高橋誠一郎 公式ホームページ

ドストエーフスキイの会

ドストエーフスキイの会、第242回例会(報告者:齋須直人氏)のご案内

第242回例会のご案内を「ニュースレター」(No.143)より転載します。

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第242回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                    

日 時2017年11月25日(土)午後2時~5時       

場 所千駄ヶ谷区民会館

(JR原宿駅下車7分)  ℡:03-3402-7854 

報告者:齋須直人 氏 

題 目: 『白痴』、「大罪人の生涯」、『悪霊』における対話による道徳教育

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:齋須直人(さいす なおひと)

1986年生まれ。京都大学文学研究科スラブ語学スラブ文学専修博士課程に在中。論文「ザドンスクのチーホンの「自己に勝つ」ための教えとスタヴローギンの救済の問題について」(ロシア語ロシア文学研究49号、2017)、 «О влиянии Достоевского на творчество Т.Манна во время мировых войн (世界大戦期におけるドストエフスキーのトーマス・マンの作品への影響について)» (ドストエフスキーと現代―2014年 第29回 スターラヤ・ルッサ国際学会論集―、2015)、他。

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第242回例会報告要旨

題目:『白痴』、「大罪人の生涯」、『悪霊』における対話による道徳教育  

ドストエフスキー本人の宗教的立場と結びつけつつ、この作家の作品に見られる道徳教育のモチーフを論じることには困難がある。ドストエフスキーの作品は、ポリフォニック小説として読まれるようになってから、作品内で作家自身の立場も相対化されることとなり、作家の作品創造の目的や、作品全体を通して作家が何を主張したかったかについて考察することについて慎重になる必要が生じた。そのため、この作家の作品を、あたかも一定の作品創造の目的があるかのように解釈することが多かれ少なかれ必要とされるような読み方、例えば、登場人物の成長物語(ビルディングスロマン、聖者伝など)として読むことが容易ではなくなっている。作品の中での教育のモチーフ(特に道徳教育)を読み解く際も、教育がある程度一定の価値観に従って人を導くものである以上、同様の問題がある。しかし、ドストエフスキーの作品の中で、成長物語や教育の要素は独自のあり方で存在している。そして、これらの要素と作家自身の立場を完全に切り離すことはできない。特に、作品を描くさい、ドストエフスキーが若者の道徳教育に強い問題意識を持っていたとすれば尚更である。報告者は、作品の芸術的形式に十分注意を払いつつ、作家の宗教思想と作品の全体性が矛盾しないものとして作品を読み解くことを目標とし、ドストエフスキーの作品における、対話を通した道徳教育を研究テーマの一つとしている。

1860~70年代、土壌主義者であるドストエフスキーは西欧の教育を受けた階級の人々と民衆との乖離をロシア社会の根本的な問題とみなしていた。彼はロシアのインテリゲンツィヤと民衆との一体化が、両者のロシア正教への信仰を基礎としてもたらされるものと考えた。特に、作家が懸念していたのはロシアの若者たちに、社会主義やポジティヴィズムを基礎としたニヒリズムが広まっていることだった。1870年3月25日のマイコフに宛てた書簡で、ドストエフスキーは「大罪人の生涯」の構想(結局書かれることなく終わった)について詳しく書いているが、それに際し、次のように述べている:「ニヒリズムについては何も言いません。待ってください、ロシアの土壌から引き離された、この上位層はまだ完全に腐っているのです。お分かりでしょうか、私には次のことが頭に浮かぶのです。つまり、この多くの最もろくでなしの若者たち、腐っている若者たちが、最終的には本物のしっかりした土壌主義者に、純粋なロシア人になるということが」。そして、後に、『悪霊』の創作ノートにおいて、作家は次のように記している:「我々は形(образы)を失ってしまった、それらはすぐさま拭い去られてしまい、新しい形も隠されてしまっている。(…)形を持たない人々は、信念や科学、いかなる支点も持たず、社会主義の何かしらの秘密を説いている。(…)全てのこれら確固としたものを持たない大衆を捕えているのは冷笑主義である。指導者を持たない若者たちは見捨てられている」。ドストエフスキーにとって、新しい世代への宗教・道徳教育についての問題は重要なものであった。彼は、迷える若者たちを導く肯定的な人間像(образ положительного человека)を創造することを自己の課題とした。そして、この課題を『白痴』、「大罪人の生涯」、『悪霊』において実現しようとした。

本報告では、作家本人の教育における立場や宗教観を適宜参照しつつ、これらの作品において対話を通した教育がいかに描かれているか検討する。これら3作品の変遷をたどることで、ドストエフスキーの作品の道徳教育のモチーフがいかに形成されていったかを明らかにしたい。『白痴』との関連では、1860年前後のヤースナヤ・ポリャーナにおけるレフ・ニコラエヴィチ・トルストイの教育活動が、主人公レフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキン像の形成にいかに用いられたかに着目する。「大罪人の生涯」、『悪霊』については、これらの作品の登場人物である僧チーホンと主人公との対話を、ドストエフスキーが参考にしたと考えられる、ザドンスクのチーホンの思想、また、スーフィズムとの関連に着目する。

