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『わが闘争』

正岡子規の時代と現代(4)――明治6年設立の内務省と安倍政権下の総務省

「この時期、歴史はあたかも坂の上から巨岩をころがしたようにはげしく動こうとしている」(司馬遼太郎『翔ぶが如く』、文春文庫、第3巻「分裂」。拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』81頁))

「よく考えてみると、敗戦でつぶされたのは陸海軍の諸機構と内務省だけであった。追われた官吏たちも軍人だけで、内務省官吏は官にのこり、他の省はことごとく残された。/ 機構の思想も、官僚としての意識も、当然ながら残った」(『翔ぶが如く』、「書きおえて」)。

isbn978-4-903174-33-4_xl装画:田主 誠/版画作品:『雲』

 

正岡子規の時代と現代4――1873年(明治6年)の内務省と安倍政権下の総務省

司馬遼太郎氏は長編小説『翔ぶが如く』で、「普仏戦争」で「大国」フランスに勝利してドイツ帝国を打ち立てたビスマルクと対談した大久保利通が、「プロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立」しようとしたと書いていました(第1巻「征韓論」、拙著『新聞への思い』、88頁)。

これらの指摘は一見、現代の日本を考える上では参考になるとは見えません。しかし、ドイツが福島第一原子力発電所の大事故の後で、国民的な議論と民衆の「英知」を結集して「脱原発」に踏み切る英断をしたのを見て、改めて痛感したのは、ドイツ帝国やヒトラーの第三帝国の負の側面をきちんと反省していたドイツと日本との違いです。

なぜならば、敗戦70年の談話で安倍首相は、「日露戦争の勝利」を強調していましたが、ヒトラーも『わが闘争』においてフランスを破ってドイツ帝国を誕生させた普仏戦争(1870~1871)の勝利を、「全国民を感激させる事件の奇蹟によって、金色に縁どられて輝いていた」と情緒的な用語を用いて強調していたのです。

こうして、ヒトラーはドイツ民族の「自尊心」に訴えつつ、「復讐」への「新たな戦争」へと突き進んだのですが、「官の絶対的威権を確立」したドイツ帝国を模範として第三帝国を目論んだヒトラー政権は、50年足らずで崩壊した「ドイツ帝国」よりもはるかに短期間で滅んでいました。

それゆえ、敗戦後に母国だけでなくヨーロッパ全域に甚大な被害を与えたナチスドイツの問題を詳しく考察したドイツでは、「官僚」の命令に従うのではなく、原発など「国民の生命」に関わる大きな問題を国民的なレベルで議論することを学んだのだろうと思われるのです。

*   *   *

それに対して日本では、「ドイツのワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか」とヒトラーの政治手法に言及した麻生副総理の発言は内外に強い波紋を呼んだものの、集中審議開催を与党が拒否したために、国会でのきちんとした論戦もないままに終わっていました。

本場のドイツとは異なり、日本では敗戦後も「内務省のもつ行政警察力」を中心とした「プロシア風の政体」の問題や政治家や経済界の責任を明らかにしなかったために、

『新聞紙条例』(讒謗律)が発布される2年前の明治6年に設置された内務省の危険性がいまもきちんと認識されていないようです。

一方、『坂の上の雲』を書き終えた後で司馬氏はナチスドイツと「昭和前期の日本」との類似性を意識しない日本の政治家の危険性を次のように厳しく批判していました。

「われわれはヒトラーやムッソリーニを欧米人なみにののしっているが、そのヒットラーやムッソリーニすら持たずにおなじことをやった昭和前期の日本というもののおろかしさを考えたことがあるだろうか」(「『坂の上の雲』を書き終えて」)。

司馬氏のこのような問題意識は、『坂の上の雲』の終了後に書き始めた『翔ぶが如く』にも受け継がれています。

すなわち、その後書きで「土地バブル」に多くの民衆が踊らされて人々の生命をはぐくむ「大地」さえもが投機の対象とされていた時期に、「土地に関する中央官庁にいる官吏の人」から「私ども役人は、明治政府が遺した物と考え方を守ってゆく立場です」という意味のことを告げられた時の衝撃を司馬氏はこう書いているのです。

「私は、日本の政府について薄ぼんやりした考え方しか持っていない。そういう油断の横面を不意になぐられたような気がした」。

そして司馬氏は、「よく考えてみると、敗戦でつぶされたのは陸海軍の諸機構と内務省だけであった。追われた官吏たちも軍人だけで、内務省官吏は官にのこり、他の省はことごとく残された。/ 機構の思想も、官僚としての意識も、当然ながら残った」と続けていたのです(『翔ぶが如く』文春文庫、第10巻「書きおえて」)。

福島第一原子力発電所の大事故のあとで、原子力産業を優遇してこのような問題を発生させた官僚の責任が問われずに、地震大国である日本において再び国内だけでなく国外にも原発の積極的なセールスがなされ始めた時に痛感したのは「書きおえて」に記された司馬氏の言葉の重みでした。

*   *   *

それゆえ、11月28日に私は下記の文面とともに、「特定秘密保護法案に反対する学者の会」に賛同の署名を送りました。

〈「テロ」の対策を目的とうたったこの法案は、諸外国の法律と比較すると国内の権力者や官僚が決定した情報の問題を「隠蔽」する性質が強く、「官僚の、官僚による、官僚と権力者のための法案」とでも名付けるべきものであることが明らかになってきています。それゆえ私は、この法案は21世紀の日本を「明治憲法が発布される以前の状態に引き戻す」ものだと考えています。〉

特定秘密保護法案の衆議院強行採決に抗議し、ただちに廃案にすることを求めます

*   *   *

新聞報道の問題や言論の自由の問題のことを考えていたこの時期にたびたび脳裏に浮かんできたのは、郷里出身の内務省の官僚との対立から寄宿舎から追い出された後で、木曽路の山道を旅して「白雲や青葉若葉の三十里」という句を詠んだ正岡子規の姿でした。

日露戦争をクライマックスとした『坂の上の雲』では、どうしても多くの頁数が割かれている戦闘の場面の描写の印象が強くなるのですが、この後で東京帝国大学を中退して新聞『日本』の記者となった正岡子規を苦しめることになる「内務省」や新聞紙条例などの問題もこの長編小説では詳しく分析されているのです。

それゆえ、子規の叔父・加藤拓川と新聞『日本』を創刊する陸羯南との関係にも注意を払いながらこの長編小説を読み進めるとき、「写生」や「比較」という子規の「方法」が、親友・夏目漱石の文学観だけでなく、秋山真之や広瀬武夫の戦争観にも強い影響を及ぼしていることを明らかにすることができると思えたのです。

