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『カラマーゾフの兄弟』

『若き日の詩人たちの肖像』と『夜明け前』――平田篤胤の思想をめぐって 

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

『若き日の詩人たちの肖像』では「『カラマーゾフの兄弟』中の、スペインの町に再臨したイエス・キリストが何故に宗教裁判、異端審問にかけられねばならなかったかという難問について」喋り続けるアリョーシャと呼ばれる若者が描かれていますが、「ガダルカナルでは陸軍は殲滅的な打撃をうけているらしい」ことが伝わってくるようになると、その彼は「突然正座して膝に手を置き、眼と額をぎらぎらと輝かして」次のように語ります〔下・305~306〕。

「だからキリストがだな、キリストが天皇陛下なんだ。つまり天皇陛下がキリストをも含んでいるんだ。キリストの全論理の、その上に、おわしましますんだ」。

そこではどうしてそのような結論になるのかは明かされていませんが、「いずれその日本のために戦って死なねばならぬとなれば、国学というものにはその日本の絶対によい所以(ゆえん)が書いてあるのであろう」と思い、「平田篤胤全集にとりかかった」主人公は、アリョーシャの言葉の論理的な背景を知ることになります〔下・320~323〕。

すなわち、そこでは「義の為にして窘難(きんなん)を被る者は、これ即ち真福にて、その已に天国を得て処死せざるとあるなり。これ神道の奥妙、豈人意を以て測度すべけむや」と書かれていたのですが、それは「幸福(さいわい)なるかな、義のために責められたる者、天国はその人のものなり」という「マタイ伝第五章にあるイエス・キリストの山上の垂訓」のほとんど引き写しだったからです。

それでも、「平田篤胤は、本当に前人未踏の地で苦闘をしているのである。天地創造の問題を神学的に処理するために彼は苦しみぬいているのである」と評価しようとした主人公は、アリョーシャの論理をこう説明しています。

「キリスト教や西洋天文学までを援用して儒仏を排するというところから発し、アダムもエヴァもわれらの古伝の訛りだということになれば、つづけて世界も宇宙も、つまりは八紘はわが国の天之御中主神の創造になるものであり、従って八紘はわが国の一宇であって、その天之御中主神が天皇陛下の御先祖様であるということになると、それはまったくアリョーシャの言ったように、天皇はキリストを含んで、という次第に、たしかになる。」

しかし、その後で主人公は「この洋学応用の復古神道――新渡来の洋学を応用して復古というのもまことに妙なはなしであったが――は、儒仏を排し、幕末にいたっては国粋攘夷思想ということになり、祭政一致、廃仏毀釈ということになり、あろうことか、恩になったキリスト教排撃の最前衛となる。それは溜息の出るようなものである。」と続けていました。

一方、文芸評論家の小林秀雄は1942年7月に行われた座談会「近代の超克」において、「近代人が近代に克つのは近代によってである」として欧米との戦争を評価していましたが(河上徹太郎、竹内好他『近代の超克』富山房百科文庫、昭和54年)、長編小説の主人公はこの座談会を想起しながら、「とにかく近代の超克もなにもあったものではなかった。近代を超克するというのなら、まず平田篤胤あたりから超克してかからなければならぬだろうと思う」と書いています。

しかも、登場人物に「平田篤胤がヤソ教から何を採って何をとらなかったかが問題なんだ、ナ」と語らせた堀田氏は、「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」と続けさせています。

この言葉は、「殺すなかれ」という理念を説いていたムィシキンを主人公とした長編小説『白痴』の結末について、「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と1934年に書いた「『白痴』についてⅠ」で解釈していた小林秀雄のドストエフスキー観の厳しい批判ともなっているでしょう。

そして、この長編小説で堀田善衛氏は主人公の心境を次のように描いているのです。「平田篤胤の研究は、男を本当にがっかりさせてしまった。何をするのもいやになってしまった。日本精神だとか、国学だとか、あるいはまた皇道ということばが印刷物に矢鱈に沢山出てくる。」(下、327)。

興味深いのは、このような厳しい批判が長編小説『竜馬がゆく』において、幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となり、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と記した作家・司馬遼太郎の指摘と重なることです。

その司馬は『この国のかたち』の第五巻で「篤胤は、国学を一挙に宗教に傾斜させた。神道に多量の言語をあたえたのである」と指摘し、「創造の機能には、産霊(むすび)という用語をつかい、キリスト教に似た天地創造の世界を展開した」と説明した後で、平田篤胤の言説が庄屋など「富める苗字(みょうじ)帯刀層にあたえた」影響を次のように記していました。

「平田国学によって幕藩体制のなかではじめて日本国の天地を見出させた、ということだった。奈良朝の大陸文化の受容以来、篤胤によって別国が湧出したのである」(太字は引用者)。

「昭和初期」を「別国」あるいは、「異胎」の時代と激しい言葉で呼んでいた司馬氏がここでも「別国」という独特の用語を用いていることは、昭和の「別国」と平田篤胤によってもたらされた「別国」との連続性を示唆していると思われます。

『夜明け前』1『夜明け前』2『夜明け前』3『夜明け前』4

(岩波文庫版『夜明け前』、図版は紀伊國屋書店より)

このような昭和初期の重苦しい時代に島崎藤村が描いた長編小説が、「黒船」の到来に危機感を煽られて古代を理想視した平田派の学問を学び、草莽の一人として活躍しながら明治維新の達成後には新政府に裏切られて絶望し、ついに発狂して亡くなった自分の父・島崎正樹(1831~86)を主人公のモデルとした『夜明け前』でした。

この長編小説は芥川龍之介が日本の検閲を厳しく批判した小説『河童』を書いたあとで、「ぼんやりした不安」を理由に自殺した2年後の昭和4年から連載が始まり昭和10年に完結しましたが、その年にはそれまで国家公認の憲法学説であった東大教授・美濃部達吉の天皇機関説が「国体に反する」との理由で右翼や軍部の攻撃を受けて、著者は公職を追われ、著書は発禁となるという事件が起きていました。

それゆえ、研究者の相馬正一は「田中ファシズム内閣が、〈国家〉の名において個人の言論・思想を封殺する狂気を実感しながら」島崎藤村が、「『夜明け前』の執筆と取り組んでいた」ことの意義を強調しています(『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』人文書館、2006年)。

実際、天皇機関説事件で「立憲主義」が否定された日本では、明治5年3月に廃止されて内務省神社局となっていた神祇省が皇紀2600年を祝った昭和15年に内務省の「外局神祇院に昇格」して、「国家神道は名実ともに絶頂期」を迎えました。

皇紀2600年

(1940年の紀元2600年記念式典会場、出典は「ウィキペディア」)

しかし、それは神武東征の神話を信じた日本が、「皇軍無敵」を唱えて無謀な太平洋戦争へと突入することを意味していました。

戦況が苦しくなると神風を信じて特攻隊をも編制してまでも戦争を続けた日本は、広島・長崎に原爆が落とされたあとでようやくポツダム宣言を受け入れたのです。

*   *

注目したいのは、司馬遼太郎や宮崎駿監督と行った鼎談で、堀田善衛が「『この国』という言葉遣いは私は島崎藤村から学んだのですけど、藤村に一度だけ会ったことがある。あの人は、戦争をしている日本のことを『この国は、この国は』と言うんだ」と語っていたことです(『時代の風音』朝日文庫、1997年、150頁)。

実際、『夜明け前』には「新たな外来の勢力、五か国も束になってやって来たヨーロッパの前に、はたしてこの国を解放したものかどうかのやかましい問題は、その時になってまだ日本国じゅうの頭痛の種になっていた」などという形で「この国」という表現が度々出てきます。

このように見てくるとき、大学受験のために上京した翌日に2.26事件に遭遇した主人公が「赤紙」によって召集されるまでの「昭和初期」の重苦しい日々を、若き詩人たちとの交友をとおして克明に描き出した堀田善衛の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』(1968年)は、馬篭宿の庄屋であり、「篤胤没後の門人」でもあった青山半蔵を主人公とした島崎藤村の『夜明け前』を強く意識して書かれていたといっても過言ではないでしょう。

