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自然観

なぜ今、『罪と罰』か(2)――「ゴジラ」の咆哮と『罪と罰』の「呼び鈴」の音

ゴジラ

(製作: Toho Company Ltd. (東宝株式会社) © 1954。図版は露語版「ウィキペディア」より)

1954年の3月1日にアメリカ軍による水爆「ブラボー」の実験が行われました。この水爆が原爆の1000倍もの破壊力を持ったために、制限区域とされた地域をはるかに超える範囲が「死の灰」に覆われて、160キロ離れた海域で漁をしていた日本の漁船「第五福竜丸」の船員が被爆しました。

この事件から強い衝撃を受けた黒澤明監督は「世界で唯一の原爆の洗礼を受けた日本として、どこの国よりも早く、率先してこういう映画を作る」べきだと考えて映画《生きものの記録》の脚本「死の灰」(黒澤明、橋本忍、小國英雄)を書き始めました。

水爆実験に同じような衝撃を受けた本多猪四郎監督が同じ年の11月に公開したのが映画《ゴジラ》でした。この映画を久しぶりに見た時に感じたのは、冒頭のシーンが第48回アカデミー賞で作曲賞、音響賞、編集賞などを受賞したスティーヴン・スピルバーグ監督の映画《ジョーズ》(1975年)を、映像や音楽の面で先取りしていたことです。

《ジョーズ(Jaws)》の内容はよく知られていると思いますが、観光地で遊泳していた女性が大型の鮫に襲われて死亡するが、事態を軽く見せるために「事実」を隠そうとした市長などの対応から事件の隠蔽されたために、解決が遠ざかることになったのです。

一方、映画《ゴジラ》の冒頭では、船員達が甲板で音楽を演奏して楽しんでいた貨物船「栄光丸」が突然、白熱光に包まれて燃え上がり、救助に向かった貨物船も沈没するという不可解な事件が描かれていました。伊福部昭作曲の「ゴジラ」のライトモチーフは、一度聴いたら忘れられないような強いインパクトを持っているが、その理由を作曲家の和田薫はこう説明しています。

「円谷英二さんから特に画を観させてもらったというエピソードがありますよね。あの曲は低音楽器を全て集めてやったわけですが、画を観なければ、ああいう極端な発想は生まれません」(『初代ゴジラ研究読本』、122頁)。

この言葉は映像と音楽の深い関わりを説明していますが、実は、長編小説『罪と罰』でも、若き主人公が「悪人」と見なした高利貸しの老婆のドアの呼び鈴を鳴らす場面も、あたかも悲劇の始まりを告げる劇場のベルのように響き、読者にもその音が聞こえるかのように描かれているのです。

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ゴジラはなかなかその姿をスクリーンには現わさず、観客の好奇心と不安感を掻きたてるのですが、遭難した漁師の話を聞いた島の老人は大戸島(おおどしま)に伝わる伝説の怪獣「呉爾羅(ゴジラ)」の仕業ではないかと語り、昔はゴジラの被害が大きいときには若い女性を人身御供として海に捧げていたが、今はその代わりにお神楽を舞っているのだと説明します。

暴風雨の夜に大戸島に上陸して村の家屋を破壊し、死傷者を出した時にも「ゴジラ」はまだその全貌を現してはいないのですが、島に訪れた調査団の前に現れた「ゴジラ」の頭部を見た古代生物学者の山根博士(志村喬)は、国会で行われた公聴会で発見された古代の三葉虫と採取した砂を示しながら、おそらく200万年前の恐竜だろうと次のように説明します。

「海底洞窟にでもひそんでいて、彼等だけの生存を全うして今日まで生きながらえて居った……それが この度の水爆実験によって、その生活環境を完全に破壊された。もっと砕いて言えば あの水爆の被害を受けたために、安住の地を追い出されたと見られるのであります……」。

ここで注目したいのは、山根博士が古代の恐竜「ゴジラ」が水爆実験によって、安住の地を奪われたために出現したと説明していることです。その説明はビキニ沖での水爆実験によって、「第五福竜丸」事件を引き起こした後も、冷戦下で互いに核実験を繰り返す人間の傲慢さを痛烈に批判し得ているばかりか、黒澤監督が映画《夢》の第六話「赤富士」で予告することになる福島第一原子力発電所の大事故の危険性をも示唆していたと思えます。

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『罪と罰』のあらすじはよく知られていますが、「人間は自然を修正している、悪い人間だって修正したてもかまわない、あいつは要らないやつだというなら排除してもかまわない」という考え方を持っていた主人公が、高利貸しの老婆を殺害したあとの苦悩が描かれています。