(初出、2013年11月27日~29日。改訂しリンク先を追加、2016年11月1日)

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(目次

人文書館のHPに掲載された「ブックレビュー」、新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」』

[BS1]でドキュメンタリー「ヒトラー『わが闘争』」と「ヒトラー暗殺計画」を放送。

残念ながら、ともに途中からの視聴となってしまったが、ナチスドイツと独裁者ヒトラーの実態を明らかにする迫力あるドキュメンタリーであった。再放送を希望するので、「BS世界のドキュメンタリー」の記述を引用しておく。

2016年9月27日(火)午前0時00分~午前0:50(50分)

ヒトラー『わが闘争』~封印を解かれた禁断の書~

ナチスのバイブルとも評される『わが闘争』。ヒトラーの死後70年が経過し、昨年末で著作権が失効するのを機に、出版禁止だったドイツにおける再出版が現実味を帯びてきた。

ヒトラーが獄中で著し、その反ユダヤの価値観やアーリア人種優越主義が色濃く反映されている『わが闘争』。

ヒトラーの死亡時に住所登録があったバイエルン州では、州政府が『わが闘争』の著作権を管理し、出版を禁じてきた。

しかし2015年末に著作権フリーになることを受け、州政府は極右グループなどに利用されないよう、膨大な注釈付きでの再出版を一旦は決定したが・・・。ドイツでは非常にデリケートなこの問題の波紋を追う。

  • 原題:HITLER’S MEIN KAMPF  A DANGEROUS BOOK
  • 制作:BROADVIEW TV / ZDF(ドイツ 2016年)

2016年9月28日(水) 午前0:00~午前0:50(50分)

「ヒトラー暗殺計画」

ヒトラーが君臨していた時代、人々は熱狂的に独裁者を崇拝していたかに見えるが、実は30を超える暗殺計画が企てられていた。一部ドラマを交えて、緊迫の計画を再現する。

最初の暗殺未遂は1939年のミュンヘン。共産主義者の時計技師が、ヒトラーが演説予定だったビアホールに手製の時限爆弾を仕掛けたが、ヒトラーが予定より早く演説を終えたため失敗。

その後も軍の将校らが暗殺を企てるが、ことごとく未遂に終わる。悪運の強い独裁者と暗殺計画の実行者の攻防を、スリリングなドラマを織り込みながら描いた力作。

原題:KILL HITLER –THE LUCK OF DEVIL

  • 制作:Sunset Presse (フランス 2015年)

 

関連情報 →チャップリンの映画《独裁者》

「絶望してはいけない」チャップリンの史上最高のスピーチ【独裁者】

– NAVER まとめ matome.naver.jp/odai/213443285…

 

「新しい戦争」と「グローバリゼーション」(『この国のあしたーー司馬遼太郎の戦争観』の「はじめに」)を掲載

二〇〇一年は国際連合により「文明間の対話」年とされ、二一世紀は新しい希望へと向かうかに見えた。しかし、その年にニューヨークで「同時多発テロ」が起きた。むろん、市民をも巻き込むテロは厳しく裁かれなければならないし、それを行った組織は徹底的に追及されなければならないことは言うまでもない。ただ、問題はこれに対してアメリカのブッシュ政権が「報復の権利」の行使をうたって「文明」による「野蛮」の征伐を正当化して激しい空爆を行い、「野蛮」なタリバン政権をあっけないほど簡単に崩壊させた後には、イラクや北朝鮮だけでなく、タリバンへの空爆の際には協力を求めたイランをも「悪の枢軸国」と名付けて攻撃をも示唆したことである。このようなアメリカの論理にのっとってイスラエルのシャロン首相は、「自爆テロ」への「報復の権利」を正当化し、パレスチナ自治区への激しい武力侵攻を行い、お互いの「報復の応酬」によって中東情勢は混沌の色を濃くしたのである。

この意味で注目したいのは、なせ第一次世界大戦の敗戦後にヒトラーが政権を握りえたかを分析した社会学者の作田啓一が、「個人の自尊心」と「国家の自尊心」とは深いところで密接に結びついているとし、「個人主義」だけでなく「個人主義の双生児であるナショナリズムも、自尊心によって動かされて」きたと指摘したことである*1。このことは強い「グローバリゼーション」の流れの中でナショナリズムが燃え上がるようになったかをよく物語っている。すなわち、このような民族主義・国家主義の傾向は、イスラエルに限ったことではなく、インドとパキスタンが互いに核実験を行って世界から顰蹙(ひんしゅく)を買ったのはまだ記憶に新しいが、ヨーロッパでもオーストリアでハイダー党首率いる民族主義政党が躍進して政権を担うに至り、最近ではフランスでヒトラー的な反ユダヤ主義を標榜するルペン党首が率いる極右政党「国民戦線」への支持が急激に増えるなど、世界大戦前のような民族主義の台頭が世界的に見られるのである。このような理由について作田は社会学の視点から「大衆デモクラシーのもとでは、有権者の票の獲得にあたって、理性に訴える説得よりも、感情に訴える操縦のほうが有効であると言われるようになり、また事実、その傾向が強く」なったと説明している*2。

日本でも強い「グローバリゼーション」に対応するために低学年からの学習など英語教育の徹底する一方で、青少年における凶悪犯罪やモラルの低下が「自由と平等」を原則としたアメリカ的な原理に基づく戦後教育が原因だとして、愛国心や伝統の重要性が強調されるようになり、かつての強い「明治国家」を目指す「復古」的な主張や戦争を賛美するような言動も目だつようになってきている。しかも、このような過程でそれまでも高い評価を得ていた司馬遼太郎(一九二三~一九九六)の歴史小説が、司馬の死後には「国民的一大ブームといってよいほど」にもてはやされ、「神話化」され、「権威化」された「司馬史観」を背景にして、「公」としての「国家」を重んじることが、アジアで最初の「国民国家」である「明治国家」を讃えた司馬の遺志に適うかのような雰囲気が急速にかもしだされたのである*3。

