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新聞紙条例

「安倍談話」と「立憲政治」の危機(1)――明治時代の「新聞紙条例」と「安全保障関連法案」

今回は8月14日に発表された「安倍談話」の問題を取り上げます。

なぜならば、「戦後70年」の節目として語られたはずにもかかわらず、その談話ではそれよりもさらに40年も前の「日露戦争」の勝利が讃えられる一方で、「憲法」や「国会」の意義にはほとんどふれられていいなかったからです。その文章を以下に引用したあとで、それらの問題点を具体的に考察することにします。

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「終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。」

こう語り始めた安倍氏が「歴史の教訓」の例として取り上げたのが、「立憲政治」の樹立と日露戦争の勝利でした。

「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。」(太字は引用者)

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日露戦争の勝利を讃美することの危険性については、次に考察したいと思いますが、今回はまず「明治憲法」と「国会」開設の問題を取り上げます。

自分の祖父である岸信介氏を理想視する安倍首相は、「立憲政治」の意義についてはさらりと言及しただけでしたが、日露戦争をクライマックスとした長編小説『坂の上の雲』で司馬氏が比較という手法をとおして力を込めて描いていたのは、皇帝による専制政治のもとで言論の自由がなかった帝政ロシアと、「憲法」を持ち、「国民」が自立していた日本との違いでした。

しかも、俳句の革新を行っただけでなく、新聞記者としても活躍していた正岡子規を主人公の一人としたこの長編小説では、権力におごっていた薩長藩閥政府との長く厳しい戦いをとおして、「明治憲法」が発布され、「国会」の開設に至ったことも描かれていました。

そのことは西南戦争に至る明治初期の日本を描いた長編小説『翔ぶが如く』とあわせて読むことで、いっそう明白となるでしょう。『坂の上の雲』が終わる頃から書き始められたこの長編小説では、「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例」を発布することで、江戸幕府以上に厳しく言論の自由を制限していた薩長藩閥政府の問題がくっきりと描かれているのです。

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一方、多くの憲法学者や元最高裁長官が指摘しているように「憲法」に違反している可能性の高い「安全保障関連法案」を安倍内閣は推し進め、自民・公明両党も衆議院でこの法案を強行採決しました。

特徴的なのは、この法案を審議する特別委員会で、「ヤジ」を飛ばしたりして厳しく諫められた首相が、今度は国会での審議中にもかかわらず、民間のテレビ局で自説を述べるなど、「国会」の軽視がはなはだしいことです。

さらに、参議院での議論をとおして問題がより明確になってきたにもかかわらず、自民党の高村副総裁も国民の理解が「十分得られてなくても、やらなければいけない」と述べて、「国民」の意向を無視してでも、参院でも「戦争法案」を強行採決する姿勢を明確に示しています。

その一方で高村氏は、「選挙で国民の理解が得られなければ政権を失う」と話し、次の衆議院選挙で国民の審判を仰ぐ意向を示したとのことですが、それは順序が逆で、選挙を行う前に「公約」として掲げていなかったこの法案を廃案とし、改めて次の国会で議論すべきでしょう。

なぜならば、このHPでも何度も取り上げてきたように、昨年末の総選挙の前に菅官房長官は「秘密法・集団的自衛権」は、「争点にならず」と発言していました。そして自民党も「景気回復、この道しかない」というスローガンを掲げ、「アベノミクス」を前面に出して総選挙を戦っていたからです。

安倍首相も「さきの衆院選では昨年七月の閣議決定に基づき、法制を速やかに整備することを明確に公約として掲げ、国民から支持を頂いた」と、安保法案は選挙で公約済みと強調しましたが、「東京新聞」の記事が具体的に指摘したように、昨年の選挙での自民党公約では、安保法制への言及は二百七十一番目だっただけでなく、「集団的自衛権の行使容認」は見出しにも、具体的な文言にもなかったのです。

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このように「憲法」と「国会」をとおして現在の日本の政治を見るとき、安倍首相などの言動は「70年談話」で語られた「アジアで最初に立憲政治を打ち立て独立を守り抜きました」という日本の歴史を否定し、日本の民主主義を「存亡」の危機に立たせているように感じます。

