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治安維持法

明治の藩閥政府と平成の安倍政権――『新聞紙条例』(讒謗律)と「特定秘密保護法」、「保安条例」と「共謀罪」との酷似

「日本に貴族をつくって維新を逆行せしめ、天皇を皇帝(ツァーリ)のごとく荘厳し、軍隊を天皇の私兵であるがごとき存在にし、明治憲法を事実上破壊するにいたるのは、山県であった。」(『翔ぶが如く』文春文庫)

現在、日本の「憲法」の形にも深くかかわる「共謀罪」の議論が拙速な形で行われていますので、征韓論から西南戦争に至る激動の時代を描いた『翔ぶが如く』で山県有朋を厳しく批判していた上記の文章をトップページの〈司馬遼太郎の「神国思想」批判と憲法観に追加しました。

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今回は作家・司馬遼太郎の山県有朋観を簡単に考察することで、山県有朋の思想を強く受け継いでいると思われる安倍首相の危険性を明らかにしたいと思います。

1,山県有朋と政商との癒着と公金横領事件

現在、日本は安倍首相夫妻と「森友学園」や「加計学園」の問題で大きく揺れていますが、「征韓論」の発端となったのは、元奇兵隊の隊長で戊辰戦争の後に横浜で生糸相場を張るようになり「わずか一二年で横浜一の巨商」になった野村三千三〔みちぞう〕による山城屋事件でした。

元部下の野村から頼まれた山県有朋は、「兵部省の陸軍予算の半分ぐらいに」相当したかもしれぬ五十万円という巨額の公金を貸したばかりでなく、御用商人にも取り立てていたのですが、生糸相場に失敗して六四万九千円もの公金を返せないような事態に陥ったので野村は切腹し、山県も明治5年に辞職していました(『歳月』上・「長閥退治」)。

しかし、薩長のパワーバランスにより山県は翌年には初代陸軍卿として復職したばかりでなく、同じような横領がやはり旧長州藩の「井上馨を独裁者とする大蔵省」でも起きたのです。

「信じられぬほどの悪政がいま、成立したばかりの明治政府において進行している」ことに憤激し、太政官での議論でも「法の前では何人〔なんびと〕も平等である」と力説して受け入れられずに辞職した司法卿の江藤新平が明治7年に起こしたのが佐賀の乱でした。

司馬氏は『翔ぶが如く』ではフランス革命時の「フランス革命の闘士」でありながらも、利権で私腹を肥やしさらには、「王政の復活のために暗躍」したタレーランと山県有朋の類似性を指摘したあとでこう続けています。「『国家を護らねばならない』/と山県は言いつづけたが、実際には薩長閥をまもるためであり、そのために天皇への絶対的忠誠心を国民に要求した。」

2,薩長藩閥政府への批判の広がりと明治8年の「新聞紙条例」(讒謗律)

元司法卿の江藤新平が起こした佐賀の乱が鎮圧されたあとも、薩長藩閥政府の汚職と腐敗に対する国民の怒りは収まらず、燎原の火のように広がる薩長藩閥政府への批判を弾圧するために発布されたのが「新聞紙条例」でした。司馬氏はこの条例の問題点をこう指摘しています。

「明治初年の太政官が、旧幕以上の厳格さ在野の口封じをしはじめたのは、明治八年『新聞紙条例』(讒謗律)を発布してからである。これによって、およそ政府を批判する言論は、この条例の中の教唆扇動によってからめとられるか、あるいは国家顛覆論、成法誹毀(ひき)ということでひっかかるか、どちらかの目に遭った」。(太字は引用者、『翔ぶが如く』第5巻「明治八年・東京」)。

3、内務省の設置(明治6年)と保安条例の公布(明治20年)

「普仏戦争」で「大国」フランスに勝利してドイツ帝国を打ち立てたビスマルクと対談した大久保利通は、「プロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立」しようとしましたが、西南戦争の後で暗殺されます(『翔ぶが如く』第1巻「征韓論」、拙著『新聞への思い』、88頁)。

その内務省の大臣となった山県有朋(任期1885~90年)が、「憲法」公布前の明治20年に発布したのが、集会・結社の自由を規制していた「集会条例」を大幅に強化して、後の治安維持法を準備したといえる「保安条例」でした。

内務省がこの条例を拡大解釈することによって、民間で私擬憲法を検討する事も禁じていたことを考慮するならば、この条例は民主主義を否定するような形での「改憲」を目指す安倍政権が、なぜ国内だけでなく、国際社会からの強い批判にもかかわらず「共謀罪」を強行採決しようとしているかをも物語っているが分かるでしょう。

ISBN978-4-903174-33-4_xl

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015年)

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「特定秘密保護法」強行採決への歩み(4)