しかし、はたして司馬遼太郎は「明治国家」や日露戦争の全面的な賛美者だったのだろうか。この意味で興味深いのは比較文明学的な視野から見るとき、「同時多発テロ」の発生以降、「同盟国」である超大国アメリカの「新しい戦争」を助けることが「常識」とされて、「グローバリゼーション」の圧力のもとに国会での議論もあまり行われないままに一連の「テロ関連法案」が通過し、さらに「有事法案」や「メディア規制法案」などにより「国権」の強化がはかられている「平成国家」日本の現状が、やはり「文明開化」という名の「欧化」の圧力のもとに、強い「国民国家」をめざして讒謗律、新聞紙条例、保安条例などの一連の法律を制定して国内の安定を保つとともに大国イギリスと同盟することで「日露戦争」へと突き進んだ「明治国家」の姿とも重なるように見えることである。

司馬遼太郎は日露戦争を主題として描いた『坂の上の雲』の前半では、すでに憲法を持っていた「国民国家」としての「明治国家」と専制政治下の「ロシア帝国」との戦いを「文明」と「野蛮」の戦いととらえていた。しかし、厖大な死傷者を出した近代戦争としての日露戦争の現実を「冷厳な事実」を直視して詳しく調べていくなかで司馬は、西欧列強に対抗するために日露両国が行った近代化の類似性に気付いて「国民国家」が行う戦争に対する疑問を強く持ち始め、一九三一年に起きた「満州事変」を「閉塞状態を、戦争によって、あるいは侵略によって解決しようとした」と鋭く批判するようになるのである(「何が魔法にかけたのか」『「昭和」という国家』ーー以下、『国家』と略す)。

つまり、『坂の上の雲』を書き上げた時、司馬は第一次世界大戦が生みだした戦争の惨禍を反省して大著『歴史の研究』を書き、西欧文明を唯一の文明として絶対的な価値を与えてきたそれまでの西欧の歴史観を「自己中心の迷妄」と断じて、近代の「国民国家」史観の克服をめざし、比較文明学の基礎を打ち立てたたイギリスの研究者トインビーに近い地点にいたのである。実際、ナポレオン戦争以降、「強国」は互いに自国を「文明」として強調しながら、「復讐の権利」を主張し合い、武器の増産と技術的な革新を競い合う中で戦争は拡大し、第二次世界大戦では原子爆弾が使用されて五千万以上ともいわれる死者を出すにいたったのである。

しかもトインビーは、古代ユダヤにおいてもローマ文明を「普遍的な世界文明として」認める考えと「ローマ化」を「文明の自己喪失として有害」とする「国粋」的な考えの鋭い対立があったことを記していたが*4、このような「周辺文明論」をさらに深めた山本新や吉澤五郎が指摘しているように、日本に先んじて「文明開化」を行っていたロシアでも「欧化と国粋」という現象は、顕著に見られたのである*5。

たとえば、ソ連崩壊後に「グローバリゼーション」の波に襲われたロシアではヒトラーの『わが闘争』のロシア語訳がいくつもの本屋で販売され、さらに過激な民族主義者ジリノフスキーの率いるロシアの自由民主党が選挙で躍進するなどの傾向が見られたが、このような現象は、クリミア戦争敗戦後の混乱の時期にも強く見られた。この意味で注目したいのは、激しい「欧化と国粋」の対立の中で、「血の復讐」を批判して「和解」の必要性を説く「大地主義」を唱えていたドストエフスキーが、「非凡人の理論」を生みだして「自己を絶対化」し、「悪人」と規定した「他者」の殺害を行った若者の悲劇を長編小説『罪と罰』(一八六六)において描き出していたことである。こうしてドストエフスキーは近代西欧社会に強く見られる「弱肉強食」の思想や「報復の権利」の行使が、際限のない「報復」の連鎖となり、ついには「階級闘争」や「国家間の戦争」となり「人類滅亡」にも至る危険性があることを明らかにしたのである*6。

比較文明学者の神川正彦は西欧の「一九世紀〈近代〉パラダイム」を根本的に問い直すには、「欧化」の問題を「〈中心ー周辺〉の基本枠組においてはっきりと位置づけ」ることや、「〈土着〉という軸を本当に民衆レベルにまで掘り下げる」ことの重要性を指摘した*7。方法論的にはそれほど体系化はされていないにせよ司馬遼太郎も、明治維新や日露戦争などの分析と考察を通して同じ様な問題意識にたどり着き、「辺境」に位置する沖縄の歴史の考察を行った『沖縄・先島への道』(一九七四)を経て、ナポレオンと同じ年に淡路島で生まれた高田屋嘉兵衛の生涯を描いた『菜の花の沖』(一九七九~八二)では、近代ロシアの知識人たちの人間理解の深さや比較文明学的な視野の広さに注意を払いつつ、日露の「文明の衝突」の危険性を防いだ主人公を生みだした「江戸文明」の独自性とその意味を明らかにしたのである。

こうして司馬遼太郎は戦後に出来た新しい憲法のほうが「昔なりの日本の慣習」に「なじんでいる感じ」であると語り、さらに、「ぼくらは戦後に『ああ、いい国になったわい』と思ったところから出発しているんですから」、「せっかくの理想の旗をもう少しくっきりさせましょう」と語り、「日本が特殊の国なら、他の国にもそれも及ぼせばいいのではないかと思います」と主張するようになるのである(「日本人の器量を問う」『国家・宗教・日本人』)。

この時の対談者であった作家の井上ひさしは、「憲法」という用語が「日常語」ではなかったために「なかなか私たちのふだんの生活の中に入って」こなかったが、司馬が『この国のかたち』において「統帥権」などの「法制度」や「倫理」の問題を通して「憲法」の重要性を分かりやすい言葉で考察していることを指摘している*8。

こうして「新しい戦争」が視野に入ってきている現在、敗戦による「傷ついた自尊心」から日本人としてのアイデンティティを求めて小説家となり、幕末の激動の時期を描いた『竜馬がゆく』以降の作品では急速な「欧化」への対抗としておこったナショナリズムの問題をも直視することにより「戦争」だけでなく、近代化における「法制度」や「教育」の意味についても鋭い考察を行った司馬遼太郎の歩みをきちんと考察することは焦眉の課題といえよう。なぜならば、トルストイが『戦争と平和』において明らかにしたように、戦争という異常な事態は突然に生じるのではなく、日常的な営みや教育の中で次第にその危険性が育まれるからである。

司馬遼太郎は大坂外国語学校での学生時代に「史記列伝」だけでなく「ロシア文学」にも傾倒していた*9。以下、本書では日本の「文明開化」において大きな役割を演じた福沢諭吉の教育観や歴史観と比較しながら、ロシア文学研究者の視点から司馬遼太郎の作風の変化に注意を払いつつ、『竜馬がゆく』、『坂の上の雲』、『菜の花の沖』の三つの長編小説における彼の戦争観の深化を考察したい。