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例会の「傍聴記」や「事務局便り」の主ななどは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。なお、「事務局便り」にも「国際ドストエフスキー研究集会」のことが掲載されましたのでその箇所を転載します。

◎来年2018年10月23日~26日に、ブルガリアの首都ソフィアで、国際ドストエフスキー研究集会がブルガリア・ドストエフスキー協会の主催で開催される模様です。『白痴』の公刊150周年ということで、黒澤明の『白痴』もテーマとしてとりあげられ、高橋さん所属の「黒澤明研究会」に協力要請が来ています。参加希望者は、詳しくは、高橋さんのHP-http://www.stakaha.com/ からお問い合わせてください。

ドストエーフスキイの会、第241回例会(報告者:高橋誠一郎)のご案内

ドストエーフスキイの会、第241回例会のご案内を「ニュースレター」(No.142)より転載します。

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第241回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                       

日 時2017年9月16日(土)午後2時~5時           

場 所千駄ヶ谷区民会館1階奥の和室(JR原宿駅下車7分)                       ℡:03-3402-7854

報告者:高橋誠一郎 氏

 題 目: 『罪と罰』の受容と法制度と教育制度の考察――長編小説『破戒』を中心に

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:高橋誠一郎(たかはし せいいちろう)

東海大学教授を経て、現在は桜美林大学非常勤講師。世界文学会、日本比較文学会、日本ロシア文学会などの会員。研究テーマ:日露の近代化と文学作品の比較。主な著書に『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』、『黒澤明で「白痴」を読み解く』、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(以上、成文社)、『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)など。

 

第241回例会報告要旨

『罪と罰』の受容と法制度と教育制度の考察――長編小説『破戒』を中心に

内田魯庵が法学部の元学生を主人公とした長編小説『罪と罰』の英訳を購入したのは、大日本帝国憲法が発布されて言論や結社の自由や信書の秘密などの権利が条件付きではあるが保障され、司法権も独立した明治22年のことであった。

憲法のない帝政ロシアの首都サンクト・ペテルブルクを舞台にしたこの長編小説に読みふけった魯庵は、「何うかして自分の異常な感嘆を一般の人に分ちたい」と思いたち、日本で初めて『罪と罰』の前半部分を訳出して2回に分けて刊行し、売れ行きが思わしくなかったために完訳はできなかったものの反響は大きく多くの書評が書かれた。

たとえば、自由民権運動にも参加していた北村透谷は明治24年1月に著した「『罪と罰』の殺人罪」において、「学問はあり分別ある脳髄の中に、学問なく分別なきものすら企つることを躊躇(ためら)うべきほどの悪事をたくらましめたるかを現はすは、蓋(けだ)しこの書の主眼なり」と指摘し、大隈重信に爆弾を投げた来島やロシア皇太子ニコライに斬りつけた津田巡査などに言及しながら、「来島某、津田某、等のいかに憐れむべき最後を為したるやを知るものは、『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥(しりぞ)くるやうの事なかるべし」と記して、『罪と罰』の深い理解を示していた。

ただ、この記述には憲法発布式典の朝に文部大臣・森有礼を襲って刺殺するという大事件を起こした国粋主義者の西野文太郎の名前が挙げられていないが、その理由はその後の流れを見れば推測できるだろう。すなわち、この事件の翌年に「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」と記された「教育勅語」が渙発されると、それから3ヶ月後には教育勅語奉読式においてキリスト者であった第一高等中学校の教員・内村鑑三が天皇親筆の署名に対して最敬礼をしなかったことを咎められて退職を余儀なくされるという「不敬事件」がおきたが、それは「立憲政治」を覆した昭和10年の「天皇機関説事件」の遠因ともなっていたのである。

一方、長編小説『破戒』(明治39)は人物体系や筋が『罪と罰』からの強い影響を受けていることが多くの批評家や研究者から指摘されているが、島崎藤村はそこで「教育勅語」と同時に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた教育現場の状況を「忠孝」の理念を強調した校長の演説などをとおして詳しく描き出していた。

このような『破戒』の構造はロシアの「教育勅語」とも呼ばれる「ウヴァーロフの通達」が出された「暗黒の30年」の時代に、ドストエフスキーが『貧しき人々』において寄宿学校における教師による「体罰」や友達からの「いじめ」の問題にも言及していたことを思い起こさせるが、明治37年4月には『貧しき人々』のワルワーラの「手記」が瀬沼夏葉によって訳出されていたのである。