堀田善衛、時代の風音、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

『若き日の詩人たちの肖像』と小林秀雄のドストエフスキー観(2)――アリョーシャと呼ばれる若者と『英雄と祭典』

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

序章と四つの部からなる長編小説『若き日の詩人たちの肖像』では、「成宗の先生」(モデルは堀辰雄)だけでなく、集英社文庫版の「解説」で篠田一士が説明しているように、「澄江君」(芥川比呂志)や「白柳君」(白井浩司)、「赤鬼君」(加藤道夫)、「良き調和の翳」(鮎川信夫)、「冬の皇帝」(田村隆一)、「富士君」(中村真一郎)、「ドクトル」(加藤周一)などの重要な人物も描かれている。

中でも注目したいのは、厳しく言論を弾圧することによって無謀な戦争へと突入するようになるこの時代に激しく変貌する「アリョーシャ」と呼ばれる若者である。第二部第一章で始めて登場する際には「『カラマーゾフの兄弟』中の、スペインの町に再臨したイエス・キリストが何故に宗教裁判、異端審問にかけられねばならなかったかという難問について、限りもなく喋りつづけていた」この若者は、三年間で「ドストエフスキーから太宰治を経て惟神の道に」至ることになる。

この人物に注目しながら読み直しているうちにアリョーシャのモデルには、ドストエフスキーの作品論をとおして「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と主張する著書『英雄と祭典 ドストエフスキイ論』(白馬書房、昭和17年)を真珠湾攻撃の翌年の昭和17年に発行した堀場正夫も入っているのではないかとより強く考えるようになった(引用は井桁貞義・本間暁編『ドストエフスキイ文献集成』、大空社、1996年による)。

堀田善衛の長編小説『若き日の詩人たちの肖像』は、受験のために上京した主人公が翌日に2・26事件と遭遇するところから始まるが、『英雄と祭典』の「序にかへて」でも「殊に万延元年の桜田門外の変以来の、異状に人々を安逸の眠りから呼び醒ます事件として知られてゐる昭和十一年二月二十六日の前夜、その夜は夜半からしんしんとして冷え、何か魂が羽搏きでもするやうに大朶の雪が降りだした」と記されているからである。

その深夜に『罪と罰』のポルフィーリイとの激しい議論でラスコーリニコフが、ナポレオンのような「非凡人」は「「たしかに肉体でなくて青銅で出来てゐるに違ひない」と絶叫するに至るあの異様に緊張した場面」を読んでいたと記した堀場は、「しかも明くれば二月二十六日、白雪におほはれた東京の街は、ただならぬ緊張の中におかれたのである」と書き、「近代の長い夜はこの日から少しづつ白みそめたといつたら間違ひであらうか」と続けていた。

著書の題名が『英雄と祭典』と付けられている理由は、日中戦争の発端となった昭和12年7月7日の盧溝橋事件を賛美したと思われる「序にかへて」の冒頭の次のような文章から明らかであろう。「今では隔世の感があるのだが、昭和十二年七月のあの歴史的な日を迎へる直前の低調な散文的平和時代は、青年にとつて実に忌むべき悪夢時代であつた」。

「平和時代」を「悪夢時代」と規定した堀場は、西欧の「英雄」ナポレオンを打ち倒したロシアの「祖国戦争」を「祭典」と見なしたのである。

このような著者の「英雄」観には、小林秀雄の英雄観が強く反映していると思われる。ヒトラーが政権を掌握した翌年の昭和9年に本格的な『罪と罰』論と『白痴』論を相次いで雑誌に掲載した小林は、太平洋戦争が始まる前年の9月にはヒットラーの『我が闘争の書評を「朝日新聞」に書き、『文學界』の10月号に掲載された鼎談「英雄を語る」では、ナポレオンを「英雄」としたばかりでなく、ヒトラーも「小英雄」と呼んで「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語り、「暴力の無い所に英雄は無いよ」と続けていたのである(『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』、168頁)。

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注目したいのは、昭和14年8月に発表した「疑惑 Ⅱ」で「軍神」とされた戦車隊の下士官・陸軍中尉西住小次郎を扱った「菊池寛氏の『西住戦車長伝』を高く評価した小林秀雄が、2年後の3月に発表した評論「歴史と文学」の第二章で、徳富蘇峰が序文を書いた元従軍記者・ウォシュバンの伝記『NOGI』の邦訳『乃木大将と日本人』を賛美する一方で、かつては高く評価していた芥川龍之介の『将軍』への否定的な見解を記したことである。

リンク→司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって

この評論は昭和7年に発表した「現代文学の不安」で、「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」とドストエフスキーについて記した小林が、なぜ芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と非難していたかをも説明していると思える。

 さらに、先に見た鼎談「英雄を語る」で、「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と作家の林房雄から問われると「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ」と楽観的な説明をしていた小林秀雄は、戦争に突入したことや戦果報告などを知らせる放送「三つの放送」を聞いたときの印象を「三つの放送」(1942.1『現地報告』)でこう記していた(*1)。

すなわち、「帝国陸海軍は、今八日未明西太平洋に於いてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」 という放送を聞いた際には、「いかにも、成程なあ、といふ強い感じの放送であつた。一種の名文である。日米会談といふ便秘患者が、下剤をかけられた様なあんばいなのだと思つた」と記した小林は、「宣戦詔勅」の印象をこう記していた。

「何時にない清々しい気持で上京、文藝春秋社で、宣戦の御詔勅捧読の放送を拝聴した。僕等は皆頭を垂れ、直立してゐた。眼頭は熱し、心は静かであつた。畏多い事ながら、僕は拝聴してゐて、比類のない美しさを感じた。やはり僕等には、日本国民であるといふ自信が一番大きく強いのだ 」。

そして、「真珠湾爆撃に始まる帝国海軍の戦果発表」を聞いた時には、「名人の至芸が突如として何の用意もない僕等の眼前に現はれた様なものである。偉大なる専門家とみぢめな素人、僕は、さういふ印象を得た」と結んでいたのである。

一方、『若き日の詩人たちの肖像』の主人公も、この報道を聞いた時には「どんな戦争の歴史にもない大戦果をあげた人たちは、まことに、信じかねるほどの、神のようにも偉いものに見えた」と記した。しかし、「そこに、特殊潜航艇による特別攻撃というものが、ともなって」おり、そこに二十歳前後の若者が参加していていたことについては、「腹にこたえる鈍痛を感じていた」と続けていた(下巻、92頁)。

そして、年が明けて1月になり、仲間の詩人たちのなかからも次々と入営し、召集されるものが出てくる頃になると、12月9日の夕方に来て「どうだ、やったろう!」と語った特高警察の言葉を思い出しながら、「戦争というのは」、「少なくとも表面的には、こういう極端な神がかりのような連中がのさばること」であるらしいと書きこう続けていた(下巻、125頁)。

「非常に多くの文学者や評論家たちが、息せき切ってそれ(引用者註――戦争)を所有しようと努力していることもなんとも不思議であった」。

実際、室生犀星も詩「陥落す、シンガポール」では、「皇軍向かふところ敵なし/進撃また進撃/砲火虹のごとく/マレーを陥し入れ/香港を打ち抜く/怒濤は天に逆巻き/敵拠地シンガポール屠る/(後略)」と記していた。

これに対して「ひでぇものをかきやがったな」という「汐留君」の批判を紹介した後で、堀田は「こういうふうな詩をめぐる論議には、何かしら辛いものがある」という主人公の思いを記していた(下巻、149頁)。

一方、『英雄と祭典』でシンガポール攻撃について、「いま現実の歴史の上にそのやうな神話的階調とそのすさまじさを経験するのである」と書いた堀場正夫は、「わが神典に於て、やはりさうした階調の最初に高潮するのは何といつても速須佐之男命の段ではないかと惟ふ」と続けて、八俣遠呂智(やまたのおろち)を撃ち倒す場面を挙げている。