このような「憲政」の危機に際して、「心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵」を学ぶためにも、これまで誤解されてきた長編小説『坂の上の雲』をもう一度丁寧に読み直す必要があると思えます。

正岡子規を主人公として、新聞『日本』を創刊した恩人・陸羯南との関わりや夏目漱石との友情をとおして『坂の上の雲』を読むとき、これまでの解釈とはまったく違った光景が拓けてくることでしょう。

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残念ながら、「国民の生命や安全」に深く関わるいわゆる「戦争法案」が、9月17日に民主主義の根幹を揺るがすような方法で「強行採決」されたことにより、現在の日本は「憲法」が仮死状態になったような状態だと思われます。

それゆえ、次回からは「憲法」がなく言論の自由が厳しく制限されていた帝政ロシアで書かれた長編小説『罪と罰』が、なぜ法学部で学んだ元大学生を主人公とし、弁護士との激しい論戦が描かれているのかを考察することにします。

そのことにより日本では矮小化されて解釈されることの多い長編小説『罪と罰』が現代の日本に投げかけている問題が明らかになるでしょう。

リンク→「安倍談話」と「立憲政治」の危機(2)――日露戦争の賛美とヒトラーの普仏戦争礼賛

(2016年1月28日。改題と改訂。リンク先を変更)。

 

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)の目次を「著書・共著」に掲載

標記の拙著に関して昨年の10月に目次案を掲載しましたが、その後「秘密法・集団的自衛権」は「争点にならず」とした衆議院選挙が昨年末に行われ、その「公約」を裏切るような形で「安全保障関連法案」が提出されました。

「蟷螂の斧」とは知りつつもこの事態を「黙過」することはできずに、この法案の危険性を明らかにする記事を書き続けていました。そのため、6月27日に書いたブログ記事「新聞『日本』の報道姿勢と安倍政権の言論感覚脱稿に向けて全力を集中する」と宣言したにもかかわらず、拙著の進展が大幅に遅れてしまい、読者の方々や人文書館の方々にはご心配をおかけしました。

ただ、「国会」や「憲法」を軽視して「報道」にも圧力をかけるような安倍政権の「独裁政治」を目の当たりにしたことで、今回の事態が「新聞紙条例」や「讒謗律」を発行し自分たちの意向に沿わない新聞には厳しい「発行停止処分」を下していた薩長藩閥政権ときわめて似ていることを痛感したことで、東京帝国大学を中退して新聞「日本」の記者となった正岡子規の生きた時代を実感することができました。

それゆえ、新著では明治維新以降の歴史を振り返ることにより、「戦争」や「憲法」と「報道」の問題との関わりをより掘り下げて、「安倍政治」の危険性を明らかにするだけでなく、「新聞記者」としての子規の生き方や漱石との友情にも注意を払うことで、若い人たちにも生きることの意義を感じてもらえるような著作にしたいと願っています。

目次に関しては微調整がまだ必要かも知れませんが、題名だけでなく構成もだいぶ改訂しましたので、新しい題名と目次案を「著書・共著」に掲載します。

リンク『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015年

新聞『日本』の報道姿勢と安倍政権の言論感覚

昨日、「日本新聞博物館」で行われている「孤高の新聞『日本』――羯南、子規らの格闘」展に行ってきました。

チラシには企画展の主旨が格調高い文章で次のように記されています。

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1889(明治22)年に陸羯南(くが・かつなん)は新聞「日本」を創刊し、政府や政党など特定の勢力の宣伝機関紙ではない「独立新聞」の理念を掲げ、頻繁な発行停止処分にも屈することなく、政府を厳しく批判し、日本の針路を示し続けました。また、初めて新聞記者の「職分」を明確に提示し、新聞発行禁止・停止処分の廃止を求める記者連盟の先頭にも立ちました。

また、羯南の高い理想、人徳にひかれて日本新聞社には正岡子規ら大勢の俊英が集い、羯南亡き後、内外の主要新聞に散り、こんにちの新聞の基礎づくりに貢献しました。本企画展では、新聞「日本」の人々の、理想の新聞を追求した軌跡を200点を超す資料やパネルで紹介します。