さらに、当時のロシアの裁判制度の問題にも踏み込んでいた『虐げられた人々』の訳を明治27年から翌年にかけて『国民之友』に連載していた内田魯庵は、日露戦争の最中に『復活』の訳を新聞『日本』に掲載して「強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」との説明を載せていた。このような魯庵の記述には功利主義を主張した悪徳弁護士ルージンとの激しい論争が描かれていた『罪と罰』の理解が反映していると思われる。

発表では『文学界』同人たちとの交友や北村透谷の『罪と罰』観が描かれている島崎藤村の長編小説『春』(明治41)だけでなく、『破戒』を「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞した夏目漱石の『坊つちゃん』(明治39)や『三四郎』(明治41)などをも視野に入れることで、「非凡人の思想」の危険性を明らかにした『罪と罰』と「差別思想」の問題点を示した『破戒』との深い関係を明らかにしたい。

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例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

ドストエーフスキイの会、第238回例会(報告者:木下豊房氏)のご案内

お知らせがたいへん遅くなりましたが、第238回例会のご案内を「ニュースレター」(No.139)より転載します。

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第238回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                   

 日 時2017年3月25日(土)午後2時~5時         

場 所神宮前穏田区民会館 第3会議室(2F)   ℡:03-3407-1807 

   (会場が変更になりました。下記の案内図をご覧ください

報告者:木下豊房氏 

題 目: 『カラマーゾフの兄弟』における「ヨブ記」の主題 -イワン・カラマーゾフとゾシマ長老の「罪」の概念をめぐって-

 *会員無料・一般参加者=会場費500円

報告者紹介:木下豊房(きのした とよふさ)

1969年、新谷敬三郎、米川哲夫氏らとドストエーフスキイの会を起ちあげ、「発足の言葉」を起草。その後現在まで会の運営に関わる。2002年まで千葉大学教養部・文学部で30年間、ロシア語・ロシア文学を教える。2012年3月まで日本大学芸術学部で非常勤講師。研究テーマ:ドストエフスキーの人間学、創作方法、日本におけるドストエフスキー受容の歴史。著書に『近代日本文学とドストエフスキー』(1993、成文社)、『ドストエフスキー・その対話的世界』(2002.成文社)、『ドストエフスキーの作家像』(2016、鳥影社)その他。ネット「管理人T.Kinoshita」のサイトで「ネット論集」(日本語論文・ロシア語論文)を公開中。

 

第238回例会報告要旨

『カラマーゾフの兄弟』における「ヨブ記」の主題

     -イワン・カラマーゾフとゾシマ長老の「罪」の概念をめぐって-

新約聖書とドストエフスキーとの関係は、最近の芦川進一氏、大木貞幸氏の著書、および、両氏の本会例会での報告などによってクローズアップされ、このところ、私たちのドストエフスキー読解に、大きな刺激をあたえるテーマとなっている。

もっとも「聖書とドストエフスキー」というテーマからいえば、『カラマーゾフの兄弟』にとりわけ因縁深い、旧約聖書の『ヨブ記』を無視することはできないだろう。小説にはゾシマ長老の話として、『ヨブ記』のエッセンスが詳しく紹介されているだけではなく、晩年のドストエフスキーの『ヨブ記』との再会(1875)、そして遥かさかのぼる幼年時代の思い出から、小説執筆の背景に『ヨブ記』の存在があったことが想像されるのである。

ロシアの研究者の間でのこのテーマでの研究は、1997年段階での『ドストエフスキー便覧事典』の記述『ヨブ記』の項によれば、この書の作家への影響の研究は、近年まだ事実の確認にとどまっていて、『カラマーゾフの兄弟』で部分的になされているものの、創作全体にかかわる潜在的影響の解明は今後に待たれるとされている。その後の10年間を見ても、意外にこのテーマの研究は十分に展開されたとはいえないようである。

私がこのテーマに関心を向けたきっかけは、イワンがアリョーシャとの会話で、神の否定、神の創造した世界を否定する根拠に、無辜の子供にまで及ぶ「人々の間での罪の連帯性」をあげているのに妙に引っかかるものを感じたことだった。「罪の連帯性」という用語は、かつて木寺律子さんが、自分の論文の題名にこの用語を掲げていて、あらためて気づかされたのだった。明らかにラテン語由来の「連帯性」という用語が、ロシア文化史上、いつごろからどのようなコンテクストで使われるようになったのか、にまず興味をもった。

この用語はロシアでのユートピア社会主義思想の普及に伴い、とりわけ19世紀60年代末のナロードニキの思想家達、活動家達の間で一般的なものになったらしい。なかでもドストエフスキー本人やイワン・カラマーゾフのまさに同年代人であるナロードニキの思想家ピョートル・ラヴロフ(1823-1900)にとっては、人類の意識における「連帯」はきわめて重要なキーワードだった。