戦車兵と戦争ーー司馬遼太郎の「軍神」観7月14日

大河ドラマ《龍馬伝》の再放送とナショナリズムの危険性7月14日

「改憲」の危険性と司馬遼太郎氏の「憲法」観7月19日

「特定秘密保護法」の危険性→「特定秘密保護法案」と明治八年の「新聞紙条例」(讒謗律)11月13日

「(国家そのものが)投網、かすみ網、建網、大謀網のようになっていた」→司馬遼太郎の「治安維持法」観11月14日

復活した「時事公論」と「特定秘密保護法」 11月24日

「司馬作品から学んだこと――新聞紙条例と現代」11月24日

改竄(ざん)された長編小説『坂の上の雲』――大河ドラマ《坂の上の雲》と「特定秘密保護法」11月24日

司馬作品から学んだことⅠ――新聞紙条例と現代11月24日

司馬作品から学んだことⅡ――新聞紙条例(讒謗律)と内務省

司馬作品から学んだことⅢ――明治6年の内務省と戦後の官僚機構

司馬作品から学んだことⅣ――内務官僚と正岡子規の退寮問題  

司馬作品から学んだことⅤ――「正義の体系(イデオロギー)」の危険性

司馬作品から学んだことⅥ――「幕藩官僚の体質」が復活した原因

司馬作品から学んだことⅦ――高杉晋作の決断と独立の気概2013年12月6

司馬作品から学んだことⅧ――坂本龍馬の「大勇」12月7日

「特定秘密保護法」と自由民権運動――『坂の上の雲』と新聞記者・正岡子規12月8日

「学問の自由」と「特定秘密保護法」――情報公開と国民の主権12月12日

司馬作品から学んだことⅨ――「情報の隠蔽」と「愛国心」の強調の危険性12月18日

(山口県萩市の中央公園に立つ「山県有朋公像」、北村西制作、出典は「ウィキペディア」)

(2017年6月10日、改題し全面的に改定)

「表現の自由と情報へのアクセス」の権利と「差別とヘイトスピーチ」の問題――「特定秘密保護法」から「共謀罪」へ

現在、「共謀罪」の議論が国会で行われているが、6月2日の衆院法務委員会で金田法務大臣は、戦争に反対する人々を逮捕することを可能にした「治安維持法」を「適法」であったとし、さらに創価学会初代牧口会長も獄死するに至った「拘留・拘禁」などの「刑の執行も、適法に構成された裁判所によって言い渡された有罪判決に基づいて、適法に行われたものであって、違法があったとは認められません」 と答弁した。

一方、5月30日に最高裁は「サンデー毎日」(毎日新聞出版)が2014年10月5日号に掲載した「安倍とシンパ議員が紡ぐ極右在特会との蜜月」という記事を名誉毀損で訴えていた稲田朋美・防衛相の訴えが一審、二審判決につづいて稲田氏の上告を棄却する決定が出した。すなわち、稲田氏の資金管理団体「ともみ組」が2010年から12年のあいだに、ヘイトスピーチを繰り返していた「在特会」の有力会員や幹部など8人から計21万2000円の寄付を受けていたことを指摘したこの記事の正当性が最高裁でも認められたのである。

しかも、6月2日付の記事で「リテラ」が指摘しているように稲田氏は、〈元在特会事務局長の山本優美子氏が仕切る極右市民団体「なでしこアクション」が主催する集会に2012年に登壇しており、14年9月にはネオナチ団体代表とのツーショット写真の存在も発覚〉していた。それにもかかわらず、〈安倍首相は稲田氏をそれまでの自民党政調会長よりもさらに重い防衛相というポストにまで引き上げた。稲田氏と同じようにネオナチ団体代表と写真におさまっていた高市早苗総務相も据え置いたままである。〉

ヘイトスピーチ(写真の出典は「毎日新聞」)

なお、防衛相就任以前にも保守系雑誌などで「長期的には日本独自の核保有を国家戦略として検討すべきではないでしょうか」「文科省の方に『教育勅語のどこがいけないのか』と聞きました」などと述べていた稲田氏が、最近も月刊誌「月刊Hanada」(7月号)に論文を寄稿して、「大東亜戦争」の意義を強調するような持論を展開していたことが判明した。

これらの人物を大臣に任命した安倍首相の責任はきわめて重たく、この問題は国連のデービッド・ケイ特別報告者の「対日調査報告書」ともかかわると思える。

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すでにみたようにピレイ国連人権高等弁務官は2013年に強行採決された「特定秘密保護法」について、12月2日にジュネーブで開かれた記者会見で「表現の自由と情報へのアクセスという二つの権利」に関わるこの法案については、人権高等弁務官事務所も注目しているが、「法案には明 確さが不十分な箇所があり、何が秘密かの要件が明確ではなく、政府が不都合な情報を秘密として特定できてしまう」と指摘し、次のように続けていた。

「政府および国会に、憲法や国際人権法で保障されている表現の自由と情報へのアクセスの権利の保障措置(セーフガード)を規定するまで、法案 を成立させないよう促したい」。

今回も「共謀罪」法案を衆議院で強行採決した日本政府に対して、国連人権高等弁務官事務所は、「メディアの独立性に懸念を示し、日本政府に対し、特定秘密保護法の改正と、政府が放送局に電波停止を命じる根拠となる放送法四条の廃止を勧告した」、「対日調査報告書」を公表した。