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実際、1,新世代の記者たち、2,「日本」登場、3,新聞というベンチャー、4,子規と羯南、5,羯南を支えた人々、6,理念と経営のはざまで、7、再評価 の7つのコーナーから成る企画展はとても充実しており、「理想の新聞を追求した」新聞「日本」の軌跡を具体的に知ることができました。

ことに司馬作品の研究者である私にとっては、新聞『日本』の記者となる子規を主人公の一人とした長編小説『坂の上の雲』や『ひとびとの跫音』を書いただけでなく、産経新聞社の後輩で筑波大学の教授になった青木彰氏への手紙などで、「陸羯南と新聞『日本』の研究」の重要性を記していた司馬遼太郎氏の熱い思いを知ることが出来、たいへん有意義でした(なお、企画展は8月9日まで開催)。

また、常設展も幕末からの新聞の歴史が忠実に展示されており、「特定秘密保護法」の閣議決定以降、強い関心をもっていましたので、ことに治安維持法の成立から戦時統制下を経て敗戦に至る時期の新聞の状況が示されたコーナーからは現代の新聞の置かれている状況の厳しさも感じられました。

リンク→

「特定秘密保護法」と子規の『小日本』

「東京新聞」の「平和の俳句」と子規の『小日本』

ピケティ氏の『21世紀の資本』と正岡子規の貧富論

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それだけに帰宅してから見た下記のような内容のニュースには非常に驚かされました(引用は「東京新聞」デジタル版による)。

「安倍晋三首相に近い自民党若手議員の勉強会で、安全保障関連法案をめぐり報道機関に圧力をかけ、言論を封じようとする動きが出た」ばかりでなく、勉強会の講師を務めた作家の百田尚樹氏は「『沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない』などと述べた」。

この後でこのことを聞かれた百田氏は、ツイッターに「沖縄の二つの新聞社はつぶれたらいいのに、という発言は講演で言ったものではない。講演の後の質疑応答の雑談の中で、冗談として言ったものだ」などと弁解したようです。

このような無責任な記述は言論人としての氏の資質を正直に現しており、百田尚樹氏と共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』を発行していた安倍首相の責任も問われなければならないでしょう。

今回の事態は「国会」や「憲法」を軽視する安倍政権が、「新聞紙条例」を発行して自分たちの意向に沿わない新聞には厳しい「発行停止処分」を下していた薩長藩閥政権ときわめて似ていることを物語っていると思えます。

この問題についてはより詳しく分析しなければならないとも感じていますが、今は新聞と憲法や戦争の問題を検閲の問題などの問題をとおしてきちんと検証するためにも、執筆中の拙著『新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」』の脱稿に向けて全力を集中することにします。

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リンク→『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』における「憎悪表現」

リンク→百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「愛国」の手法

 

安倍政権と「報道」の問題

以前のブログにも記しましたが、執筆中の拙著『司馬遼太郎の視線(まなざし)――子規と「坂の上の雲」と』(仮題、人文書館)では新聞記者でもあった作家・司馬遼太郎氏が俳人・正岡子規の成長をどのように描き、子規の視線(まなざし)をとおして日露戦争をどのように分析しているかを考察しています。

子規との関連で新聞『日本』の性格についても調べているのですが、その中で強く感じるのは明治六年に設立された「内務省」や明治八年に制定されて厳しく言論を規制した「新聞紙条例」や「讒謗律(ざんぼうりつ)」によって言論が規制され、何度も発行停止などの厳しい処分を受けながら、言論人としての節を曲げずに、経済的に追い詰められながらも新聞を発行し続けた社主・陸羯南などの明治人の気概です。

いつ倒産するかも分からない新聞社に入社した正岡子規も給与が安いことを卑下することなく、むしろそのような新聞の記者であることを「誇り」として働いていたのです。

司馬氏は『坂の上の雲』の「あとがき」で、ニコライ二世の戴冠式に招かれて「ロシア宮廷の荘厳さ」に感激した山県有朋が日本の権力を握ったことが、昭和初期の「別国」につながったことも示唆していました。それは明治の人々が当時の「独裁政権」に抗してようやく勝ち取った「憲法」がないがしろにされることで、「国民」の状態が「憲法」のないロシア帝国の「臣民」に近づいたということだと思えます。

