高橋誠一郎 公式ホームページ

「教育勅語」

『罪と罰』の受容と法制度と教育制度の考察(2)――例会発表を終えて

昨日、千駄ヶ谷区民会館で行われた第241回例会には、嵐の前触れとも言うべき雨も降り出すなか多くの方にご参加頂き、先にアップしていた「発表の流れ」にさらに手を入れて下記の順で発表しました。

 はじめに――『罪と罰』の受容と「憲法」の危機

Ⅰ.ドストエフスキーの青春と明治初期の「自由民権運動」

Ⅱ.正岡子規の小説『曼珠沙華』と島崎藤村の長編小説『破戒』

Ⅲ.長編小説『破戒』の構造と人物体系

Ⅳ.「教育勅語」発布後の教育制度と長編小説『破戒』

Ⅴ.『罪と罰』から長編小説『破戒』へ――北村透谷を介して

*   *   *

 発表後の質疑応答では、〔ドストエフスキーの青春と明治初期の「自由民権運動」〕や〔正岡子規の小説『曼珠沙華』と島崎藤村の長編小説『破戒』〕については、好意的なご感想や発表で引用した木村毅氏についての貴重な示唆が木下代表からありました。

正岡子規から島崎藤村への流れを考える際には、夏目漱石との関わりも考察することが必要ですが時間的な都合で今回は省きました。ただ、この問題についいては、「夏目漱石と世界文学」をテーマとした「世界文学会」の本年度の第4回研究会で、〔夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり――「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』へ〕と題して発表した動画がユーチューブにアップされていますので、下記のリンク先をご覧下さい。

http://youtu.be/nhIPCAoGNsE (1)

http://youtu.be/_1KBH3Lx0Fc (2)

また、『罪と罰』の問題と長編小説『破戒』における「戒め」の問題についての本質的な問いかけもあり議論が進むかと思われたのですが、時間的な都合で議論が深まらなかったのは残念でした。

ただ、二次会の席では馬方よりも低い身分とされていた牛方仲間が「不正な問屋を相手に」立ち上がって勝利した江戸末期の牛方事件や、新政府が掲げた「旧来ノ弊習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基ヅクベシ」という一節を信じていた主人公の青山半蔵が、維新後にかえって村人が貧しくなっていくことに深く傷つき、ついには発狂するまでが描かれている『夜明け前』にも話しが及んで議論が盛り上がりました。

古代を理想視した復古神道の問題については「世田谷文学館・友の会」の今年の講座で〔『夜明け前』から『竜馬がゆく』へ――透谷と子規をとおして〕と題して発表していましたので、来年出版予定の拙著『「罪と罰」と「憲法」の危機――北村透谷と島崎藤村から小林秀雄へ』(仮題)にも載せるようにしたいと考えています。

なお、参加者の方から質問と発言があった小林秀雄のドストエフスキー論の問題点は、太平洋戦争勃発のほぼ1年前の1940年9月12日に発表されたヒトラーの『我が闘争』の書評と『全集』に再掲された際の改竄、そして日米安保条約が改定された1960年に『文藝春秋』に掲載され、後に『考えるヒント』に収められた「ヒットラーと悪魔」にあると私は考えています。

日本が日独伊三国同盟を結んで太平洋戦争に向かうようになる司馬遼太郎が「昭和初期の別国」と呼んだ時期とロシア史で「暗黒の30年」と呼ばれるニコライ一世の時代との類似性についてはすでに何度か書きましたが、ヒトラー内閣が成立した翌年の1934年に発表されたのが、『罪と罰』論と『白痴』論だったのです。

また、「治安維持法」が出た後で自殺した芥川龍之介の『河童』や2.26事件以降の日本をナチスの宣伝相ゲッベルスの演説とドストエフスキーの『白夜』を比較しながら生々しく描いた堀田善衛の長編小説『若き日の詩人たちの肖像』については、拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)の終章で考察していました。

59l(←画像をクリックで拡大できます)

その際には単に示唆しただけに留めていましたが、厳しい言論弾圧のもとに「右傾化」していくアリョーシャのモデルには、「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と見なした『英雄と祭典』と題された『罪と罰』論を真珠湾攻撃の翌年に出版した堀場正夫も入っていると思えます。

そのような読者に小林秀雄の『罪と罰』論は強い影響を与えただけでなく、太平洋戦争が始まる前年の8月に行われた鼎談「英雄を語る」(『文學界』)では、「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」という作家の林房雄の問い対して、「大丈夫さ」と答えていました。しかも、そこで「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ」と無責任な説明をしていた小林秀雄は、戦争が終わった後では、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」と語り、「それについては今は何の後悔もしていない」と述べていたのです。

