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杉里直人

杉里直人氏の「 『カラマーゾフの兄弟』における「実践的な愛」と「空想の愛」――子供を媒介にして」を聞いて

第233回例会「傍聴記」

長年、『カラマーゾフの兄弟』に取り組んできた芦川進一氏の報告に続いて、今回の報告は6年間かけて『カラマーゾフの兄弟』の翻訳を終えたばかりの杉里氏による報告であった。芦川氏の考察は日本ではあまり重視されてこなかった『聖書』における表現との比較を通して『冬に記す夏の印象』や『罪と罰』などの作品を詳しく読み解いたことを踏まえた重層的なものであった。杉里氏の考察も1992年に発表された「語り手の消滅 -『分身』について」や「「書物性」と「演技」――『地下室の手記』について」(『交錯する言語』掲載)など初期や中期の作品の詳しい考察を踏まえてなされており説得力があった。ここでは当日に渡されたレジュメの流れに沿って感想を交えながらその内容を簡単に紹介する。

最初にアリョーシャが編んだ「ゾシマ長老言行録」に記されたゾシマ長老の「幼子を辱しめる者は嘆かわしい」という言葉には「子供の主題」が明確に提示されており、ドストエフスキー自身の声が響いていることが指摘された。次に主人公たちが「偶然の家族」の「子供」として描かれていることが、「腹の中で自殺するのも辞さない」と語ったスメルジャコフと養父グリゴーリイとの関係だけでなく、カラマーゾフの兄弟それぞれが「辱しめられた子供」であることが、あだ名や父称などの問題をとおして具体的に分析された。

さらに、子供が大好きだというイワンが「反逆」の章で「罪のない子供の苦しみ」に言及しながら、「不条理な涙は何によっても贖われることがない以上」、「神への讃歌《ホサナ》に自分は唱和しない」という決意を語るのは有名だが、それと対置する形で、父親殺しの容疑者として徹夜の取調を受けた後で眠り込んだドミートリーが火事で焼けだされた村落で泣く赤ん坊の夢を見て、「もう二度と童(ジチョー)が泣かずにすむように……中略…あらんかぎりのカラマーゾフ的蛮勇を発揮してどんなことでもやりたい」と思ったことが彼の新生への転回点となり、「徒刑地の鉱山の地底で神を讃えて悲しみに満ちた《讃歌(ギムン)》を歌うと宣言する」ことが描かれているとの指摘は新鮮であった。

そしてこのようなドミートリーの「人はみな、万人の行ったすべてのことに責任がある」という贖罪意識や認識が、イワンとを遠ざけるだけはなく、

ゾシマ長老、彼の夭折した兄マルケルへと近づけるという指摘は『カラマーゾフの兄弟』という長編小説の骨格にも深く関わっていると思える。また、ドミートリーにどこまでも寄り添おうとするグルーシェンカが、みずからも「虐げられた子供」の一人でありながら「一個のタマネギを恵む」女であることや、「苦しむ人へ寄り添う」人であり、「運命を決する人」としてのアリョーシャ像からは『白痴』のムィシキンが連想させられて私には深く納得できるものであった。ただ、会場からはコーリャやイリューシャなどとの関係についての質問も出たが、質疑応答も活発になされて時間が足りないほどであったので、機会があれば次は三世代の少年たちとの関係にも言及した報告をお願いできればと思う。

バルザックの作品とドストエフスキーの翻訳との比較をした「ドストエフスキーの文学的出発──『ウジェニー・グランデ』の翻訳について」(1987年)で研究者としての第一歩を踏み出した杉里氏は、2011年にはバフチンの大著『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』(水声社)の翻訳を出版している。今回の報告からもドストエフスキーの言葉や文体の特徴に注意深く接しながら、地道な翻訳作業を続けてきた杉里氏の誠実な研究姿勢が強く感じられた。杉里訳『カラマーゾフの兄弟』の出版が今から待たれる。

ドストエーフスキイの会、第47回総会と233回例会(報告者:杉里直人氏)のご案内

 「第47回総会と第233回例会のご案内」と「報告要旨」を「ニュースレター」(No.134)より転載します。

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下記の要領で総会と例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                                           

 日 時2016年5月21日(土)午後1時30分~5時         

場 所千駄ヶ谷区民会館第一会議室(JR原宿駅下車7分)℡:03-3402-7854

総会:午後1時30分から40分程度、終わり次第に例会

議題:活動・会計報告、運営体制、活動計画、予算などについて

例会報告者:杉里直人 氏

 題 目:  『カラマーゾフの兄弟』における「実践的な愛」と「空想の愛」――子供を媒介にして

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:杉里直人(すぎさと なおと)

