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「教育勅語」

小林秀雄の『罪と罰』論と島崎藤村の『破戒』

上海事変が勃発した一九三二(昭和七)年六月に書いた評論「現代文学の不安」で、「この絶望した詩人たちの最も傷ましい典型は芥川龍之介であつた。多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書いた文芸評論家の小林秀雄は、その一方でドストエフスキーについては「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記しました〔『小林秀雄全集』〕。

しかし、二・二六事件が起きる二年前の一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林は、ラスコーリニコフの家族とマルメラードフの二つの家族の関係には注意を払わずに主観的に読み解き、「惟ふに超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」との解釈を記したのです。

そして、小林は新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する弁護士ルージンや司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いて「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と結論していました。

このような小林の解釈は、『罪と罰』では「マルメラードフと云う貴族の成れの果ての遺族が」「遂には乞食とまで成り下がる」という筋が、ラスコーリニコフの「良心」をめぐる筋と組み合わされていると指摘していた内田魯庵の『罪と罰』理解からは大きく後退しているように思えます。

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(書影は「アマゾン」より) (島崎藤村、図版は「ウィキペディア」より)

 この意味で注目したいのは、天皇機関説が攻撃されて「立憲主義」が崩壊することになる一九三五年に書いた「私小説論」で、ルソーだけでなくジイドやプルーストなどにも言及しながら「彼等の私小説の主人公などがどの様に己の実生活的意義を疑つてゐるにせよ、作者等の頭には個人と自然や社会との確然たる対決が存したのである」と書いた小林が、『罪と罰』の強い影響が指摘されていた島崎藤村の長編小説『破戒』をこう批判していたことです。

 

「藤村の『破戒』における革命も、秋声の『あらくれ』における爛熟も、主観的にはどのようなものだったにせよ、技法上の革命であり爛熟であったと形容するのが正しいのだ。私小説がいわゆる心境小説に通ずるゆえんもそこにある」。

日本の自然主義作家における「充分に社会化した『私』」の欠如を小林秀雄が指摘していることに注目するならば、長編小説『破戒』を「自然や社会との確然たる対決」を避けた作品であると見なしていたように見えます。

たしかに、長編小説『破戒』は差別されていた主人公の丑松が生徒に謝罪をしてアメリカに去るという形で終わります。しかし、そのように「社会との対決」を避けたように見える悲劇的な結末を描くことで、藤村は差別を助長している校長など権力者の実態を明確に描き出し得ているのです。

そのような長編小説『破戒』の方法は、厳しい検閲を強く意識しながら主人公に道化的な性格を与えることで、笑いと涙をとおして権力者の問題を浮き堀にした『貧しき人々』などドストエフスキーの初期作品の方法をも想起させます。

さらに、小林秀雄は「私小説論」で日本の自然主義文学を批判する一方で、「マルクシズム文学が輸入されるに至って、作家等の日常生活に対する反抗ははじめて決定的なものとなった」と書いていましたが、この記述からは独裁化した「薩長藩閥政府」との厳しい闘いをとおして明治時代に獲得した「立憲主義」の意義が浮かび上がってはこないのです。

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(創刊号の表紙。1893年1月から1898年1月まで発行。図版は「ウィキペディア」より)

これに対して島崎藤村は「自由民権運動」と深く関わり、『国民之友』の山路愛山や徳富蘇峰とも激しい論争を行った『文学界』の精神的なリーダー・北村透谷についてこう記していました。

「彼は私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人の一人だ。そして私達のために、早くもいろいろな支度をして置いて呉れたやうな気がする」。

実は、キリスト教の伝道者でもあった友人の山路愛山を「反動」と決めつけた透谷の評論「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」が『文学界』の第二号に掲載されたのは、「『罪と罰』の殺人罪」が『女学雑誌』に掲載された翌月のことだったのです。

「反動は愛山生を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす。彼は『史論』と名(なづ)くる鉄槌を以て撃砕すべき目的を拡(ひろ)めて、頻(しき)りに純文学の領地を襲はんとす」。

愛山の頼山陽論を「『史論』と名(なづ)くる鉄槌」と名付けた透谷の激しさには驚かされますが、頼山陽の「尊王攘夷思想」を讃えたこの史論に、現代風にいえば戦争を煽る危険なイデオロギーを透谷が見ていたためだと思われます。

なぜならば、「教育勅語」では臣民の忠孝が「国体の精華」とたたえられていることに注意を促した中国史の研究者小島毅氏は、朝廷から水戸藩に降った「攘夷を進めるようにとの密勅」を実行しようとしたのが「天狗党の乱」であり、その頃から「国体」という概念は「尊王攘夷」のイデオロギーとの強い結びつきも持つようになっていたからです。

つまり、北村透谷の評論「『罪と罰』の殺人罪」は「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」と深い内的な関係を有していたのです。

このように見てくる時、「教育勅語」の「忠孝」の理念を賛美する講演を行う一方で自分たちの利益のために、維新で達成されたはずの「四民平等」の理念を裏切り、差別を助長している校長など権力者の実態を明確に描き出していた長編小説『破戒』が、透谷の理念をも受け継いでいることも強く感じられます。

その長編小説『破戒』を弟子の森田草平に宛てた手紙で、「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞していたのが夏目漱石でしたが、小林秀雄は「私小説論」で「鷗外と漱石とは、私小説運動と運命をともにしなかつた。彼等の抜群の教養は、恐らくわが国の自然主義小説の不具を洞察してゐたのである」と書いていました。

夏目漱石や正岡子規が重視した「写生」や「比較」という手法で、「古代復帰を夢みる」幕末の運動や明治における法律制度や自由民権運動にも注意を払いながら、明治の文学者たちによる『罪と罰』の受容を分析することによって、私たちはこの長編小説の現代的な意義にも迫ることができるでしょう。

(2018年4月24日、改訂。5月4日、改題)

高級官僚の「良心」観と小林秀雄の『罪と罰』解釈――佐川前長官の「証人喚問」を見て

 主な引用文献

島崎藤村『破戒』新潮文庫。

『小林秀雄全集』新潮社。    

夏目漱石の明治観と「明治維新」という用語

1月1日の年頭所感で安倍首相は「本年は、明治維新から、150年目の年です」と切り出して「明治維新」の意義を賛美し、それを受けて菅義偉官房長官は「大きな節目で、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは重要だ」と語っていました。

しかし、夏目漱石や司馬遼太郎についての造詣の深い作家の半藤一利氏は、「明治維新150周年、何がめでたい」と題されたインタビュー記事で、そのような安倍政権の官軍的な歴史認識を指摘して、「賊軍は差別を受け、今も原発は賊軍地域に集中している」と批判していました。

→ 半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」 – 東洋経済オンライン

夏目漱石との関連で注目したいのは、夏目漱石や永井荷風が「著作の中で『維新』という言葉は使っていません」と指摘した半藤氏が、「明治初期の詔勅(しょうちょく)や太政官布告(だじょうかんふこく)などを見ても大概は「御一新」で、維新という言葉は用いられて」おらず、「『明治維新』という言葉が使われだしたのは」、政変で肥前(佐賀)の大隈重信らが政権から追い出される前年の明治13年か明治14年からであることを指摘して、次のように続けていることです。

「薩長政府は、自分たちを正当化するためにも、権謀術数と暴力で勝ち取った政権を、『維新』の美名で飾りたかったのではないでしょうか。自分たちのやった革命が間違ったものではなかったとする、薩長政府のプロパガンダの1つだといっていいでしょう。」

この指摘は夏目漱石や正岡子規の文学作品を理解する上でも重要だと思われます。

『世界文学』126

夏目漱石の文学観の深まりについては、「夏目漱石と世界文学」をテーマとした「世界文学会」の2017年度第4回研究会で、〔夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり――「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』へ〕という題で発表を行っていました。(レジュメとユーチューブの動画1,2) 

その後、「明治維新150年」記念事業を積極的に進めている安倍政権の危険性に注意を促すために、〔『それから』と「大逆事件」――「教育勅語」の経典化と「ロシア版『教育勅語』」〕と〔おわりに――漱石と子規の「報道の自由」の考察と「立憲主義」の危機〕を加えた論文〔「夏目漱石と正岡子規の交友と方法としての比較――「教育勅語」の渙発から大逆事件へ〕を『世界文学』(第126号、2017)に寄稿しました。

なぜならば、安倍首相は「明治維新」が「これまでの身分制を廃し、すべての日本人を従来の制度や慣習から」解き放ったと語っていましたが、実態はむしろその反対だったからです。

たとえば、夏目漱石は長編小説『破戒』を高く評価していましたが、島崎藤村はその冒頭で宿泊客が穢多(えた)であるとの噂が広がると他の客が「不浄だ、不浄だ」と罵詈(ばり)雑言を投げかけ、追い出す際には「塩を掴んで庭に蒔散(まきち)らす弥次馬」もあらわれたという場面を描いていました。

明治4年に「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」とされた「解放令」によって名称が「新平民」と変わっても実質的には激しい差別は続いていたのです。。

一方、「明治維新」を賛美した安倍首相の政権下の日本では、韓国や中国の人々に対するヘイトスピーチだけでなく、福島の被爆者や沖縄県民に対しても侮辱的な言動が再び横行するようになっています。

そのことについては、法学部で学んだ元学生を主人公として『罪と罰』との関係で、被差別部落民を主人公とした長編小説『破戒』を考察した拙論「『罪と罰』から『破戒』へ――北村透谷を介して」で詳しく論じました(『ドストエーフスキイ広場』に掲載予定)。

