ河の中州の島退去を迫られた農民たちの悲劇を描いた中編『マチョーラとの別れ』(一九七六)でも受け継がれている。

注目したいのは、島の名前の「マチョーラ」が「母」を意味する「マーチ」という単語から作られた固有名詞であると指摘した大木氏が、『マチョーラとの別れ』という題名は、「母なる大地」との別れも示唆していることに注意を促していることである。

ラスプーチンが洗礼を受けた後で書かれた中編『火事』(一九八五)では、ダムの建設によって水没した故郷の村を去り林業に従事することになった主人公イワンが、林業場倉庫の火事の現場で目撃した出来事が描かれている。

この 作品が「『マチョーラとの別れ』の続編とも言うべきもの」であると指摘した大木氏は、火事場で見た「無秩序な光景」について考え始めたイワンの思索が、「自分の内部の無秩序についての内省へと移っていく」ところに、ドストエーフスキイの手法との類似性を見ている。

注目したいのは、この小説のラストシーンで描かれている、「彼は今小さな林の陰に回り、永遠に姿を消してしまうのだ」という「謎めいた表現」は、「主人公の別世界への新たな旅立ちを意味するシーンである」と著者が解釈していることである。

訳出されている「あたかも夜の災厄のために苦しんでいたかのように、静かでもの悲しい秘められた大地がやわらかな雪の下に横たわっていた」という文章から、最後の「大地は沈黙している。/おまえは何であるのか、無言の我が大地よ、おまえはいつまで沈黙しているのか?/本当におまえは沈黙しているのか?」という詩的な文章に至る箇所は、ラスプーチンにおける「土壌(大地)主義」の重みを象徴的に物語っているように思える。

『罪と罰』のエピローグでも「一つの世界から他の世界への漸次的移行」が示唆されていることに注目した著者は、『カラマーゾフの兄弟』でも「ガリラヤのカナ」の章では、「天地を眺めて神の神秘にめざめ、大地を抱擁し、泣きながら接吻する」というアリョーシャの体験が描かれていることを指摘して、中編『火事』の結末においても、「キリスト教的な『過ぎ越し』」が描かれていると主張しているの である(第三章)。

残念ながら日本ではドストエーフスキイ作品を自分の主観でセンセーショナルに解釈する著作の人気が高いが、ドストエーフスキイが一八六四年に書いたメモで人類の発展を、一、族長制の時代、二、過渡期的状態の文明の時代、三、最終段階のキリスト教の時代の三段階に分類していたことを指摘した大木氏は、『白痴』における「サストラダーニエ(共苦)」や「美は世界を救う」という表現の重要性を強調している。

実際、著者が指摘しているように、『白痴』の創作ノートでもムイシキンが「キリスト教的愛の感情に従って行動することを、ナスターシャ・フィリポヴナの救済と彼女の世話と見なして」おり、「長編における三つの愛」が「情熱的直接的愛――ロゴージン」、「虚栄心からの愛――ガーニャ」、そして「キリスト教的愛――公爵」であると明確に定義されているのである。

それゆえ、ラスプーチンが「魂の動きにおいては、ロシア的スタイルは、沢山の苦しみをなめた人へのサストラダーニエであり、思いやりであり」、「共同性である」と書いていることに注意を促した大木氏は、「この認識はドストエーフスキイの民衆観を継承している」と記している。

本書の構成は論文の執筆順になっているので最初に置かれているが、「ロシア独自の道とインテリゲンチヤ」と題された章では、一九九二年のインタビューで「今は検閲がなく、自由がありますが、文学がありません」と語ったラスプーチンの言葉を紹介しつつ、「欧米流マス文化」の氾濫による「精神的空虚と不安定の兆候」を指摘した大木氏は、異文化に対しても排他的な態度を取らない「文化的民族主義」を唱える作家の立場を「新スラヴ派」と位置づけている(第一章)。