戦争が近づいているように見える現在も小林秀雄論者が活気づいてくるように見えますが、それは太平洋戦争時のように無謀な戦争を煽りたてることであり、原発が稼働している日本ではいっそう悲惨な結果を招くことになると思えます。

質疑応答のなかで言及した国民文化研究会・新潮社編『小林秀雄講義 学生との対話』(新潮社、2014)における「殺すこと」などの問題とドストエフスキー論との関連については近いうちに改めて分析したいと考えています。

ただ、小林秀雄の書評『我が闘争』や「ヒットラーと悪魔」などについては知らなかった方も少なくなかったので、とりあえず本稿関連論文のあとに「小林秀雄のヒトラー観」と題した記事のリンク先をアップしておきます。

本稿関連論文

「司馬遼太郎のドストエフスキー観――満州の幻影とペテルブルクの幻影」(『ドストエーフスキイ広場』第12号、2003年参照)

「『文明の衝突』とドストエフスキー --ポベドノースツェフとの関わりを中心に」(『ドストエーフスキイ広場』第17号、2008年)

 リンク先

小林秀雄のヒトラー観(1)――書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」をめぐって

小林秀雄のヒトラー観(2)――「ヒットラーと悪魔」とアイヒマン裁判をめぐって

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(3)――PKO日報破棄隠蔽問題と「大きな嘘」をつく才能

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(4)――大衆の軽蔑と「プロパガンダ」の効用

(2017年9月19日、加筆改訂)

『罪と罰』の受容と法制度と教育制度の考察――例会発表に向けて

序に代えて

例会発表の要旨は、ドストエーフスキイの会の「ニュースレター」に記載したことをホームページでも再掲していました。

ただ、『罪と罰』をとおして法制度と教育制度の考察をすることが、なぜ今、必要なのかをより明確にすべきと考えるようになりました。

要旨と多少重なる箇所もありますが、改めて「はじめに」を書きましたので以下に掲載します。

 

はじめに――『罪と罰』の受容と「憲法」の危機

慶応から明治に改元された1868年の4月に旧幕臣の子として生まれた内田魯庵(本名貢〔みつぎ〕、別号不知庵〔ふちあん〕)が、法学部の元学生を主人公とした長編小説『罪と罰』の英訳を読んで、「恰も広野に落雷に会って目眩き耳聾ひたるがごとき、今までに会って覚えない甚深な感動を与えられた」のは、「大日本帝国憲法」が発布された1889(明治22)年のことであった。

 『「罪と罰」をどう読むか〈ドストエフスキー読書会〉』(水声社、2016年)で紹介されているように、小林秀雄は「日本国憲法」の発布から1年後の1948年11月に発表した「『罪と罰』についてⅡ」で、魯庵のこの文章を引用して「読んだ人には皆覚えがある筈だ。いかにもこの作のもたらす感動は強い」と書いた。

この年の8月に湯川秀樹と対談「人間の進歩について」を行って原子力エネルギーの危険性を指摘していた小林秀雄のこの『罪と罰』論は、残虐な戦争と平和についての真摯な考察が反映されており、異様な迫力を持っている。

しかし、小林は「残念な事には誰も真面目に読み返そうとしないのである」と続けていたが、この長編小説ばかりでなくドストエフスキーの思想にも肉薄していた評論に北村透谷の「『罪と罰』の殺人罪」がある。明治元年に佐幕の旧小田原藩の士族の長男として生まれて苦学した北村透谷は、「憲法」が発布された年の10月に大隈重信に爆弾を投げた後に自害した来島や明治24年5月にロシア皇太子ニコライに斬りつけた津田巡査などに言及しながら、「来島某、津田某、等のいかに憐れむべき最後を為したるやを知るものは、『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥(しりぞ)くるやうの事なかるべし」と記していた。

題名が示しているようにこの評論にもドストエフスキーが長編小説で問題とした法律と罪の問題に真正面から迫ろうとする迫力がある。ただ、ここでは「大日本帝国憲法」が発布される朝に文部大臣の森有礼を襲った国粋主義者・西野文太郎についてはなぜかまったくふれられていないが、それは透谷がこの事件を軽く考えていたからではなく、むしろ検閲を強く意識してあえて省かねばならなかったほど大きな事件だったためと思われる。

翌月の『文学界』第2号に掲載された透谷の評論「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」は、その理由の一端を物語っているだろう。ここで透谷は頼山陽の歴史観を賛美した山路愛山の史論「頼襄(のぼる)を論ず」を次のような言葉で厳しく批判していた。