*   *   *

 実は、産経新聞などによって「明治国家」の賛美者とされてきた司馬遼太郎氏もすでに『竜馬がゆく』において、「天誅」の名前でテロを正当化していた幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったと指摘し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と記していたのです。

さらに『坂の上の雲』の終了後に書いたエッセー「竜馬像の変遷」で司馬氏は、「王政復古」が宣言されてから1945年までが約80年であることをふまえて、「明治国家の続いている八十年間、その体制側に立ってものを考えることをしない人間は、乱臣賊子とされた」といて指摘しています。

「人間は法のもとに平等であるとか、その平等は天賦のものであるとか、それが明治の精神であるべきです」と強調した司馬氏は、「結局、明治国家が八十年で滅んでくれたために、戦後社会のわれわれは明治国家の呪縛から解放された」と続けていました(太字は引用者)。

「明治維新」を賛美することで「立憲主義」的な考えを排除した薩長藩閥政府の歴史認識と「憲法」の問題はきわめて重要ですので、文学的な視点からこの問題を考察する著書をなるべく早くに発行したいと思っています。

 

『若き日の詩人たちの肖像』と小林秀雄のドストエフスキー観(1)――『白夜』をめぐって

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

第一章・題辞

「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた。空は一面星に飾られ非常に輝かしかったので、それを見ると、こんな空の下に種々の不機嫌な、片意地な人間が果して生存し得られるものだらうかと、思はず自問せざるをえなかつたほどである。これもしかし、やはり若々しい質問である。親愛なる読者よ、甚だ若々しいものだが、読者の魂へ、神がより一層しばしばこれを御送り下さるやうに……。」(ドストエフスキー、米川正夫訳『白夜』)

*   *   *

堀田善衛の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』」(1968年)は、大学受験のために上京した翌日に2.26事件に遭遇した主人公が「赤紙」によって召集されるまでの日々を、若き詩人たちとの交友をとおして司馬遼太郎が「別国」と呼んだ「昭和初期」の重苦しい日々を克明に描き出している。

注目したいのはその第一部のエピグラフには、「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた。」(米川正夫訳)という言葉で始まるドストエフスキーの『白夜』の文章が置かれていることである(以下、引用は集英社文庫、1977年による)。

しかも、第一部の終わり近くではナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から「なんという乱暴な……。なんという野蛮な……。」という「異様な衝撃」を受けたと記した後で、再び『白夜』の文章を引用した作者は、「若者は、星を見上げて、つい近頃に読んだある小説の書き出しのところを思い出しながら、坂を下りて行った」と書き、さらに「小説は、二十七歳のときのドストエフスキーが書いたものの、その書き出しのところであった」と説明している(上巻、115~117頁)。

フランス2月革命の余波が全ヨーロッパに及んでいた1848年に書かれたこの作品では、拙著 『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)の第4章で詳しく考察したように、プーシキンにおける「ペテルブルグのテーマ」や「夢想家」やなど後期の作品に受け継がれる重要なテーマが描かれているばかりでなく、「農奴解放」のテーマも秘められていた。

こうして、文筆活動をとおして農奴の解放や言論の自由と裁判制度の改革を求めていたドストエフスキーは、小説『白夜』を発表した後でペトラシェフスキー・サークルの友人たちとともに捕らえられて偽りの死刑宣告を受けた後で皇帝の恩赦という形でシベリア流刑になっていた。

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そのことを想起するならば、拙著でも少し触れたように、堀田善衛がクリミア戦争に向かう時期の専制国家・帝政ロシアとナチスドイツやイタリアと三国同盟を結んで無謀な戦争に突入していくこの時期の大日本帝国との類似性を強く意識していたことはたしかだろう。

なぜならば、「お婆さん(引用者註、母親の年の離れた姉)の言うところを信ずるとすれば、明治の二十年代には、何か素晴らしいことがあったように思われる。それこそ“青春”ということばにふさわしいようななにかがあったように思われる。そうして、その青春は短くて夭折(ようせつ)した」と記されている『若き日の詩人たちの肖像』では(下、22)、大阪事件や北村透谷のことにも触れられているからである(10,37)。

それゆえこの自伝的な長編小説を読み返した時に私は、北村透谷など明治の『文学界』の同人たちとの交友を描いた島崎藤村の自伝的な長編小説『春』を連想した。

それは長編小説『春』でも内田魯庵訳の『罪と罰』が取り上げられているばかりでなく、頼山陽の歴史観を賛美した山路愛山の史論「頼襄(のぼる)を論ず」を批判したことで「人生相渉論争」と呼ばれる激しい論争に巻き込まれ、生活苦も重なって自殺した北村透谷の生き方や理念も描かれているためであった。

しかも、拙論「北村透谷と島崎藤村――「教育勅語」の考察と社会観の深まり」(『世界文学』第125号)で考察したように、この論争の背景には「教育勅語」の発布の後で起きた「不敬事件」があった。そのことを考慮するならば、自殺した芥川龍之介に対する小林秀雄の批判の構造が、透谷の自殺後も徳富蘇峰の「民友社」が透谷や『文学界』への批判を続けていたことときわめて似ていることに気付く。

それゆえ、『若き日の詩人たちの肖像』で将来に対する「ぼんやりした不安」を記して自殺した芥川龍之介の遺書についてたびたび言及されているのは、文芸評論家の小林秀雄(1902~83)のドストエフスキー論を強く意識していたためではないかと思われる。

なぜならば、小林秀雄がドストエフスキー作品の本格的な考察への意欲を記したのは、日本が国際連盟から脱退して国際関係において孤立を深めるとともに、国内では京都帝国大学で滝川事件が起きるなど検閲の強化が進む前年の1932(昭和7)年のことだったからである。

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このような時期に発表した評論「現代文学の不安」で、「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」とドストエフスキーについて記した小林は、「この絶望した詩人たちの最も傷ましい典型は芥川龍之介であつた。多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書き、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していた(『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、2014年、17頁)。

そして、『地下室の手記』以降はドストエフスキーが前期の人道的な考えを棄てたと主張したシェストフの考えを受け継いだ小林秀雄は、その後、次々とドストエフスキー論を発表するが、帝政ロシアにおける「憲法」の欠如や検閲などの問題をより明確に示唆していた第一作『貧しき人々』から『白夜』に至る初期作品をほとんど論じていない。

一方、芥川龍之介はドストエフスキーの創作方法の特徴をよく理解していた作家であり、ことに短編「藪の中」(1922)では「一つの事件」を三人のそれぞれの見方をとおして描くことで、客観的に見えた「一つの事件」が全く異なった「事件」に見えることを明らかにして、現代の「歴史認識」の問題にもつながるような「事実」の認識の問題を提起していた。

そして、1922年に書いた小説『将軍』で日露戦争時の突撃の悲惨さだけでなく、父と子の会話をとおして軍人を軍神化することの問題を描いていた芥川龍之介は、治安維持法の発布から2年後の昭和2年に自殺する前には小説『河童』で検閲制度など当時の日本社会を痛烈に風刺していた。

『若き日の詩人たちの肖像』の後半では作家の堀辰雄をモデルとした「成宗の先生」との交友が描かれるようになるが、よく知られているように芥川龍之介との深い交友があった堀辰雄は卒論で「芥川龍之介論」を書き、自伝的な作品『聖家族』(昭和5年)の初版には「私はこの書を芥川龍之介先生の霊前にささげたいと思ふ」という献辞を付けるほど龍之介を深く敬愛していた作家だった。

映画《風立ちぬ》(図版は「アマゾン」より)

堀辰雄の「風立ちぬ」(1936-37年)は宮崎駿監督が映画の題名としたことで再び脚光を浴びたが、注目したいのは、主人公が「成宗の先生」の自宅のそばを通りかかった際に「この家の詩人小説家は肺病で、日本語の小説によくもまあ、と思われるほどにしゃれた、純西洋風な題をつける人であった」とその作風を思い出した後で、再び主人公が暗唱していた『白夜』の冒頭の文章が引用されていることである。

そして、その箇所を「ぶつぶつと口のなかでとなえてみていて、こういう文章こそ若くなければ書けなかったものだったろう、と気付いた」と記した堀田は、「二十七歳のドストエフスキーは、カラマーゾフでもラスコルニコフでもまだまだなかったのだ。けれども、この文章ならば、あるときのムイシュキン公爵の口から出て、それを若者が自分の耳で直接公爵から聞くとしても、そう不思議でも不自然でもないだろう……」と続けていた。

この記述からは、初期と後期のドストエフスキー作品が全く断絶していると解釈していた小林秀雄とは異なり、『白夜』と『白痴』の主人公との連続性を見ていることが分かる。

映画《風立ちぬ》では主人公が、戦闘機「零戦」の設計者・堀越二郎の伝記を踏まえて主人公像が形成されていることが話題となったが、主人公の内面はむしろ堀辰雄の作品世界からの影響によって形づくられていると思われる(『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』のべる出版企画、2016年、147~162頁)。

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しかも、宮崎駿は敬愛する堀田善衛と司馬遼太郎との鼎談(『時代の風音』朝日文庫、1997年)の際に司会をしているが、そこでは芥川龍之介の死が堀辰雄の作品ばかりでなく、堀田の『若き日の詩人たちの肖像』を踏まえて語られている可能性が高いのである。

それゆえ、私は日本の近代文学の専門家ではないが、ドストエフスキー研究者の視点から『若き日の詩人たちの肖像』をより詳しく分析することにしたい。

そのことにより帝政ロシアに先駆けて「憲法」を持った日本が、なぜ昭和初期には「無憲法」の状態に陥って無謀な戦争へと突入し、そして戦後72年経った現在、「立憲主義」を否定する動きが起きているのかにも迫ることができるだろう。