短編『同じ土の中に』(一九九五)で「ソ連崩壊後のロシアは、またしても革命前の現実とほとんど同様の貧困と格差の社会になってしまった」ことを描き出したラスプーチンが、一九九七年に「我がマニフェスト」で『カラマーゾフの兄弟』にも言及しながら、「ロシアの作家にとって、再び民衆のこだまとなるべき時節が到来した。痛みも愛も、洞察力も、苦悩の中で刷新された人間も、未曾有の力をもって表現すべき時節が」と宣言したのは、このような時代的な背景によるものだったのである(エピローグ)。

最後の中編『イワンの娘、イワンの母』(二〇〇三)を考察した論文の冒頭で「ロシアの『母子像』といえば、先ず思い浮かべるのは、幼児イエスとその母マリヤの二人が描かれている聖母子イコンであろう。それは慈愛のシンボルであり、キリスト教的『救い』のイメージと結びついている」と記した大木氏は、「イワン」という名前が「ヨハネ」に由来しており、「イワンの日」と呼ばれる民衆的な祭りがあるほどこの名前はロシア人の間ではきわめてポピュラーで、ロシア正教会ではこの日が「洗礼者ヨハネの誕生日」とされていることも説明している(第四章)。

そして、「ロシア社会の重要な、最も救済力に富んだ革新は、勿論、ロシア人女性の役割に属する」とドストエーフスキイが『作家の日記』に書いていたことを紹介した著者は、「ロシア人女性の大胆さ」が描かれているこの小説は「『我がマニフェスト』の意欲的実践の作として評価されるべき」と書いている。

ラスプーチンの小説を高く評価した文化学者のリハチョーフが「文化環境の保護も自然環境の保護に限らず本質的な課題です」と書いていたことに関連して、ドストエーフスキイの「美は世界を救う」という表現にも言及した大木氏は、「その『美』とは、人間の精神的な美を意味する言葉であるが、自然環境の美が保たれてこそ、人間精神の美も育まれてゆくものであろう。ラスプーチンはそのような認識にもとづいて『バイカル運動』をはじめとする自然保護運動を積極的に展開してきたのであった」と続けている(第七章)。

中編『マチョーラとの別れ』論で大木氏は、経済的な観点からの「ダムの建設は環境破壊をもたらし、そこで暮らしている住民たちの土地と結びついた過去の記憶を奪うことになる」と指摘していたが、それは三・一一の大事故による放射能で故郷から追われた福島の人々にもあてはまるだろう。国民には秘密裏に行われて成立したTPPの交渉では農業分野で大幅な譲歩をしていたことが明らかになり、近い将来日本でも農村の疲弊と大地の劣化が進む危険性が高い。

ラスプーチンの「民族主義」的な主張には違和感を覚えるところもあるが、シベリアの小さな村の出来事などとおしてロシアの厳しい現実を丹念に描き出したラスプーチンの小説が、「土壌(大地)主義」を唱えたドストエーフスキイの精神を受け継いでいることを明らかにした本書の意義は大きい。

(『ドストエーフスキイ広場』第25号、2016年、108~112頁)。

井上ひさしのドストエフスキー観――『罪と罰』と『吉里吉里人』、『貧しき人々』と『頭痛肩こり樋口一葉』をめぐって

雑誌「チャイカ」(第三号)のインタビューで、井上氏は自分とロシア文学との関わりについて語りながら、「まあ、全部読んでいるわけじゃないんですけど、やっぱり私の基本となっているのは、ドストエーフスキイとチェーホフですね」と語っている。この雑誌については知らない方も多いと思われるし、また両者の係わりを知ることは劇作家井上ひさしを考える上でも重要だと思えるのでその内容を簡単に紹介し、あわせて筆者の考えも二・三記しておきたい。

*   *   *

「井上  それから小説……『吉里吉里人』なんていうのは、もうあれです、『罪と罰』を側におきながらですね、

本誌 お書きになったんですか?