現在の日本でも「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と解釈した文芸評論家・小林秀雄長編小説の『罪と罰』論が影響力を保っているようですが、ここで重要なのは、この時期のドストエフスキーが「大地主義」という理念を唱えていたことであり、ソーニャをとおしてロシアの知識人というのはロシアの大地から切り離された人たちだと批判をしていたことです。

たとえば、ソーニャは「血で汚した大地に接吻しなさい、あなたは殺したことで大地を汚してしまった」と諭し、それを受け入れた主人公は自首をしてシベリアに流されますが、最初のうちは「ただ一条の太陽の光、うっそうたる森、どこともしれぬ奥まった場所に湧き出る冷たい泉」が、どうして囚人たちによってそんなに大事なのかが分からなかったラスコーリニコフが、シベリアの大自然の中で生活するうちに「森」や「泉」の意味を認識して復活することになる過程が描かれているのです。

このような展開は一見、小説を読んでいるだけですとわかりにくいのですが、ロシア文学者の井桁貞義氏は、スラヴには古くから「聖なる大地」という表現があり、さらに古い叙事詩の伝説によって育った庶民たちは、大地とは決して魂を持たない存在ではなく、つまり汚されたら怒ると考えていたことを指摘しています。つまり、富士山が大噴火するように、汚された大地も怒るのです。

そして、ソーニャの言葉に従って、大地に接吻してから自首したラスコーリニコフはシベリアの大地で「人類滅亡の悪夢を」見た後で、自分が正当化していた「非凡人の理論」の危険性を実感するようになることです。

この意味で『罪と罰』で描かれている「呼び鈴」の音は、単にラスコーリニコフの悲劇の始まりを告げているだけではなく、「覚醒」と「自然観の変化」の始まりをも示唆しているように思えます。

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(序)――「安倍談話」と「立憲政治」の危機

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(1)――「立憲主義」の危機と矮小化された『罪と罰』

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(3)――事実(テキスト)の軽視の危険性

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(4)――弁護士ルージンと19世紀の新自由主義

講演「黒澤明監督の倫理観と自然観――映画《生きものの記録》から映画《夢》へ」に向けて

 

 5月23日(土曜)に行われる「地球システム・倫理学会」の研究例会では、「黒澤明監督の倫理観と自然観――《生きものの記録》から映画《夢》へ」という題名で講演を行います。

リンク→「地球システム・倫理学会」研究例会(5月23日)のお知らせ

講演の準備に取り組む中で黒澤明・小林秀雄関連年表にいくつかの重要な事項が抜けていたことに気づきました。「核兵器・原発事故と終末時計の年表にリンクするとともに、黒澤明・小林秀雄関連年表に下記の事項を追加しました。

また、黒澤明とタルコフスキーという二人の名監督の深い交流とその意義をめぐる堀伸雄氏のすぐれた論文が二誌に掲載されましたので*、両者の交友と作品の事項も追加しました。

リンク→年表7、黒澤明・小林秀雄関連年表(1902~1998)

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1945年 【ロックフェラー財団会長レイモンド・フォスディックが原爆投下の知らせを聞いて「私は良心の呵責に苦しんでいる」と手紙に記す】。

1962年8月 『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』、筑摩書房。(アインシュタインと共同宣言を出したラッセル卿の「まえがき」を所収)。

1965年 小林、数学者の岡潔と対談「人間の建設」(『新潮』10月号)でアインシュタインを批判。

1973年 黒澤、モスクワで映画監督タルコフスキーとともに《惑星ソラリス》を見る。

1986年 【5月 タルコフスキーの映画《サクリファイス》上映】。

 

(* 堀伸雄「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー ~『七人の侍』に始まる魂の共鳴」『黒澤明研究会誌』第32号、および「ドストエフスキーへの執念が育んだ〈絆〉」『ドストエーフスキイ広場』第24号)。

「地球システム・倫理学会」例会のお知らせを「新着情報」に掲載

5月23日(土曜)に行われる「地球システム・倫理学会」の研究例会は、 「黒澤明監督の倫理観と自然観――《生きものの記録》から映画《夢》へ」という題名で行われます。

ポスターでは映画《夢》で描かれている安曇野のわさび田の清冽な水の流れをとおして黒澤監督の感性が見事に反映されています。

リンク→「地球システム・倫理学会」研究例会(5月23日)のお知らせ

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1947年に設定された「終末時計」では東西冷戦による核戦争の危機を評価の基準として「残り7分」と表示されましたが、黒澤監督も映画《生きものの記録》や映画《夢》で原水爆の危険性や原子力発電所の危険性を鋭く浮き彫りにしていました。