この作業をとおして私たちは「欧化と国粋」の対立の危険性を痛切に実感しつつ、日本のよき伝統や文化を踏まえたうえで、「日本人」の価値だけでなく新しい世紀にふさわしい「普遍的」な価値を求め、文明間の共存を可能にしうるような新しい文明観を示した司馬遼太郎の意義を明らかにすることができるだろう。

(2016年8月13日『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』より一部訂正の上、再掲。註は省略した)

 

ヒトラーの思想と安倍政権――稲田朋美氏の戦争観をめぐって

稲田朋美氏の戦争観について記した8月2日のツイートへのリツイートが一日で500に、「いいね」も162に達したのは安倍内閣への不安の現れでしょう。さらに、「これどこかで聞いたなと思ったらオウム真理教がまったく同じ事言ってたよな。オウムはダメでこれはいいのか?」という質問も来ていました。

このことを受けて昨日は、ナチスの思想と稲田朋美氏の戦争観を比較する記事をツイッターに書きましたので、ここではその増補版を掲載します。

*   *   *

私が稲田氏の発言に関心を抱いたのは、「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」という表現が、『わが闘争』において、「闘争は種の健全さと抵抗力を促進する手段なのであり、したがってその種の進化の原因でありつづける」と主張していたヒトラーの言葉を思い起こさせたからです。

それは稲田氏ばかりではありません。麻生副総理も憲法改正論に関してナチス政権の「手口」を学んだらどうかと発言して問題になっていましたが、明治政府は新しい国家の建設に際しては、軍国主義をとって普仏戦争に勝利したプロイセンの政治手法にならって内務省を設置していました。

その内務省の伝統を受け継ぐ「総務省」の大臣となり「電波停止」発言をした高市早苗氏も、1994年には『ヒトラー選挙戦略現代選挙必勝のバイブル』に推薦文を寄せていました。

かつて、私は教養科目の一環として行っていた『罪と罰』の講義でヒトラーの「権力欲」と大衆の「服従欲」を考察した社会心理学者フロムの『自由からの逃走』にも言及しながら、高利貸しの老婆の殺害を正当化した主人公の「非凡人の理論」とヒトラーの「非凡民族の理論」との類似性と危険性を指摘していました。

10数年ほど前から授業でもヒトラーを讃美する学生のレポートが増えてきてことに驚いたのですが、それは『ヒトラー選挙戦略現代選挙必勝のバイブル』に推薦文載せた高市氏などが自民党で力を付け、その考えが徐々に若者にも浸透し始めていたからでしょう。

本間龍氏は『原発プロパガンダ』で「宣伝を正しく利用するとどれほど巨大な効果を収めうるかということを、人々は戦争の間にはじめて理解した」というヒトラーの言葉を引用しています。

ヒトラーが理解した宣伝の効果を「八紘一宇」「五族協和」などの美しい理念を謳い上げつつ厳しい情報統制を行っていた東条内閣の閣僚たちだけでなく、「景気回復、この道しかない」などのスローガンを掲げる安倍内閣もよく理解していると思われます。

安倍首相も「新しい歴史教科書をつくる会」などの主張と同じように「日露戦争」の勝利を讃美していましたが、それも自国民の優秀さを示すものとして普仏戦争の勝利を強調していたヒトラーの『わが闘争』の一節を思い起こさせるのです。

*   *   *

さて、昭和16年に谷口雅春氏が書いた『生命の実相』の「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」という表現からは、『わが闘争』の「闘争は種の健全さと抵抗力を促進する手段なのであり、したがってその種の進化の原因でありつづける」という記述が思い浮かびます。

ダーウィンの「進化論」を人間社会にも応用した「社会ダーウィニズム」は、科学的な世界観として19世紀の西欧で受け入れられたのですが、「進化」の名の下に「弱肉強食の思想」や経済的な「適者生存」の考え方を受け入れ、奴隷制や農奴制をも正当化していたのです。

たとえば、ピーサレフとともにロシアでダーウィンの説を擁護したザイツェフは一八六四年に記事を発表し、そこで「自然界において生存競争は進歩の推進機関であるから、それは社会的にも有益なものであるにちがいない」と主張し、有色人種を白人種が支配する奴隷制を讃えていたのです。

クリミア戦争後の混乱した社会を背景に「弱肉強食の思想」を理論化した「非凡人の理論」を生み出した主人公が、高利貸しの老婆を「悪人」と規定して殺害するまでとその後の苦悩を描いたドストエフスキーの長編小説『罪と罰』は、ヒトラーの「非凡民族の理論」の危険性を予告していました。

すなわち、ヒトラーは『わが闘争』において「非凡人」の理論を民族にも当てはめ、「人種の価値に優劣の差異があることを認め、そしてこうした認識から、この宇宙を支配している永遠の意志にしたがって、優者、強者の勝利を推進し、劣者や弱者の従属を要求するのが義務である」と高らかに主張したのです。

社会心理学者のフロムはヒトラーが世界を「弱肉強食の戦い」と捉えたことが、ユダヤ人の虐殺にも繋がっていることを示唆していました。

考えさせられたのは、日本でも障害者の施設を襲って19人を殺害した植松容疑者のことを、自民党のネット応援部隊が擁護して「障がい者は死んだほうがいい」などとネットで書いたとの記述がツイッターに載っていたことです。この記事を読んだときに連想したのが、ユダヤ人だけでなくスラヴ人への偏見も根強く持っていたナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の考え方です。

すでにハフィントンポスト紙は2014年9月12日の記事で、「高市早苗総務相と自民党の稲田朋美政調会長と右翼団体『国家社会主義日本労働者党』代表の2ショット写真」が、「日本政府の国際的な評判を一気に落としてしまった」と指摘していました。

「内務省」を重視した戦前の日本は、過酷な戦争にも従順に従う国民を教育することを重視して国民の統制を強める一方で、外国に対して自国の考え方を発信して共感を得ようとするのではなく、考えを隠したことで外国からは疑われる事態を招き、国際的な緊張が高まり、ついに戦争にまでいたりました。

自分自身だけでなく、安倍内閣の重要な閣僚による「政治的公平性」が疑われるような発言が繰り返される中で、情報を外国にも発信すべき高市総務相が「電波停止」発言をしただけでなく、政権による報道への圧力の問題を調査した国連報道者のデビット・ケイ氏からの度重なる会見の要求を拒んだ高市氏が、一方で「国家神道」的な行事に出席することは国際社会からは「政治的公平性」を欠くように見えるでしょう。