新聞記者だった司馬氏が長編小説『坂の上の雲』を書いた大きな理由は、冷厳な事実をきちんと調べて伝える「新聞報道」の重要性を示すためだったと私は考えています。

昨年の参議院選挙の頃にもそのようなことを強く思ってHPを立ち上げていたので、汚染水の流出と司馬氏の「報道」観について記したブログ記事を再掲し、その後で『日刊ゲンダイ』のデジタル版に掲載された〈朝日「吉田調書」誤報騒動のウラで東電が隠してきた“事実” 〉という記事を紹介することにします。

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 汚染水の流出と司馬氏の「報道」観(2013年7月28日 )

日本には「人の噂も75日」ということわざがあるが、最近になって発覚した事態からは、同じことが再び繰り返されているという感じを受ける。

参議院選挙後の22日になって放射能汚染水の流出が発表されたが、報道によれば「東電社長は3日前に把握」していたことが明らかになり、さらに27日には福島第一原発2号機のタービン建屋地下から延びるトレンチに、事故発生当時とほぼ同じ1リットル当たり計23億5000万ベクレルという高濃度の放射性セシウムが見つかったとの発表がなされた。

汚染水の流出の後では、この事実の隠蔽に関わった社長を含む責任者の処分が発表されたが、問題の根ははるかに深いだろう。

たとえば、参議院選挙を私は、「日本の国土を放射能から防ぐという気概があるか否か」が問われる重大な選挙だと考えていた。しかしほとんどのマスコミはこの問題に触れることを避けて、「衆議院と参議院のねじれ解消」が最大の争点との与党寄りの見方を繰り返して報道していた。

「臭い物には蓋(ふた)」ということわざもある日本では、「見たくない事実は、眼をつぶれば見えなくなる」かのごとき感覚が強く残っているが、事実は厳然としてそこにあり、眼をふたたび開ければ、その重たい事実と直面することになる。

このことを「文明論」的な視点から指摘していたのが、歴史小説家の司馬遼太郎氏であった。再び引用しておきたい(「樹木と人」『十六の話』)。

チェルノブイリでおきた原子炉事故の後で司馬氏は、「この事件は大気というものは地球を漂流していて、人類は一つである、一つの大気を共有している。さらにいえばその生命は他の生物と同様、もろいものだという思想を全世界に広く与えたと思います」と語っていた(傍線引用者)。

さらに司馬氏は、「平凡なことですが、人間というのはショックが与えられなければ、自分の思想が変わらないようにできているものです」と冷静に続けていた。

きれいな水に恵まれている日本には、過去のことは「水に流す」という価値観も昔からあり、この考えは日本の風土には適応しているようにも見える。

だが、広島と長崎に原爆が投下された後では、この日本的な価値観は変えねばならなかったと思える。なぜならば、放射能は「水に流す」ことはできないからだ。

チェルノブイリの原子力発電所は「石棺」に閉じ込めることによってなんとか収束したが、福島第一原子力発電所の事故は未だに収束とはほど遠い段階にあり、「海流というものは地球を漂流して」いる。

日本人が眼をつぶっていても、いずれ事実は明らかになる。(後略)

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 朝日「吉田調書」誤報騒動のウラで東電が隠してきた“事実” (日刊ゲンダイ)

「東電はまだまだ重要な事実を隠している」──あの未曽有の事故から3年8カ月。原発事故情報公開弁護団が1枚のファクスから新たな疑惑を発掘した。福島第1原発の2号機が危機的状況に陥っていた3月15日の朝、東電本店が姑息な隠蔽工作を行っていた疑いが浮き彫りとなった。

問題のファクスは、当日午前7時25分に福島第1原発の吉田昌郎所長が原子力安全・保安院に送信したものだ。現在も原子力規制委のホームページに公開されている。ファクスにはこう記されている。