残念ながら、福島第一原発事故などにより悪化する地球環境問題などを踏まえて、今年の「終末時計」の表示は1949年と同じ「残り3分」にまで戻ってしまいました。

しかし、《デルス・ウザーラ》などの映画で大自然の力と美しさも描き出していた黒澤監督は、映画《夢》の最終話「水車のある村」では人類の可能性をも示唆していたのです。

 

《かぐや姫の物語》が3月13日にテレビ初放送

高畑勲監督作品の《かぐや姫の物語》が3月13日の「金曜ロードSHOW!」でテレビ初放送されることがわかりました。「ねとらぽ」によれば、通常から放送を1時間繰り上げ、午後7時56分より完全ノーカット版となるとのことです。

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。「ねとらぽ」より

2013年に公開されたこの作品についてはこのブログでも取り上げていましたが、私が高畑勲監督作品が国際的に高い評価を受けていることを実感したのは、モスクワに行く留学生の引率の際にロシアの新聞で《ホーホケキョとなりの山田くん》についてのほぼ一面を費やした解説記事を読んだ時でした。

《かぐや姫の物語》は残念ながら受賞こそ逃したものの、米国アカデミー賞長編アニメーション映画部門にも昨年の《風立ちぬ》に続いて2年連続でノミネートされ、ロサンゼルス映画批評家協会賞、ボストン映画批評家協会賞、トロント映画批評家協会賞を受賞しています。

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注目したいのは、「リテラ」(2015.02.21)の記事によれば、元旦に神奈川新聞に掲載されたインタビューで、1988年に日本で公開されて海外でも高い評価を受けた《火垂るの墓》について高畑監督が、「反戦映画が戦争を起こさないため、止めるためのものであるなら、あの作品はそうした役には立たないのではないか」と答え、「為政者」は「惨禍を繰り返したくないという切実な思いを利用し、感情に訴えかけてくる」からだと説明し、次のように語っていたとのことです。

「私たちは戦争中の人と比べて進歩したでしょうか。3・11で安全神話が崩れた後の原発をめぐる為政者の対応をみても、そうは思えません。成り行きでずるずるいくだけで、人々が仕方がないと諦めるところへいつの間にかもっていく。あの戦争の負け方と同じです」

筆者の酒井まど氏は、高畑監督の次のような言葉でこの記事を結んでいます。「(先の戦争について)いやいや戦争に協力させられたのだと思っている人も多いけれど、大多数が戦勝を祝うちょうちん行列に進んで参加した。非国民という言葉は、一般人が自分たちに同調しない一般人に向けて使った言葉です。(中略)古くからあるこの体質によって日本は泥沼の戦争に踏み込んでいったのです。私はこれを『ズルズル体質』と呼んでいますが、『空気を読む』なんて聞くと、これからもそうなる危うさを感じずにはいられません。」

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アニメ映画《かぐや姫の物語》が、米国アカデミー賞長編アニメーション映画部門にノミネートされたばかりでなく、数々の国際的な章を受賞していることは、日本最古の物語が持つ普遍性を明らかにしてといえるでしょう。

一方、福島第一原子力発電所の大事故が実際には今も完全には収束しておらず、日本の大地や海が汚染されており、地震や噴火の危険性が続いているにもかかわらず、安倍首相をはじめとする現代の「大臣(おおおみ)」たちは、国民」の関心をその危険性から逸らすかのように、自衛隊を海外に派兵するための法律を次々に閣議決定しています。

日本の庶民が持っていた自然観や宇宙観が繊細なタッチで見事に描き出されるとともに、当時の「殿上人」の価値観を痛烈に批判していたこの作品が多くの人々に鑑賞されることを望んでいます。

リンク→

《かぐや姫の物語》考Ⅰ――「かぐや姫」と 『竜馬がゆく』

《かぐや姫の物語》考Ⅱ――「殿上人」たちの「罪と罰」

 

 

『文明の未来 いま、あらためて比較文明学の視点から』が東海大学出版部より発行

お知らせが遅くなりましたが、東海大学出版部から今年の5月に『文明の未来 いま、あらためて比較文明学の視点から』が下記のような内容で出版されました。

『文明の未来』honto(書影は「honto」より)

「比較文明学会創立三〇周年を記念して刊行された論文集。自然と文明の関係性の再確立、西欧近代の知の超克、グローバリズムの問い直しなど、現代の比較文明学共通の課題と関心に収斂した問題が記述されている。」

編集:比較文明学会30周年記念出版編集委員会
出版社: 東海大学出版部
発売日: 2014/5/15
単行本: 318ページ
価格: 3000円+税
ISBN-10: 4486019830
ISBN-13: 978-4486019831

私も標記の題名で論文を寄稿しましたので、そのレジュメを「主な研究」に掲載しました。

リンク→司馬遼太郎の文明観―-古代から未来への視野(レジュメ)

(11月8日、改題)