(2017年11月8日、加筆、書影を追加。11月28日、第一章の題辞全文を追加。12月28日、加筆)

夏目漱石の高等師範学校の退職と軍事教練――長編小説『破戒』との関連で

夏目漱石が東京を発って遠く四国松山の尋常中学校に向ったのは、明治28年(1895)4月7日のことでした。

漱石が松山になぜ行ったのかを考察して「東京での挫折感、厭世感、失恋などが考えられる」とし、正岡子規の斡旋説も紹介した中村文雄氏は、さらに「高等師範学校が教師をうるさく束縛する」との理由を伊藤整が挙げていたと指摘しています(『漱石と子規・漱石と修――大逆事件をめぐって』(中村文雄著・和泉書院、2002年)。

漱石の高等師範学校の退職の原因に迫ったこの一文は、拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)で松山中学を舞台にした漱石の『坊っちゃん』にも言及した時から気になっていたのですが、子規を中心としたこの書では深く分析することはできませんでした。

しかし、帝政ロシアの法制度をも鋭く考察したドストエフスキーの『罪と罰』と長編小説『破戒』との関連について調べ始めた時に、再びこの問題が大きく浮かび上がってきました。

なぜならば、島崎藤村はこの長編小説の主人公・瀬川丑松を師範学校の卒業生としたばかりでなく、彼が師と仰ぐ猪子蓮太郎も同じ師範学校で心理学の講師でしたが、被差別部落出身であることが明るみにでたことで師範学校から追放されたと書いていたからです。

このエピソードは「教育勅語」発布の翌年1月に第一高等中学校教員であった内村鑑三が、教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対して敬礼はしたが最敬礼をしなかったために、「国賊」「不敬漢」という「レッテル」を貼られて退職を余儀なくされたといういわゆる不敬事件が起きていたことを強く想起させます。

しかも、『文学界』第2号に発表された頼山陽の歴史観を賛美した山路愛山の史論「頼襄(のぼる)を論ず」を厳しく批判した北村透谷の「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」に端を発した愛山と徳富蘇峰などとの激しい論争と透谷の自殺の背景には、「教育勅語」の問題がありました(拙論「北村透谷と島崎藤村――「教育勅語」の考察と社会観の深まり」『世界文学』第125号参照)。

それらのことを考慮するならば、解放運動の指導者だった猪子廉太郎が暴漢に襲われて亡くなった後では、師の理念を受け継ぐことになることが示唆されている長編小説『破戒』の瀬川丑松の歩みは、透谷死後の藤村の歩みとも重なるように思えます。

それゆえ、ここでは水川隆夫氏の『夏目漱石と戦争』(平凡社新書、2010年)の記述をとおして、漱石の高等師範学校の退職の問題を簡単に整理しておきます。

*   *

太政官布告により徴兵令が発せられたのは、明治6年(1873)1月のことでしたが、明治19年(1886)4月に発布された師範学校令によって設置された師範学校と高等師範学校が設置されると、「師範学校では全寮制をとり、軍隊内務班にならって隊伍を編制し、兵式体操を重視し、生活のすべてをラッパによって規制するなど兵営生活と同じような軍隊式教育を実施」していました。

一方、漱石は第一高等中学校予科を卒業し、英文学専攻を決意して本科第一部に進んだ明治21年(1888)に書いた英作文「討論――軍事教練は肉体錬成の目的に最善か?」で、「私は軍事教練という名前を聞いただけで、虫酸(むしず)が走ります。軍事教練において、われわれは、形こそ人間でも、鈍感な動物か、機械的な道具のごとく遇されるのであります。われわれは、奴隷か犬のように扱われるのであります」と厳しく軍事教練を批判していました。

このことに注意を促した水川隆夫氏は、漱石が高等師範学校講師の時代を振り返った「私の個人主義」(1914年)において次のように語っていたことを指摘しています。

「然し教育者として偉くなり得るやうな資格は私に最初から欠けてゐたのですから、私はどうも窮屈で恐れ入りました。(中略)何(ど)うあっても私には不向(ふむき)な所だとしか思はれませんでした。奥底(おくそこ)のない打ち明けた御話をすると、当時の私はまあ肴(さかな)屋が菓子屋へ手伝ひに行ったやうなものでした。/ 一年の後私はとうとう田舎の中学へ赴任しました。」

この言葉を引用した水川氏は、師範学校ほどには厳しくはないとしても、高等師範学校でも「漱石が『窮屈』と感じるような国家主義的、権威主義的、形式主義的な教育が行われていたものと思われます」と記しているのです。

*   *

福沢諭吉は自由民権運動が高まっていた明治12年に書いた『民情一新』で、学校の生徒を「兵学校の生徒」と見なしたニコライ一世の政治を「未曽有(みぞう)の専制」と断じて厳しく批判していましたが、徳富蘇峰は大正5年に発行した『大正の青年と帝国の前途』で、「必要なるは、学校をして兵営の気分を帯ばしめ、兵営をして学校の情趣を兼ねしむる事也」と記して、軍事教練の必要性を説いていました。

そして、戦後72年を経た日本では大阪の塚本幼稚園で「教育勅語」を暗唱させていたことが国会などで問題となりましたが、来年からは小学校で再来年からは中学校でも「道徳」が「特別の教科」として教えられることになったばかりでなく、自衛隊で行われている実戦的な「銃剣道」が中学の「武道」に入りました。

軍事教練に対する夏目漱石の厳しい批判や長編小説『破戒』の校長批判は、「特定秘密保護法」や「戦争法」が次々と強行採決されるなど「立憲主義」を軽視して軍拡に向かっている安倍政権の問題点をも明確に示していると思えます。

例会発表「『罪と罰』の受容と法制度と教育制度の考察――長編小説『破戒』を中心に」を終えて

昨日、千駄ヶ谷区民会館で行われた第241回例会には、嵐の前触れとも言うべき雨も降り出すなか多くの方にご参加頂き、下記の順で発表しました。

 はじめに――『罪と罰』の受容と「憲法」の危機

Ⅰ.ドストエフスキーの青春と明治初期の「自由民権運動」

Ⅱ.正岡子規の小説『曼珠沙華』と島崎藤村の長編小説『破戒』

Ⅲ.長編小説『破戒』の構造と人物体系

Ⅳ.「教育勅語」発布後の教育制度と長編小説『破戒』

Ⅴ.『罪と罰』から長編小説『破戒』へ――北村透谷を介して

*   *   *

 発表後の質疑応答では、〔ドストエフスキーの青春と明治初期の「自由民権運動」〕や〔正岡子規の小説『曼珠沙華』と島崎藤村の長編小説『破戒』〕については、好意的なご感想や発表で引用した木村毅氏についての貴重な示唆が木下代表からありました。

正岡子規から島崎藤村への流れを考える際には、夏目漱石との関わりも考察することが必要ですが時間的な都合で今回は省きました。ただ、この問題についいては、「夏目漱石と世界文学」をテーマとした「世界文学会」の本年度の第4回研究会で、〔夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり――「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』へ〕と題して発表した動画がユーチューブにアップされていますので、下記のリンク先をご覧下さい。

http://youtu.be/nhIPCAoGNsE (1)

http://youtu.be/_1KBH3Lx0Fc (2)

また、『罪と罰』の問題と長編小説『破戒』における「戒め」の問題についての本質的な問いかけもあり議論が進むかと思われたのですが、時間的な都合で議論が深まらなかったのは残念でした。

ただ、二次会の席では馬方よりも低い身分とされていた牛方仲間が「不正な問屋を相手に」立ち上がって勝利した江戸末期の牛方事件や、新政府が掲げた「旧来ノ弊習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基ヅクベシ」という一節を信じていた主人公の青山半蔵が、維新後にかえって村人が貧しくなっていくことに深く傷つき、ついには発狂するまでが描かれている『夜明け前』にも話しが及んで議論が盛り上がりました。

古代を理想視した復古神道の問題については「世田谷文学館・友の会」の今年の講座で〔夜明け前』から『竜馬がゆく』へ――透谷と子規をとおして〕と題して発表していましたので、来年出版予定の拙著『「罪と罰」と「憲法」の危機――北村透谷と島崎藤村から小林秀雄へ』(仮題)にも載せるようにしたいと考えています。

なお、参加者の方から質問と発言があった小林秀雄のドストエフスキー論の問題点は、太平洋戦争勃発のほぼ1年前の1940年9月12日に発表されたヒトラーの『我が闘争』の書評と『全集』に再掲された際の改竄、そして日米安保条約が改定された1960年に『文藝春秋』に掲載され、後に『考えるヒント』に収められた「ヒットラーと悪魔」にあると私は考えています。

日本が日独伊三国同盟を結んで太平洋戦争に向かうようになる司馬遼太郎が「昭和初期の別国」と呼んだ時期とロシア史で「暗黒の30年」と呼ばれるニコライ一世の時代との類似性についてはすでに何度か書きましたが、ヒトラー内閣が成立した翌年の1934年に発表されたのが、『罪と罰』論と『白痴』論だったのです。

また、「治安維持法」が出た後で自殺した芥川龍之介の『河童』や2.26事件以降の日本をナチスの宣伝相ゲッベルスの演説とドストエフスキーの『白夜』を比較しながら生々しく描いた堀田善衛の長編小説『若き日の詩人たちの肖像』については、拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)の終章で考察していました。

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その際には単に示唆しただけに留めていましたが、厳しい言論弾圧のもとに「右傾化」していくアリョーシャのモデルには、「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と見なした『英雄と祭典』と題された『罪と罰』論を真珠湾攻撃の翌年に出版した堀場正夫も入っていると思えます。