1956年生まれ。早稲田大学、明治大学ほか非常勤講師。2007年以降、マヤコフスキー学院にて『カラマーゾフの兄弟』を講読しており、まもなく読了の予定。最近『カラマーゾフの兄弟』の翻訳を終えた。主要訳書:バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』(水声社)。

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第233回例会報告要旨

 『カラマーゾフの兄弟』における「実践的な愛」と「空想の愛」――子供を媒介にして

アリョーシャが編んだ「ゾシマ長老言行録」(第六編第二章)には、子供についてゾシマ長老が述べた印象深い一節がある――「とくに子供を愛されよ、なぜなら、子供も天使のごとく罪なき者であり、私たちを感動させ、私たちの心を浄化するために生き、私たちにとってある種の啓示のようなものだからである。幼子を辱しめる者は嘆かわしい」

「辱められた子供」は『カラマーゾフの兄弟』のもっとも重要な主題の一つである。そもそもカラマーゾフの三兄弟はみな親に遺棄(ネグレクト)され、成年に達するまでその愛情を知らずに生きてきたし、幼時より下(ホ)種(ド)な(レー)男(ツ)だ、嫌(スメ)な(ルジ)臭い(ャーシ)の(チャ)女(ヤ)から生まれた父なし子だと差別され続けてきた、異母兄弟スメルジャコフにいたっては、「この世に生まれないですむなら、腹の中で自殺するのも辞さない」と慨嘆するほどの黒々とした絶望と怨嗟に苛まれている。

幼児凌辱と言えば、読者の胸にもっとも強烈な印象を刻むのは、「反逆」(第五編第四章)のイワンであろう。子供が大好きだというイワンは、古今東西の幼児虐待事件の記録のコレクターで、トルコ、フランス、ロシアでのその種の残虐な事件を弟に縷々語る。彼が結論として引きだすのは、罪のない子供の苦しみ、彼らが流さなければならない不条理な涙は何によっても贖われることがない以上、神の創った世界と、その終末に到来する一切の罪の赦しと永遠の調和を拒否し、神への讃歌《ホサナ》に自分は唱和しないという決意である。

一方、父親殺しの容疑者として徹夜の取調を受けて疲労困憊したドミートリーは眠りこみ、奇妙な短い夢を見る。火事で焼けだされた村落で一滴の乳も出なくなった痩せた女に抱かれて泣く赤ん坊の夢。それに魂を震撼されたドミートリーは夢の中で誓う――「もう二度と童(ジチョー)が泣かずにすむように…一刻の猶予もなく、万難を排して、あらんかぎりのカラマーゾフ的蛮勇を発揮してどんなことでもやりたい」(第九編第八章)。この夢は彼の回心・新生への転回点となる。裁判の前日、彼は監獄を訪ねたアリョーシャに向かって、自分は親父を殺してはいないが、あの童のために懲役に行く、なぜなら「人はみな、万人の犯した罪に対して責任があるからだ」、そして徒刑地の鉱山の地底で神を讃えて悲しみに満ちた《讃歌(ギムン)》を歌うと宣言する(第十一編第四章)。その彼にどこまでも寄り添おうとするのが、みずからも「虐げられた子供」の一人でありながら、「一個のタマネギを恵む」女グルーシェンカである。

虐げられた子供の涙を前にして、二人の兄弟を分かち、異なる道に向かわしめるのは、ドミートリーにあって、イワンにはない啓示――「人はみな…」という贖罪意識である。この認識はドミー―トリーとイワンとを遠ざけるだけはない。彼をゾシマ長老、彼の夭折した兄マルケルへと近づけることにもなる。

兄と弟はそれぞれ独自の子供への愛を語るが、イワンはもちろん、ドミートリーにしても、ゾシマ長老の語る「空想の愛」にとどまることもいなめない。「人はみな…」だけでは、「実践的な愛」には到達しえない。私見によれば、「人はみな…」は、マルケル、ジノーヴィー(ゾシマの俗名)、そしてジノーヴィーの軍隊時代の従僕アファナーシーを貫く「自分にそんなことをしてもらう値打ちがあるだろうか」という謙譲(スミレ)=(ー)忍従(ニエ)をともなわないかぎり、「実践的な愛」には到達しえないのだ。

では、「実践的な愛」の人アリョーシャは、子供にどのように対しているか。あるいは三世代を扱うこの小説にあって、「少年たち」は具体的にどう描かれているか。今回の報告では「子供」を鍵にして、「実践的な愛」と「空想の愛」の諸相について考えてみたい。