一方、産経新聞によれば、高市早苗総務相は2日午前の閣議後の記者会見で、この「対日調査報告書」について「わが国の立場を丁寧に説明し、ケイ氏の求めに応じて説明文書を送り、事実把握をするよう求めていた。にもかかわらず、われわれの立場を反映していない報告書案を公表したのは大変、残念だ」と述べていた。

しかし、「言論と表現の自由」に関する調査のために来日した国連特別報告者・デービッド・ケイ氏が公式に面会を求めていたにもかかわらず、それを拒否していた高市早苗総務相がこのような形で国連特別報告者の「報告書」を非難することは、「日本会議」などの右派からは支持されても、国際社会の強い批判を浴びることになるだろう。

この意味で注目したいのは、5月31日に掲載された読売新聞の「報告書」では「差別とヘイトスピーチ」の項目もあるが、要旨が記された記事では略されており、日本政府の「反論書」要旨にもそれに対する反論は記されていないことである。そのことは「差別とヘイトスピーチ」にふれられることを安倍首相や閣僚が嫌っていることを物語っているようにも見える。

現在、国連と安倍内閣との間に生じている強い摩擦や齟齬は、「特定秘密保護法」案が強行採決された時から続いているものであり、今回の「勧告」は戦前の価値観を今も保持している「日本会議」系の議員を重用している安倍内閣の政権に対する強い不信感を物語っているだろう。

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「特定秘密保護法」強行採決への歩み(3)

私は憲法や法律、政治学などの専門家ではないが、主に専門のドストエフスキー作品の考察をとおして、強行採決された「特定秘密保護法」の問題点に迫った記事の題名とリンク先を挙げる。

なぜならば、「表現の自由と情報へのアクセスという二つの権利」が許されていなかったニコライ一世の治世下の「暗黒の30年」に、ドストエフスキーは作品を「イソップの言葉」を用いて書くことによって、「憲法」の発布や農奴制の廃止、言論の自由を強く求めていたからである。

彼の作品は戦時中にヒトラーの『わが闘争』を賛美していた文芸評論家・小林秀雄の解釈によって矮小化されたが、シベリアに流刑になった以降もさまざまな表現上の工夫をするとともに「虚構」という方法を用いて、重たい「事実」に迫ろうとしていた。

残念ながら、現在も文芸評論家の小林秀雄の影響が強い日本では、ドストエフスキーの作品を「父殺しの文学」と規定する刺激的な解釈をして「二枚舌」の作家と位置づけている小説家もいるが、それは作家ドストエフスキーだけでなく「文学」という学問をも侮辱していると思える。

ドストエフスキーの作品研究においても、「農奴の解放」や「裁判の公平」そして、「言論の自由」を求めていたドストエフスキーの姿勢もきちんと反映されねばならないだろう。

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 『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)

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「『地下室の手記』の現代性――後書きに代えて」(7月9日)

憲法96条の改正と「臣民」への転落ーー『坂の上の雲』と『戦争と平和』(7月16日)

TPPと幕末・明治初期の不平等条約(7月16日)

「ブラック企業」と「農奴制」――ロシアの近代化と日本の現在(7月17日 )

「蟹工船」と『死の家の記録』――俳優座の「蟹工船」をみて(7月17日 )

「憲法」のない帝政ロシア司馬遼太郎の洞察力――『罪と罰』と 『竜馬がゆく』の現代性10月31日

ソ連の情報公開と「特定秘密保護法」→グラースノスチ(情報公開)とチェルノブイリ原発事故(10月17日 )

現実の直視と事実からの逃走→「黒澤映画《夢》の構造と小林秀雄の『罪と罰』観」11月5日

小林秀雄のドストエフスキー観テキストからの逃走――小林秀雄の「『白痴』についてⅠ」を中心に  

上からの近代化とナショナリズムの問題日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって11月8日

「特定秘密保護法案」に対する国際ペン会長の声明11月22日

「特定秘密保護法」の強行採決と日本の孤立化11月26日

(2017年6月3日、6月9日、11日、題名を変更し改訂、図版を追加)

「共謀罪」はテロの危険性を軽減せず、むしろ増大させる悪法――国連特別報告者の批判を踏まえて

前回の記事で記したように、プライバシーの権利に関するケナタッチ国連特別報告者は18日付の安倍晋三首相宛て書簡で、〈法案にある「計画」や「準備行為」の定義があいまいで、恣意(しい)的に適用される可能性があると指摘。いかなる行為が処罰の対象となるかも明記されておらず問題がある〉との強い懸念を示していた。

これに対して日本政府はジュネーブ日本政府代表部の職員を介して抗議の文書を渡し、さらに菅官房長官が記者会見で政府の見解を明らかにしたが、国連特別報告者は電子メールでの「東京新聞」の取材に答えて、日本政府の抗議の内容は本質的な反論になっておらず「プライバシーや他の欠陥など、私が多々挙げた懸念に一つも言及がなかった」と指摘した。

そして、日本政府が国際組織犯罪防止条約の締結に法案が必要だと述べた点については、「プライバシーを守る適当な措置を取らないまま、法案を通過させる説明にはならない」と強く批判し、次のように訴えた。