〈6時~6時10分頃に大きな衝撃音がしました。準備ができ次第、念のため『対策本部』を福島第2へ移すこととし、避難いたします〉

今まで重要視されることのなかったファクスだが、きのうの会見で弁護団が突きつけた「新事実」は傾聴に値する。メンバーの海渡雄一氏はこう言った。

「『対策本部』自体を福島第2へ移すことは、第1に人員が残っていたとしても、彼らは対策の主力ではなくなる。まぎれもなく『撤退』だと考えられます」

■まぎれもなく「撤退」

となると、朝日新聞が「誤報」と認めた「吉田調書報道」に新たな解釈が生じる。朝日の第三者機関「報道と人権委員会(PRC)」は、当該記事が「撤退」と断定的に報じたことを問題視。今月12日に「『撤退』という言葉が意味する行動はなかった。第1原発には吉田所長ら69人が残っており、対策本部の機能は健在だった」とする見解をまとめ、「重大な誤りがあり、記事取り消しは妥当」と断じたが、いささか早計すぎたのではないか。

まず結論ありきで、「PRCは『撤退はなかった』と言い切るだけの根拠を調べ抜いたのか。重大な疑念が生じる」(海渡氏)と非難されても仕方ない。 問題にすべきは東電の隠蔽体質の方だ。当日午前8時30分に行われた本店の記者会見では、作業員650人の移動先を「第1原発の安全な場所」と発表。第2原発に移動した事実には一切触れなかった。

「吉田所長のファクスは『異常事態連絡様式』という公式な報告書で、本店が内容を把握していないわけがありません。『撤退』した事実の隠蔽を疑わざるを得ません」(海渡氏)

同じくメンバーで弁護士の小川隆太郎氏はこう話した。

「政府はまだ当日、現場にいた作業員ら771人分の調書を開示していない。今後、明らかにしていくべきです」

福島原発事故の真相はまだ闇に包まれたままだ。

         (2014年11月19日/『日刊ゲンダイ』/デジタル版)

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リンク先→

真実を語ったのは誰か――「日本ペンクラブ脱原発の集い」に参加して

原発事故の隠蔽と東京都知事選

復活した「時事公論」と「特定秘密保護法」

グラースノスチ(情報公開)とチェルノブイリ原発事故

 

近著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)について

標記の拙著に関しては発行が大幅に遅れて、ご迷惑や心配をおかけしていますが、ようやく新しい構想がほぼ固まりました。

本書では「黒塊(コツクワイ)」演説を行ったことが咎められて松山中学を中退して上京し、「栄達をすてて」文学の道を選んだ正岡子規に焦点を絞ることで、新聞記者でもあった作家・司馬遼太郎氏が子規の成長をどのように描いているかを詳しく考察しています。

長編小説『坂の上の雲』では、子規の死後に起きた日露戦争における戦闘場面の詳しい描写や戦術、さらには将軍たちの心理の分析などに多くの頁が割かれていますので、それらを省略することに疑問を持たれる方もおられると思います。

しかし、病いを押してでも日清戦争を自分の眼で見ようとしていた子規の視野は広く、「写生」や「比較」という子規の「方法」は、盟友・夏目漱石やその弟子の芥川龍之介だけでなく、司馬氏の日露戦争の描写や考察にも強い影響を及ぼしていると言っても過言ではないように思えます。

司馬氏は漱石の長編小説『三四郎』について「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と記しています。子規と漱石との交友や、子規の死後の漱石の創作活動をも視野に入れることで、長編小説『坂の上の雲』の「文明論的な」骨太の骨格を明らかにすることができるでしょう。

『坂の上の雲』の直後に書き始めた長編小説『翔ぶが如く』で司馬氏は、「征韓論」から西南戦争に至る時期を考察することで、「近代化のモデル」の真剣な模索がなされていた明治初期の日本の意義をきわめて高く評価していました。明治六年に設立された「内務省」や明治八年に制定されて厳しく言論を規制した「新聞紙条例」や「讒謗律(ざんぼうりつ)」は、新聞『日本』の記者となった子規だけでなく、「特定秘密保護法」が閣議決定された現代日本の言論や報道の問題にも深く関わると思われます。

それゆえ本書では、子規の若き叔父・加藤拓川と中江兆民との関係も視野に入れながらこの長編小説をも分析の対象とすることで、長編小説『坂の上の雲』が秘めている視野の広さと洞察力の深さを具体的に明らかにしたいと考えています。

ドストエフスキーを深く敬愛して映画《白痴》を撮った黒澤明監督は、『蝦蟇の油――自伝のようなもの』の「明治の香り」と題した章において、「明治の人々は、司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』に書かれているように、坂の上の向うに見える雲を目指して、坂道を登っていくような気分で生活していたように思う」と書いています。