井上 ええ、まあ、ロシア語は全然わかりませんけど何となくこうアノ、文章の息の長さとかですね、まあ、日本の文章は非常に盆栽風になりまして、こう、短く、一つの意味を一つの文で、それを貨車みたいに繋いでという方法が一番正しいとされていますね。…中略…でもドストエーフスキイ読みますと、アノ、長いですよね。…中略…今連載中の『一分ノ一』というのは『白痴』を読みながら、別にそれを採るっていうんじゃなくて、ある、こう何ていうんですかね、心構えといいますか、いつもドストエーフスキイはあるんです」。

*   *   *

インタビューなので語り手の舌足らずな面もあり、氏はここでドストエフスキーの文体と姿勢について語っているにすぎないが、二作品が『罪と罰』や『白痴』を「側におきながら」書かれたという証言は重く、そこからは多くの興味ある類似点が派生する筈だ。

たとえば氏は別の箇所で「ドストエーフスキイの場合は、国家の作った法律よりも、こう、フォークロアっていいますかね、民間伝承とか諺でやってますね」と述べている。こうした民衆からの視点こそは長編小説『吉里吉里人』を支えていたものでもあった。そしてドストエフスキーには現代文明に対する鋭い危機意識とともに天下国家をも論じようとする広い視野があるが、それはまた、それ程前面には出ないにせよ井上氏の作品を特徴付けるものでもある。

それとともに、井上氏は「ドストエーフスキイの魅力」は「『謎解き・罪と罰』に全部出ていると思います」と述べながら、ドストエフスキーの「メチャクチャな」「名前のつけ方」や彼の笑いについて触れ、『罪と罰』が「叙情的でもありますし、反面、すごい叙事詩でもあるんですけど、それから哲学小説としても読めますけど」「滑稽小説」でもあるのだと主張し、「世の中つらいことばっかりあるわけじゃなくて、つらいことが九つあれば一つくらいバカバカしいオカシイことありますよね。それがやっぱり小説にも反映しなきゃいけないと思うんです」と語っているが、それは井上氏の小説作法の根幹に係わるものでもあるだろう。

さらに、第一章「あんだ旅券は持って居たが」、第二章「俺達の国語は可愛がれ」といった『吉里吉里人』の章の命名方が『カラマーゾフの兄弟』の章の題名を思い起こさせることも付記しておきたい。

*   *   *

この対談で私の最も印象深かったのは、氏が一番好きな作品として『貧しき人々』を挙げ「あれは最高ですね、何ともいえないですね、あれはもう僕にとってですけど、世界の文学のトップですね、あんないい小説ないですね」と語り、「いつ読まれたんですか」という問いに「あれは随分前です」と答えながら、「あれが僕の妙な部分を作っていると思いますね」とまで述べている箇所である。

初めは少し意外な感じもしたが、しかしユーモアとペーソスを持って中年の官吏とみなし子の乙女の心理を描きながら、同時に彼らの視線を通してペテルブルグやロシアの生活の全体像にまで肉迫しえている『貧しき人々』と井上文学は、確かに奥深いところで結び付いているようだ。

たとえば氏には『頭痛肩こり樋口一葉』という女性ばかり六人が登場する戯曲がある。同じインタビューで氏は「アノ、家庭といいますか、ある小さな共同体の移り変わりが、宇宙の移り変わりと、こう照合していて、何も大ゲサなことをやらなくても、深く五・六人のことを書けば、そのうしろに宇宙があるっていうのは、まあ、チェーホフから影響を受けていますね」と語っているので、この戯曲もチェーホフとの関連で論じるべきかもしれない。

だが『貧しき人々』について語った氏の言葉を読んで、私が真っ先に思い浮かべたのはこの作品だったのだ。むろん、直接的な影響を指摘することはできない。しかし『貧しき人々』がプーシキンやゴーゴリの作品をとりあげながら、その文学的業績を積極的に吸収しようとしていた作品であり、さらにその女主人公ワルワーラも一葉と同じように文学を愛した貧しく病弱な女性であったこと、そして何よりもそこではワルワーラの生きかたを通して「女性の不幸は、男性の不幸でもある」という思想が語られていたことを思い起こすなら、これら二つの作品の結び付きはかなり強いと言えるのではないだろうか。