「日本政府はいったん立ち止まって熟考し、必要な保護措置を導入することで、世界に名だたる民主主義国家として行動する時だ」。

「東京新聞」の記事は国連特別報告者・ケナタッチ氏の指摘と日本政府の反論を分かり易く図示することで「共謀罪」の問題点を浮かび上がらせているので、以下に転載する。

共謀罪、東京新聞3

革命に至った帝政ロシアの研究者の視点から見ても「言論の自由」を奪う危険性の高い「共謀罪」に対する国連特別報告者の指摘は説得力がある。

なぜならば、農奴制の廃止や裁判の改革、そして言論の自由などを主張したことで捕らえられ、偽りの「死刑宣告」を受けた後でシベリアに流刑となっていたドストエフスキーが『罪と罰』においてラスコーリニコフの行動をとおして明らかにしたように、政府を批判する「言論や報道の自由」を厳しく制限することは、絶望した若者をかえってテロなどに走らせることになる危険性が高いからである。

さらに、帝政ロシアやソ連邦の歴史が示しているように、権力者に対する批判が許されない社会では公平な裁判も行われずに腐敗が進んでついには崩壊に至っていたが、同じことが「治安維持法」を公布した後の大日本帝国でも起きていた。

戦前の価値観の復活を目指す「日本会議」に牛耳られた安倍政権が続けば、日本はかつて国際連盟から脱退したように、国際連合からも脱退せざるをえなくと思える。悲劇を繰りかえさないようにするためにも、安倍政権には国連特別報告者の指摘を率直に受け止めさせて、「共謀罪」法案を廃案とさせることが必要だろう。

「森友学園」問題と「教育勅語」の危険性――『夜明け前』論にむけて(5) 

前回は「森友学園」における「教育勅語」をめぐる問題のようなことは、内村鑑三の「不敬事件」以降、日本の近代化や宗教政策とも複雑に絡み合いながら常に存在しており、それを明治から昭和初期にかけて深く分析したのが作家の島崎藤村だったと記した。

今回は「教育勅語」の成立をめぐる問題をもう少し補った後で、島崎藤村と「教育勅語」の関わりを掘り下げることにしたい。

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明治憲法は明治22年年2月11日に公布され、翌年の11月29日に施行されたが、この間にその後の日本の教育や宗教政策を揺るがすような悲劇が起きていた。すなわち、大日本帝国憲法発布の式典があげられる当日に「大礼服に威儀を正して馬車を待っていた」文部大臣の森有礼が国粋主義者によって殺されたのである。

林竹二は『明治的人間』(筑摩書房)において、この暗殺事件の背景には「学制」以来の教育制度を守ろうとした伊藤博文と国粋の教育を目指した侍講元田永孚のグループとの激しい対立があったと指摘し、この暗殺により「国教的な教育」を阻止する者はなくなり、この翌年には「教育勅語」が渙発(かんぱつ)されることになったと記している。

作家の司馬遼太郎も西南戦争の後で起きた竹橋事件を鎮圧して50余名を死刑とした旧長州藩出身の山県有朋が発した「軍人訓戒」が明治15年の「軍人勅諭」につながるばかりか、さらに「明治憲法」や「教育勅語」にも影響を及ぼしていることに『翔ぶが如く』(文春文庫)でふれていたが、このあとに総理大臣となった山県有朋は「勅語」の作成に熱心でなかった第二代文部大臣の榎本武揚を退任させ、代わりに内務大臣の時の部下であった芳川顕正を起用して急がせていた。

こうして、山県内閣の下で起草され、明治天皇の名によって山県首相と芳川文部大臣に下された「教育勅語」は、大日本憲法が施行されるより前の明治23年10月30日に発布され、また島崎藤村が長編小説『破戒』で描くことになる教育事務の監督にあたる郡視学や「小学校祝日大祭日儀式規程」などを定めた第二次小学校令もそれより少し前の10月7日に公布された。

注目したいのは、宗教学者の島薗進氏が「教育勅語が発布された後は、学校での行事や集会を通じて、国家神道が国民自身の思想や生活に強く組み込まれていきました。いわば、『皇道』というものが、国民の心とからだの一部になっていったのです」と語っていることである(『愛国と信仰の構造』集英社新書)。

このように見てくるとき、「言論の自由や結社の自由、信書の秘密」など「臣民の権利」や司法の独立を認めた明治憲法が施行される前に、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」と明記された「教育勅語」を、学校行事で習得させることができるような体制ができあがっていたように思われる。

実際、明治24年1月9日に第一高等中学校の講堂で行われた教育勅語奉読式においては教員と生徒が順番に「教育勅語」の前に進み出て、天皇親筆の署名に対して「奉拝」することが求められたが、軽く礼をしただけで最敬礼をしなかったキリスト教徒の内村鑑三は、「不敬漢」という「レッテル」を貼られ退職を余儀なくされたのである。