そして、「大東亜戦争戦線布告の大詔を拝してより僅かに二ヶ月有余、神州の正気忽ち発して南方を蔽ひ、早くもシンガポールは陥落した」と記した堀場は「アジアの大いなる夜明けをつげるこの捷報」と続けていたのである(261頁)。

こうして戦争の当初は勝利に酔っていた多くの国民は徐々に戦争の現実と直面することになる。寡聞にして『英雄と祭典』を上梓した堀場正夫のその後の経歴は分からない。しかし、この長編小説の終盤近くでは、「日本の神がかりがいよいよ昂じて来て本当に狂的な国学信奉者」となっていたアリョーシャが、アッツ島玉砕の報を知った時と召集された際の反応が描かれている。

すなわち、彼の若い妻が「いやねぇ‥‥」と言った際には、「アッツ島の軍神たちを妻が侮辱した」として妻の「顔かたちが変わってしまうほどに殴り」つけていたアリョーシャは、自分も召集された際には主人公に「いよいよ官費大旅行に行くことになりました。期再会。」という短いふざけた文面の手紙を残していた。

そして、ついに主人公にも「赤紙」と呼ばれる「臨時召集令状」が届く。

堀田はその文面を読んだ主人公が「生命までをよこせというなら、それ相応の礼を尽くすべきものであろう」と思ったと書き、こう続けている。

「これでもって天皇陛下万歳で死ねというわけか。それは眺めていて背筋が寒くなるほどの無礼なものであった。尊厳なる日本国家、万世一系の国体などといっても、その実体は礼儀も知らねば気品もない、さびしいようななさけないようなものであるらしかった。」

長編小説は一人で海に出た主人公の感慨で終わっている。

「鉛色の北の海には、立派な波が、男がこれまでに耳にしたありとあらゆる音楽の交響を高鳴らせてどうどうと寄せていた。それだけで、充分であった」。

*1)小林秀雄の「三つの放送」(1942.1『現地報告』)の全文を紹介したブログ「小林秀雄をよむ by やりみず」の筆者は2000年2月10日の記事で、「三つの放送」が「四次にわたる『小林秀雄全集』を含めて今まで一度も単行本に収録されたことが」なく、「研究論文や批評」も、「今まで目にする機会」がなかったと記している。

追記) 2001年から発行された新しい『小林秀雄全集』の第7巻には「三つ放送」も収録されているが、『我が闘争』の書評を全集に収録する際に、「天才のペン」の前に加筆された《一種邪悪なる》という言葉は、削除されていない。

小林秀雄のヒトラー観(2)――「ヒットラーと悪魔」とアイヒマン裁判をめぐって

一、映画『十三階段への道』とアイヒマンの裁判

雑誌『文藝春秋』(1960年5月)に掲載された「ヒットラーと悪魔」の冒頭で小林秀雄は、「『十三階段への道』(ニュールンベルク裁判)という実写映画が評判を呼んでいるので、機会があったので見た」と記し、実写映画という性質に注意を促しながら、「観客は画面に感情を移し入れる事が出来ない。破壊と死とは命ある共感を拒絶していた。殺人工場で焼き殺された幾百万の人間の骨の山を、誰に正視する事が出来たであろうか。カメラが代ってその役目を果たしたようである」と書いた。

実際、NHKの佐々木敏全による日本版「解説」によれば、この映画は「裁判の記録映画」であるばかりでなく、「各被告の陳述にあわせ一九三三年から四五年までの十二年間、ナチ・ドイツの侵攻、第二次世界大戦、そしてドイツを降伏に導いた恐ろしい背景を、その大部分が未公開の撮影および録音記録によって」描き出したドラマチック・ドキュメンタリーであった。

ニュールンベルグの戦犯 13階段への道 – CROSS OF IRON

一方、カメラの役目を強調して「御蔭で、カメラと化した私達の眼は、悪夢のような光景から離れる事が出来ない」と続けた小林は、「私達は事実を見ていたわけではない。が、これは夢ではない、事実である、と語る強烈な精神の裡には、たしかにいたようである」と続けていた。

「事実」をも「悪夢」に帰着させているかのように見えるこの文章を読みながら思い出したのは、小林秀雄が1934年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」において、「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」と書き、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と解釈していたことであった(髙橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』参照)。

注意を払いたいのは、「何百万という人間、ユダヤ人、ポーランド人、ジプシーなどの、みな殺し計画」を実行し、敗戦後にはブラジルに潜んでいたアイヒマンがこの映画が公開されたのと同じ年の5月に逮捕されたことが5月25日に発表され、翌年の1961年には裁判にかけられたことである。

アイヒマン裁判

(アイヒマン裁判、写真は「ウィキペディア」より)

映画『十三階段への道』を見ていた小林秀雄は、この裁判をどのように見ていたのだろうか。ちなみに、1962年8月には、アイヒマンの裁判についても言及されている『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(G・アンデルス、C・イーザリー著、篠原正瑛訳、筑摩書房)が日本でも発行されたが、管見によれば、小林秀雄はこの著書に言及した書評や評論も書いていないように見える。「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)――良心の問題と「アイヒマン裁判」

商品の詳細 (書影は「アマゾン」より)

二、「ヒットラーと悪魔」とその時代

改めて「ヒットラーと悪魔」を読み直して驚いたのは、おそらく不本意ながら敗戦後の文壇事情を考慮して省かざるを得なかったヒトラーの「決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚」や「感傷性の全くない政治の技術」が、ドストエフスキー論にも言及することで政治的な色彩を薄めながらも、『我が闘争』からの抜き書きともいえるような詳しさで紹介されていたことである(太字は引用者)。

最初はそのことに戸惑いを覚えたが、この文章が掲載されたこの当時の政治状況を年表で確認したときその理由が分かった。東条英機内閣で満州政策に深く関わり戦争犯罪にも問われた岸信介は、首相として復権すると1957年5月には国会で「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」と答弁していた。そして、1960年1月19日にはアメリカで新安全保障条約に調印したのである。この条約を承認するために国会が開かれた5月は、まさに激しい「政治の季節」だったのである。

この時期の重要性については黒澤明監督の盟友・本多猪四郎監督が、大ヒットした映画《ゴジラ》に次いで原水爆実験の危険性を描き出した1961年公開の映画《モスラ》で描いているので、本論からは少し離れるが確認しておきたい、(『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』(のべる出版企画、2016年、45頁)。

すなわち、1960年の4月には全学連が警官隊と衝突するという事件がすでに起きていたが、5月19日に衆議院の特別委員会で新条約案が強行採決され、5月20日に衆議院本会議を通過すると一般市民の間にも反対の運動が高まり、国会議事堂の周囲をデモ隊が連日取り囲むようになった。そして6月15日には暴力団と右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出す一方で、国会議事堂正門前では機動隊がデモ隊と衝突してデモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死するという悲劇に至っていた。

一方、このような激しい安保条約反対運動に対抗するかのように、すでに1958年には神武天皇の即位は神話であり史実ではないとして強く批判し、「国が二月十一日を紀元節と決めたら、せっかく考古学者や歴史学者が命がけで積上げてきた日本古代の年代大系はどうなることでしょう。本当に恐ろしいことだと思います」との書簡を寄せ、「これに反発した右翼が三笠宮に面会を強要する事件」も発生していた(上丸洋一『「諸君!」「正論」の研究 保守言論はどう変容してきたか』岩波書店、10頁)。なぜならば、戦前の価値の復活を求める右翼や論客は「紀元節奉祝建国祭大会」などの活動を強めていたのである。

三笠宮は編著『日本のあけぼの 建国と紀元をめぐって』(光文社、1959年)の「序文」で「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた。……過去のことだと安心してはおれない。……紀元節復活論のごときは、その氷山の一角にすぎぬのではあるまいか」と書いていた。

上丸洋一(図版はアマゾンより)

書評『我が闘争』の『全集』への収録の際には省いていたヒトラーの「決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚」や「感傷性の全くない政治の技術」をより詳しく紹介した「ヒットラーと悪魔」は、まさにこのような時期に書かれていたのである。