最後に死後に起きた「司馬史観」論争において「新しい歴史教科書をつくる会」などの主張によって矮小化されてしまった作家・司馬遼太郎氏の言葉を引用しておきます。

「われわれはヒトラーやムッソリーニを欧米人なみにののしっているが、そのヒトラーやムッソリーニすら持たずにおなじことをやった昭和前期の日本というもののおろかしさを考えたことがあるだろうか」(「『坂の上の雲』を書き終えて」)。

(2016年10月1日、一部訂正)

日露戦争の勝利から太平洋戦争へ(1)――「勝利の悲哀」と「玉砕の美化」

IS(イスラム国)によると思われるテロがフランスやベルギーで相次いで起きたことで、21世紀は泥沼の「戦争とテロ」の時代へと向かいそうな気配が濃厚になってきています。こうした中、安倍政権が「特定秘密保護法案」や「安全保障関連法案」を相次いで強行採決したことにより、度重なる原水爆の悲劇を踏まえて核兵器の時代に武力によって問題を解決しようとすることの危険性を伝えるべき日本が、原発や武器の輸出に踏み出しました。

しかも、「戦後70年」の節目として語られた昨年の「談話」で安倍首相は、それよりもさらに40年も前の「日露戦争」の勝利を讃える一方で、「憲法」や「国会」の意義にはほとんどふれていませんでした。

一方、『坂の上の雲』で日露戦争を描いた作家の司馬遼太郎氏は、「『坂の上の雲』を書き終えて」というエッセイでは「政治家も高級軍人もマスコミも国民も神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と厳しく批判し、さらに「“雑貨屋”の帝国主義」では、「日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦」までの40年を「異胎」の時代と名付けていました(『この国のかたち』第1巻、文春文庫)。

日露戦争を始める前の1902年に大英帝国を「文明国」と讃えて「日英同盟」を結んでいた日本は、1941年には今度はアメリカとイギリスを「鬼畜米英」と呼んで、太平洋戦争に突入していたのです。なぜ、日英同盟からわずか40年で太平洋戦争が起きたのでしょうか。

*   *   *

ここで注目したいのは、日露戦争の勝利を讃えた「安倍談話」と、普仏戦争に勝ったドイツ民族の「非凡性」を強調し、ユダヤ人への憎しみをかき立てることで第一次世界大戦に敗れて厳しい不況に苦しむドイツ人の好戦的な気分を高めることに成功していたヒトラーの『わが闘争』の類似性です。

「われわれはヒトラーやムッソリーニを欧米人なみにののしっているが、そのヒトラーやムッソリーニすら持たずにおなじことをやった昭和前期の日本というもののおろかしさを考えたことがあるだろうか」と問いかけた作家の司馬遼太郎氏は、「政治家も高級軍人もマスコミも国民も神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と厳しく批判していました(「『坂の上の雲』を書き終えて」『歴史の中の日本』中公文庫)。

リンク→「安倍談話」と「立憲政治」の危機(2)――日露戦争の賛美とヒトラーの普仏戦争礼賛

「特定秘密保護法」や「安全保障関連法」が強行採決で可決されたことにより、アメリカは日本の軍事力を用いることができることに当面は満足するでしょう。しかし、注意しなければならないのは、アメリカの要請によって日本の「平和憲法」を戦争のできる「憲法」へと改憲しようとしている安倍首相が、神道政治連盟と日本会議の2つの国会議員懇談会で会長と特別顧問を務めており、憲法学者の樋口陽一氏が指摘しているように自民党の憲法草案は、〈明治の時代よりも、もっと「いにしえ」の日本に向かっている〉ことです。

リンク→樋口陽一・小林節著『「憲法改正」の真実』(集英社新書)を読む

今日(4月23日)の新聞によれば、高市総務大臣に続いて、国家の法律を担当する「法務大臣」の岩城氏も靖国神社に参拝したとのことですが、「全体主義は昭和に突然生まれたわけではなく、明治初期に構想された祭政教一致の国家を実現していく結果としてあらわれたもの」とした宗教学者の島薗進氏は、靖国神社は「国家神道が民衆に浸透するテコの役割も果たしました」と指摘しています。「みんなで渡れば怖くない」とばかりに多くの国会議員が「靖国神社」に参拝することの危険性は大きいでしょう。

 リンク→中島岳志・島薗進著『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書) を読む

一方、参謀本部の問題を鋭く指摘していた司馬氏は、「日露戦争が終わると、日本人は戦争が強いんだという神秘的な思想が独り歩きした。小学校でも盛んに教育が行われた」とし、自分もそのような教育を受けた「その一人」だと認めて、「迷信を教育の場で喧伝して回った。これが、国が滅んでしまったもと」であると分析して、教育の問題にも注意を促していました(「防衛と日本史」『司馬遼太郎が語る日本』第5巻)。

すなわち、一つの世代はほぼ20年で代わるので、英米との戦争を準備するころにはイギリスを「文明国」視した世代はほぼ去っていたことになるのですが、安倍政権は教育行政でも「新しい歴史教科書を作る会」などと連携して、「歴史」や「道徳」などの科目をとおして戦前への回帰を強めています。

「歴史的な事実」ではなく、「情念を重視」した教育が続けば、アメリカに対する不満も潜在化しているので、今度は20年を経ずして日本が「一億玉砕」を謳いながら「報復の権利」をたてにアメリカとの戦争に踏み切る危険性さえあるように思われるのです。

(2016年4月30日。改題と改訂)

「安倍談話」と「立憲政治」の危機(2)――日露戦争の賛美とヒトラーの普仏戦争礼賛

「終戦70年」の節目に当たる今年の8月に発表された「安倍談話」で、「二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます」と語り始めた安倍晋三氏は、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と終戦よりもさらに40年も前の「日露戦争」の勝利を讃えていました。

この文章を目にした時には、思わず苦笑してしまいましたが、それはここで語られた言葉が、1996年に司馬遼太郎氏が亡くなった後で勃発した、いわゆる「司馬史観」論争に際して、「戦う気概」を持っていた明治の人々が描かれている『坂の上の雲』のような歴史観が日本のこれからの歴史教育には必要だとするキャンペーンときわめて似ていたからです。

たとえば、本ブログでもたびたび言及した思想家の徳富蘇峰は、『大正の青年と帝国の前途』において「愛国心」を強調することによって「臣民」に犠牲を強いつつ軍国主義に邁進させていましたが、「大正の青年」の分析に注目した「新しい歴史教科書を作る会」理事の坂本多加雄氏は、「公的関心の喪失」という明治末期の状況が、「『英雄』観念の退潮と並行している」ことを蘇峰が指摘し得ていたとして高く評価していたのです(*1)。