比較文明学者の山本新が指摘しているように「不敬事件」として騒がれた内村鑑三の事件は、「大量の棄教現象」を生みだすきっかけとなり、この事件の後では「国粋主義」が台頭することになったが、同じ年に「教育勅語」の解説書『勅語衍義(えんぎ)』を出版していた東京帝国大学・文学部哲学科教授の井上哲次郎が、明治26年4月に『教育ト宗教ノ衝突』を著して改めて内村鑑三の行動を例に挙げながらキリスト教を「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」とした「教育勅語」の「国家主義」に反する反国体的宗教として激しく非難したことはこのような動きを加速させた。

私たちの視点から興味深いのは、長編小説『春』(明治41)において『文学界』の同人たちの交友や北村透谷の自殺を描いた藤村が、徳富蘇峰の『国民之友』に掲載された山路愛山の史論「頼襄(のぼる)を論ず」を厳しく批判した透谷の「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」と題した論文からも長い引用を行っていたことである。

島崎藤村は後に北村透谷について「彼は私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人の一人だ。そして私達のために、早くもいろいろな支度をして置いて呉れたやうな気がする」と書いているが、「尊皇攘夷の声四海に遍(あまね)かりしもの、奚(いづくん)ぞ知らん彼が教訓の結果に非るを」と、頼山陽をキリスト教の伝道師・山路愛山が書いたことを厳しく批判した透谷の論文も、その2ヶ月後におきる「教育ト宗教ノ衝突」論争をも先取りしていたようにみえる。

そして、島崎藤村も北村透谷の批判を受け継ぐかのように、日露戦争の最中に書いた長編小説『破戒』で、「教育勅語」と同時に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた小学校教育の状況を、明治6年に国の祝日とされた天長節の式典などをとおして詳しく描いた。

この長編小説では、ロシア帝国における人種差別の問題にも言及しながら、四民平等が宣言されたあともまだ色濃く残っていた差別の問題を鋭く描き出していることに関心が向けられることが多い。しかし、現在の「森友学園」の問題にも注意を向けるならば、「『君が代』の歌の中に、校長は御影(みえい)を奉開して、それから勅語を朗読した。万歳、万歳と人々の唱へる声は雷(らい)のやうに響き渡る。其日校長の演説は忠孝を題に取つたもので」と、「教育勅語」が学校教育に導入された後の学校行事を詳しく描き出していた長編小説『破戒』の現代的な意義は明らかだろう。

一方、自伝的な長編小説『桜の実の熟するとき』で学生時代に「日本にある基督教界の最高の知識を殆(ほと)んど網羅(もうら)した夏期学校」に参加した際に徳富蘇峰と出会ったときの感激を「京都にある基督教主義の学校を出て、政治経済教育文学の評論を興し、若い時代の青年の友として知られた平民主義者が通った」と描いていた。実際、明治19年に『将来之日本』を発行して、国権主義や軍備拡張主義を批判した言論人・徳富蘇峰は、翌年には言論団体「民友社」を設立して、月刊誌『国民之友』を発行するなど青年の期待を一身に集めていた。

しかし、『大正の青年と帝国の前途』(大正5)で蘇峰は、「教育勅語」を「国体教育主義を経典化した」ものと高く評価し、「君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神」の養成と応用に「国民教育の要」があると主張していた。

この長編小説が発行されたのが、第一次大戦後の大正8年であったことを考慮するならば、長編小説『桜の実の熟するとき』における「若い時代の青年の友として知られた平民主義者が通った」という描写には、権力に迎合して「帝国主義者」に変貌した蘇峰への鋭い皮肉と強い批判が感じられる。

奉安殿2(←画像をクリックで拡大できます)

(写真は『別冊一億人の昭和史 学童疎開』(1977年9月15日 毎日新聞社、56~57頁より)

司馬遼太郎は昭和初期を「別国」と呼んでいるが、大正14年に制定された治安維持法が昭和3年に改正されていっそう取り締まりが厳しくなると、学校の奉安殿建築が昭和10年頃に活発になるなど蘇峰が「国体教育主義を経典化した」ものと位置づけていた「教育勅語」の神聖化はさらに進んだ。ロシア文学にも詳しい作家の加賀乙彦氏は、この時代についてこう語っていた。

「昭和四年の大恐慌から、その後満州事変が起こり軍国主義になっていく。軍需産業が活性化して、産業資本は肥え太っていく。けれども、その時流に乗れないのは農村、山村、そして東北の人々などの…中略…草莽の人々は、昭和四年から昭和十年にかけて、どんどん置き忘れられて、結局は兵隊として役に立つしかないようになる」。

島崎藤村の大作『夜明け前』は、このように厳しい時代に書き続けられていたのである。

奉安殿(←かつて真壁小学校にあった奉安殿。図版は「ウィキペディア」より)

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「森友学園」問題と「教育勅語」の危険性――『夜明け前』論にむけて(4) 

「司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって」(5)

目次(最新版

1、グローバリゼーションとナショナリズム

2、父親の世代と蘇峰・蘆花兄弟の考察――『ひとびとの跫音』の構成をめぐって

3,大正時代と世代間の対立――徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』を中心に

4、ナショナリズムの批判――陸羯南と加藤拓川の戦争観と『大正の青年と帝国の前途』

5、治安維持法から日中戦争へ――『大正の青年と帝国の前途』と昭和初期の「別国」への道

6、窓からの風景――「国家神話をとりのけた露わな実体」への関心

7、司馬遼太郎の予感――「帝国の前途」から「日本の前途」へ

 