三、「感傷性の全くない政治の技術」と「強者への服従の必然性」

映画についての感想を記したあとで、20年前に書いた書評の概要を記した小林は、「ヒットラーのような男に関しては、一見彼に親しい革命とか暴力とかいう言葉は、注意して使わないと間違う」とし、「彼は暴力の価値をはっきり認めていた。平和愛好や暴力否定の思想ほど、彼が信用しなかったものはない。ナチの運動が、「突撃隊」という暴力団に掩護されて成功した事は誰も知っている」ことを確認している。

しかし、その箇所で小林はヒトラーの「感傷性の全くない政治の技術」についても以下のように指摘していたが、それは現在の安倍政権の運営方法と極めて似ているのである。

「バリケードを築いて行うような陳腐な革命は、彼が一番侮蔑していたものだ。革命の真意は、非合法を一挙に合法となすにある。それなら、革命などは国家権力を合法的に掌握してから行えば沢山だ。これが、早くから一貫して揺がなかった彼の政治闘争の綱領である。」

そして、「暴力沙汰ほど一般人に印象の強いものはない。暴力団と警察との悶着ほど、政治運動の宣伝として効果的なものはない。ヒットラーの狙いは其処にあった」とした小林は、「だが、彼はその本心を誰にも明かさなかった。「突撃隊」が次第に成長し、軍部との関係に危険を感ずるや、細心な計画により、陰謀者の処刑を口実とし、長年の同志等を一挙に合法的に謀殺し去った」と続けている。

さらに、ヒトラーの人生観を「人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である」とした小林は、「獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者にどうして屈従し味方しない筈があるか」と書いて、ヒトラーの「弱肉強食の理論」を効果的に紹介している。

さらに小林はヒトラーの言葉として「大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう」と書き、「ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキイが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった」と続けている。

この表現はナチズムの危険性を鋭く指摘したフロムが『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社)で指摘していた記述を思い起こさせる。この本がすでに1951年には邦訳されていたことを考慮するならば、小林がこの本を強く意識していた可能性は大きいと思える。

しかしその結論は正反対で、小林秀雄はヒトラーの独裁とナチズムが招いた悲劇にはまったく言及していないのである。

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「ヒットラーと悪魔」をめぐって(3)――PKO日報破棄隠蔽問題と「大きな嘘」をつく才能

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(4)――大衆の軽蔑と「プロパガンダ」の効用

(2017年9月17日、記述の一部を削除して主題を明確化し副題を変更。関連記事のリンク先を追加)

ドストエーフスキイの会、第238回例会(報告者:木下豊房氏)のご案内

お知らせがたいへん遅くなりましたが、第238回例会のご案内を「ニュースレター」(No.139)より転載します。

*   *   *

第238回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                   

 日 時2017年3月25日(土)午後2時~5時         

場 所神宮前穏田区民会館 第3会議室(2F)   ℡:03-3407-1807 

   (会場が変更になりました。下記の案内図をご覧ください

報告者:木下豊房氏 

題 目: 『カラマーゾフの兄弟』における「ヨブ記」の主題 -イワン・カラマーゾフとゾシマ長老の「罪」の概念をめぐって-

 *会員無料・一般参加者=会場費500円

報告者紹介:木下豊房(きのした とよふさ)

1969年、新谷敬三郎、米川哲夫氏らとドストエーフスキイの会を起ちあげ、「発足の言葉」を起草。その後現在まで会の運営に関わる。2002年まで千葉大学教養部・文学部で30年間、ロシア語・ロシア文学を教える。2012年3月まで日本大学芸術学部で非常勤講師。研究テーマ:ドストエフスキーの人間学、創作方法、日本におけるドストエフスキー受容の歴史。著書に『近代日本文学とドストエフスキー』(1993、成文社)、『ドストエフスキー・その対話的世界』(2002.成文社)、『ドストエフスキーの作家像』(2016、鳥影社)その他。ネット「管理人T.Kinoshita」のサイトで「ネット論集」(日本語論文・ロシア語論文)を公開中。

 

第238回例会報告要旨

『カラマーゾフの兄弟』における「ヨブ記」の主題

     -イワン・カラマーゾフとゾシマ長老の「罪」の概念をめぐって-

新約聖書とドストエフスキーとの関係は、最近の芦川進一氏、大木貞幸氏の著書、および、両氏の本会例会での報告などによってクローズアップされ、このところ、私たちのドストエフスキー読解に、大きな刺激をあたえるテーマとなっている。

もっとも「聖書とドストエフスキー」というテーマからいえば、『カラマーゾフの兄弟』にとりわけ因縁深い、旧約聖書の『ヨブ記』を無視することはできないだろう。小説にはゾシマ長老の話として、『ヨブ記』のエッセンスが詳しく紹介されているだけではなく、晩年のドストエフスキーの『ヨブ記』との再会(1875)、そして遥かさかのぼる幼年時代の思い出から、小説執筆の背景に『ヨブ記』の存在があったことが想像されるのである。

ロシアの研究者の間でのこのテーマでの研究は、1997年段階での『ドストエフスキー便覧事典』の記述『ヨブ記』の項によれば、この書の作家への影響の研究は、近年まだ事実の確認にとどまっていて、『カラマーゾフの兄弟』で部分的になされているものの、創作全体にかかわる潜在的影響の解明は今後に待たれるとされている。その後の10年間を見ても、意外にこのテーマの研究は十分に展開されたとはいえないようである。

私がこのテーマに関心を向けたきっかけは、イワンがアリョーシャとの会話で、神の否定、神の創造した世界を否定する根拠に、無辜の子供にまで及ぶ「人々の間での罪の連帯性」をあげているのに妙に引っかかるものを感じたことだった。「罪の連帯性」という用語は、かつて木寺律子さんが、自分の論文の題名にこの用語を掲げていて、あらためて気づかされたのだった。明らかにラテン語由来の「連帯性」という用語が、ロシア文化史上、いつごろからどのようなコンテクストで使われるようになったのか、にまず興味をもった。

この用語はロシアでのユートピア社会主義思想の普及に伴い、とりわけ19世紀60年代末のナロードニキの思想家達、活動家達の間で一般的なものになったらしい。なかでもドストエフスキー本人やイワン・カラマーゾフのまさに同年代人であるナロードニキの思想家ピョートル・ラヴロフ(1823-1900)にとっては、人類の意識における「連帯」はきわめて重要なキーワードだった。

他方、まったく別方向からの「連帯」概念、しかもドストエフスキーに絡む形での情報に接することになった。それはドストエフスキー研究者T.カサートキナの論文からの情報で、『貧しき人々』のエピグラフの引用元であるオドエフスキーの小説『生ける死者』には、架空の小説からのエピグラフが掲げられていて、そこには作中人物達により、「solidartis(連帯)はロシア語ではどう訳したらよいのか?」の問答がなされているのである。

ここでの「連帯」の概念を、カサートキナはゾシマ長老の思想に連なるものとしているが、これはイワンの「連帯性」とは明らかに異質なものである。イワンの論理からすれば、子供に向けられた大人の罪の「連帯性」は「原罪」の論理にほかならない。「罪における連帯性」という用語を、さらに探って行くと、こういうことがわかった。

ロシア正教会において、「原罪」についての聖アウグストの教義に基づくカトリック的解釈が聖書翻訳に付随して持ち込まれた結果、なお自然崇拝の要素を残し、「原罪」については異なる解釈を持つ正教会では、これを非公認の概念としてあつかい、「罪における連帯性」と呼ぶようになったということである。こうして見ると、イワンのいう「人々の間での罪の連帯性」の概念は、明らかに「原罪」についてのカトリックの匂いが濃厚である。

他方、オドエフスキーに発し、ドストエフスキーの念頭にもあったであろう、もう一つの「連帯」概念は、多くの辞書類の解説にも見られない独特の解釈である。むしろ、ロシア人の原初的なメンタリティに由来するものとして、ゾシマ長老の思想に反映された、オプチナ修道院を中心とする「セラフィム系流(清貧派)」の修道僧や長老(アンブローシイやチーホン・ザドンスキイなど)の東方的「自然崇拝」の思想から逆照射して理解できるのではなかろうか。そこにはまたヨブの信仰の本来の姿も浮かび上がってくるように思われる。例会では出来ればこのあたりにまで話を進めたいと思っている。