そして、蘇峰を「巧みな『物語』制作者」であるとした坂本氏は、「そうした『物語』によって提示される『事実』が、今日なお、われわれに様々なことを語りかけてくる」として、蘇峰の歴史観の意義を強調したのです。

このような蘇峰の歴史観を再評価しようとする流れの中で、日露戦争をクライマックスとした『坂の上の雲』でも、「エリートも民衆も健康なナショナリズムに鼓舞されて、その知力と精力の限界まで捧げて戦い抜いた」ことが描かれているとする解釈も出てきていていました(*2)。

このような歴史の見直しの機運に乗じて、司馬遼太郎氏が亡なられた翌年の1997年には、安倍晋三氏を事務局長として「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が立ち上げられていたのです。

*   *   *

しかし、気を付けなければならないのは、かつて勝利した戦争をどのように評価するかが、その国の将来に強い影響を与えてきたことです。たとえば、ロシアの作家トルストイが、『戦争と平和』で描いた、「大国」フランスに勝利した1812年の「祖国戦争」の勝利は、その後の歴史家などによってロシア人の勇敢さを示した戦争として讃美されることも多かったのです。

第一次世界大戦での敗戦後にヒトラーも、『わが闘争』において当時の小国プロシアがフランスを破ってドイツ帝国を誕生させた普仏戦争(1870~1871)の勝利を、「全国民を感激させる事件の奇蹟によって、金色に縁どられて輝いていた」と情緒的な用語を用いて強調し、ドイツ民族の「自尊心」に訴えつつ、「新たな戦争」への覚悟を国民に求めていました。

一方、日本でもイラクへの自衛隊派遣が国会で承認されたことや二〇〇五年が日露戦争開戦百周年にあたることから、日露戦争を讃美することで戦争への参加を許容するような雰囲気を盛り上げようとして製作しようとしたのが、NHKのスペシャルドラマ《坂の上の雲》でした*3。

残念ながら、このスペシャルドラマが3年間にわたって、しかもその間に財界人岩崎弥太郎の視点から坂本龍馬を描いた《龍馬伝》を放映することで、戦争への批判を和らげたばかりでなく、武器を売って儲けることに対する国民の抵抗感や危機感を薄めることにも成功したようです。

リンク→大河ドラマ《龍馬伝》と「武器輸出三原則」の見直し

リンク→大河ドラマ《龍馬伝》の再放送とナショナリズムの危険性

こうしてNHKを自民党の「広報」的な機関とすることに成功した安倍政権が、戦後70年かけて定着した「日本国憲法」の「平和主義」だけではなく、「立憲主義」や「民主主義」をも制限できるように「改憲」しようとして失敗し、取りあえず「解釈改憲」で実施しようとして強硬に「戦争法案」を可決したのが「9.17事変」*4だったのです。

 

*1 坂本多加雄『近代日本精神史論』講談社学術文庫、1996年、129~136頁。

*2 藤岡信勝『汚辱の近現代史』徳間書店、1996年、51~69頁。

*3 石原慎太郎・八木秀次「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」『正論』、2004四年11月号、産経新聞社。

*4 この用語については、〈リメンバー、9.17 ――「忘れる文化」と記憶の力〉参照)。

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)

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(広島に投下された原爆による巨大なキノコ雲(米軍機撮影)。キノコ雲の下に見えるのは広島市街、その左奥は広島湾。画像は「ウィキペディア」による)

 

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)――良心の問題と「アイヒマン裁判」

前回のブログ記事では触れませんでしたが、小林秀雄氏が『ヒロシマわが罪と罰』についての沈黙を守った最も大きな理由は、この書物ではこのころ世界を揺るがしていたアイヒマンの裁判のことにも言及されていたからではないかと私は考えています。

ドストエフスキーは『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフに、非凡人は「自分の内部で、良心に照らして、流血をふみ越える許可を自分に与える」(下線引用者)のだと説明させていました。

一方、著者の一人のG・アンデルスは、「何百万という人間、ユダヤ人、ポーランド人、ジプシーなどの、みな殺し計画にあずかり、この計画を実行にうつした人間」であるアイヒマンが、「自分は“テロの機構の中の一本の小さなネジ”にすぎなかった、そして、ヒトラーへの忠誠の誓いを誠実に実行したにすぎなかったのだと、“良心にかけて”証言しているのだ」と原爆パイロットのC・イーザリーに説明していたのです(244-5頁)。

さらにG・アンデルスは、ケネディ大統領に送った1961年1月13日付けの書簡で、アイヒマンの裁判のことにも言及しながら、原爆パイロットのC・イーザリーを次のように弁護していました。

「ちがいます。イーザリーは決してアイヒマンの同類ではありません。それどころか、まさにアイヒマンとはまったく対蹠的な、まだ望みのある実例なのです。自己の良心の欠如をメカニズムに転嫁しようとするような男とちがって、イーザリーは、メカニズムこそ良心にとっておそるべき脅威であるということを、はっきりと認めているのです。そして、そのことによって彼は、今日における道徳的な根本問題の核心を、ほんとうに突いているのです。」(218-9頁)

*   *

一方、「非凡民族」という思想にもつながるラスコーリニコフの「非凡人の理論」の危険性を軽視していた小林氏は、鼎談「英雄について」でヒトラーを「小英雄」と見なしていました。

さらに、1940年に書いた『わが闘争』の書評では「これは天才の方法である、僕はこの驚くべき独断の書を二十頁ほど読んで、もう天才のペンを感じた、僕には、ナチズムといふものが、はつきり解つた気がした、(以下略)」とヒトラーを賛美していたのです。

問題はこのような初出における記述が、『全集』に収められる際に変えられていることです。このことを果敢に指摘した菅原健史氏の考察を拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』から引用しておきます。

〈初出時と『全集』との文章の差異を克明に調べた菅原健史は、『全集』では「天才のペン」の前に、《一種邪悪なる》という言葉が加筆されていることを指摘し、そのために『全集』に依拠した多くの研究者が、戦時中から小林がヒトラーを「一種邪悪なる天才」と見破っていたとして小林の洞察力を賞讃していたことに注意を促している。