そのような読者に小林秀雄の『罪と罰』論は強い影響を与えただけでなく、太平洋戦争が始まる前年の8月に行われた鼎談「英雄を語る」(『文學界』)では、「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」という作家の林房雄の問い対して、「大丈夫さ」と答えていました。しかも、そこで「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ」と無責任な説明をしていた小林秀雄は、戦争が終わった後では、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」と語り、「それについては今は何の後悔もしていない」と述べていたのです。

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戦争が近づいているように見える現在も小林秀雄論者が活気づいてくるように見えますが、それは太平洋戦争時のように無謀な戦争を煽りたてることであり、原発が稼働している日本ではいっそう悲惨な結果を招くことになると思えます。

質疑応答のなかで言及した国民文化研究会・新潮社編『小林秀雄講義 学生との対話』(新潮社、2014)における「殺すこと」などの問題とドストエフスキー論との関連については近いうちに改めて分析したいと考えています。

ただ、小林秀雄の書評『我が闘争』や「ヒットラーと悪魔」などについては知らなかった方も少なくなかったので、とりあえず本稿関連論文のあとに「小林秀雄のヒトラー観」と題した記事のリンク先をアップしておきます。

本稿関連論文

「司馬遼太郎のドストエフスキー観――満州の幻影とペテルブルクの幻影」(『ドストエーフスキイ広場』第12号、2003年参照)

「『文明の衝突』とドストエフスキー --ポベドノースツェフとの関わりを中心に」(『ドストエーフスキイ広場』第17号、2008年)

 リンク先

小林秀雄のヒトラー観(1)――書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」をめぐって

小林秀雄のヒトラー観(2)――「ヒットラーと悪魔」とアイヒマン裁判をめぐって

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(3)――PKO日報破棄隠蔽問題と「大きな嘘」をつく才能

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(4)――大衆の軽蔑と「プロパガンダ」の効用

(2017年9月19日、加筆改訂。2017年11月4日、改題)

『罪と罰』の受容と「憲法」の危機

              「ドストエーフスキイの会」第241回例会

『罪と罰』の受容と法制度と教育制度の考察――長編小説『破戒』を中心に

はじめに――『罪と罰』の受容と「憲法」の危機

慶応から明治に改元された1868年の4月に旧幕臣の子として生まれた内田魯庵(本名貢〔みつぎ〕、別号不知庵〔ふちあん〕)が、法学部の元学生を主人公とした長編小説『罪と罰』の英訳を読んで、「恰も広野に落雷に会って目眩き耳聾ひたるがごとき、今までに会って覚えない甚深な感動を与えられた」のは、「大日本帝国憲法」が発布された1889(明治22)年のことであった。

 『「罪と罰」をどう読むか〈ドストエフスキー読書会〉』(水声社、2016年)で紹介されているように、小林秀雄は「日本国憲法」の発布から1年後の1948年11月に発表した「『罪と罰』についてⅡ」で、魯庵のこの文章を引用して「読んだ人には皆覚えがある筈だ。いかにもこの作のもたらす感動は強い」と書いた。

この年の8月に湯川秀樹と対談「人間の進歩について」を行って原子力エネルギーの危険性を指摘していた小林秀雄のこの『罪と罰』論は、残虐な戦争と平和についての真摯な考察が反映されており、異様な迫力を持っている。

しかし、小林は「残念な事には誰も真面目に読み返そうとしないのである」と続けていたが、この長編小説ばかりでなくドストエフスキーの思想にも肉薄していた評論に北村透谷の「『罪と罰』の殺人罪」がある。明治元年に佐幕の旧小田原藩の士族の長男として生まれて苦学した北村透谷は、「憲法」が発布された年の10月に大隈重信に爆弾を投げた後に自害した来島や明治24年5月にロシア皇太子ニコライに斬りつけた津田巡査などに言及しながら、「来島某、津田某、等のいかに憐れむべき最後を為したるやを知るものは、『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥(しりぞ)くるやうの事なかるべし」と記していた。

題名が示しているようにこの評論にもドストエフスキーが長編小説で問題とした法律と罪の問題に真正面から迫ろうとする迫力がある。ただ、ここでは「大日本帝国憲法」が発布される朝に文部大臣の森有礼を襲った国粋主義者・西野文太郎についてはなぜかまったくふれられていないが、それは透谷がこの事件を軽く考えていたからではなく、むしろ検閲を強く意識してあえて省かねばならなかったほど大きな事件だったためと思われる。

翌月の『文学界』第2号に掲載された透谷の評論「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」は、その理由の一端を物語っているだろう。ここで透谷は頼山陽の歴史観を賛美した山路愛山の史論「頼襄(のぼる)を論ず」を次のような言葉で厳しく批判していた。

「反動は愛山生を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす。彼は『史論』と名くる鉄槌を以て撃砕すべき目的を拡めて、頻(しき)りに純文学の領地を襲はんとす」(『北村透谷・山路愛山集』)。

愛山を「反動」と決めつけた文章の激しさには驚かされるが、それはキリスト教の伝道者でもあった友人の愛山がこの史論で「彼に因りて日本人は祖国の歴史を知れり」と書いて、頼山陽の「尊王攘夷思想」を讃えていたためだと思われる(277頁)。

愛山の史論が徳富蘇峰の雑誌に掲載されていたために、透谷の批判に対しては愛山だけでなく蘇峰も反論して、『国民之友』と明治の『文学界』をも巻き込んで「人生相渉論争」と呼ばれる論争が勃発した。

この論争については島崎藤村が明治時代の雑誌『文学界』の同人たちとの交友とともに、生活や論争の疲れが重なって自殺するに至る北村透谷の思索と苦悩を自伝的長編小説『春』で詳しく描いている。

ただ、そこでも注意深く直接的な言及は避けられているが、拙論〔北村透谷と島崎藤村――「教育勅語」の考察と社会観の深まり〕(『世界文学』No.125)で考察したように、この時期の透谷を苛立たせ苦しめていたのは、「教育勅語」の発布により、「大日本帝国憲法」の「立憲主義」の根幹が危うくなり始めていた当時の政治状況だったと思える。

すなわち、森有礼の暗殺後に総理大臣となった山県有朋は、かつての部下の芳川顕正を文部大臣に起用して、「親孝行や友達を大切にする」などの普遍的な道徳ばかりでなく、「天壌無窮」という『日本書紀』に記された用語を用いて、「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と説いた「教育勅語」を「憲法」が施行される前月の1890(明治23)年10月30日に発布させていたのである。

しかも、後年「軍人勅諭ノコトガ頭ニアル故ニ教育ニモ同様ノモノヲ得ンコトヲ望メリ」と山県有朋は回想しているが、「教育勅語」も「軍人勅諭」を入れる箱と同一の「黒塗御紋付箱」に入れられ、さらに「教育勅語」の末尾に記された天皇の署名にたいして職員生徒全員が順番に最敬礼をするという「身体的な強要」をも含んだ儀礼を伴うことが閣議で決定された。

すると約3ヶ月後の1月には第一高等中学校で行われた教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対してキリスト教の信者でもあった教員の内村鑑三が最敬礼をしなかったために、「不敬漢」という「レッテル」を貼られて退職を余儀なくされるという事件が起きた。

比較文明学者の山本新が指摘しているように、この「不敬事件」によって「国粋主義」が台頭することになり、ことに1935年の「天皇機関説事件」の後では「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっていることは」、「日本の国体の精華であって、万国に類例が無いのである」と強調されるようになる。この時期になると「教育勅語」の解釈はロシア思想史の研究者の高野雅之が、「ロシア版『教育勅語』」と呼んだ、「正教・専制・国民性」の「三位一体」を強調した1833年の「ウヴァーロフの通達」と酷似してくるといえよう。

一方、島崎藤村は北村透谷よりも4歳若いこともあり、内田魯庵訳の『罪と罰』についての書評や、『文学界』と『国民之友』などの間で繰り広げられた「人生相渉論争」には加わっていないが、長編小説『春』では「一週間ばかり実家へ行っていた夫人」から何をしていたのか尋ねられた青木駿一(北村透谷)に、「『俺は考えていたサ』と」答えさせ、さらにこう続けさせていた。

「『内田さんが訳した「罪と罰」の中にもあるよ』、銭とりにも出かけないで、一体何を為(し)ている、と下宿屋の婢(おんな)に聞かれた時、考えることを為ている、とあの主人公が言うところが有る。ああいうことを既に言つてる人が有るかと思うと驚くよ。考える事をしている……丁度俺のはあれなんだね』」(『春』二十三)。

日露戦争の直後に島崎藤村が自費出版した長編小説『破戒』については、高い評価とともに当初から『罪と罰』との類似が指摘されていたが(平野謙『島崎藤村』岩波現代文庫、31頁)、そのことは長編小説『破戒』の意義を減じるものではないだろう。

たとえば、井桁貞義氏は論文「『レ・ミゼラブル』『罪と罰』『破戒』」で、「『罪と罰』では『レ・ミゼラブル』とほぼ同一の人物システムを使いながら、当時のロシアが突き当たっていた社会的な問題点と、さらに精神的な問題を摘出している」と指摘するとともに、『罪と罰』と『破戒』の間にも同じような関係を見ている。

つまり、五千万人以上の死者を出した第二次世界大戦の終戦から間もない1951年に公開された映画《白痴》で、激戦地・沖縄で戦犯として死刑の宣告を受け、銃殺寸前に刑が取りやめになった「復員兵」を主人公としつつも、長編小説『白痴』の登場人物や筋を生かして、研究者や本場ロシアの監督たちから長編小説『白痴』の理念をよく伝えていると非常に高く評価された。『破戒』はそれと同じようなことを1906年に行っていたといえるだろう。