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神宮前隠田区民会館の案内図

ドストエーフスキイの会会場

地下鉄千代田線か副都心線の明治神宮前駅(1分) あるいはJR山手線原宿駅(5分)。(原宿駅下車、表参道を下って、 明治通り交差点手前右横奥)

ドストエーフスキイの会、第237回例会(報告者:大木貞幸氏)のご案内

ドストエーフスキイの会、第237回例会のご案内を「ニュースレター」(No.138)より転載します。

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第237回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

 日 時2017年1月28日(土)午後2時~5時

 場 所場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)

℡:03-3402-7854

報告者:大木貞幸氏

 題 目: キリストの小説――ドストエフスキー・マルコによるキリスト教批判

 *会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:大木貞幸(おおき さだゆき)

65歳。団体役員。埼玉大学理工学部卒業。40歳位から文芸誌新人賞に文学批評の投稿を続ける。年1作。対象は、大江健三郎、本居宣長、源氏物語、ロラン・バルト、柄谷行人、ドストエフスキーなど。主に表現と方法、日本的なものと西欧的なものの比較論を扱う。定年を機に「カラマーゾフ論」をまとめて、昨年3月に自費出版。同年当会に入会。

 

第237回例会報告要旨

キリストの小説――ドストエフスキー・マルコによるキリスト教批判

『カラマーゾフの兄弟』について書こうと思ったのは、マルコ福音書の、転じて「歴史」を創生するかのような高度な虚構性について考えていた際、作家がこのことの「証人」の一人であると確信したからです。ドストエフスキーが、その遺作の構想に当たって「キリストの小説」という言葉に想到したとき、作家はおそらく福音書に小説でしか達成できない世界を認め、そのモデルに相即し、かつ流動させることによってキリストその人の小説を書きうると考えた。この試みは、正教ロシアに連なることになるのですが、作家の表現はどこまでマルコに切迫し、西欧キリスト教世界に対したかを確かめようとしたものです。報告では、拙論の趣旨と概要をお話しするとともに、前後して上梓された芦川進一氏の『カラマーゾフの兄弟論』にもふれさせていただきます。

拙論は、2007年に執筆した未発表の評論と追加した「論註」から成ります。以下、章立てに沿って、本論と論註を併せた簡単な梗概を示します。

1 もうひとつの「福音書」――「方法」のモデル

「イエス・キリストについての本を書くこと」という覚書の二重の意味、『カラマーゾフ』における主題と方法に関する課題設定です。作家が、モデルとしての福音書に対し、記者たちと同じ位置から「もうひとつの福音書」を書こうとしたという趣旨です。

2 小児虐待の「思想」――常識の「原理」

小説の第5篇第3章と第4章「叛逆」を扱っています。「神」と「世界」と「小児の苦痛」をめぐる、イワンの思考の型の「未熟さ」を批判しています。作者がこれに気づいたこと、このことが主題の大きな転換と「方法」への踏込みになったという趣旨です。

3 「大審問官」のキリスト――「方法」の経験

第5章「大審問官」におけるイワンの劇詩の明白な「失敗」と、これを引き取った、アレクセイの接吻とイワンの歓喜の叫び、これと同時に生起した作者の方法的転換の経験という脈絡です。作者はある「形式」に想到し、初めて福音書の世界に踏込みます。

4 ゲッセマネの「憂愁」――流動するアナロギア

第6章の表題、「いまはまだそれほどはっきりしたものではない(が)」のとおり、父の家の門の前でのイワン=スメルヂャコフの交感と、マルコにおけるイエス=ユダの「分身関係」が、流動しつつ重なり、二つの「作品」が「一つ」になっていきます。

5 ペテロの「躓き」――超越論的アナロギア

第5編最終章の一挿話、「父の家の階段の下り口」でのイワンの奇怪な行動を、倫理の「内面」の点描ととらえます。そこにマルコの「大祭司の官邸の中庭」でのペテロの「躓き」、そしてありうべきペテロの倫理的行為を重ねる作家の「好奇心」を仮説します。

6 ゾシマの「罪」と「革命」――純粋倫理批判

第6篇の、若いゾシマとミハイルの「絶対的関係」が主題です。「ほんものの人殺しは殺さない」、この命題が二度目にゾシマ=イエスを訪れるミハイル=ペテロの倫理的可能性の「実現」として、「躓き」を認容せぬ作家のマルコ批判を成します。作家は純粋倫理を定着し、「一粒の麦」の死から、イエスたりうる「人間たち」の未来を望みます。

7 小説の過去と未来――「論理」の行方

「キリストの小説」の過去と未来、その敗れた論理の行方として小説全体を概観します。第11篇におけるスメルヂャコフの論理的「復活」は、この未完の大作の一つの帰結です。作家は「すべてのことに対して小説に復讐する」かのような作品を成しました。

杉里直人氏の「 『カラマーゾフの兄弟』における「実践的な愛」と「空想の愛」――子供を媒介にして」を聞いて

第233回例会「傍聴記」

長年、『カラマーゾフの兄弟』に取り組んできた芦川進一氏の報告に続いて、今回の報告は6年間かけて『カラマーゾフの兄弟』の翻訳を終えたばかりの杉里氏による報告であった。芦川氏の考察は日本ではあまり重視されてこなかった『聖書』における表現との比較を通して『冬に記す夏の印象』や『罪と罰』などの作品を詳しく読み解いたことを踏まえた重層的なものであった。杉里氏の考察も1992年に発表された「語り手の消滅 -『分身』について」や「「書物性」と「演技」――『地下室の手記』について」(『交錯する言語』掲載)など初期や中期の作品の詳しい考察を踏まえてなされており説得力があった。ここでは当日に渡されたレジュメの流れに沿って感想を交えながらその内容を簡単に紹介する。

最初にアリョーシャが編んだ「ゾシマ長老言行録」に記されたゾシマ長老の「幼子を辱しめる者は嘆かわしい」という言葉には「子供の主題」が明確に提示されており、ドストエフスキー自身の声が響いていることが指摘された。次に主人公たちが「偶然の家族」の「子供」として描かれていることが、「腹の中で自殺するのも辞さない」と語ったスメルジャコフと養父グリゴーリイとの関係だけでなく、カラマーゾフの兄弟それぞれが「辱しめられた子供」であることが、あだ名や父称などの問題をとおして具体的に分析された。

さらに、子供が大好きだというイワンが「反逆」の章で「罪のない子供の苦しみ」に言及しながら、「不条理な涙は何によっても贖われることがない以上」、「神への讃歌《ホサナ》に自分は唱和しない」という決意を語るのは有名だが、それと対置する形で、父親殺しの容疑者として徹夜の取調を受けた後で眠り込んだドミートリーが火事で焼けだされた村落で泣く赤ん坊の夢を見て、「もう二度と童(ジチョー)が泣かずにすむように……中略…あらんかぎりのカラマーゾフ的蛮勇を発揮してどんなことでもやりたい」と思ったことが彼の新生への転回点となり、「徒刑地の鉱山の地底で神を讃えて悲しみに満ちた《讃歌(ギムン)》を歌うと宣言する」ことが描かれているとの指摘は新鮮であった。

そしてこのようなドミートリーの「人はみな、万人の行ったすべてのことに責任がある」という贖罪意識や認識が、イワンとを遠ざけるだけはなく、

ゾシマ長老、彼の夭折した兄マルケルへと近づけるという指摘は『カラマーゾフの兄弟』という長編小説の骨格にも深く関わっていると思える。また、ドミートリーにどこまでも寄り添おうとするグルーシェンカが、みずからも「虐げられた子供」の一人でありながら「一個のタマネギを恵む」女であることや、「苦しむ人へ寄り添う」人であり、「運命を決する人」としてのアリョーシャ像からは『白痴』のムィシキンが連想させられて私には深く納得できるものであった。ただ、会場からはコーリャやイリューシャなどとの関係についての質問も出たが、質疑応答も活発になされて時間が足りないほどであったので、機会があれば次は三世代の少年たちとの関係にも言及した報告をお願いできればと思う。