しかも菅原は、初出では引用した個所の直前には「彼(引用者注──ヒトラーのこと)は、彼の所謂主観的に考へる能力のどん底まで行く、そして其処に、具体的な問題に関しては決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚をしつかり掴んでゐる。彼の感傷性の全くない政治の技術はみな其処から発してゐる様に思はれる」という記述があったが、その部分は『全集』では削除されていることも指摘している。〉

数学者の岡潔氏との対談『人間の建設』(新潮社)について考察した〈「不注意な読者」をめぐって(2)〉では、小林秀雄氏が「ドストエフスキーという人には、これも飛び切りの意味で、狡猾なところがあるのです」と語り、小説の構造の秘密を「かぎ出さなくてはいけないのです。作者はそういうことを隠していますから」と主張していたことを紹介した後で、私は次のような疑問を記していました。

〈小林氏は本当に「作者」が「隠していること」を「かぎ出した」のだろうか、「狡猾なところがある」のはドストエフスキーではなく、むしろ論者の方で、このように解釈することで、小林氏は自分自身の暗部を「隠している」のではないだろうか。〉

「“テロの機構の中の一本の小さなネジ”にすぎなかった」と主張したアイヒマンの「良心」の問題にも鋭く迫っていた『ヒロシマわが罪と罰』は、小林氏の「良心」解釈の問題点をも浮かび上がらせているように感じます。

リンク→『罪と罰』とフロムの『自由からの逃走』(東京創元社)

リンク→『罪と罰』と『罪と贖罪』――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(1)

関連記事一覧

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(1)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(2)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(3)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(5)

アインシュタインのドストエフスキー観と『カラマーゾフの兄弟』

(2015年6月18日、写真と副題を追加。2016年1月1日、関連記事を追加)

 

「ワイマール憲法」から「日本の平和憲法」へ――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(2)

 

『永遠の0(ゼロ)』において次に注目したいのは、「もちろん戦争は悪だ。最大の悪だろう」と語った長谷川が、「だが誰も戦争をなくせない」と続けていたことです。

この言葉からは絶望した者の苛立ちがことに強く感じられます。たしかに、これまでの人類の歴史には戦争が絶えることはありませんでした。

しかし、このような長谷川の認識には大きな落とし穴があります。それは広島・長崎に原爆が投下されたあとでは、世界の大国が一斉に核兵器の開発に乗り出していたことです。多くの科学者が「国益」の名のもとにその開発に従事するようになり、さらに強力な水爆や「原子力潜水艦」が製造され、1962年のキューバ危機では地球が破滅するような核戦争が勃発する危機の寸前にまでいたっていたのです。

つまり、「核兵器」を持つようになって以降においては、いかに「核兵器」の廃絶を行うかに地球の未来はかかっているのです。しかし問題はこのような深刻な事態にたいして、被爆国の政府である自民党政権が「放射能の危険性」と「核兵器の非人道性」を世界に訴えることなく、むしろその「隠蔽」に力を貸していたことです。

さらに、1957年5月には満州の政策に深く関わり、開戦時には重要閣僚だったために、A級戦犯被疑者となっていたが復権した岸信介氏首相が「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」とさえ国会で答弁していたのです。

*   *

このような状況の下で、57年の9月には「日米が原爆図上演習」を行っていたことが判明したことを「東京新聞」は1月18日の朝刊でアメリカの「解禁公文章」から明らかにしています。

「七十年前、広島、長崎への原爆投下で核時代の扉を開いた米国は当時、ソ連との冷戦下で他の弾薬並みに核を使う政策をとった。五四年の水爆実験で第五福竜丸が被ばくしたビキニ事件で、反核世論が高まった被爆国日本は非核国家の道を歩んだが、国民に伏せたまま制服組が核共有を構想した戦後史の裏面が明るみに出た。 文書は共同通信と黒崎輝(あきら)福島大准教授(国際政治学)の同調査で、ワシントン郊外の米国立公文書館で見つかった。 五八年二月十七日付の米統合参謀本部文書によると、五七年九月二十四~二十八日、自衛隊と米軍は核使用を想定した共同図上演習「フジ」を実施した。場所は記されていないが、防衛省防衛研究所の日本側資料によると、キャンプ・ドレイク(東京都と埼玉県にまたがる当時の米軍基地)内とみられる。」

「核兵器」や「放射能」の危険性をきちん認識し得なかったという点で、岸信介元首相は、世界各国が「自衛」のために核兵器を持ちたがるようになった冷戦後の国際平和の面でも大きな「道徳的責任」があると言えるでしょう。

*   *

「核兵器」を用いても勝利すればよいとするこのような戦争観とは正反対の見方を示したのが、作家の司馬遼太郎氏でした。『坂の上の雲』を書き終えた後で司馬氏は、「日本というこの自然地理的環境をもった国は、たとえば戦争というものをやろうとしてもできっこないのだという平凡な認識を冷静に国民常識としてひろめてゆく」ことが、「大事なように思える」と書いていたのです(「大正生れの『故老』」『歴史と視点』、1972年)。

注目したのは、日本には原発が54基もあるという宮崎駿監督の指摘を受けて、作家の半藤一利氏が「そのうちのどこかに1発か2発攻撃されるだけで放射能でおしまいなんです、この国は。いまだって武力による国防なんてどだい無理なんです」と語っていることです。(『腰ぬけ愛国談義』文春ジブリ文庫)(68頁)。

*   *

この意味で注目したいのは、湾岸戦争後に「改憲」のムードが高まってくると、日本では敗戦後の「平和憲法」と第一次世界大戦の敗戦後のドイツの「ワイマール憲法」を比較して、揶揄することが流行ったことです。

リンク→麻生副総理の歴史認識と司馬遼太郎氏のヒトラー観

すでに引用したように、百田氏もツイッターで「すごくいいことを思いついた!もし他国が日本に攻めてきたら、9条教の信者を前線に送り出す」と記していました。互いに殺しあいを行う戦場では何を語っても無意味であり、声を上げる前に射殺されるだろうことは確実なので、「そこで戦争は終わる」ことはありえません。しかし、「もし、9条の威力が本物なら、…中略…世界は奇跡を目の当たりにして、人類の歴史は変わる」と書いていることの一端は真実を突いているでしょう。

イスラム教の国に十字軍を派遣したことがなく、アフガンや中東において医療チームなどが平和的な活動を続けてきた日本はそれなりに信頼される国になっており、交渉役としての重要な役を担えるようになっていたのです(安倍政権によって、これまでに積み上げられた信頼は一気にブルドーザーのような力で崩されていますが…)。