さらに、この長編小説『破戒』では明治維新に際して四民平等が唱えられて、明治4年には「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」とされた「解放令」が出されていたにもかかわらず実質的には続いていた差別の問題が描かれていることはよく知られている。

しかし、藤村はここで北村透谷の理念を受け継ぐかのように、「教育勅語」と同じ明治23年10月に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた小学校教育の問題を、「郡視学の命令を上官の命令」と考えて、「軍隊風に児童を薫陶(くんたう)したい」と望んでいた校長と主人公・瀬川丑松との対立をとおして鋭く描きだしていた。

後に藤村が透谷を「彼は私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人の一人だ。そして私達のために、早くもいろいろな支度をして置いて呉れたやうな気がする」ときわめて高く評価していることを考えるならば、藤村が北村透谷が当時、直面していた問題を考察し続けていたことは確実だろう。

しかも、透谷が自殺した明治27年の5月から翌年の6月にかけては、帝政ロシアで農奴解放令が出された1861年1月から7月まで雑誌『時代』に連載された長編小説『虐げられた人々』の内田魯庵による訳が『損辱』という題名で『国民之友』に連載されていた。さらに、1904(明治37)年の4月には、『貧しき人々』のワルワーラの手記の部分が、「貧しき少女」という題名で瀬沼夏葉の訳により『文芸倶楽部』に掲載されていた。

福沢諭吉は自由民権運動が高まっていた1879(明治12)年に書いた『民情一新』で、ドストエフスキーが青春を過ごした西欧の「良書」や「雑誌新聞紙」を見るのを禁じただけでなく、学校の生徒を「兵学校の生徒」と見なしたニコライ一世の政治を「未曽有(みぞう)の専制」と断じていたが、「教育勅語」発布後の日本の教育制度などは急速に帝政ロシアの制度に似てきていた。

そのことを考慮するならば、島崎藤村が『破戒』を書く際に、「暗黒の30年」と呼ばれる時期に書かれた『貧しき人々』や、法律や裁判制度の改革も行われた「大改革」の時期に連載された『虐げられた人々』を視野に入れていたことは充分に考えられる。

さらに、俳人の正岡子規は当時、編集を任されていた新聞『小日本』に、日清戦争の直前に自殺した北村透谷の追悼文を掲載していたが、島崎藤村は日清戦争後の明治31年に正岡子規と会って新聞『日本』への入社についての相談をしていた。

ISBN978-4-903174-33-4_xl

その新聞『日本』に日露戦争の最中に『復活』の訳を掲載した内田魯庵は、「強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」との説明を載せていた。このような魯庵の記述には功利主義を主張した悪徳弁護士ルージンとの激しい論争が描かれていた『罪と罰』の理解が反映していると思われる。

一方、弟子の森田草平に宛てた手紙で長編小説『破戒』(明治39)を「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞した夏目漱石は、同じ年にやはり学校の教員を主人公とした『坊つちゃん』を書き、長編小説『春』(明治41年)の「最後の五六行は名文に候」と高浜虚子に書いた後で連載を始めた長編小説『三四郎』では自分と同世代の広田先生の深い考察を描き出していた。

それゆえ、今回の発表では「憲法」と「教育勅語」が発布された当時の時代状況や人間関係にも注意を払うとともに、北村透谷だけでなく正岡子規や夏目漱石の作品も視野に入れることで、「非凡人の思想」の危険性を明らかにした『罪と罰』と「差別思想」の問題点を示した『破戒』との深い関係を明らかにしたい。

そのことにより「改憲」だけでなく、「教育勅語」の復活さえも議論されるようになった現在の日本における『罪と罰』の意義に迫ることができるだろう。私自身は日本の近代文学の専門家ではないので、忌憚のないご批判や率直なご感想を頂ければ幸いである。

(2017年10月5日、改題と改訂)

ドストエーフスキイの会、第241回例会(報告者:高橋誠一郎)のご案内

ドストエーフスキイの会、第241回例会のご案内を「ニュースレター」(No.142)より転載します。

*   *   *

第241回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                       

日 時2017年9月16日(土)午後2時~5時           

場 所千駄ヶ谷区民会館1階奥の和室(JR原宿駅下車7分)                       ℡:03-3402-7854

報告者:高橋誠一郎 氏

 題 目: 『罪と罰』の受容と法制度と教育制度の考察――長編小説『破戒』を中心に

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:高橋誠一郎(たかはし せいいちろう)

東海大学教授を経て、現在は桜美林大学非常勤講師。世界文学会、日本比較文学会、日本ロシア文学会などの会員。研究テーマ:日露の近代化と文学作品の比較。主な著書に『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』、『黒澤明で「白痴」を読み解く』、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(以上、成文社)、『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)など。

 

第241回例会報告要旨

『罪と罰』の受容と法制度と教育制度の考察――長編小説『破戒』を中心に

内田魯庵が法学部の元学生を主人公とした長編小説『罪と罰』の英訳を購入したのは、大日本帝国憲法が発布されて言論や結社の自由や信書の秘密などの権利が条件付きではあるが保障され、司法権も独立した明治22年のことであった。

憲法のない帝政ロシアの首都サンクト・ペテルブルクを舞台にしたこの長編小説に読みふけった魯庵は、「何うかして自分の異常な感嘆を一般の人に分ちたい」と思いたち、日本で初めて『罪と罰』の前半部分を訳出して2回に分けて刊行し、売れ行きが思わしくなかったために完訳はできなかったものの反響は大きく多くの書評が書かれた。

たとえば、自由民権運動にも参加していた北村透谷は明治24年1月に著した「『罪と罰』の殺人罪」において、「学問はあり分別ある脳髄の中に、学問なく分別なきものすら企つることを躊躇(ためら)うべきほどの悪事をたくらましめたるかを現はすは、蓋(けだ)しこの書の主眼なり」と指摘し、大隈重信に爆弾を投げた来島やロシア皇太子ニコライに斬りつけた津田巡査などに言及しながら、「来島某、津田某、等のいかに憐れむべき最後を為したるやを知るものは、『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥(しりぞ)くるやうの事なかるべし」と記して、『罪と罰』の深い理解を示していた。

ただ、この記述には憲法発布式典の朝に文部大臣・森有礼を襲って刺殺するという大事件を起こした国粋主義者の西野文太郎の名前が挙げられていないが、その理由はその後の流れを見れば推測できるだろう。すなわち、この事件の翌年に「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」と記された「教育勅語」が渙発されると、それから3ヶ月後には教育勅語奉読式においてキリスト者であった第一高等中学校の教員・内村鑑三が天皇親筆の署名に対して最敬礼をしなかったことを咎められて退職を余儀なくされるという「不敬事件」がおきたが、それは「立憲政治」を覆した昭和10年の「天皇機関説事件」の遠因ともなっていたのである。

一方、長編小説『破戒』(明治39)は人物体系や筋が『罪と罰』からの強い影響を受けていることが多くの批評家や研究者から指摘されているが、島崎藤村はそこで「教育勅語」と同時に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた教育現場の状況を「忠孝」の理念を強調した校長の演説などをとおして詳しく描き出していた。

このような『破戒』の構造はロシアの「教育勅語」とも呼ばれる「ウヴァーロフの通達」が出された「暗黒の30年」の時代に、ドストエフスキーが『貧しき人々』において寄宿学校における教師による「体罰」や友達からの「いじめ」の問題にも言及していたことを思い起こさせるが、明治37年4月には『貧しき人々』のワルワーラの「手記」が瀬沼夏葉によって訳出されていたのである。

さらに、当時のロシアの裁判制度の問題にも踏み込んでいた『虐げられた人々』の訳を明治27年から翌年にかけて『国民之友』に連載していた内田魯庵は、日露戦争の最中に『復活』の訳を新聞『日本』に掲載して「強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」との説明を載せていた。このような魯庵の記述には功利主義を主張した悪徳弁護士ルージンとの激しい論争が描かれていた『罪と罰』の理解が反映していると思われる。

発表では『文学界』同人たちとの交友や北村透谷の『罪と罰』観が描かれている島崎藤村の長編小説『春』(明治41)だけでなく、『破戒』を「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞した夏目漱石の『坊つちゃん』(明治39)や『三四郎』(明治41)などをも視野に入れることで、「非凡人の思想」の危険性を明らかにした『罪と罰』と「差別思想」の問題点を示した『破戒』との深い関係を明らかにしたい。

*   *   *

例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり――「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』へ(レジュメ)

序に代えて

夏目漱石生誕150年によせて「夏目漱石と世界文学」をテーマとした「世界文学会」の2017年度第4回研究会が7月22日に行われました。

ホームページに掲げたレジュメとは副題と内容が少し異なりますが、発表では慶応3年に生まれた漱石と子規との交友だけでなく、明治の『文学界』の北村透谷と島崎藤村の交友や『国民之友』の社主・徳富蘇峰の関係をも視野に入れることで、「明治憲法」の発布と「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』への流れを分析しました。

それにより「共謀罪」が強行採決された現在の日本における夏目漱石の作品の意義により肉薄できたのではないかと考えています。

なお、今回の発表は、拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)の記述を踏まえて、「教育勅語」の問題と文学者との関わりを考察した論文(文末の引用・参考文献)など加えて考察したものです。