「反動は愛山生を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす。彼は『史論』と名くる鉄槌を以て撃砕すべき目的を拡めて、頻(しき)りに純文学の領地を襲はんとす」(『北村透谷・山路愛山集』)。

愛山を「反動」と決めつけた文章の激しさには驚かされるが、それはキリスト教の伝道者でもあった友人の愛山がこの史論で「彼に因りて日本人は祖国の歴史を知れり」と書いて、頼山陽の「尊王攘夷思想」を讃えていたためだと思われる(277頁)。

愛山の史論が徳富蘇峰の雑誌に掲載されていたために、透谷の批判に対しては愛山だけでなく蘇峰も反論して、『国民之友』と明治の『文学界』をも巻き込んで「人生相渉論争」と呼ばれる論争が勃発した。

この論争については島崎藤村が明治時代の雑誌『文学界』の同人たちとの交友とともに、生活や論争の疲れが重なって自殺するに至る北村透谷の思索と苦悩を自伝的長編小説『春』で詳しく描いている。

ただ、そこでも注意深く直接的な言及は避けられているが、拙論〔北村透谷と島崎藤村――「教育勅語」の考察と社会観の深まり〕(『世界文学』No.125)で考察したように、この時期の透谷を苛立たせ苦しめていたのは、「教育勅語」の発布により、「大日本帝国憲法」の「立憲主義」の根幹が危うくなり始めていた当時の政治状況だったと思える。

すなわち、森有礼の暗殺後に総理大臣となった山県有朋は、かつての部下の芳川顕正を文部大臣に起用して、「親孝行や友達を大切にする」などの普遍的な道徳ばかりでなく、「天壌無窮」という『日本書紀』に記された用語を用いて、「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と説いた「教育勅語」を「憲法」が施行される前月の1890(明治23)年10月30日に発布させていたのである。

しかも、後年「軍人勅諭ノコトガ頭ニアル故ニ教育ニモ同様ノモノヲ得ンコトヲ望メリ」と山県有朋は回想しているが、「教育勅語」も「軍人勅諭」を入れる箱と同一の「黒塗御紋付箱」に入れられ、さらに「教育勅語」の末尾に記された天皇の署名にたいして職員生徒全員が順番に最敬礼をするという「身体的な強要」をも含んだ儀礼を伴うことが閣議で決定された。

すると約3ヶ月後の1月には第一高等中学校で行われた教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対してキリスト教の信者でもあった教員の内村鑑三が最敬礼をしなかったために、「不敬漢」という「レッテル」を貼られて退職を余儀なくされるという事件が起きた。

比較文明学者の山本新が指摘しているように、この「不敬事件」によって「国粋主義」が台頭することになり、ことに1935年の「天皇機関説事件」の後では「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっていることは」、「日本の国体の精華であって、万国に類例が無いのである」と強調されるようになる。この時期になると「教育勅語」の解釈はロシア思想史の研究者の高野雅之が、「ロシア版『教育勅語』」と呼んだ、「正教・専制・国民性」の「三位一体」を強調した1833年の「ウヴァーロフの通達」と酷似してくるといえよう。

一方、島崎藤村は北村透谷よりも4歳若いこともあり、内田魯庵訳の『罪と罰』についての書評や、『文学界』と『国民之友』などの間で繰り広げられた「人生相渉論争」には加わっていないが、長編小説『春』では「一週間ばかり実家へ行っていた夫人」から何をしていたのか尋ねられた青木駿一(北村透谷)に、「『俺は考えていたサ』と」答えさせ、さらにこう続けさせていた。

「『内田さんが訳した「罪と罰」の中にもあるよ』、銭とりにも出かけないで、一体何を為(し)ている、と下宿屋の婢(おんな)に聞かれた時、考えることを為ている、とあの主人公が言うところが有る。ああいうことを既に言つてる人が有るかと思うと驚くよ。考える事をしている……丁度俺のはあれなんだね』」(『春』二十三)。

日露戦争の直後に島崎藤村が自費出版した長編小説『破戒』については、高い評価とともに当初から『罪と罰』との類似が指摘されていたが(平野謙『島崎藤村』岩波現代文庫、31頁)、そのことは長編小説『破戒』の意義を減じるものではないだろう。

たとえば、井桁貞義氏は論文「『レ・ミゼラブル』『罪と罰』『破戒』」で、「『罪と罰』では『レ・ミゼラブル』とほぼ同一の人物システムを使いながら、当時のロシアが突き当たっていた社会的な問題点と、さらに精神的な問題を摘出している」と指摘するとともに、『罪と罰』と『破戒』の間にも同じような関係を見ている。