他方、まったく別方向からの「連帯」概念、しかもドストエフスキーに絡む形での情報に接することになった。それはドストエフスキー研究者T.カサートキナの論文からの情報で、『貧しき人々』のエピグラフの引用元であるオドエフスキーの小説『生ける死者』には、架空の小説からのエピグラフが掲げられていて、そこには作中人物達により、「solidartis(連帯)はロシア語ではどう訳したらよいのか?」の問答がなされているのである。

ここでの「連帯」の概念を、カサートキナはゾシマ長老の思想に連なるものとしているが、これはイワンの「連帯性」とは明らかに異質なものである。イワンの論理からすれば、子供に向けられた大人の罪の「連帯性」は「原罪」の論理にほかならない。「罪における連帯性」という用語を、さらに探って行くと、こういうことがわかった。

ロシア正教会において、「原罪」についての聖アウグストの教義に基づくカトリック的解釈が聖書翻訳に付随して持ち込まれた結果、なお自然崇拝の要素を残し、「原罪」については異なる解釈を持つ正教会では、これを非公認の概念としてあつかい、「罪における連帯性」と呼ぶようになったということである。こうして見ると、イワンのいう「人々の間での罪の連帯性」の概念は、明らかに「原罪」についてのカトリックの匂いが濃厚である。

他方、オドエフスキーに発し、ドストエフスキーの念頭にもあったであろう、もう一つの「連帯」概念は、多くの辞書類の解説にも見られない独特の解釈である。むしろ、ロシア人の原初的なメンタリティに由来するものとして、ゾシマ長老の思想に反映された、オプチナ修道院を中心とする「セラフィム系流(清貧派)」の修道僧や長老(アンブローシイやチーホン・ザドンスキイなど)の東方的「自然崇拝」の思想から逆照射して理解できるのではなかろうか。そこにはまたヨブの信仰の本来の姿も浮かび上がってくるように思われる。例会では出来ればこのあたりにまで話を進めたいと思っている。

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神宮前隠田区民会館の案内図

ドストエーフスキイの会会場

地下鉄千代田線か副都心線の明治神宮前駅(1分) あるいはJR山手線原宿駅(5分)。(原宿駅下車、表参道を下って、 明治通り交差点手前右横奥)

ドストエーフスキイの会、第237回例会(報告者:大木貞幸氏)のご案内

ドストエーフスキイの会、第237回例会のご案内を「ニュースレター」(No.138)より転載します。

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第237回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

 日 時2017年1月28日(土)午後2時~5時

 場 所場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)

℡:03-3402-7854

報告者:大木貞幸氏

 題 目: キリストの小説――ドストエフスキー・マルコによるキリスト教批判

 *会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:大木貞幸(おおき さだゆき)

65歳。団体役員。埼玉大学理工学部卒業。40歳位から文芸誌新人賞に文学批評の投稿を続ける。年1作。対象は、大江健三郎、本居宣長、源氏物語、ロラン・バルト、柄谷行人、ドストエフスキーなど。主に表現と方法、日本的なものと西欧的なものの比較論を扱う。定年を機に「カラマーゾフ論」をまとめて、昨年3月に自費出版。同年当会に入会。

 

第237回例会報告要旨

キリストの小説――ドストエフスキー・マルコによるキリスト教批判

『カラマーゾフの兄弟』について書こうと思ったのは、マルコ福音書の、転じて「歴史」を創生するかのような高度な虚構性について考えていた際、作家がこのことの「証人」の一人であると確信したからです。ドストエフスキーが、その遺作の構想に当たって「キリストの小説」という言葉に想到したとき、作家はおそらく福音書に小説でしか達成できない世界を認め、そのモデルに相即し、かつ流動させることによってキリストその人の小説を書きうると考えた。この試みは、正教ロシアに連なることになるのですが、作家の表現はどこまでマルコに切迫し、西欧キリスト教世界に対したかを確かめようとしたものです。報告では、拙論の趣旨と概要をお話しするとともに、前後して上梓された芦川進一氏の『カラマーゾフの兄弟論』にもふれさせていただきます。

拙論は、2007年に執筆した未発表の評論と追加した「論註」から成ります。以下、章立てに沿って、本論と論註を併せた簡単な梗概を示します。

1 もうひとつの「福音書」――「方法」のモデル

「イエス・キリストについての本を書くこと」という覚書の二重の意味、『カラマーゾフ』における主題と方法に関する課題設定です。作家が、モデルとしての福音書に対し、記者たちと同じ位置から「もうひとつの福音書」を書こうとしたという趣旨です。

2 小児虐待の「思想」――常識の「原理」

小説の第5篇第3章と第4章「叛逆」を扱っています。「神」と「世界」と「小児の苦痛」をめぐる、イワンの思考の型の「未熟さ」を批判しています。作者がこれに気づいたこと、このことが主題の大きな転換と「方法」への踏込みになったという趣旨です。