 ISBN978-4-903174-33-4_xl(←画像をクリックで拡大できます)
 その後、初めての試みとしてユーチューブに動画がアップされましたが、慣れないために声もかすれて少し聞きにくい発表になっていましたので、レジュメ資料の1を見ながらお聞き頂ければ幸いです。

 http://youtu.be/nhIPCAoGNsE (1)

http://youtu.be/_1KBH3Lx0Fc (2)

 

資料1、講座の流れと主な引用箇所

はじめに――漱石と子規の青春と「教育勅語」の影

Ⅰ.子規の退寮事件と「教育勅語」論争

Ⅱ.陸羯南の新聞『日本』の理念と新聞『小日本』

Ⅲ.従軍記者・子規の戦争観と日露戦争中に書かれた『吾輩は猫である』

Ⅳ.漱石の『草枕』と子規の紀行文「かけはしの記」――長編小説『三四郎』へ

おわりに 「教育勅語」問題の現代性

主な引用・参考文献

夏目漱石と正岡子規の交友と方法としての比較・関連年表

 

はじめに――漱石と子規の青春と「教育勅語」の影

a.「子規は果物(くだもの)が大変好(す)きだった。且(か)ついくらでも食(く)える男だった。」(『三四郎』第1章)

「我死にし後は」(前書き)、「柿喰ヒの俳句好みと伝ふべし」(子規、明治30年)

b.「憲法発布は明治二十二年だったね。その時森文部大臣が殺(ころ)された。君は覚えていまい。幾年(いくつ)かな君は。そう、それじゃ、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等学校の生徒であった。大臣の葬式に参列するのだと云って、大勢鉄砲を担(かつ)いで出た。墓地へ行くのだと思ったら、そうではない。体操の教師が竹橋内(たけばしうち)へ引っ張って行って、路傍(みちばた)へ整列さした。我々は其処(そこ)へ立ったなり、大臣の柩(ひつぎ)を送ることになった。」(『三四郎』第11章)

c.「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」(「教育勅語」)

 Ⅰ.子規の退寮事件と「教育勅語」論争

a.「私は卯の年の生れですから、まんざら卯の花に縁がないでもないと思ひまして『卯の花をめがけてきたか時鳥(ほととぎす)』『卯の花の散るまで鳴くか子規(ほととぎす)』などとやらかしました。又子規といふ名も此時から始まりました。」(子規「啼血始末」)

b.「(佃にとっては)大学に文科があるというのも不満であったろうし、日本帝国の伸長のためにはなんの役にも立たぬものと断じたかったにちがいない。…中略…この思想は佃だけではなく、日本の帝国時代がおわるまでの軍人、官僚の潜在的偏見となり、ときに露骨に顕在するにいたる」(『坂の上の雲』第2巻「日清戦争」)。

c.「『義勇公に奉すべし』とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議」(大町桂月、与謝野晶子「君死にたまふこと勿(なか)れ」の批判)

d.『教育勅語』は「国体教育主義を経典化した」もの。

「正直に云えば、我が青年及び少年に歓迎せらるる書籍、及び雑誌等は、半ば以上は病的文学也、不完全なる文学也」(徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』)

Ⅱ.陸羯南の新聞『日本』の理念と新聞『小日本』

a.「秘密秘密何でも秘密、殊には『外交秘密』とやらが当局無二の好物なり、…中略… 斯かる手段こそ当局の尊崇する文明の本国欧米にては専制的野蛮政策とは申すなれ」新聞『小日本』)

b.「北村透谷子逝く 文学界記者として当今の超然的詩人として明治青年文壇の一方に異彩を放ちし透谷北村門太郎氏去る十五日払暁に乗し遂に羽化して穢土の人界を脱すと惜(をし)いかな氏年未だ三十に上(のぼ)らずあたら人世過半の春秋を草頭の露に残して空しく未来の志を棺の内に収め了(おは)んぬる事嗟々(あゝ)エマルソンは実に氏が此世のかたみなりけり、芝山の雨暗うして杜鵑(ほとゝとぎす)血に叫ぶの際氏が幽魂何処(いづこ)にか迷はん」新聞『小日本』)。

c.「愚なるかな、今日に於て旧組織の遺物なる忠君愛国などの岐路に迷ふ学者、請ふ刮目(くわつもく)して百年の後を見ん」(北村透谷「明治文学管見(日本文学史骨)」)

d.「(松陰の)尊王敵愾(てきがい)の志気は特に頼襄(らいのぼる)の国民的詠詩、及び『日本外史』より鼓吹し来たれるもの多し」(徳富蘇峰『吉田松陰』)

e.「青木(モデルは北村透谷)君が生きていたら、今頃は何を為(し)てるだろう」/「何を為てるだろう。新聞でもやってやしないか――しきりに新聞をやって見たいッて、そう言ってたからネ」(島崎藤村『春』)

Ⅲ.従軍記者・子規の戦争観と日露戦争中に書かれた『吾輩は猫である』

a.「若し夫の某将校の言ふ所『新聞記者は泥棒と思へ』『新聞記者は兵卒同様なり』等の語をして其胸臆より出でたりとせんか。是れ冷遇に止まらずして侮辱なり」(子規「従軍記事」)

「一国政府の腐敗は常に軍人干政のことより起こる」(陸羯南「武臣干政論」)

b.「三崎の山を打ち越えて/いくさの跡をとめくれば、此処も彼処も紫に/菫花咲く野のされこうべ」(子規「髑髏」)。

c.「(景樹が)大和歌の心を知らんとならば大和魂の尊き事を知れ、などと愚にもつかぬ事をぬかす事、彼が歌を知らぬ証拠なり」(子規「歌話」)

万の外国其声音の溷濁不清なるものは其性情の溷濁不正なるより出れば也」(香川景樹『古今和歌集正義総論』)

d.「世の中に比較といふ程明瞭なることもなく愉快なることもなし…中略…織田 豊臣 徳川の三傑を時鳥(ほととぎす)の句にて比較したるが如き 面白くてしかも其性質を現はすこと一人一人についていふよりも余程明瞭也」。「併シ斯く比較するといふことは総(すべて)の人又は物を悉(ことごと)く腹に入れての後にあらざれば出来ぬこと故 才子にあらざれば成し難き仕事なり」(子規「筆まかせ」)。

e.「大和魂(やまとだましい)! と叫んで日本人が肺病みの様な咳をした。/(中略)/大和魂! と新聞屋が云ふ。大和魂! と掏摸(すり)が云ふ。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸(ドイツ)で大和魂の芝居をする/東郷大将が大和魂を有(も)つて居る。肴屋の銀さんも大和魂を有つて居る。詐欺師(さぎし)、山師(やまし)、人殺しも大和魂を有つて居る。/(中略)/誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇(あ)つた者がない。大和魂はそれ天狗の類か」(漱石『吾輩は猫である』第6章)。

f.「どうかしてイワンの様な大馬鹿に逢つて見たいと存候。/出来るならば一日でもなつて見たいと存候。近年感ずる事有之イワンが大変頼母しく相成候」(夏目漱石、内田魯庵『イワンの馬鹿』訳の礼状)

g.「社会の暗黒裡に潜める罪悪を解剖すると同時に不完全なる社会組織、強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」(内田魯庵『復活』について)

 Ⅳ.漱石の『草枕』と子規の紀行文「かけはしの記」――長編小説『三四郎』へ

a.「やがて、長閑(のどか)な馬子唄(まごうた)が、春に更(ふ)けた空山(くうざ ん)一路の夢を破る。憐(あわ)れの底に気楽な響きがこもって、どう考えても画にかいた声だ。/ 馬子唄の鈴鹿(すずか)越ゆるや春の雨/ と、今度は斜(はす)に書き付けたが、書いて見て、これは自分の句でないと気が付いた。」(漱石『草枕』)

「馬子唄の鈴鹿(すずか)上るや春の雨」(子規、明治25年)

b.小説で「白いひげをむしゃむしゃと生やした老人」として描かれているのは熊本実学党の名士・前田案山子(かかし)で、彼が明治11年に建てた別邸には中江兆民が訪れてルソーの講義をしたり、女性民権家の岸田俊子が来て演説をおこなっていた(安住恭子『「草枕」の那美と辛亥革命』)白水社、2012年)。

c.「一体戦争は何のためにするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない」

d.「亡びるね」という男の言葉を聞いた三四郎は最初「熊本でこんなことを口に出せば、すぐ擲(な)ぐられる。わるくすると国賊取扱にされる」と感じた。しかし、「囚(とら)われちゃ駄目だ。いくら日本のためを思っても贔屓(ひいき)の引倒しになるばかりだ」という男の言葉を聞いたときに、「真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った」と記されている(『三四郎』)。

e.「反動は愛山生を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす」(北村透谷「人生に相渉るとは何の謂ぞ」)。

おわりに 「教育勅語」問題の現代性

a.「教育勅語」の「始まりと終わりの部分で天皇と臣民の間の紐帯、その神的な由来、 また臣民の側の神聖な義務について」述べられているという構造を持っている(島薗進『国家神道と日本人』岩波新書)。

b.「日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也。君国の為めには、我が 生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也」(徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』)

 