焦点を子規とその周囲の人々に絞ることによって、この作品の面白さだけでなく、「明治の人々」の「残り香」も引き立たせることができるのではないかと願っています。

リンク→『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館

( 2015年8月10日、改訂と改題)

 

見えてきた「政権担当者」の本音――幕末の言論弾圧と「特定秘密保護法案」

 

ここのところ自分の仕事をする時間がなく、焦っています。

しかし、衆議院で明治8年に成立した『新聞紙条例』(讒謗律)にも勝るような「悪法」と思われる「特定秘密保護法案」が強行採決されてから国会の会期末までの時間は、これからの国家の行く末をも左右することになります。

それゆえ、なんとか時間を捻出してブログ記事を書き続けることにします。

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今朝の新聞各紙は、自民党の石破茂幹事長が11月29日付の自身のブログで、特定秘密保護法案に反対するために国会周辺で行われている市民のデモについて「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます」と記していたことを報じています。

これらの新聞記事が厳しく批判しているようにこれは本末転倒であり、彼らが自分の忙しい時間を割いてデモをしているのは、民主党政権を倒した後で現政権が打ち出した「特定秘密保護法案」が、軍事的な秘密だけでなく、沖縄問題などの外交的な秘密や原発問題の危険性、さらには権力者の不正をも隠蔽できるような性質を有していることが、次第に明確になってきているからです。

今回の石場幹事長の記述は、国際的ないくつもの機関が指摘していたように、政権の担当者が「政権を厳しく批判する言動」をも「テロ行為」とみなすようになることを端的に示しているでしょう。

ブログ記事「「特定秘密保護法案」と明治八年の「新聞紙条例」(讒謗律)で書いたことの一部を再掲することで、司馬遼太郎の研究者の視点からこの法案の危険性を再度、訴えたいと思います。

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「征韓論」に沸騰した時期から西南戦争までを描いた長編小説『翔ぶが如く』で司馬遼太郎氏は、「この時期、歴史はあたかも坂の上から巨岩をころがしたようにはげしく動こうとしている」と描いていました(第3巻「分裂」)。

 そして司馬氏は、「明治初年の太政官が、旧幕以上の厳格さで在野の口封じをしはじめたのは、明治八年『新聞紙条例』(讒謗律)を発布してからである。これによって、およそ政府を批判する言論は、この条例の中の教唆扇動によってからめとられるか、あるいは国家顛覆論、成法誹毀(ひき)ということでひっかかるか、どちらかの目に遭った」と書いています(下線引用者、第5巻「明治八年・東京」)。

世界を震撼させた福島第一原子力発電所の大事故から「特定秘密保護法案」の提出に至る流れを見ていると、現在の日本もまさにこのような状態にあるのではないかと感じます。

司馬氏はここで「旧幕以上の厳格さ」と書いていますが、「国民」には秘密裏に外国との交渉を進めた幕府の大老井伊直弼は、幕末の志士からの批判を押さえるために大弾圧を行い、それが激しい討幕運動を呼び起こしたのです。

そのような井伊直弼の政策と比較することで、司馬氏は明治8年の『新聞紙条例』(讒謗律)が西南戦争を引き起こす原因の一つになったことを示唆していたと思えます。

急に提出されて、きちんとした国民的な議論もないままに強行採決された「特定秘密保護法案」もこのような危険性をはらんでいます。

一昨日の当ブログでは研究者の方々に廃案を訴えましたが、戦争の悲惨さを知っている自民党の良識ある代議士や、平和を党是としてきた与党公明党の代議士にも、この法案が内在している危険性を認識して頂き、廃案にすることを強く訴えたいと思います。