5、治安維持法から日中戦争へ――『大正の青年と帝国の前途』と昭和初期の「別国」への道

このような「拓川居士」の章の主題は忠三郎の親友・タカジと、大正から昭和への変わり目に一年だけ存続した同人誌「驢馬」とのつながりや、詩人だったタカジが革命家へと変貌する過程を描いた「阿佐ヶ谷」の章へと直結している。

しかもそれは唐突なことではなく、すでに司馬は「伊丹の家」の章で、忠三郎が結婚をした一九三七年の七月に「ふたりで外出中、号外で戦争の勃発を知った。宣戦布告という形式こそとられていないが、北京南郊の蘆溝橋で日華両軍が衝突し、交戦がつづいているということは、このあとの段階をどのようにも深刻に予想することができた」として、主人公たちと時代との関わり注意を向けていた。

このような流れは、弟蘆花の厳しい指摘にもかかわらず、「要するに我が日本国民は、国家が剃刀の刃を渡るが如く、只だ帝国主義に由りて、此の国運を世界列強角遂の際に、支持せざる可からざる大道理」を、まだ徹底的には会得していないと主張して、さらなる「平和的膨張」、すなわち侵略を主張していた蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』とも深く関わっていただろう(*37)。

なぜならば、司馬はこのとき「歩いている忠三郎さんの表情が暗くなり、度のつよいめがねだけが、凍ったように光っているのをあや子さんは見た」とし、彼女が自分の夫を「ただの気のいい呑気坊主とは見ていなかった」と続けていたからである(「伊丹の家」)。ここで司馬が「呑気坊主」という少し文章の流れとは違和感のある単語を用いているが、実は蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』には「大正青年は、八方を見廻すも、未だ嘗て日本帝国の独立を心配す可く、何らの事実を見出さざる也」とし、「亦た呑気至極と云ふべし」という表現が用いられていたのである。

そして蘇峰は、このような精神のたるみは「全国皆兵の精神」が、「我が大正の青年に徹底」していないためだとし、『教育勅語』を「国体教育主義を経典化した」ものと評価しつつも(*38)、「尚武の気象を長養するには、各学校を通して、兵式操練も必要也」とし、さらに「必要なるは、学校をして兵営の気分を帯ばしめ、兵営をして学校の情趣を兼ねしむる事也」と記していた(*39)。

一方、小学校時代から「とにかく、あらゆる式の日に非常に重々しい儀式を伴いながら、教育勅語が読まれた」が、その意味が分かりにくかったとした司馬は(*40)、「太平洋戦争の戦時下にみじかい学生時代を送った」が、「そのころから軍人がきらいで」あったが、それは「どういう学校のいかなる学生生徒にも好意をもたれなかったはずの学校教練の教師というものが予備役将校で、たえず将校服をきていたことと無縁ではないかもしれない」と記していた(「律のこと」)。こうして、蘇峰が主張した「学校をして兵営」となすという教育方針は大正から昭和にかけて徐々に実現していったのである。

この意味で注目したいのはタカジを中心に描いた「阿佐ヶ谷」の章で、司馬が「大正がおわる一九二六年からその翌年の昭和二年にかけての一年余が、タカジにとって重要な青春であった」とし、「かれらの詩の同人雑誌である『驢馬』ができ、一年余で全十二冊を出し、いさぎよく終刊になった」と記していることである。そして司馬は、「『驢馬』とその同人たちは、「タカジの生涯にとって一塊の根株のようなもの」であり、「さらには、同人の中野重治を知り、これに傾倒することによって革命運動の徒」になり、「悪法とされる治安維持法違反」で逮捕されたと続けている。

そして司馬はこの前年の一九二五年(大正一四年)に制定された「治安維持法」を、「国体変革と私有財産制否認を目的とする結社と言論活動」に関係する者に対し、国家そのものが「投網、かすみ網、建網、大謀網のようになっていた」とし、「人間が、鳥かけもののように人間に仕掛けられてとらえられるというのは、未開の闇のようなぶきみさとおかしみがある」と鋭く批判した。

治安維持法と同じ年に全国の高校や大学で軍事教練が行われるようになったことに注意を促した立花隆の考察は、この法律が「革命家」や民主主義者だけではなく、「軍国主義」の批判者たちの取り締まりをも企てていたことを明らかにしているだろう(*41)。すなわち、軍事教練に対する反発から全国の高校や大学で反対同盟が生まれて「社研」へと発展すると、文部省は命令により高校の社研を解散させるとともに、「学問の自由」で守られていた京都大学の「社研」に対しては、治安維持法を最初に適用して一斉検挙を行ったが、後に著名な文化人類学者となる石田英一郎が、治安維持法への違反が咎められただけでなく、天長節で「教育勅語」を読み上げ最敬礼させることへの批判が中学時代の日記に書かれていたとして不敬罪にも問われていたのである。