3 「大審問官」のキリスト――「方法」の経験

第5章「大審問官」におけるイワンの劇詩の明白な「失敗」と、これを引き取った、アレクセイの接吻とイワンの歓喜の叫び、これと同時に生起した作者の方法的転換の経験という脈絡です。作者はある「形式」に想到し、初めて福音書の世界に踏込みます。

4 ゲッセマネの「憂愁」――流動するアナロギア

第6章の表題、「いまはまだそれほどはっきりしたものではない(が)」のとおり、父の家の門の前でのイワン=スメルヂャコフの交感と、マルコにおけるイエス=ユダの「分身関係」が、流動しつつ重なり、二つの「作品」が「一つ」になっていきます。

5 ペテロの「躓き」――超越論的アナロギア

第5編最終章の一挿話、「父の家の階段の下り口」でのイワンの奇怪な行動を、倫理の「内面」の点描ととらえます。そこにマルコの「大祭司の官邸の中庭」でのペテロの「躓き」、そしてありうべきペテロの倫理的行為を重ねる作家の「好奇心」を仮説します。

6 ゾシマの「罪」と「革命」――純粋倫理批判

第6篇の、若いゾシマとミハイルの「絶対的関係」が主題です。「ほんものの人殺しは殺さない」、この命題が二度目にゾシマ=イエスを訪れるミハイル=ペテロの倫理的可能性の「実現」として、「躓き」を認容せぬ作家のマルコ批判を成します。作家は純粋倫理を定着し、「一粒の麦」の死から、イエスたりうる「人間たち」の未来を望みます。

7 小説の過去と未来――「論理」の行方

「キリストの小説」の過去と未来、その敗れた論理の行方として小説全体を概観します。第11篇におけるスメルヂャコフの論理的「復活」は、この未完の大作の一つの帰結です。作家は「すべてのことに対して小説に復讐する」かのような作品を成しました。

ドストエーフスキイの会、第235回例会(報告者:金沢友緒氏)のご案内

ドストエーフスキイの会、第235回例会のご案内を「ニュースレター」(No.136)より転載します。

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第235回例会のご案内

下記の要領で総会と例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

                                       

 日 時201617日(土)午後2時~5        

場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分) 第一会議室

報告者:金沢友緒氏

題 目: ドストエフスキーと「気球」

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:金沢友緒 (かなざわ ともお)

東京大学大学院博士課程修了、現在日本学術振興会特別研究員(PD)。専門は18 ・19世紀のロシア文学、文化。特にロシアにおけるドイツ受容、トゥルゲーネフ、А.К.トルストイを研究している。 「А.К.トルストイと 1840 年代ロシア-『アルテミイ・セミョーノヴィチ・ベルヴェンコフスキ イ』をめぐって-」(SLAVISTIKA 28号、2012)、 «О.П.Козодавлев и И.В.Гете. Межкультурное сопоставление (コゾダヴレフとゲーテ:異文化衝突をめぐって) » ( Русская литература № 2 , 2015) 他。

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第235回例会報告要旨

ドストエフスキーと「気球」

  文学作品は多様なジャンルの影響を受けて生まれたものであり、その中の一つが科学である。イギリス、フランス等、近代西欧先進諸国における科学技術開発の歴史の中で試みられた実験や生まれた発明に対して作家達は強い関心を示しており、ロシアの作家達もその例に漏れなかった。18世紀および19世紀を通じて近代ロシア文学は飛躍的な発展を遂げたが、そのプロセスには科学の発展もまた密接に関わりをもっていたのである。

今回の報告で注目するのはその一つである「熱気球」である。18世紀後半のフランスでモンゴルフィア兄弟がおさめた実験の成功は本国のみならず諸外国でも注目を集め、「気球 (воздушный шар)」は別名、すなわち実験者兄弟からとった「モンゴルフィア(Монгольфьер)」の名で各地に広まったのである。ロシアでも反響が大きく、フランスで実験が行われた1783年に既にペテルブルグで、また翌年にはモスクワでも同様に実験が行われた。以後、気球は飛行実験や新たな交通手段の開発の模索が繰り返される中、文学においても、伝統的な飛行のモチーフとの関わりの中で重要な役割を獲得していったのである。 本報告は18世紀から19世紀にかけての気球をめぐる科学の歴史を踏まえた上で、ドストエフスキーの作品の中では「気球」がどのような形で登場し、用いられていたかを取り上げたい。

19世紀に入って気球をめぐる技術は向上を続け、ロマン派の作家達の作品の中にしばしば登場していた。しかし写実主義への移行期には、新たな日常的交通手段としての鉄道が文学の中に登場し、大きな役割を果たすようになっていった。レフ・トルストイに繰り返し登場する『アンナ・カレーニナ』の鉄道の旅や駅の描写、ドストエフスキーの『白痴』冒頭のムィシキンとロゴージンの列車内での出会いの場面はその代表的な例であろう。無論19世紀後半にフランスで出版されたジュール・ヴェルヌの『気球に乗って』のように、「気球」を用いたファンタジー文学として西欧で大きな反響を得た作品もあったが、現実の風景としての気球飛行はさほど実用的ではないため、ロシア・リアリズム文学の中ではむしろ比喩的な表現として用いられることの方が目立っていたと思われる。