「正岡子規・夏目漱石関連年表(作成中)」を「年表」のページに掲載しました

最近はブログ記事で内務省の設置や新聞紙条例に関連して、子規や漱石について触れることが多くなっています。

それゆえ、まだ作成中の段階ですが、急遽、「正岡子規・夏目漱石関連年表」(1857~1910)を「年表」のページに掲載しました。

年表の開始となる年は、正岡子規の師ともいうべき陸羯南が生まれた1857年とし、終わる年はトルストイが亡くなり、大逆事件が起きた1910年にしました。

 いずれ子規と漱石関連の事柄は靑い字で、戦争や暗殺は朱で、戦争につながると思われる内務省や新聞紙条例などはオレンジの色で表記する予定です。

司馬遼太郎の「治安維持法」観

現在、審議されている「特定秘密保護法案」の危険性について指摘した昨日のブログ記事では、司馬遼太郎氏の長編小説『翔ぶが如く』に言及しながら、「この明治8年の『新聞紙条例』(讒謗律)が、共産主義だけでなく宗教団体や自由主義などあらゆる政府批判を弾圧の対象とした昭和16年の治安維持法のさきがけとなったことは明らかだと思えます」と記しました〈「特定秘密保護法案」と明治八年の「新聞紙条例」(讒謗律)〉。

このように断定的に書いたのは、『翔ぶが如く』で『新聞紙条例』(讒謗律)を取り上げていた司馬氏が、『ひとびとの跫音』では大正14年に制定された最初の「治安維持法」について次のように厳しく規定していたからです。

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国家そのものが「投網、かすみ網、建網、大謀網のようになっていた」。

「人間が、鳥かけもののように人間に仕掛けられてとらえられるというのは、未開の闇のようなぶきみさとおかしみがある」。

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いわゆる「司馬史観」論争が起きた際には司馬氏の歴史観に対しては、「『明るい明治』と『暗い昭和』という単純な二項対立史観」であり、「大正史」を欠落させているとの厳しい批判もありました。

しかし、『ひとびとの跫音』において司馬氏は、子規の死後養子である正岡忠三郎など大正時代に青春を過ごした人々を主人公として、「言論の自由」を奪われて日中戦争から太平洋戦争へと続く苦難の時期を過ごした彼らの行動と苦悩、その原因をも淡々と描き出していたのです、

司馬氏はこの長編小説で「学校教練」にも触れていますが、治安維持法と同じ年に全国の高校や大学で軍事教練が行われるようになったことに注意を促した立花隆氏の考察は、この法律が「革命家」や民主主義者だけではなく、「軍国主義」の批判者たちの取り締まりをも企てていたことを明らかにしているでしょう(『天皇と東大――大日本帝国の生と死』下巻、文藝春秋、2006年、41~51頁)。

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日本の自然を破壊する原発の推進や核兵器の拡散にもつながると思える原発の輸出にも積極的なだけではなく、安倍政権が「徴兵制」への視野に入れて準備を進めているように見える現在、国民の眼から国家の行動を隠蔽できるような危険な「特定秘密保護法案」の廃案に向けて、司馬作品の愛読者は声を上げるべきだと思います。

 正岡子規の時代と現代(2)――「特定秘密保護法」と明治八年の「新聞紙条例」(讒謗律)

(2016年11月1日、リンク先を変更) 

司馬遼太郎の洞察力――『罪と罰』と 『竜馬がゆく』の現代性

先のブログ記事で坂本龍馬を主人公とした『竜馬がゆく』を読んだ時には、司馬遼太郎という作家が若い頃にはおそらく、坂本龍馬と同じ時代を生きていたドストエフスキーの文学を耽読していたのだろうという推測を記しました。

その理由は『罪と罰』と 『竜馬がゆく』における「正義の殺人」の分析が、その後の歴史状況をも見事に捉えていることです。

クリミア戦争後の思想的な混乱の時代に「非凡人の理論」を編み出して、自分には「悪人」を殺すことで世直しをすることが許されていると考えた『罪と罰』の主人公の行動と苦悩を描き出したドストエフスキーは、予審判事のポルフィーリイに「もしあなたがもっとほかの理論を考え出したら、それこそ百億倍も見苦しいことをしでかしたかもしれませんよ」と批判させていました。

八五〇万人以上の死者を出した第一次世界大戦後に、ヘルマン・ヘッセはドストエフスキーの創作を「ここ数年来ヨーロッパを内からも外からも呑み込んでいる解体と混沌を、これに先んじて映し出した予言的なものであると感じる」と記していました(拙著 『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー、刀水書房、六頁)。