そして立花隆は京都帝国大学法学部の教授全員だけでなく助教授から副手にいたる三九名も辞表を提出し抗議した「滝川事件」にふれて、滝川幸辰教授に文部大臣が辞任を要求した真の理由は滝川教授が治安維持法に対して「最も果敢に闘った法学者だった」ためではないかと推定している。

二・二六事件の頃に青年時代を過ごした若者を主人公とした長編小説『若き日の詩人たちの肖像』の著者である堀田善衛などと一九九二年に行った対談では司馬も、同人雑誌『驢馬』にも寄稿していた芥川龍之介が一九二七年(昭和二)に自殺し、その後でこの雑誌に係わっていた同人たちが「ほぼ、全員、左翼になった」とていることを指摘して、「そういう時代があったということは、これはみんな記憶しなければいけない」と続けて、「国家」の名の下に青年から言論の自由を奪い、学校を兵営化することの危険性に注意を向けた(*42)。

しかし、大正の青年に「戦争への覚悟」を求めた蘇峰は、「忠君愛国は、宗教以上の宗教也、哲学以上の哲学也」として(*43)、「日本魂」育成の必要を説き、「然も若し已むを得ずんば、兵器を以て、人間の臆病を補はんよりも、人間の勇気を以て、兵器の不足に打克つ覚悟を専一と信ずる也」と記したのである(*44)。

そして蘇峰は『教育勅語』の徹底とともに、「錦旗の下に於て、一死を遂ぐるは、日本国民の本望たる覚悟を要す。吾人は此の忠君愛国的教育に就ては、日本歴史の教訓に、最も重きを措かんことを望まざるを得ず」と主張していた(*45)。

このような教育によって学徒出陣を強いられた若き司馬は、ノモンハン事件について「ソ連のBT戦車というのもたいした戦車ではなかったが、ただ八九式の日本戦車よりも装甲が厚く、砲身が長かった」ことに注意を促し、「戦車戦は精神力はなんの役にもたたない。戦車同士の戦闘は、装甲の厚さと砲の大きさだけで勝負のつくものだ」と書き、「ノモンハンで生きのこった日本軍の戦車小隊長、中隊長の数人が、発狂して癈人になったというはなしを、私は戦車学校のときにきいて戦慄したことがある。命中しても貫徹しないような兵器をもたされて戦場に出されれば、マジメな将校であればあるほど発狂するのが当然であろう」と結んでいたのである(*46)。

ここではこのような事態を生み出した「皇国史観」の担い手であった徳富蘇峰を直接的には批判していない。しかし、吉田松陰を主人公とした長編小説『世に棲む日々』(一九六九~七〇)のあとがきで司馬は、「日本の満州侵略のころ」、自分は「まだ飴玉をしゃぶる年頃だったが、そのころすでに松陰という名前を学校できかされ」、「国家が変になって」くると、「国家思想の思想的装飾として」、「松陰の名はいよいよ利用された」と続け、「いまでも松陰をかつぐ人があったりすれば、ぞっとする」と記していた(*47)。

一方、蘇峰は日露戦争後に改訂した『吉田松陰』(一九〇八)において、「松陰と国体論」、「松陰と帝国主義」、「松陰と武士道」などの章を書き加えていたのである(*48)。 司馬はここで、「松陰という名が毛虫のようなイメージできらいだった」ときわめて感情的な表現を用いていたが、自作では司馬が松陰を明るいすぐれた教育者として描いていることを想起するならば、「毛虫のようなイメージ」は、改訂版の『吉田松陰』において、松陰を「膨張的帝国論者の先駆者」と規定した徳富蘇峰とその歴史観に向けられていたと言っても過言ではないだろう。

実際、『大正の青年と帝国の前途』において蘇峰は、白蟻の穴の前に硫化銅塊を置いても、蟻が「先頭から順次に其中に飛び込み」、その死骸で硫化銅塊を埋め尽し、こうして「後隊の蟻は、先隊の死骸を乗り越え、静々と其の目的を遂げたり」として、集団のためには自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを讃えて、「我が旅順の攻撃も、蟻群の此の振舞に対しては、顔色なきが如し」とする一方で、「蟻や蜂の世界には、彼の非国家文学なきを、寧ろ幸福として、羨まずんばあらず」(*49)と記していたのである。

司馬は「尼僧」の章で、日本の修道女が「布教ということを看板に、親日感情をもたせよう」としてカトリック国のフィリピンに送られることになったときの修道女となった妹たえに対する忠三郎の思いやりを描くとともに、「統帥権という超憲法的な機能を握ることで満州、華北を占領し、やがて日本そのものを占領した軍人たちは、アジアを占領するというばかげたこと」を思いついたとして、「平和的膨張主義」を唱えて侵略を正当化した思想家や昭和初期の軍人たちを厳しく批判した。