*   *

一方、『坂の上の雲』を書き終えた後で司馬氏は、ヒトラーについて次のように書いていました。

「われわれはヒトラーやムッソリーニを欧米人なみにののしっているが、そのヒットラーやムッソリーニすら持たずにおなじことをやった昭和前期の日本というもののおろかしさを考えたことがあるだろうか。…中略…政治家も高級軍人もマスコミも国民も神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」(「『坂の上の雲』を書き終えて」)。

実際、「人種の価値に優劣の差異があることを認め(中略)、永遠の意志にしたがって、優者、強者の勝利を推進し、劣者や弱者の従属を要求するのが義務である」と主張して、「復讐」の戦争へと自国民を駆り立てた『わが闘争』においてヒトラーは、第一次世界大戦の敗戦の責任をユダヤ人に押しつけるとともに、敗戦後にドイツが創った「ワイマール憲法」下の平和を軟弱なものとして否定しました。

さらにヒトラーはフランスを破ってドイツ帝国を誕生させた普仏戦争(1870~1871)の勝利を「全国民を感激させる事件の奇蹟によって、金色に縁どられて輝いていた」と情緒的な用語を用いて強調し、ドイツ民族の「自尊心」に訴えつつ、「復讐」への新たな、しかし破滅への戦争へと突き進んだのです。

*   *

これまで見てきたことから明らかなように、第1次世界大戦後の「ワイマール憲法」と「核兵器」が使用された第2次世界大戦後に成立した日本の「平和憲法」では、根本的にその働きは異なっており、「核兵器」や「原発」の危険性をもきちんと視野に入れるとき「日本の平和憲法」が果たすべき役割は大きいと思われます。

私たちは「戦争」が紛争解決の手段だとする19世紀的な古く危険な歴史観から脱却し、「核の時代」では戦争が地球を滅ぼすという「平凡な事実」をきちんと認識すべき時期にきているのです。

「スタンバーグ監督の映画《罪と罰》と黒澤映画《夢》」を「映画・演劇評」に掲載しました

 

文芸評論家の小林秀雄は、功利主義を主張するルージンとの対決などを省いた形で考察した1934年の「『罪と罰』についてⅠ」で、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注――ラスコーリニコフ)には現れぬ」とし、エピローグは「半分は読者の為に書かれた」と解釈していました〔六・四五、五三〕。

そして、1936年に発表した「『罪と罰』を見る」と題した映画評で小林は、スタンバーグ監督の映画《罪と罰》などを厳しく批判していたのです。

私は、スタンバーグ監督の映画を高く評価していた黒澤明が同じ年に、P・C・L映画撮影所(東宝の前身)に助監督として入社したことに注意を払うことで、黒澤映画《夢》が長編小説『罪と罰』と同じような「夢」の構造をしているのは偶然ではなく、スタンバーグ監督の映画《罪と罰》の理解などをふまえて、エピローグや「良心」などについての小林秀雄の解釈を映像という手段で批判的に考察していた可能性が強いことを示唆しました(リンク先→「小林秀雄の映画《罪と罰》評と黒澤明」)。

 

昨日は憲法の意味を国民に説くべき「憲法記念日」でしたが、幕末の志士・坂本龍馬などの活躍で勝ち取った「憲法」の意味が急速に薄れてきているように思われます。

「憲法」を否定して戦争をできる国にしようとしたナチス・ドイツがどのような事態を招いたかをきちんと認識するためにも1935年に公開されたスタンバーグ監督の映画《罪と罰》は重要でしょう。

この映画についてはあまり知られていないようなので、小林秀雄の映画評を簡単に紹介した後で、この映画の内容と現代的な意義を「映画・演劇評」で考察しました(リンク先→「スタンバーグ監督の映画《罪と罰》と黒澤映画《夢》」

 

 

『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、2000年)を「著書・共著」に掲載しました

『罪と罰』はドストエフスキーがそれまでの自分の体験や当時の状況を踏まえて書いた渾身の長編小説です。

「主な研究(活動)」の前史でも書きましたが、都立広尾高等学校に在学中はベトナム戦争の時期だったこともあり、文学作品だけでなく宗教書や哲学書を夢中になって読みふけっていましたが、このころに「他者」を殺すことで、「自分」を殺してしまったという哲学的な言葉が記されているドストエフスキーの『罪と罰』と出会った時には、主人公の「非凡人の理論」の検証をとおして、功利主義的な考えや「弱肉強食の思想」、さらには自己の「正義」のためには大量殺戮も辞さない近代文明のあり方の根本的な考察がなされていると感じました。

ことにエピローグで主人公が見る「人類滅亡の悪夢」からは、すでにクリミア戦争の頃から急速に進歩を遂げるようになった機雷など最新の科学兵器の登場とその使用を分析することで、第二次世界大戦で使用され、世界を破滅させることのできる量が産み出された原子爆弾の使用とその危険性をも予告するとともに、近代的な自然観の見直しの必要性をも示唆していたことに強い感動を覚えました。

1992年に混乱のロシアを訪れたことで、『罪と罰』の世界を実感することがてきましたが、1994年から1年間、ブリストル大学のロシア学科で「ロシアと日本の近代化の比較」をテーマとして研究留学することができましたが、その際にリチャード・ピース(Richard Peace)教授の著作、Dostoevsky’s Notes from Undergroundを読む中で、日本では情念的な形で理解されることの多い主人公の言説には、イギリスで生まれた功利主義の哲学やイギリスの歴史家バックルが主唱した西欧中心的な文明観への強い反発が秘められていたことを確認することができました。

そのことは哲学的な視点と比較文学の手法を組み合わせた形で一般教養科目のための教科書『「罪と罰」を読む――「正義」の犯罪と文明の危機』(刀水書房、1996年)を書くことにつながりました。

職業的な作家であったドストエフスキーは、自分の作品がより多くの読者に読まれるように、悪漢小説や家庭小説の手法などさまざまな趣向を取り入れつつ、さらにエドガー・アラン・ポーのような推理小説的な手法で、主人公のラスコーリニコフが犯した「高利貸しの老婆」殺しの犯罪の「謎」に迫っていますが、そればかりでなく、近代的な知識人である主人公の「非凡人の思想」の批判的な検証をもきちんと行っていたのです。

この教科書を使った授業が好評でしたので、文明論的な視点をより強く出した新版『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、2000年)を発行しました。ただ、一般教養科目のための教科書として書かれたこともあり、授業での説明がないと分かりにくい点もあるので、もし改版の機会があれば、一般の読者にも読みやすく文学論としても興味深く読めるようなものにしたいとも考えています。