実際、敗戦後の屈辱感に覆われていた中で、「大国」フランスを破った普仏戦争の栄光を強調することでドイツ人の民族意識を煽ったナチス政権下のドイツでは「非凡人の理論」は「非凡民族の理論」となって、ユダヤ人の虐殺を正当化することになったのです。

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古代中国の歴史家・司馬遷が著した『史記』を愛読していた司馬氏を特徴付けるのは、情念に流されることなく冷静に歴史を見つめる広く深い「視線(まなざし)」でしょう。

太平洋戦争後の敗戦から間もない時期に司馬氏が 『竜馬がゆく』で取り上げたのは、「黒船」による武力を背景にした「開国」要求が、日本中の「志士」たちに激しい怒りを呼び起こし、「攘夷」という形で「自分の正義」を武力で訴えようとした幕末という時代でした。そのような混乱の時代には日本でも、中国の危機の時代に生まれた「尊皇攘夷」というイデオロギーに影響された武市半平太は、深い教養を持ち、人格的にも高潔であったにもかかわらず、自分の理想を実現するために「天誅」という名前の暗殺を行う「暗殺団」さえ持つようになったのです。

司馬遼太郎氏は坂本龍馬を主人公とした『竜馬がゆく』において、武市半平太と同じような危機感を持っていた龍馬が、勝海舟との出会いで国際的な広い視野を得て、比較文明論ともいえる新しい視点から行動するようになることを雄大な構想で描き出しました。咸臨丸でアメリカを訪れていた勝海舟から、アメリカの南北戦争でも、近代兵器の発達によって莫大な人的被害を出していたことを知った龍馬は、「正義の戦争」の問題点も深く認識して、自衛の必要性だけでなく戦争を防ぐための外交的な努力の必要性も唱える思想家へと成長していくのです。

しかも、『竜馬がゆく』において幕末の「攘夷運動」を詳しく描いた司馬は、その頃の「神国思想」が、「国定国史教科書の史観」となったと歴史の連続性を指摘し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判しているのです( 『竜馬がゆく』第2巻、「勝海舟」)。

注目したいのは、司馬氏が『坂の上の雲』を書くのと同時に幕末の長州藩に焦点を当てて『世に棲む日日』を描き、そこで戦前に徳富蘇峰によって描かれた吉田松陰とはまったく異なる、佐久間象山の元で学び国際的な視野を獲得していく若々しい松陰を描き出していることです。しかも、師の吉田松陰と高杉晋作や弟子筋の桂小五郎との精神的な深いつながりにも注意を喚起していた司馬氏は、「革命の第三世代」にあたる山県狂介(有朋)を、「革命集団に偶然まぎれこんだ権威と秩序の賛美者」と位置づけていることです(『世に棲む日日』、第3巻、「ともし火」)。

このことはなぜ司馬氏が『坂の上の雲』を書き終えたあとで『翔ぶが如く』を書き続けることで、明治八年の『新聞紙条例』(讒謗律)が発布されて、「およそ政府を批判する言論は、この条例の中の教唆扇動によってからめとられるか、あるいは国家顛覆論、成法誹毀(ひき)ということでひっかかるか、どちらかの目に遭った」時代から西南戦争に至る時代の問題点を浮き彫りにしようとしたかが分かるでしょう(第5巻「明治八年・東京」)。

現在の日本でもきちんと議論もされないままに、閣議で「特定秘密保護法案」が決定されましたが、この法案の問題点は徹底的に議論されるべきだと思います。

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『坂の上の雲』において、日本が最終的に近代化のモデルとして選ぶことになるプロシアの「参謀本部」の問題を描くことになる司馬氏の視野の広さは、『竜馬がゆく』で新興国プロシアに言及し、『世に棲む日日』においてはアヘン戦争(1840~42)を、日本の近代化のきっかけになった戦争ときちんと位置づけていることでしょう。

拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと(人文書館、2009年)では、 『竜馬がゆく』と『世に棲む日日』だけでなく、この時期を扱った『花神』などの多くの作品にも言及したために、385頁という事典なみの厚い本となりました。

司馬氏の歴史観の全体像に近づくために事項索引を作成しました。(下線部をクリックすると「著書・共著」の当該のページに飛びます)。