こうして司馬は、『この国のかたち』では拓川と同じ様に「ナショナリズムは、本来、しずかに眠らせておくべきものなのである。わざわざこれに火をつけてまわるというのは、よほど高度の(あるいは高度に悪質な)政治意図から出る操作というべきで、歴史は、何度もこの手でゆさぶられると、一国一民族は潰滅してしまうという多くの例を残している(昭和初年から太平洋戦争の敗北までを考えればいい)」と記して、「愛国心」を強調しつつ、「国家」のために「白蟻」のように勇敢に死ぬことを青少年に求めた蘇峰の教育観を鋭く批判したのである(*50)。

註(5)

*37 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、二二一頁。

*38 同上、二一五頁。

*39 同上、二九三頁。

*40 司馬遼太郎「教育勅語と明治憲法」『司馬遼太郎が語る日本』第四巻、朝日新聞社、一九九八年、一六二~五頁

*41 立花隆『天皇と東大――大日本帝国の生と死』文藝春秋、二〇〇六年、下巻、四一~五一頁

*42 司馬遼太郎・堀田善衛・宮崎駿『時代の風音』朝日文芸文庫、一九九七年、四二~四四頁。昭和初期の日本とクリミア戦争前のロシアの類似性については、高橋「司馬遼太郎のドストエフスキー観――満州の幻影とペテルブルクの幻影」『ドストエーフスキイ広場』第一二号、二〇〇三年参照

*43 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、二八四頁。

*44 同上、二九三頁。

*45 同上、三一九頁。

*46 司馬遼太郎「軍神・西住戦車長」『歴史と小説』、集英社。

*47 司馬遼太郎「あとがき」『世に棲む日々』第四巻、一九七五年、二九四頁。

*48 米原謙『徳富蘇峰――日本ナショナリズムの軌跡』、中公新書、二〇〇三年、一〇五頁、一〇八頁。 なお、徳富蘇峰の『吉田松陰』については、拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』人文書館、二〇〇九年、二三八~二三九頁、三五四~三五七頁参照。

*49 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、三二〇頁。

*50 司馬遼太郎『この国のかたち』(第一巻)文春文庫。

*追記 このような「国民」に「白蟻」となることを強いた徳富蘇峰の歴史観への批判こそが、『坂の上の雲』における度重なる「自殺戦術」の批判となっていると私は考えている。(拙著『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』東海教育研究所、二〇〇五年、第三章〈「三国干渉から旅順攻撃へ――「国民軍」がら「皇軍」への変貌〉および、『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、二〇一四年、第五章〈「君を送りて思うことあり」――子規の視線〉、第四節〈虫のように、埋め草になって――「国民」から「臣民」へ〉参照。

 

司馬遼太郎の「治安維持法」観

現在、審議されている「特定秘密保護法案」の危険性について指摘した昨日のブログ記事では、司馬遼太郎氏の長編小説『翔ぶが如く』に言及しながら、「この明治8年の『新聞紙条例』(讒謗律)が、共産主義だけでなく宗教団体や自由主義などあらゆる政府批判を弾圧の対象とした昭和16年の治安維持法のさきがけとなったことは明らかだと思えます」と記しました〈「特定秘密保護法案」と明治八年の「新聞紙条例」(讒謗律)〉。

このように断定的に書いたのは、『翔ぶが如く』で『新聞紙条例』(讒謗律)を取り上げていた司馬氏が、『ひとびとの跫音』では大正14年に制定された最初の「治安維持法」について次のように厳しく規定していたからです。

*   *   *

国家そのものが「投網、かすみ網、建網、大謀網のようになっていた」。

「人間が、鳥かけもののように人間に仕掛けられてとらえられるというのは、未開の闇のようなぶきみさとおかしみがある」。

*   *   *

いわゆる「司馬史観」論争が起きた際には司馬氏の歴史観に対しては、「『明るい明治』と『暗い昭和』という単純な二項対立史観」であり、「大正史」を欠落させているとの厳しい批判もありました。

しかし、『ひとびとの跫音』において司馬氏は、子規の死後養子である正岡忠三郎など大正時代に青春を過ごした人々を主人公として、「言論の自由」を奪われて日中戦争から太平洋戦争へと続く苦難の時期を過ごした彼らの行動と苦悩、その原因をも淡々と描き出していたのです、

司馬氏はこの長編小説で「学校教練」にも触れていますが、治安維持法と同じ年に全国の高校や大学で軍事教練が行われるようになったことに注意を促した立花隆氏の考察は、この法律が「革命家」や民主主義者だけではなく、「軍国主義」の批判者たちの取り締まりをも企てていたことを明らかにしているでしょう(『天皇と東大――大日本帝国の生と死』下巻、文藝春秋、2006年、41~51頁)。

*   *   *

日本の自然を破壊する原発の推進や核兵器の拡散にもつながると思える原発の輸出にも積極的なだけではなく、安倍政権が「徴兵制」への視野に入れて準備を進めているように見える現在、国民の眼から国家の行動を隠蔽できるような危険な「特定秘密保護法案」の廃案に向けて、司馬作品の愛読者は声を上げるべきだと思います。

 正岡子規の時代と現代(2)――「特定秘密保護法」と明治八年の「新聞紙条例」(讒謗律)

(2016年11月1日、リンク先を変更)