ドストエフスキーの文学の中でも数多くはないものの「気球」のモチーフは登場する。やはり「気球」を比喩的に利用したものが見られ、その中でも特に意図的な利用が明確であるのが、同時代の文壇の西欧派とスラヴ派の思想的論争の背景を踏まえて書かれた、チェルヌィシェフスキー等急進陣営に対する批判である。彼の批判に対し、他の作家もまた「気球」を踏まえて応酬したのであった。

本報告ではこの議論の他に、『罪と罰』や『賭博者』に登場する「気球」についても取り上げる。また、ロシア文学の中で「気球」のモチーフが果たしてきた役割を考慮し、例えば19世紀初めから同時代の19世紀半ばにいたる作家達、В.Ф. オドエフスキー、ブルガーリン、ゲルツェン等の作品についても比較の対象として取り上げながら、ドストエフスキーの「気球」をめぐる視点について紹介したい。

気球についての言及は、ドストエフスキーを含め、近代ロシアの作家達が科学技術の発展全般についてどのような関心をもち、また創作上、どのように利用しようとしていたかを明らかにする手がかりを提供してくれるであろう。

ドストエーフスキイの会、第234回例会(合評会)のご案内

「第234回例会のご案内」を「ニュースレター」(No.135)より転載します。

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第234回例会のご案内

今回は『広場』 25号の合評会となりますが、論評者の報告時間を10分程度とし、エッセイの論評も数分に制限して自由討議の時間を多くとりました。記載されている以外のエッセイや書評などに関しても、会場からのご発言は自由です。多くの皆様のご参加をお待ちしています。

日 時 2016年7月30日(土)午後2時~5時

 場 所神宮前穏田区民会館 第2会議室(2F)今回は会場が変更になりました。ご注意ください!

       ℡:03-3407-1807 (ドストエーフスキイの会」のHPの「事務局」だよりの案内をご覧ください)

 

掲載主要論文とエッセイの論評者

泊野論文:『カラマーゾフの兄弟』の対話表現方法が持つ意味について――国松夏紀氏

樋口論文:『死の家の記録』のカーニバル的な人々 ――木下豊房氏

冷牟田論文:『永遠の夫』と「地下室」      ――近藤靖宏氏

長瀬論文:ドストエフスキーとアインシュタイン  ――福井勝也氏

 エッセイなど:前田彰一、井桁貞義、大木昭男、西野常夫、岡田多恵子――フリートーク

司会:高橋誠一郎氏

 

*会員無料・一般参加者-500円

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木下豊房氏の「国際ドストエフスキー・シンポジュウム(スペイン・グラナダ)参加報告」と「会計報告」は、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

前回例会の「傍聴記」は、次のブログでアップします。

 

第16回国際ドストエフスキー・シンポジュウムのお知らせ(Ⅱ)

Organizing Committee of the XVI IDS Symposium より新しいサイトのお知らせが届きましたので以下に記します。

トップページの「新着情報」と「新着情報」のタイトル一覧にも掲載しました。

詳しい内容についてはリンク先で情報をご確認ください。

the new site of the Symposium:

リンク→ www.ugr.es/~feslava/ids2016/

the Cultural Program:

リンク→ http://goo.gl/NfW8gB. 

ドストエーフスキイの会「第229回例会のご案内」

掲載が遅くなりましたが、ドストエーフスキイの会「第229回例会のご案内」を「ニュースレター」(No.130)より転載します。

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第229回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。今回は火曜日の開催ですので、ご注意ください!                                    

日 時2015年9月22日(火)午後2時~5時            

場 所場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)

       ℡:03-3402-7854

 報告者:冷牟田幸子 

題 目 :『永遠の夫』と「地下室」 

*会員無料・一般参加者=会場費500円

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報告者紹介:冷牟田幸子(ひやむた さちこ)

1937年生。早稲田大学第一文学部英文科卒業。

著書;『ドストエフスキー―無神論の克服』(近代文芸社、1988年)

訳書;ワッサーマン編『ドストエフスキーの「大審問官」』(ヨルダン社、小沼文彦、冷牟田訳 1981年)

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『永遠の夫』と「地下室」

冷牟田 幸子

『永遠の夫』(l869年秋完成、70年『黎明』1,2月号に発表)には、後期諸作品に共通する思想性も宗教性もなく、格別魅力的な人物も見当たりません。風采のあがらない実直な「永遠の夫」トルソーツキーと軽薄才子の「永遠の情夫」ヴェリチャニーノフという、対照的な一見分かりやすい二人の中心人物の間で繰り広げられる、謎めいた心理戦を読んで楽しめば事足りるような『永遠の夫』を、なぜ取り上げる気になったのか。ひとえに、ドストエフスキーの手紙(小沼文彦訳)にあります。1869年3月18日、ストラーホフに宛てて次のように書いています。