*   *   *

最後に、ここに挙げられた作品以外で両者の関係を物語っていると思われる二編を紹介してこの小論の結びとしたい。

昭和四九年の井上氏の作品に『合牢者』という短編がある。この作品の主な登場人物の原田と矢飼は共に明治初期の貧乏巡査であるが、一方の原田は内田魯庵訳の『罪と罰』を読みラスコーリニコフの考えに共鳴して、悪辣な質屋の未亡人を殺す。もう一人の巡査矢飼は上司の命令で、罪を認めない原田のアリバイを崩すために同じ牢に入り事実を聞き出そうとする。

しかし、原田の不幸な境遇に同情を覚え、「真実などどうでもよくなった」時に彼は事実を語られ、しかも上司からはそのまま牢に留まっているか昇格を選ぶかと迫られて事実を告げてしまう。小説は「堂々と罪を犯し、くだる罰を発止と受けとめて」死刑になった原田を思いながら「小説が人間よりも小さいのか、あるいは大きいのか、おれにはいまだによくわからないが、あいつのことを考えるたびに、小説は人間より大である、というような気がしてならぬ」という原田の感慨で終わる。この短編では『罪と罰』は単に原田の犯行を動機付けしているばかりでなく、小説の主題とも重なり、また小説全体の筋にも関わっている。

『私家版 日本語文法』(昭和五三年から五五年)で井上氏は、雨乞唄を紹介しながらその「言葉の冗舌性と技巧」にふれて、先人たちには「必要があれば八百でもウソをついてひとつの願いを成就させようという意気込みが」あったと述べ、「筆者は不真面目だから、ひとつの誠を言うために八百のウソをつく方へ行くしかない」と述べている。

全体にドストエフスキーと同様井上氏にも言葉、殊に嘘に対する考察や言及が多いのだが、この箇所は「僕が人間なのは嘘をつくからなんだ」と述べさらに「嘘をついていれば――真理まで達せるのだ」と主張する『罪と罰』のラズミーヒンの言葉と殆ど重なっているように見える。ここにも井上ひさし氏の文学とドストエフスキーとの深いかかわりをみるのは、筆者の思い入れがすぎるだろうか。

*   *   *

〈同人誌『人間の場から』(第13号、1988年)に掲載された初出時の題名は、「見ることと演じること(四)――記憶について」。後にその一部が「ドストエーフスキイと井上ひさし」という題で「ドストエーフスキイの会会報」(第107号、1989年)および、『場 ドストエーフスキイの会の記録Ⅳ』、244~245頁に転載される。本稿では地の文の表記をドストエフスキーで統一するとともに、誤記や文体レベルの簡単な改訂を行った〉。

 

小林秀雄の『カラマーゾフの兄弟』観――坂口安吾と寺田透をとおして

前回の記事で紹介したように、安吾は『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャを、「あそこで初めてドストエフスキイのそれまでの諸作が意味と位置を与えられた。そういうドストエフスキイのレーゾン・デートルに関する唯一の人間をはじめて書いたんですよ」と讃えていました。

それに対して小林秀雄は一応は同意しつつも、「我慢に我慢をした結果、ボッと現れた幻なんですよ」と語り、さらに「アリョーシャをフラ・アンジェリコのエンゼルの如きものである」と書いたウォリンスキイの記述を読んで「僕はハッと思った。あれはそういうものなんだ。彼の悪の観察の果てに現れた善の幻なんだ」と主張しているのです。

一方、「アリョーシャは人間の最高だよ。涙を流したよ。ほんとうの涙というものはあそこにしかないよ。しかしドストエフスキイという奴は、やっぱり裸の人だな。やっぱりアリョーシャを作った人だよ、あの人は……」と絶賛した安吾は、「裸だ。だが自然人ではないのだよ。キリスト信者だ」という小林の反論には、「そうでもないんじゃないかな」と答えていました。