主な引用・参考文献

高橋誠一郎『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年。
――『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』成文社、2007年。
――『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002年 。
――「北村透谷と島崎藤村――「教育勅語」の考察と社会観の深まり」『世界文学』 第125号、2017年。
――「作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観」『世界文学』第122号、2015年。
――「司馬遼太郎の徳冨蘆花と蘇峰観――『坂の上の雲』と日露戦争をめぐって」『COMPARATIO』九州大学・比較文化研究会、第8号、2004年。
 『漱石全集』全15巻、岩波書店、1965~67年(振り仮名は一部省略した)。
小森陽一『世紀末の予言者・夏目漱石』講談社、1999年。
木下豊房『ドストエフスキー その対話的世界』成文社、2002年。
大木昭男『漱石と「露西亜の小説」』東洋書店、2010年。
井桁貞義『ドストエフスキイ 言葉の生命』群像社、2011年。
安住恭子『「草枕」の那美と辛亥革命』白水社、2012年。
清水孝純『漱石『夢十夜』探索 闇に浮かぶ道標』翰林書房、2015年。
中村文雄『漱石と子規 漱石と修――大逆事件をめぐって』和泉書院、2002年。
『子規と漱石』(『子規選集』第9巻)、増進会出版社、2002年。
『子規全集』全22巻、別巻3巻、監修・正岡忠三郎・司馬遼太郎・大岡昇平他、講談社、1975~79年。
坪内稔典『正岡子規 言葉と生きる』岩波新書、2010年。
末延芳晴『正岡子規、従軍す』平凡社、2010年。
成澤榮壽『加藤拓川――伊藤博文を激怒させた硬骨の外交官』高文研、2012年。
『現代日本文學大系6 北村透谷・山路愛山集』筑摩書房、1969年。
槇林滉二「透谷と人生相渉論争――反動との戦い」、桶谷秀昭・平岡敏夫・佐藤泰正編『透谷と近代日本』翰林書房、1994年。
徳富蘇峰『吉田松陰』岩波文庫、1981年 司馬遼太郎『本郷界隈』(『街道をゆく』第37巻)朝日文芸文庫、1969年。
有山輝雄『陸羯南』吉川弘文館、2007年。
島崎藤村『春』、『破戒』、新潮文庫。
相馬正一『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』人文書館、2006年。
木村毅「日本翻訳史概観」『明治翻訳文學集』筑摩書房、1972年。

夏目漱石と正岡子規の交友と方法としての比較・関連年表

明治憲法、「ウィキペディア」

(憲法発布略図、楊洲周延画、出典は「ウィキペディア」クリックで拡大できます)

1889(明治22)1月、夏目金之助(漱石)、落語を介して正岡常規(子規)と交遊を始める。2月11日、大日本帝国憲法発布陸羯南の新聞『日本』が発刊。当日の朝、国粋主義者に脇腹を刺された文部大臣森有礼が翌日死亡。5月、子規『七草集』脱稿。5月9日、夜喀血、時鳥の句を作り「子規」と号す。漱石、『七草集』を漢文で批評し七言絶句九編を添えて「漱石」の号を用いる。9月に房総の紀行漢詩文『木屑録』(ぼくせつろく)を書き子規に批評を求める。

1890(明治23) 2月1日、徳富蘇峰の『国民新聞』が創刊(総合雑誌『国民之友』は1887年2月~1898年8月)。漱石・子規、9月、東京帝国大学文科大学に入学。10月、「教育勅語」渙発

教育勅語

(図版は「ウィキペディア」より、クリックで拡大できます)

1891(明治24) 1月、「教育勅語」に対する「不敬事件」。子規、2月、 国文科に転科。5月、皇太子ニコライが大津で襲撃される。6月、木曽路を経て松山へ帰省。試験放棄。寄宿舎追放事件後、12月に駒込追分町へ転居。小説「月の都」の執筆に着手。冬、「俳句分類丙号」に着手。12月、漱石、『方丈記』を英訳する。

1892(明治25) 漱石、5月、東京専門学校(現在の早稲田大学)講師に就任。子規、「かけはしの記」を5月から、6月からは「獺祭書屋俳話」を『日本』に連載。7月 帰省、漱石も松山を旅行。12月、子規が日本新聞社入社。【3月、徳富蘇峰が本郷教会会堂で「吉田松陰」を講演し、『国民之友』に10回連載(5月~9月)。5月、北村透谷、評論「トルストイ伯」、11月、内田魯庵訳『罪と罰』(巻之一)】。

1893(明治26) 子規、2月、俳句欄を『日本』に設ける。7月19日~8月20日 東北旅行。俳諧宗匠を歴訪する。11月「芭蕉雑談」、「はてしらずの記」を『日本』に連載。【1月、北村透谷、評論「『罪と罰』の殺人罪」。『文学界』創刊(~1898年1月)。2月、透谷、雑誌『文学界』の第2号に「人生に相渉るとは何の謂ぞ」を発表し、雑誌『国民之友』に発表された山路愛山の史論「頼襄を論ず」を厳しく批判。内田魯庵訳『罪と罰』(巻之二)。4月、井上哲次郎『教育ト宗教ノ衝突』発行。5月、透谷「井上博士と基督教徒」(雑誌『平和』)。12月、蘇峰『吉田松陰』発行。】

1894(明治27) 子規、2月、羯南宅東隣へ転居。2月11日『小日本』創刊、編集責任者となり、小説「月の都」を創刊号より3月1日まで連載。

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(図版は大空社のHPより、『小日本』全2巻・別巻、大空社、1994年〉

5月、北村透谷の追悼文が『小日本』に掲載される。内田魯庵の「損辱」(『虐げられた人々』)の訳が『国民之友』に連載される(5月~1895年6月)、7月、『小日本』廃刊により『日本』に戻る。日清戦争(7月29日~1895年4月)

1895(明治28) 漱石、横浜の英語新聞「ジャパン・メール」の記者を志願したが、不採用に終わる。4月、高等師範学校を退職し、愛媛県尋常中学校(松山中学)教諭に就任。子規、4月10日、宇品出港、近衛連隊つき記者として金州・旅順をまわる。金州で従弟・藤野潔(古白)のピストル自殺を知る。5月4日、金州で森鴎外を訪問。17日、帰国途上船中で喀血。23日、県立神戸病院に入院、7月23日、須磨保養院へ移る。8月20日、退院。8月27日、松山中学教員夏目金之助の下宿「愚陀仏庵」に移る。10月、帰京、「俳諧大要」を『日本』に連載。

1896(明治29)1月3日、子規庵で句会。鴎外・漱石が同席。「従軍記事」の連載。3月、カリエスの手術を受ける。4月、「松蘿玉液」(~12月)。漱石、4月、熊本県の第五高等学校講師となる。

1897(明治30)島崎藤村が正岡子規と会って新聞『日本』への入社についての相談。

1898(明治31) 子規、2月、「歌よみに与ふる書」を連載(~3月)。10月、発行所を東京に移し、『ホトトギス』第一号発刊。

1899(明治32) 子規、1月 『俳諧大要』刊。漱石、4月、エッセー「英国の文人と新聞雑誌」(『ホトトギス』)。10月、「飯待つ間」(『ホトトギス』)。

猫の写生(「猫の写生画」、図版は青空文庫より)

1900(明治33)子規、8月、大量喀血。8月26日、漱石、寺田寅彦と来訪。9月、第1回「山会」(写生文の会)を開催。漱石、9月、イギリスに留学。

1901(明治34) 1月、「墨汁一滴」を『日本』に連載開始(~7月)、5月、漱石の「倫敦消息」が『ホトトギス』に掲載される。9月、「仰臥漫録」を書き始める。11月6日、子規が漱石宛書簡に「僕ハモーダメニナツテシマツタ」と書く。

1902(明治35) 1月、日英同盟締結。5月、「病牀六尺」を『日本』に連載開始(~9月)。9月18日、絶筆糸瓜三句を詠み、翌日死亡。12月、漱石、帰国の途につく。

1903(明治36) 漱石、4月、第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。藤村操、投身自殺。幸徳秋水たちが『平民新聞』創刊。

1904(明治37) 木下尚江、「火の柱」を東京毎日新聞に連載(1月~3月)、日露戦争(2月8日~1905年9月5日)。4月、瀬沼夏葉「貧しき少女」(『貧しき人々』のワルワーラの手記の訳、『文芸倶楽部』)。8月、トルストイの「悔い改めよ」と題する非戦論が『平民新聞』に掲載される。

1905(明治38) 漱石、1月、『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を発表(翌年8月まで断続連載。4月、内田魯庵訳の『復活』が新聞『日本』に掲載(~12月)。9月5日、ポーツマス条約の条件に不満をもつ群衆が国民新聞社を襲撃、10月、単行本『吾輩は猫である』上編。

1906(明治39)  1月、漱石が内田魯庵に『イワンの馬鹿』贈呈の礼状、「趣味の遺伝」(日露戦争時の突撃への厳しい批判の記述)。3月、島崎藤村『破戒』。4月、「坊つちやん」(『ホトトギス』)。5月、『漾虚集』。9月、「草枕」。10月、「二百十日」。11月、『吾輩は猫である』中編(子規の手紙を掲載)。

1907(明治40) 漱石、1月、「野分」を『ホトトギス』に発表。4月、朝日新聞社に入社。5月、『文学論』、『吾輩は猫である』下編。6月、「虞美人草」を朝日新聞に連載(~10月)。

1908(明治41) 漱石、1月「坑夫」(~4月)。4月、島崎藤村、「春」(~8月まで「東京朝日新聞」に連載)、7月、8月、「夢十夜」。9月「三四郎」(~12月)。10月、蘇峰、改訂版『吉田松陰』。

1909(明治42) 漱石『永日小品』(1月~3月)。3月『文学評論』(春陽堂)。『それから』(6月~10月)。10月、伊藤博文、ハルビンで暗殺される。『満韓ところどころ』(~12月)。11月25日「朝日文芸欄」を創設。