バルザックの作品とドストエフスキーの翻訳との比較をした「ドストエフスキーの文学的出発──『ウジェニー・グランデ』の翻訳について」(1987年)で研究者としての第一歩を踏み出した杉里氏は、2011年にはバフチンの大著『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』(水声社)の翻訳を出版している。今回の報告からもドストエフスキーの言葉や文体の特徴に注意深く接しながら、地道な翻訳作業を続けてきた杉里氏の誠実な研究姿勢が強く感じられた。杉里訳『カラマーゾフの兄弟』の出版が今から待たれる。

ドストエーフスキイの会、第47回総会と233回例会(報告者:杉里直人氏)のご案内

 「第47回総会と第233回例会のご案内」と「報告要旨」を「ニュースレター」(No.134)より転載します。

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下記の要領で総会と例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                                           

 日 時2016年5月21日(土)午後1時30分~5時         

場 所千駄ヶ谷区民会館第一会議室(JR原宿駅下車7分)℡:03-3402-7854

総会:午後1時30分から40分程度、終わり次第に例会

議題:活動・会計報告、運営体制、活動計画、予算などについて

例会報告者:杉里直人 氏

 題 目:  『カラマーゾフの兄弟』における「実践的な愛」と「空想の愛」――子供を媒介にして

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:杉里直人(すぎさと なおと)

1956年生まれ。早稲田大学、明治大学ほか非常勤講師。2007年以降、マヤコフスキー学院にて『カラマーゾフの兄弟』を講読しており、まもなく読了の予定。最近『カラマーゾフの兄弟』の翻訳を終えた。主要訳書:バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』(水声社)。

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第233回例会報告要旨

 『カラマーゾフの兄弟』における「実践的な愛」と「空想の愛」――子供を媒介にして

アリョーシャが編んだ「ゾシマ長老言行録」(第六編第二章)には、子供についてゾシマ長老が述べた印象深い一節がある――「とくに子供を愛されよ、なぜなら、子供も天使のごとく罪なき者であり、私たちを感動させ、私たちの心を浄化するために生き、私たちにとってある種の啓示のようなものだからである。幼子を辱しめる者は嘆かわしい」

「辱められた子供」は『カラマーゾフの兄弟』のもっとも重要な主題の一つである。そもそもカラマーゾフの三兄弟はみな親に遺棄(ネグレクト)され、成年に達するまでその愛情を知らずに生きてきたし、幼時より下(ホ)種(ド)な(レー)男(ツ)だ、嫌(スメ)な(ルジ)臭い(ャーシ)の(チャ)女(ヤ)から生まれた父なし子だと差別され続けてきた、異母兄弟スメルジャコフにいたっては、「この世に生まれないですむなら、腹の中で自殺するのも辞さない」と慨嘆するほどの黒々とした絶望と怨嗟に苛まれている。

幼児凌辱と言えば、読者の胸にもっとも強烈な印象を刻むのは、「反逆」(第五編第四章)のイワンであろう。子供が大好きだというイワンは、古今東西の幼児虐待事件の記録のコレクターで、トルコ、フランス、ロシアでのその種の残虐な事件を弟に縷々語る。彼が結論として引きだすのは、罪のない子供の苦しみ、彼らが流さなければならない不条理な涙は何によっても贖われることがない以上、神の創った世界と、その終末に到来する一切の罪の赦しと永遠の調和を拒否し、神への讃歌《ホサナ》に自分は唱和しないという決意である。

一方、父親殺しの容疑者として徹夜の取調を受けて疲労困憊したドミートリーは眠りこみ、奇妙な短い夢を見る。火事で焼けだされた村落で一滴の乳も出なくなった痩せた女に抱かれて泣く赤ん坊の夢。それに魂を震撼されたドミートリーは夢の中で誓う――「もう二度と童(ジチョー)が泣かずにすむように…一刻の猶予もなく、万難を排して、あらんかぎりのカラマーゾフ的蛮勇を発揮してどんなことでもやりたい」(第九編第八章)。この夢は彼の回心・新生への転回点となる。裁判の前日、彼は監獄を訪ねたアリョーシャに向かって、自分は親父を殺してはいないが、あの童のために懲役に行く、なぜなら「人はみな、万人の犯した罪に対して責任があるからだ」、そして徒刑地の鉱山の地底で神を讃えて悲しみに満ちた《讃歌(ギムン)》を歌うと宣言する(第十一編第四章)。その彼にどこまでも寄り添おうとするのが、みずからも「虐げられた子供」の一人でありながら、「一個のタマネギを恵む」女グルーシェンカである。

虐げられた子供の涙を前にして、二人の兄弟を分かち、異なる道に向かわしめるのは、ドミートリーにあって、イワンにはない啓示――「人はみな…」という贖罪意識である。この認識はドミー―トリーとイワンとを遠ざけるだけはない。彼をゾシマ長老、彼の夭折した兄マルケルへと近づけることにもなる。

兄と弟はそれぞれ独自の子供への愛を語るが、イワンはもちろん、ドミートリーにしても、ゾシマ長老の語る「空想の愛」にとどまることもいなめない。「人はみな…」だけでは、「実践的な愛」には到達しえない。私見によれば、「人はみな…」は、マルケル、ジノーヴィー(ゾシマの俗名)、そしてジノーヴィーの軍隊時代の従僕アファナーシーを貫く「自分にそんなことをしてもらう値打ちがあるだろうか」という謙譲(スミレ)=(ー)忍従(ニエ)をともなわないかぎり、「実践的な愛」には到達しえないのだ。

では、「実践的な愛」の人アリョーシャは、子供にどのように対しているか。あるいは三世代を扱うこの小説にあって、「少年たち」は具体的にどう描かれているか。今回の報告では「子供」を鍵にして、「実践的な愛」と「空想の愛」の諸相について考えてみたい。

小林秀雄の『カラマーゾフの兄弟』観――坂口安吾と寺田透をとおして

前回の記事で紹介したように、安吾は『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャを、「あそこで初めてドストエフスキイのそれまでの諸作が意味と位置を与えられた。そういうドストエフスキイのレーゾン・デートルに関する唯一の人間をはじめて書いたんですよ」と讃えていました。

それに対して小林秀雄は一応は同意しつつも、「我慢に我慢をした結果、ボッと現れた幻なんですよ」と語り、さらに「アリョーシャをフラ・アンジェリコのエンゼルの如きものである」と書いたウォリンスキイの記述を読んで「僕はハッと思った。あれはそういうものなんだ。彼の悪の観察の果てに現れた善の幻なんだ」と主張しているのです。

一方、「アリョーシャは人間の最高だよ。涙を流したよ。ほんとうの涙というものはあそこにしかないよ。しかしドストエフスキイという奴は、やっぱり裸の人だな。やっぱりアリョーシャを作った人だよ、あの人は……」と絶賛した安吾は、「裸だ。だが自然人ではないのだよ。キリスト信者だ」という小林の反論には、「そうでもないんじゃないかな」と答えていました。

ここにはドストエフスキーがバルザック的なリアリズムの手法で人間と社会を生身で考察し続けてアリョーシャという形象に至ったと考えていた安吾と、イデオロギー的な視点からドストエフスキーを「キリスト信者」と見なしていた小林秀雄との大きな落差があるように感じられるのです。

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小林秀雄のアリョーシャ観と『カラマーゾフの兄弟』観の変貌が明らかになるのは、「ドストエフスキーの特徴が『白痴』に一番よくでているのではないかと思います」との感想を直感で語っていた数学者の岡潔氏と1965年に行われた対談です(『人間の建設』新潮文庫)。

これに対して小林秀雄氏はなぜそう思ったかを尋ねることをせずに、「ドストエフスキーという人には、これも飛び切りの意味で、狡猾なところがあるのです」と決めつけ、「それにしてもドストエフスキーが悪漢だったとはしらなかった」との返事に対しては、「悪人でないとああいうものは書けないですよ」と言葉を連ねて説明していました。