つまり、五千万人以上の死者を出した第二次世界大戦の終戦から間もない1951年に公開された映画《白痴》で、激戦地・沖縄で戦犯として死刑の宣告を受け、銃殺寸前に刑が取りやめになった「復員兵」を主人公としつつも、長編小説『白痴』の登場人物や筋を生かして、研究者や本場ロシアの監督たちから長編小説『白痴』の理念をよく伝えていると非常に高く評価された。『破戒』はそれと同じようなことを1906年に行っていたといえるだろう。

さらに、この長編小説『破戒』では明治維新に際して四民平等が唱えられて、明治4年には「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」とされた「解放令」が出されていたにもかかわらず実質的には続いていた差別の問題が描かれていることはよく知られている。

しかし、藤村はここで北村透谷の理念を受け継ぐかのように、「教育勅語」と同じ明治23年10月に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた小学校教育の問題を、「郡視学の命令を上官の命令」と考えて、「軍隊風に児童を薫陶(くんたう)したい」と望んでいた校長と主人公・瀬川丑松との対立をとおして鋭く描きだしていた。

後に藤村が透谷を「彼は私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人の一人だ。そして私達のために、早くもいろいろな支度をして置いて呉れたやうな気がする」ときわめて高く評価していることを考えるならば、藤村が北村透谷が当時、直面していた問題を考察し続けていたことは確実だろう。

しかも、透谷が自殺した明治27年の5月から翌年の6月にかけては、帝政ロシアで農奴解放令が出された1861年1月から7月まで雑誌『時代』に連載された長編小説『虐げられた人々』の内田魯庵による訳が『損辱』という題名で『国民之友』に連載されていた。さらに、1904(明治37)年の4月には、『貧しき人々』のワルワーラの手記の部分が、「貧しき少女」という題名で瀬沼夏葉の訳により『文芸倶楽部』に掲載されていた。

福沢諭吉は自由民権運動が高まっていた1879(明治12)年に書いた『民情一新』で、ドストエフスキーが青春を過ごした西欧の「良書」や「雑誌新聞紙」を見るのを禁じただけでなく、学校の生徒を「兵学校の生徒」と見なしたニコライ一世の政治を「未曽有(みぞう)の専制」と断じていたが、「教育勅語」発布後の日本の教育制度などは急速に帝政ロシアの制度に似てきていた。

そのことを考慮するならば、島崎藤村が『破戒』を書く際に、「暗黒の30年」と呼ばれる時期に書かれた『貧しき人々』や、法律や裁判制度の改革も行われた「大改革」の時期に連載された『虐げられた人々』を視野に入れていたことは充分に考えられる。

さらに、俳人の正岡子規は当時、編集を任されていた新聞『小日本』に、日清戦争の直前に自殺した北村透谷の追悼文を掲載していたが、島崎藤村は日清戦争後の明治31年に正岡子規と会って新聞『日本』への入社についての相談をしていた。その新聞『日本』に日露戦争の最中に『復活』の訳を掲載した内田魯庵は、「強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」との説明を載せていた。このような魯庵の記述には功利主義を主張した悪徳弁護士ルージンとの激しい論争が描かれていた『罪と罰』の理解が反映していると思われる。

一方、弟子の森田草平に宛てた手紙で長編小説『破戒』(明治39)を「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞した夏目漱石は、同じ年にやはり学校の教員を主人公とした『坊つちゃん』を書き、長編小説『春』(明治41年)の「最後の五六行は名文に候」と高浜虚子に書いた後で連載を始めた長編小説『三四郎』では自分と同世代の広田先生の深い考察を描き出していた。

それゆえ、今回の発表では「憲法」と「教育勅語」が発布された当時の時代状況や人間関係にも注意を払うとともに、北村透谷だけでなく正岡子規や夏目漱石の作品も視野に入れることで、「非凡人の思想」の危険性を明らかにした『罪と罰』と「差別思想」の問題点を示した『破戒』との深い関係を明らかにしたい。

そのことにより「改憲」だけでなく、「教育勅語」の復活さえも議論されるようになった現在の日本における『罪と罰』の意義に迫ることができるだろう。

私自身は日本の近代文学の専門家ではないので、忌憚のないご批判や率直なご感想を頂ければ幸いである。なお、発表は次のような構成で行う。

はじめに――『罪と罰』の受容と「憲法」の危機

1、ドストエフスキーの青春と明治初期の「自由民権運動」

2、『貧しき人々』と『虐げられた人々』の翻訳と日本の教育制度と法制度

3,子規による『レ・ミゼラブル』の部分訳と島崎藤村との面会

4,『罪と罰』と長編小説『破戒』の構成と人物体系の比較

おわりに――北村透谷の『罪と罰』理解と『破戒』の猪子蓮太郎

ドストエーフスキイの会、第241回例会(報告者:高橋誠一郎)のご案内

ドストエーフスキイの会、第241回例会のご案内を「ニュースレター」(No.142)より転載します。

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第241回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                       