ここにはドストエフスキーがバルザック的なリアリズムの手法で人間と社会を生身で考察し続けてアリョーシャという形象に至ったと考えていた安吾と、イデオロギー的な視点からドストエフスキーを「キリスト信者」と見なしていた小林秀雄との大きな落差があるように感じられるのです。

*  *   *

小林秀雄のアリョーシャ観と『カラマーゾフの兄弟』観の変貌が明らかになるのは、「ドストエフスキーの特徴が『白痴』に一番よくでているのではないかと思います」との感想を直感で語っていた数学者の岡潔氏と1965年に行われた対談です(『人間の建設』新潮文庫)。

これに対して小林秀雄氏はなぜそう思ったかを尋ねることをせずに、「ドストエフスキーという人には、これも飛び切りの意味で、狡猾なところがあるのです」と決めつけ、「それにしてもドストエフスキーが悪漢だったとはしらなかった」との返事に対しては、「悪人でないとああいうものは書けないですよ」と言葉を連ねて説明していました。

注目したいのは、その後で『白痴』論から話題を転じた小林がドストエフスキーは「もっと積極的な善人をと考えて、最後にアリョーシャというイメージを創(つく)るのですが、あれは未完なのです。あのあとどうなるかわからない。また堕落させるつもりだったらしい」と続けていたことです。

なぜならば、太平洋戦争直前の1941年10月から書き始めた「カラマアゾフの兄弟」(~42年9月、未完)では、「今日、僕等が読む事が出来る『カラマアゾフの兄弟』が、凡そ続編といふ様なものが全く考へられぬ程完璧な作と見えるのは確かと思はれる」と断言していたからです。

リンク→「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観

この意味で興味深いのは、フランス文学者の寺田透が1978年に刊行した『ドストエフスキーを讀む』(筑摩書房)の「結び兼補足」で、『カラマーゾフの兄弟』の結末についてこう書いていることです。少し長くなりますが、バルザックの専門家でもあった寺田透が若い頃に小林秀雄から受容したことの大きさをも物語っていると思えるので、全体を引用しておきます。

「『カラマーゾフの兄弟』の巻末で、少年たちに向つてアリョーシャが小演説をする場面、それに答へる少年たちの「ウラー」と、一生手をとりあつて行かうと叫ぶかれらの言交しを書いたとき、少くともそのとき(といふのは次作があるといふ予告を、それ自体、現『カラマーゾフ』の趣向の一つにすぎないと見る見方も許されるからだが)、これらの少年たちの活躍と、アリョーシャとかれらの再会が描かれる筈の次作の企画は、もう抛棄されてゐたと見るべきではなからうか」。

このように記した寺田は誤解を怖れるかのように、さらに次のように補っているのです。

「それはシェストフが嘲つてゐるやうに書けなかつたから今日存在しないのではない。また今の第一部が完璧だから書く必要がないので存在しないのでもない。

ドストエフスキーは自分で判断して、それを書くことを断念したのだと思ふ。(あるいはもともと書くつもりはなしに、あの次作がありげな序文を書いたのである。)」。

このように記したとき、バルザック研究者の寺田透は時勢を先取りするような形で、「キリスト」や「マルクス」という単語をちりばめて読者受けのする発言を行いながら、時流が変わると自説をも変えた小林秀雄に対する激しい怒りを覚えていたのではないでしょうか。

『文学界』に寄稿した「小林秀雄氏の死去の折に」という記事で寺田透は、「男らしい、言訳けをしないひととする世評とは大分食ひちがふ観察だと自分でも承知してゐるが」と断った上で、次のように記していたのです。

「戦後一つ二つと全集が出、その中に昔読んで震撼を受けた文章が一部削除されて入つてゐるのを見たり、たしかに読んだ筈の警句がどこからも見出されない経験をしたりしてゐるうち、僕はかれを、後世のために自分の姿を作つて行くひとと思ふやうになつた。/作られた自分の姿のうしろから自分は消える、さうしなければならない。自分を抜け殻――かつてはさう呼んだもの――のかげに消してしまふこと」。