注目したいのは、その後で『白痴』論から話題を転じた小林がドストエフスキーは「もっと積極的な善人をと考えて、最後にアリョーシャというイメージを創(つく)るのですが、あれは未完なのです。あのあとどうなるかわからない。また堕落させるつもりだったらしい」と続けていたことです。

なぜならば、太平洋戦争直前の1941年10月から書き始めた「カラマアゾフの兄弟」(~42年9月、未完)では、「今日、僕等が読む事が出来る『カラマアゾフの兄弟』が、凡そ続編といふ様なものが全く考へられぬ程完璧な作と見えるのは確かと思はれる」と断言していたからです。

リンク→「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観

この意味で興味深いのは、フランス文学者の寺田透が1978年に刊行した『ドストエフスキーを讀む』(筑摩書房)の「結び兼補足」で、『カラマーゾフの兄弟』の結末についてこう書いていることです。少し長くなりますが、バルザックの専門家でもあった寺田透が若い頃に小林秀雄から受容したことの大きさをも物語っていると思えるので、全体を引用しておきます。

「『カラマーゾフの兄弟』の巻末で、少年たちに向つてアリョーシャが小演説をする場面、それに答へる少年たちの「ウラー」と、一生手をとりあつて行かうと叫ぶかれらの言交しを書いたとき、少くともそのとき(といふのは次作があるといふ予告を、それ自体、現『カラマーゾフ』の趣向の一つにすぎないと見る見方も許されるからだが)、これらの少年たちの活躍と、アリョーシャとかれらの再会が描かれる筈の次作の企画は、もう抛棄されてゐたと見るべきではなからうか」。

このように記した寺田は誤解を怖れるかのように、さらに次のように補っているのです。

「それはシェストフが嘲つてゐるやうに書けなかつたから今日存在しないのではない。また今の第一部が完璧だから書く必要がないので存在しないのでもない。

ドストエフスキーは自分で判断して、それを書くことを断念したのだと思ふ。(あるいはもともと書くつもりはなしに、あの次作がありげな序文を書いたのである。)」。

このように記したとき、バルザック研究者の寺田透は時勢を先取りするような形で、「キリスト」や「マルクス」という単語をちりばめて読者受けのする発言を行いながら、時流が変わると自説をも変えた小林秀雄に対する激しい怒りを覚えていたのではないでしょうか。

『文学界』に寄稿した「小林秀雄氏の死去の折に」という記事で寺田透は、「男らしい、言訳けをしないひととする世評とは大分食ひちがふ観察だと自分でも承知してゐるが」と断った上で、次のように記していたのです。

「戦後一つ二つと全集が出、その中に昔読んで震撼を受けた文章が一部削除されて入つてゐるのを見たり、たしかに読んだ筈の警句がどこからも見出されない経験をしたりしてゐるうち、僕はかれを、後世のために自分の姿を作つて行くひとと思ふやうになつた。/作られた自分の姿のうしろから自分は消える、さうしなければならない。自分を抜け殻――かつてはさう呼んだもの――のかげに消してしまふこと」。

坂口安吾の小林秀雄観(3)――『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャをめぐって

少し寄り道をしましたが、いよいよ1948年に行われた『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャをめぐる小林秀雄と坂口安吾の議論を考察することにしますが、この対話を読んで驚いたのは、そこでは安吾が戦前からドストエフスキー論の権威とみられていた小林に対して押し気味に議論を進めているように見えたことです。

ただ、小林秀雄は未完に終わった全八章からなる『カラマアゾフの兄弟』論を、太平洋戦争が始まることになる一九四一年の一〇月号から翌年の九月号にかけて発表していました。対談はこの論稿を踏まえて行われていると思われますので、アリョーシャについての記述を中心にこの『カラマアゾフの兄弟』論をごく簡単に見、その後で戦後の「モーツァルト」から「ゴッホの手紙」を経て「『白痴』についてⅡ」までの流れを時系列的に整理しておくことにします。

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『カラマアゾフの兄弟』論の冒頭で「バルザックもゾラも、フョオドルの様な堕落の堂々たるタイプを描き得なかつた」と指摘した小林は、ゾシマの僧院に集まった家族たちについて紹介しながら、「カラマアゾフ一家は、ロシヤの大地に深く根を下してゐる。その確乎たる感じは、ロシヤを知らぬ僕等の心にも自から伝はる。大芸術の持つ不思議である」と高く評価しています。

そして「長男のドミトリイは、田舎の兵営からやつて来る。次男のイヴァンはモスクヴァの大学から、三男のアリョオシャは僧院から。彼等は長い間父親から離れて成人したのだし、お互に知る処も殆どない」と家族関係を簡明に紹介し、「道具立てはもうすつかり出来上がつてはゐるのだが、何も知らぬ読者は謎めいた雰囲気の中に置かれてゐる。その中で、フョオドルの顔だけが、先ず明らかな照明をうける」とし、「コニャクを傾け、馬鹿気た事を喋り散らすだけで、フョオドルはもうそれだけの事をしてしまふ。ともあれ、其処には、作者の疑ふべくもない技巧の円熟が見られる」と記していました。

本稿の視点から興味深いのは、「この円熟は、『カラマアゾフの兄弟』の他の諸人物の描き方や、物語の構成に広く及んでゐる」と続けた小林が、『白痴』のムィシキンとの類似点にも注意を促しながらアリョーシャについてこう書いていることです。

「『白痴』のなかでは、ムイシュキンといふ、誰とでも胸襟を開いて対する一人物を通じ、謎めいた周囲の諸人物が、次第に己れの姿を現して行くといふ手法が採られてゐたが、この作でもアリョオシャが同じような役目を勤める」が、アリョーシャは世俗の世界と「静まり返つたゾシマの僧院」の「二つの世界に出入して渋滞する処がない」。

さらに、「言ふ迄もなく、イヴァンは、『地下室の手記』が現れて以来、十数年の間、作者に親しい気味の悪い道連れの一人である」とした小林は、「確かに作者は、これらの否定と懐疑との怪物どもを、自分の精神の一番暗い部分から創つた」として、イワンがアリョーシャに語る子供の苦悩についての話や「大審問官」についても、忠実に紹介しています。

こうして『カラマーゾフの兄弟』の構成と登場人物との関わりを詳しく分析した小林は、この評論の第六章ではドミートリーについて、「恐らく彼ほど生き生きと真実な人間の姿は、ドストエフスキイの作品にはこれまで現れた事はなかつたと言つてもいゝだらう。読者は彼の言行を読むといふより、彼と付合い、彼を信ずる。彼の犯行は疑ひなささうだが、やはり彼の無罪が何となく信じられる、読者はさういふ気持にさせられる」と見事な指摘をしていました。

残念ながら、この『カラマーゾフの兄弟』論も未完で終わっているのですが、注目したいのは、小説の全体的な構造や結末での少年たちとアリョーシャとの会話も踏まえて小林秀雄が次のように記していたことです。

「今日、僕等が読む事が出来る『カラマアゾフの兄弟』が、凡そ続編といふ様なものが全く考へられぬ程完璧な作と見えるのは確かと思はれる。彼が嘗て書いたあらゆる大小説と同様、この最後の作も、まさしく行くところまで行つてゐる。完全な形式が、続編を拒絶してゐる」。

この適確な指摘は、現在の通俗的な『カラマーゾフの兄弟』の理解をも凌駕していたように見えます。

*   *   *

こうして、太平洋戦争が始まる1941年の10月から翌年の9月まで「『カラマアゾフの兄弟』」を『文藝』に8回数連載して中断した小林秀雄は、戦況が厳しくなり始めた同年の12月頃から「モーツァルト」の構想を練り始め、敗戦をむかえる頃から執筆を開始して、1947年の7月に『モオツアルト』を創元社から刊行していました。