この短篇(『永遠の夫』)は今から4年前の兄が亡くなった年に、小生の『地下生活者の手記』を褒めてくれ、そのとき小生に「君はこういったふうのものを書くといいよ」と言ったアポ(ロン)・グリゴーリイェフの言葉に答えて書いてみようと思い立ったものです。しかしこれは、『地下生活者の手記』ではありません。これは形式の上からは、まったく別なものです。もっとも本質は──同じで、小生のいつもながらの本質です。ただし貴兄が、ニコライ・ニコラーイェヴィッチ、作家としての小生の中に、多少とも独自の、特殊な本質があると認めてくださるならばの話ですがね。

つまり、『永遠の夫』の登場人物たちと「地下室者」との関連性、さらにいえば、ドストエフスキーのいう「いつもながらの本質」を探りたいと思ったのです。

ここに注目すべき、作品からの引用があります。モチューリスキイ著『評伝ドストエフスキー』(松下裕・松下恭子訳)における『永遠の夫』からの引用です。

1 「情夫はかっとなって夫に叫ぶ。『捨ててしまうんだ。君の地下室のたわごとは。君自身が地下室のたわごと、がらくたなんだから』」(第九章)

2 「ヴェリチャニーノフはトルソーツキーに『われわれは二人とも堕落した醜悪な地下室の人間です』と白状している。」(第十三章)

ここからモチューリスキイは、ヴェリチャニーノフとトルソーツキーを「地下室者」と結びつけます。一方、代表的な日本語の訳書(a)河出版(米川訳)と(b)筑摩版(小沼訳)は、先の二つの文章に該当する部分を次のように訳しています。

1(a)「床下から引っぱり出したようなけがらわしい話をもってとっとと出てうせろ!それに第一、あんた自身からして床下のねずみみたいなやくざ者だ。」

(b) 「その床下のがらくたみたいなものを引っかついで、どこへなりと出て失せろ!第一あんたからして床下のがらくたみたいな代物じゃないか。」

2(a) 「われわれはお互いにけがらわしい床下のねずみみたいな胸くその悪くなるような人間なんです。」

(b)「われわれはふたりとも実に罪深い、床下でうごめいているような、なんとも汚らわしい人間なんですよ。」

これらの訳書で用いられている「床下のねずみみたいな」、「床下」、「床下でうごめいている」が、原典の「地下室の」(подпольный)に当たりますが、さきの文脈の中で何ら違和感なく読めて、そこに敢えて「地下室」を読み取るのは難しいでしょう。モチューリスキイは、ストラーホフに宛てた手紙を念頭において読んでいますので、ドストエフスキーがここにさりげなく忍び込ませた「地下室の」という単語を、『地下生活者の手記』の「地下室」と結びつけることができたのだと思います。

訳書の「床下」に当たる原語は何かを原典にあたって調べようとしたとき、偶然に『永遠の夫』の「創作ノート」(準備資料)を見つけました。それは、『永遠の夫』と「地下室」の関連性を考えるうえで、さらに先のドストエフスキーの書簡を理解するうえで大きなヒントを与えてくれるものでした。(一)作品論と(二)『永遠の夫』と「地下室」の関連性の二部構成でお話しします。

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例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

ドストエーフスキイの会「第46回総会と227回例会のご案内」を掲載

「第46回総会と第227回例会のご案内」と「報告要旨」を「ニュースレター」(No.128)より転載します。

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下記の要領で総会と例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

ご注意! 今回の会場は奥の和室です)                                     

 日 時2015516日(土)午後1時30分~5 

場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)  ℡:03-3402-7854 

 総会:午後1時30分から40分程度、終わり次第に例会

議題:活動・会計報告、運営体制、活動計画、予算などについて

 

例会報告者:樋口稲子 氏

題 目: 旧約聖書「エデンの園」と「大審問官」における「カーニバル原理」と「救済原理」―「自由」に対する観点から―

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:樋口稲子(ひぐち いねこ)

ロシア文学作品を読み始めたのはラスプーチン、パウストフスキー等の比較的現代の作家の作品からであったが、次第に古典に関心が移り、主にドストエフスキーの作品と関わるようになった。それと同時に、聖書、特に旧約の原初史に関心を持ち、広大な聖書の世界を覗いた。ドストエフスキーの作品でも『死の家の記録』は、他の作品には無い魅力を感じている。現在では、多くの作家の作品に関心を持っているが、特に、オドエフスキー、ドストエフスキー、ザミャーチンを一線上に関連付けて見ている。

 