「陶酔といふ理解の形式」と隠蔽という方法――寺田透の小林秀雄観(2)

先日、「作品の解釈と『積極的な誤訳』――寺田透の小林秀雄観」という題名の論稿をアップしました。

ただ、それは「翻訳と文学」とい特集に応じて書いた論文でしたので、「様々なる意匠」を論じて小林秀雄氏の「陶酔といふ理解の形式」を指摘していた箇所は省いていました。

寺田氏の指摘は、エッセイ〈「様々な意匠」と隠された「意匠」〉でも論じた小林の「隠蔽という方法」にも深く関わります。それゆえ、ここではまず司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』との出会いを簡単に振り返ったあとで、寺田透氏の指摘を踏まえて前回の論文ではあまり深く論じることのできなかった「隠蔽という方法」についてもより深く考えたいと思います(以下、敬称を略す))。

Ⅰ、「様々なる意匠」に「隠された意匠」

幕末から明治初期の混乱の時期の日本を題材にした『竜馬がゆく』などの小説を読んだ時に私が感じたのは、クリミア戦争敗戦後の価値の混乱したロシアの問題点を鋭く描きだしていたドストエフスキーの『罪と罰』(1866)の文明論的な広い視野と哲学的な深い考察が受け継がれているということでした。

さらに、『罪と罰』のエピローグで「人類滅亡の悪夢」を描いたドストエフスキーが、次作の『白痴』ではこのような危機を救うロシアのキリスト(救世主)を描きたいと考えて、混迷のロシアで「殺すなかれ」と語った主人公・ムィシキンの理念も『竜馬がゆく』の主人公・坂本竜馬に強く反映されているとも考えていました。

一方、一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──主人公)には現れぬ」と記した文芸評論家の小林秀雄は、「『白痴』についてⅠ」でも「ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」と記し、一九六四年の『白痴』論では、「作者は破局といふ予感に向かつてまつしぐらに書いたといふ風に感じられる。『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものも、遂に現れはしなかつた。来たものは文字通りの破局であつて、これを悲劇とさへ呼ぶ事はできまい」と解釈していました。

それゆえ、「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論から一時期、強い影響を受けていたものの、原作のテキストと比較しながら小林秀雄の評論を再読した際には、「異様な迫力をもった文体」で記されてはいるが、そこでなされているのは研究ではなく新たな「創作」ではないかと感じた私は、一九二九年のデビュー作「様々な意匠」で小林秀雄が「批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。批評とはついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」と率直に記していることに深く納得させられもしました。

しかも、「様々な意匠」は次のように結ばれていました。

「私は、今日日本文壇のさまざまな意匠の、少なくとも重要と見えるものの間は、散歩したと信ずる。私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。たゞ一つの意匠をあまり信用し過ぎない為に、寧ろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない。」

改めてこの文章を読んだ私は強い違和感を覚えました。なぜならば、司馬遼太郎は「様々な意匠」が書かれた時期を「昭和初期」の「別国」と呼んでいますが、この時期には「尊皇攘夷思想」という「意匠」が、政界や教育界だけでなく文壇の考えをも支配していたのです。

そして、前回、アップした〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉で詳しく分析したように、小林秀雄も「尊皇攘夷思想」を讃美するような記事を書いていたからです。

そのことに留意するならば『竜馬がゆく』における司馬の痛烈な批判の矛先は、イデオロギーには捉えられることなく「日本文壇のさまざまな意匠」を「散歩」したかのように主張つつ、自分の「意匠」を「隠して」いた戦前の代表的な知識人の小林秀雄にも向けられているのではないでしょうか。

『竜馬がゆく』第二巻の「勝海舟」では、その頃の「尊皇攘夷思想」が「国定国史教科書の史観」となったばかりでなく、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判されていたのです。