同じ1947年に「通俗と変貌と」を『書評』1月号に発表した坂口安吾は、『新潮』6月号に発表した「教祖の文学」で、研究者の相馬正一が書いたように、「面と向かって評論界のボス・小林秀雄」を初めて「槍玉に挙げた」のです。

一方、翌年の1948年8月に湯川秀樹との対談「人間の進歩について」(『新潮』)で原子力エネルギーを批判した小林秀雄は、その11月に「『罪と罰』についてⅡ」(『創元』)を、12月に「ゴッホの手紙」(『文體』)発表しています。

そして、1951年1月から発表の場を『藝術新潮』に移して「ゴッホの手紙」を翌年の2月まで連載した小林秀雄は、その年の5月からは「白痴」についてII」を『中央公論』に連載を始めます。このことを考えれば、「作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観」で記したように、「ゴッホの手紙」は「白痴」についてII」の構想とも結びついていたといえるでしょう。

「伝統と反逆」と題された対談で、「僕が小林さんの骨董趣味に対して怒ったのは、それなんだ」といい、さらに「小林さんはモーツァルトは書いただろうけど音楽を知らんよ」と批判した安吾は、ゴッホをやると語ったことについても「しかし小林さんは文学者だからね、文学でやってくれなくちゃ。文学者がゴッホを料理するように、絵に近づこうとせずに」と批判していました。

小林の伝記的研究の問題点を指摘していた寺田透も、「それはそうとゴッホに対してこの小林のやり方はうまく行っただろうか。/世評にそむいて僕は不成功だったと思っている」と書き、「小林流にやったのでは」、「絵をかくものにとって大切な、画家ゴッホを理解する上にも大切な考えは、黙過されざるをえない」と批判するようになるのです。

一方、安吾の批判に対して小林はメソッドを強調しながら次のように反論したのです。

「例えば君が信長が書きたいとか、家康が書きたいとか、そういうのと同じように俺はドストエフスキイが書きたいとか、ゴッホが書きたいとかいうんだよ。だけど、メソッドというものがある。手法は批評的になるが、結局達したい目的は、そこに俺流の肖像画が描ければいい。これが最高の批評だ。作る素材なんか何だってかまわぬ」。

しかし、安吾は追求の手を緩めずに、「小林さんは、弱くなってるんじゃないかな。つくるか、信仰するか、どっちかですよ。小林さんは、中間だ。だから鑑賞だと思うんです。僕は芸術すべてがクリティックだという気魄が、小林さんにはなくなったんじゃないか、という気がするんだよ」と厳しく迫ります。この発言から対談は一気に『カラマーゾフの兄弟』論へと入っていきます。

「まあ、どっちでもよい。それより、信仰するか、創るか、どちらかだ……それが大問題だ。観念論者の問題でも唯物論者の問題でもない。大思想家の大思想問題だ。僕は久しい前からそれを予感しているんだよ、だけどまだ俺の手には合わん。ドストエフスキイの事を考えると、その問題が化け物のように現われる。するとこちらの非力を悟って引きあがる。又出直す。又引きさがる、そんな事をやっている。駄目かも知れん。だがそういう事にかけては、俺は忍耐強い男なんだよ。癇癪を起すのは実生活に於てだけだ」。

この発言からは山城むつみ氏が『小林秀雄とその戦争の時――「ドストエフスキイの文学」の空白』(新潮社、2014年)で言及していた戦時中から敗戦直後までの、ドストエフスキー作品に対する小林の真摯な取り組みが感じられます。

それに対して安吾も「僕がドストエフスキイに一番感心したのは『カラマアゾフの兄弟』だね、最高のものだと思った。アリョーシャなんていう人間を創作するところ……」と応じ、「アリョーシャっている人はね……」と言いかけた小林も、安吾に「素晴らしい」とたたみかけられると、「あれを空想的だとか何とかいうような奴は、作者を知らないのです」と答えていたのです。

ただ、その後の安吾とのやりとりからは、小林秀雄が『カラマーゾフの兄弟』に対する見方を少しずつ変えていくことになる予兆さえも感じられるので、稿を改めて考察することにします。

田中沙季氏の「現代に『カラマーゾフの兄弟』は可能か」を聴いて

第231回例会「傍聴記」

今回は2015年にチェーホフ記念モスクワ芸術座で上演されていた四時間半にわたるボゴモロフ監督の長大な劇『カラマーゾフ』を3回見た田中氏の発表で、配布された資料には「ゾシマの死を伝えるニュース番組」の場面や、舞台の上部だけでなく両脇の壁に設置された「左の眼」と「右の眼」に映った映像を示す小さなスクリ-ンの写真もあり、臨場感のある報告となった。

発表では役者の顔をクローズアップしたり、複数の視線を提供するなど映像技術を利用した舞台が詳しく紹介され、アリョーシャを演じたのが白髪の女優であり、スメルジャコフとゾシマを同一の俳優が演じるなど配役の特徴だけでなく、母親が悲しみを訴える場面でロックバンドの音楽が流れたり、グルーシェンカがカリンカを踊るなどの音楽を取り入れた場面が多いとの指摘もなされた。

さらに、俳優名のリストの一番下に「悪魔 ある」と記される一方で、アリョーシャと少年達との交流や大審問官の話、ゾシマの伝記などが省略されていたことに対しては、日本における『カラマーゾフの兄弟』の受容と比較して興味深いとの感想や「『悪魔』的にドストエフスキーを読む」ことの面白さを強調する意見が出された一方で、果たしてこれがドストエフスキー劇と呼べるのだろうかといった率直な疑問も出された。実は、私も監督の意図がなかなかつかめずに、この劇も大衆受けするようにセンセーショナルに作られているのかもしれないと戸惑いながら聞いていた。

しかし、千葉大学で行われた国際研究集会で「ドストエフスキイの終末論――地獄の克服」(『ドストエーフスキイ広場』第10号参照)という題の講演をした研究者サラスキナが記したこの劇への肯定的なコメントや、配付資料ではあまり詳しく記されていなかった劇の筋が、参加者の質問に対する答えから明らかになるにつれて印象が変わった。

すなわち、監督のボゴモロフが自分の劇の題名からロシア語でも「同胞愛(ブラーツトヴォ)」という単語の語源となっている「兄弟(ブラーチヤ)」という単語を削除して『カラマーゾフ』と名付けていることに注意を促したサラスキナはコメントで、この題名は「『同胞愛』が存在するためには、『兄弟』が必要だというドストエフスキーの言葉に合致している」と記していた。

実際、この劇では最後にアリョーシャがリーザと心中するだけではなく、イヴァンも死にドミートリイも死刑になって、スメルジャコフのみが生き残り、ゾシマ二世ともいうべき役割を果たしていたのである。つまり、登場人物や基本的な筋は原作に拠りながらも、監督は後半の筋を大きく変えることで重たい問題提起をしていたと思える。

会場からはモスクワ芸術座だけでなくタガンカ劇場でも演出した鈴木忠志監督についての指摘もあったが、「宗教と政治との癒着」を批判する劇も上演していたボゴモロフ監督が、プーシキンの『ボリス・ゴドゥノフ』も上演していたことを知って、ロシアの演劇界で一世を風靡したタガンカ劇場のリュビーモフ監督も権力者の「良心の呵責」を描いたこの劇を上演していたことを思い出した。ことに劇『巨匠とマルガリータ』(ブルガーコフ作)でリュビーモフは、悪魔の口をとおして、今あなた方は物質的には多少豊かになったかもしれないが、精神的にはどうかという鋭い問いを発していたのである。

懇親会では劇『カラマーゾフ』には、ドストエフスキーを深く敬愛し、オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』の演出も行っていたタルコフスキー監督の映画《惑星ソラリス》を示唆するような場面があることもわかり、会話が盛り上がった。実際に見ていないので断定はできないが、「卑俗的なものが付加され、聖なるものが排除されている」この劇も、タガンカ劇場などの前衛的なロシア演劇や映画の伝統を踏まえつつ、原作のテーマをしっかりと受け継いでいる可能性があると思われる。タガンカ劇場の熱気が思い出されるような知的刺激に富んだ報告であった。