第227回例会報告要旨

 古来より楽園と見なされてきた「エデンの園」と、「大審問官」の言説をとりあげ、「カーニバル原理」と「救済原理」の機能的内容を見ながら「自由」の問題を考察してゆく。カーニバル原理については、ミハイル・バフチンのカーニバル文学理論を適用し、キリスト教の救済原理については、プロテスタントのジョン・マーレーの救済理論を適用した。言うまでもなく、二つの原理は全く対立する原理である。さらに、バフチンは、「カーニバル理論」の一応の要件と特性の定義をしているが、どうみてもその定義には揺れがある。

「エデンの園」の物語において最も関心を引くのは、〈蛇〉の存在である。彼は、謎に満ち同時に魅力的な存在である。だが、神が万物の創造主であるならば、神の似姿を以って創られ、神の愛を他の誰よりも受けた人間が生きるエデンの園に、神に背信し人間を神に立ち向かわせる蛇が、神の被造物として何故存在するのか、こうした疑問は今までも多くの研究者の提起してきたものであった。しかも、創世記の「エデンの園」の登場人物は、アダムとイヴの関係を除けば互いに対立する存在であり、(蛇と神のように)、また、初めは神に対して従順な人物(アダムとイヴ)が蛇の唆しをきっかけに、神への反抗という背反的行動をして、そのことにより追放され、神の恩寵から離れ、異なる世界に移行することになる。エデンの園の物語は、こうした対立要素を必須要素として含有することで初めて成り立つ。こうした対立関係が生まれるための具体的な役割を持った存在が「蛇」である。もし「蛇」が存在しなければ、エデンの園の物語は成立しない。従って、人間が神の禁を破り〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べて、独立と自由を獲得するというプロセスはありえなくなる。人間の発展にとって、絶対に必要な存在である蛇は、否むべき存在として位置づけられているが、しかし、その否むべき存在が、なぜ神の言葉と真実との矛盾を知っていて、人間にその神の言葉と真実との矛盾を告げる正しき者の役割を果たしたのか、そして同時に唆しの罪を犯す役割を担わされているのか、一体「蛇」はどの様な存在として理解すればよいのか、この点については今もって謎である。

「大審問官」には、最大のカーニバル性が認められる。キリストに対して奪冠し卑俗な存在におとしめたのは、つまり、カーニバル化の立役者は大審問官なのである。これは単に彼がイエスという神の一人子に対する奪冠を行ったというのではない。彼が本当に奪冠をした相手は、キリストの神性に対して行ったのであって、それは〈神〉に対する奪冠であった。だから、キリストの卑俗化、奪冠とは結局、キリスト教と神に対する卑俗化であり、奪冠なのである。それは、公認されたものへのこの上ない挑戦である。それにもかかわらず大審問官が、微塵もひるむことなく、キリストを見据えて、堂々と語った〈背信の思想〉は人間の真実であり真理でもあった。しかも、キリスト教が抱えることの出来ない、肯定もできない、キリスト教とは対極にある真理である。大審問官は人間の真理を代表し、キリストは神の真理を代って現わそうとしている。(大審問官の物語では、メニッペアの基本的性格5の特性が濃い。)

「大審問官」には、世界を支配する二つの原理が相克するさまが描かれている。取るに足らぬ存在の真理と神の真理は、それぞれ互いに対立する極に足場を置いて、その真理の正当性を主張する。

作家にとって、我々が神の原理を取ることにも、あるいは人間の原理を取ることにも、どちらの選択をするかについて本当は無関心であろう。彼の関心は、神の原理が、キリスト教的な言い方をすれば、神の〈愛〉の原理が、彼の理論に従えば、崩壊するということにある。これは、キリスト教文明の世界が今までの価値を失う事を意味する。それを承知で、作家はこの問題を提示しないではおれなかった。何故なら、彼が自らを〈懐疑と不信の子です〉と言い、信仰の危機に到ったのは、この問題、すなわち神の原理の崩壊の可能性に気付いたからではないだろうか。この問題は、作家自身が述べているとおり一生作家を悩まし続けたに相違ない。作家の最後の作品に組み込まれた『大審問官』は作家の答えになるべく構成され、神の原理と人間の原理の相克を描いたものである。

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例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

第16回国際ドストエフスキー・シンポジュウムのお知らせ

2016年の6月7日から10日にかけて第16回国際ドストエフスキー・シンポジュウムがスペインのグラナダで開催されます。詳しい内容についてはリンク先で情報をご確認ください。

 第16回国際ドストエフスキー・シンポジュウムの情報

  リンクhttp://www.ugr.es/~feslava/ids2016/index.html 

 国際ドストエフスキー学会(IDS)の情報

  リンク→ http://www.dostoevsky.org/

今回も多くの研究者の方に参加して頂けることを願っています。

(これまでのシンポジュウムについては、下記の著作の第3部を参照してください)。

 

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リンク→ドストエフスキー その対話的世界