Ⅱ、「様々なる意匠」と「陶酔といふ理解の形式」

「様々なる意匠」を論じた寺田氏の論稿を読んで驚かされたのは、すでに氏がここで「こころの震えを感じながら」小林秀雄の「陶酔といふ理解の形式」を指摘していたことでした。少し長くなりますが、「様々なる意匠」の文章を引用しておきます。

「一体最上芸術家の仕事で、科学者が純粋な水と呼ぶ意味での純粋なものは一つもない。彼等の仕事は常に、種々の色彩、種々の陰翳を擁して豊富である。この豊富性の為に、私は、彼等の作品から思ふ処を抽象することが出来る、と言ふ事は又何物を抽象しても何物が残るといふ事だ……。かうして私は。私の解析眩暈の末、傑作の豊富性の底を流れる、作者の主調低音をきくのである。この時私の騒然たる夢はやみ、私の心が私の心を語り始める。この時私は私の批評の可能性を悟るのである」。

少し引用が長くなりましたが、この後で寺田はこう分析しています。

「この文章のなかにもこまかに注意すれば小林氏の資性をあきらかにする次のような事実が見られる。即ち、かれに批評の可能性を獲得させるべく、対象の宿命的基調にかれを溺れさせるものは、…中略…混乱を惹起させる対象の『豊富性』でもなく、それによって惹起されるかれの『眩暈』の仕業だということ。一種の酩酊だということ。自己嫌悪ではなく、自己陶酔ということ。/ どこかでかれは『陶酔といふ理解の形式』と言っている。…中略…やはりかれは一種のナルシスだったのである。僕は、こころの震えを感じながら、今。そういうことができる。」(昭和三十年二月)

実は、私が小林秀雄の『罪と罰』論や『白痴』論を何度も読み返すなかで「苦い思い」で感じていたのも、ここで描かれているのはドストエフスキーの『罪と罰』や『白痴』の分析ではなく、それらを強引に自分の解釈に引き寄せたものであり、新たな「創作」としての『新罪と罰』や『新白痴』であるということでした。

問題なのは、小林秀雄がそのことを自覚していたと思われるにもかかわらず、数学者・岡潔との対談などに明確に現れているように、自分の解釈が正しいとあくまで主張し、それ以外の読み方をする者を「不注意な読者」と断じていたことです。

Ⅲ、「様々なる意匠」と「隠蔽という方法」

「様々なる意匠」における「陶酔といふ理解の形式」に注意を促していた寺田透は『文学界』に寄稿した「小林秀雄氏の死去の折に」という記事で、「男らしい、言訳けをしないひととする世評とは大分食ひちがふ観察だと自分でも承知してゐるが」と断った上で、小林の「隠蔽という方法」をも示唆していました。

「戦後一つ二つと全集が出、その中に昔読んで震撼を受けた文章が一部削除されて入つてゐるのを見たり、たしかに読んだ筈の警句がどこからも見出されない経験をしたりしてゐるうち、僕はかれを、後世のために自分の姿を作つて行くひとと思ふやうになつた。/作られた自分の姿のうしろから自分は消える、さうしなければならない。自分を抜け殻――かつてはさう呼んだもの――のかげに消してしまふこと」。

寺田が示唆していた小林の「隠蔽という方法」は、小林秀雄の歴史観にも深くかかわります。

たとえば、1940年に書いた『わが闘争』の書評で小林は「これは天才の方法である、僕はこの驚くべき独断の書を二十頁ほど読んで、もう天才のペンを感じた、僕には、ナチズムといふものが、はつきり解つた気がした」とヒトラーを賛美していました。

このような初出における記述は『全集』に収められる際に変えられていたのですが、このことを果敢に指摘していた菅原健史氏の考察を紹介した箇所を拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)から引用しておきます。

〈初出時と『全集』との文章の差異を克明に調べた菅原健史は、『全集』では「天才のペン」の前に、《一種邪悪なる》という言葉が加筆されていることを指摘し、そのために『全集』に依拠した多くの研究者が、戦時中から小林がヒトラーを「一種邪悪なる天才」と見破っていたとして小林の洞察力を賞讃していたことに注意を促している。〉