1910(明治43) 漱石『門』(3月~6月)。4月、雑誌『白樺』創刊。5月、大逆事件。6月~7月、胃潰瘍で入院。8月22日、日韓合併条約調印。8月24日、修善寺温泉での「大患」。11月、トルストイ死去。

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(セミョーノフスキー練兵場における死刑の場面、ポクロフスキー画。図版はロシア版「ウィキペディア」より)

1914年(大正3年)  第一次世界大戦(~1918)。

1915年(大正4年)  芥川龍之介「羅生門」、漱石の木曜会に参加する。

1916年(大正5年)  12月、夏目漱石没。徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』

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本年表は夏目漱石生誕150年によせて「夏目漱石と世界文学」をテーマとして7月22日に行われた「世界文学会」の第4回研究会での配布資料に加筆したものである。

例会発表の際には正岡子規や夏目漱石と池辺三山との関係や『それから』と「大逆事件」との関係には時間の都合で言及できなかったが、発表を踏まえて書いた論文〔夏目漱石と正岡子規の交友と方法としての比較――「教育勅語」の渙発から大逆事件へ〕では言及した。

夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり――「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』へ(レジュメ 

ユーチューブの動画

http://youtu.be/nhIPCAoGNsE (1)

http://youtu.be/_1KBH3Lx0Fc (2)

(2017年8月10日、記事を差し替えて図版を追加。9月8日、加筆)

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(3)――PKO日報破棄隠蔽問題と「大きな嘘」をつく才能

1,PKO日報破棄隠蔽問題と稲田防衛相

稲田防衛相、フジテレビ(写真はフジテレビ系の映像より)

7月19日に新聞各紙はPKO日報問題について「二月に行われた防衛省最高幹部による緊急会議で、保管の事実を非公表とするとの方針を幹部から伝えられ」、稲田防衛相が「了承していた」ことが明らかになったと報道した(「東京新聞」を参照)。

これに対して稲田氏は21日に開いた記者会見で、自分は「一貫して公表すべきだとの姿勢だった」と繰り返し、非公表や隠蔽の指示は「私の姿勢とは真逆で相いれない」と強調した。

「省幹部が嘘をついているのか」と厳しく追及された稲田氏は「嘘をついたとは言っていない」と語ったが、陸上自衛隊幹部が漏らしたように「防衛相の関与まで報道された以上、監察の結果が出るだけでは騒動は収まらないだろう」(「日本経済新聞」デジタル版を参照)。しかも、umekichi氏はツイッターで先ほど次のように指摘している。

〔前にもツイートしたけど、見てる限りきちんと報道していない。PKO日報破棄隠蔽について。稲田防衛大臣「私の指示により、探させ日報を見つけた」 平気でをつく。探させたのは河野太郎議員率いる「行政改革推進本部」だからね。 手柄欲しさに姑息な事をやる。〕(7月23日)。

また、生命倫理の研究者・澤田愛子氏も「今安倍内閣で生じていること。どんな不正を働いても、重大な証拠があっても、見え透いた嘘で否定し続ければスルーしていくという事。明らかに嘘と分かる弁明でも強弁し続ければそれで通っていくとしたら恐ろしい前例になる。今後不祥事で辞任などする閣僚はいなくなるということだ。恐ろしすぎる」とツイートしている(7月21日)。

このブログでは「復古」的な価値観を賛美する稲田朋美防衛相の憲法観と「教育勅語」観や戦争観の危険性をいくつかの論考で指摘してきたので、次節で小林秀雄がヒトラーの「平和」観をどのように描いていたかを分析する前に、以下にリンク先を再掲しておく。

稲田朋美・防衛相と作家・百田尚樹氏の憲法観――「森友学園」問題をとおして(増補版)

稲田朋美・防衛相の教育観と戦争観――『古事記と日本国の世界的使命』を読む(増補改訂版) 

2,「ヒットラーと悪魔」における「大きな嘘」をつく才能の賛美

戦史・紛争史研究家の山崎雅弘氏は、安倍政権の閣僚や取り巻きの嘘について7月21日のツイッターでこう記している。〔「安倍首相やその取り巻きは、なぜあんなに平気でウソばかりつくんでしょう」とよく聞かれるが、私の認識は「主観が肥大した世界に生きている」からというもの。不都合な事実を主観で操作しているだけで、ウソをついているという罪悪感はたぶん無い。〕

鋭い分析で彼らには「ウソをついているという罪悪感はたぶん無い」との指摘は正鵠を射ていると思うが、彼らは「不都合な事実を主観で操作している」だけではなく、むしろ小林秀雄のように「大きな嘘」をつくことを「政治の技術」と捉えている可能性が大きいと思える。

「ヒットラーの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた」と書いた小林は、こう続けていたのである。

「彼(引用者註――ヒトラー)は世界観を美辞と言わずに、大きな嘘と呼ぶ。大衆はみんな嘘つきだ。が、小さな嘘しかつけないから、お互いに小さな嘘には警戒心が強いだけだ。大きな嘘となれば、これは別問題だ。彼等には恥かしくて、とてもつく勇気のないような大嘘を、彼等が真に受けるのは、極く自然な道理である。大政治家の狙いは其処にある。」

問題は小林秀雄が、この随筆を書いた翌年の1961年から「国民文化研究会」の主宰者で、「日本を守る会」や「日本会議」などで代表委員を務め、「日青協」のメンバーから「先生」と深く尊敬されるようになる小田村寅二郎から「全国学生青年合宿所」と銘打たれた研修会に招かれて、1978年までに5回もの講演と学生との対話を行っていたことである(国民文化研究会・新潮社編『小林秀雄 学生との対話』新潮社、2014年)。

しかも、「信ずることと考えること」と題して行われた1974年の講演会の後の学生との対話で、小林は「歴史は流行って」いるが「大衆小説的歴史観」とともに「考古学的歴史観もよくない」として、次のように語っていた。「たとえば、本当は神武天皇なんていなかった、あれは嘘だとういう歴史観。それが何ですか、嘘だっていいじゃないか。嘘だというのは、今の人の歴史だ」(太字は引用者、127頁)。

三笠宮は1958年に神武天皇の即位は神話であり史実ではないとして強く批判し、「国が二月十一日を紀元節と決めたら、せっかく考古学者や歴史学者が命がけで積上げてきた日本古代の年代大系はどうなることでしょう。本当に恐ろしいことだと思います」と書いていた(上丸洋一『「諸君!」「正論」の研究 保守言論はどう変容してきたか』岩波書店、10頁)。

そのことを思い起こすならば、「嘘だっていいじゃないか」という小林の言葉は、神武天皇の即位は神話であり史実ではないとした考古学者や歴史学者の見解を真っ向から否定するものだったと言えるだろう。

しかも、すでにみたように小林秀雄はヒトラーの政治手法について、「バリケードを築いて行うような陳腐な革命は、彼が一番侮蔑していたものだ。革命の真意は、非合法を一挙に合法となすにある。それなら革命などは国家権力を合法的に掌握してから行えば沢山だ。これが、早くから一貫して揺るがなかった彼の政治闘争の綱領である」と書いていた(『考えるヒント』文春文庫、新装版、111頁)。

そして、『神社新報』編集長の西田廣義も「日青協」の機関誌『祖国と青年』(1976年7月)で、「例えばヒトラーですが、政権奪取の運動をしている時は、現憲法擁護だと言って、運動を展開していた。そして政権をとった後、憲法を変えたり、体制変革したりした」と小林秀雄と同じように語っていた(『ドキュメント 日本会議』58頁)。

こうして、ヒトラーの「大きな嘘」を「感傷性の全くない政治の技術」と賛美していた小林秀雄の考えは、「日青協」のメンバーだけでなく、憲法改正論に関してナチス政権の「手口」を学んだらどうかと発言した麻生副総理や1994年に『ヒトラー選挙戦略 現代選挙必勝のバイブル』に推薦文を寄せていた高市早苗・総務相だけでなく、稲田防衛相にも強い影響を与えていたように思える。

ヒトラーの思想と安倍政権――稲田朋美氏の戦争観をめぐって

大きな問題は日本におけるヒトラー的な手法の賛美が政治家に留ってはいないことにある。7月12日の午後に生放送された情報番組「ごごナマ」には実業家の堀江貴文氏がナチスの独裁者ヒトラーに似た人物が描かれたTシャツを着用して出演した。

このことを批判された本人は、「ヒトラーがピースマークでNO WAR叫んでるTシャツ何回も着てたけど初めて炎上してる。どっからどう見ても平和を祈念しているメッセージTシャツにしか見えない」と書き、「シャレわかんねー奴多い」とツイッターで反論したばかりでなく、「No Warの文字が入っていた」ので問題はないとする応援のツイッターもあることに驚かされた。

なぜならば、小林秀雄が「ヒットラーと悪魔」で明確に指摘していたように、ヒトラーは「自分の望むものは正義と平和だ」と声明だけでなく演説でも絶叫したが、彼は「戦争を覚悟して首相になった」のであり、「外交も文字通り芝居だった」のである(117~118頁)。

堀江氏の記述は彼の歴史認識の浅さを物語っているだけで反論にもなりえていない。番組の司会をしたアナウンサーは「不快な思いを抱かれた方にはおわび申し上げます」と謝罪したとのことが、すでにツイッターなどで指摘されているように、堀江氏のような歴史観を持つ人物をゲストに招いたNHKだけでなく、大阪万博誘致担当の特別顧問に任命した大阪府の見識は厳しく批判されるべきだろう。

だが、それ以上に「大きな嘘」をつくことを「政治の技術」と捉えてそれができるものを「大政治家」と記していた「評論の神様」小林秀雄の歴史観や文学観は、より厳しく批判されるべきだと思える。