大きな問題は、寺田透がすでに示唆して小林秀雄の「陶酔といふ理解の形式」や「隠蔽という方法」がきちんと反省されなかったために、岸信介氏の満州政策や安倍晋三氏の雁発再稼働の「道義的な責任」も、「黙過」されることになったと思われることです。

 

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司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって

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(2016年2月1日改訂。2月6日、関連記事を追加) 

映画《静かなる決闘》から映画《赤ひげ》へ――拙著の副題の説明に代えて

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(《静かなる決闘》のポスター、図版は「ウィキペディア」より)

『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』を公刊したのは昨年のことになりますが、副題の一部とした黒澤映画《静かなる決闘》があまり知られていないことに気づきました。

ドストエフスキーの長編小説『白痴』を原作とした黒澤映画《白痴》の意義を知るうえでも重要だと思えますので、ここでは映画《赤ひげ》に至るまでの医師を主人公とした黒澤映画の内容を簡単に紹介しておきます。

*   *   *

1965年に公開された映画《赤ひげ》((脚本・井手雅人、小國英雄、菊島隆三、黒澤明)では、長崎に留学して最先端の医学を学んできた若い医師の保本登(加山雄三)と「赤ひげ」というあだ名を持つ師匠の新出去定(三船敏郎)との緊迫した関係が「患者」たちの治療をとおして描かれていることはよく知られています。

しかし、黒澤映画において「医者」と「患者」のテーマが描かれたのはこの作品が最初ではなく、戦後に公開された黒澤映画の初期の段階からこのテーマは重要な役割を演じていました。

たとえば、映画《白痴》(1951年)では沖縄で戦犯とされ死刑になる寸前に無実が判明した復員兵が主人公として描かれていましたが、1949年に公開された映画《静かなる決闘》(原作・菊田一夫『堕胎医』、脚本・黒澤明・谷口千吉)でも、軍医として南方の戦場で治療に当たっていた際に悪性の病気に罹っていた兵士の病気を移されてしまった医師・藤崎(三船敏郎)を主人公としていたのです。

しかも、最初の脚本では『罪なき罰』と題されていたこの映画では、自殺しようとしていたところを藤崎に助けられ見習い看護婦となっていた峰岸(千石則子)の眼をとおして、最愛の女性との結婚を強く願いながらも、病気を移すことを怖れて婚約を解消した医師が苦悩しつつも、貧しい人々の治療に献身的にあたっている姿が描かれていました。

さらに、その前年の1948年に公開された映画《酔いどれ天使》(脚本・植草圭之助・黒澤明)でも、どぶ沼のある貧しい街を背景に、闇市に君臨しつつも敗戦によって大きな心の傷を負って虚無的な生き方をしていたヤクザの松永(三船敏郎)と、「栄達に背を向けて庶民の中に」根をおろした開業医の真田(志村喬)との緊張した関係が描かれていました。

医師の真田は暴力的な脅しにも屈せずに、肺病に冒されていた松永の心身を治療して何とか更生させようとしていたのですが、真田の願いにもかかわらず、組織のしがらみから松永は殺されてしまいます。

しかし、《酔いどれ天使》の結末近くでは、肺病に冒されてこの病院に通っていた若い女子学生(久我美子)が、「ねえ、先生、理性さえしっかりしてれば結核なんてちっとも怖くないわね」と語り、医師の真田が「ああ、結核だけじゃないよ、人間に一番必要な薬は理性なんだよ!」と応じる場面があり、未来への希望も描かれていたのです。

長編小説『白痴』の主人公は、小林秀雄の解釈などではその否定的な側面が強調されていますが、ドストエフスキーはムィシキンに「治療者」としての性質も与えていました。それゆえ、医師を主人公としたこれらの映画は、長編小説『白痴』をより深く理解する助けにもなると思われます。

(2015年12月9日、図版を追加)

リンク→『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)