日 時2017年9月16日(土)午後2時~5時           

場 所千駄ヶ谷区民会館1階奥の和室(JR原宿駅下車7分)                       ℡:03-3402-7854

報告者:高橋誠一郎 氏

 題 目: 『罪と罰』の受容と法制度と教育制度の考察――長編小説『破戒』を中心に

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:高橋誠一郎(たかはし せいいちろう)

東海大学教授を経て、現在は桜美林大学非常勤講師。世界文学会、日本比較文学会、日本ロシア文学会などの会員。研究テーマ:日露の近代化と文学作品の比較。主な著書に『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』、『黒澤明で「白痴」を読み解く』、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(以上、成文社)、『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)など。

 

第241回例会報告要旨

『罪と罰』の受容と法制度と教育制度の考察――長編小説『破戒』を中心に

内田魯庵が法学部の元学生を主人公とした長編小説『罪と罰』の英訳を購入したのは、大日本帝国憲法が発布されて言論や結社の自由や信書の秘密などの権利が条件付きではあるが保障され、司法権も独立した明治22年のことであった。

憲法のない帝政ロシアの首都サンクト・ペテルブルクを舞台にしたこの長編小説に読みふけった魯庵は、「何うかして自分の異常な感嘆を一般の人に分ちたい」と思いたち、日本で初めて『罪と罰』の前半部分を訳出して2回に分けて刊行し、売れ行きが思わしくなかったために完訳はできなかったものの反響は大きく多くの書評が書かれた。

たとえば、自由民権運動にも参加していた北村透谷は明治24年1月に著した「『罪と罰』の殺人罪」において、「学問はあり分別ある脳髄の中に、学問なく分別なきものすら企つることを躊躇(ためら)うべきほどの悪事をたくらましめたるかを現はすは、蓋(けだ)しこの書の主眼なり」と指摘し、大隈重信に爆弾を投げた来島やロシア皇太子ニコライに斬りつけた津田巡査などに言及しながら、「来島某、津田某、等のいかに憐れむべき最後を為したるやを知るものは、『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥(しりぞ)くるやうの事なかるべし」と記して、『罪と罰』の深い理解を示していた。

ただ、この記述には憲法発布式典の朝に文部大臣・森有礼を襲って刺殺するという大事件を起こした国粋主義者の西野文太郎の名前が挙げられていないが、その理由はその後の流れを見れば推測できるだろう。すなわち、この事件の翌年に「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」と記された「教育勅語」が渙発されると、それから3ヶ月後には教育勅語奉読式においてキリスト者であった第一高等中学校の教員・内村鑑三が天皇親筆の署名に対して最敬礼をしなかったことを咎められて退職を余儀なくされるという「不敬事件」がおきたが、それは「立憲政治」を覆した昭和10年の「天皇機関説事件」の遠因ともなっていたのである。

一方、長編小説『破戒』(明治39)は人物体系や筋が『罪と罰』からの強い影響を受けていることが多くの批評家や研究者から指摘されているが、島崎藤村はそこで「教育勅語」と同時に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた教育現場の状況を「忠孝」の理念を強調した校長の演説などをとおして詳しく描き出していた。

このような『破戒』の構造はロシアの「教育勅語」とも呼ばれる「ウヴァーロフの通達」が出された「暗黒の30年」の時代に、ドストエフスキーが『貧しき人々』において寄宿学校における教師による「体罰」や友達からの「いじめ」の問題にも言及していたことを思い起こさせるが、明治37年4月には『貧しき人々』のワルワーラの「手記」が瀬沼夏葉によって訳出されていたのである。

さらに、当時のロシアの裁判制度の問題にも踏み込んでいた『虐げられた人々』の訳を明治27年から翌年にかけて『国民之友』に連載していた内田魯庵は、日露戦争の最中に『復活』の訳を新聞『日本』に掲載して「強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」との説明を載せていた。このような魯庵の記述には功利主義を主張した悪徳弁護士ルージンとの激しい論争が描かれていた『罪と罰』の理解が反映していると思われる。

発表では『文学界』同人たちとの交友や北村透谷の『罪と罰』観が描かれている島崎藤村の長編小説『春』(明治41)だけでなく、『破戒』を「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞した夏目漱石の『坊つちゃん』(明治39)や『三四郎』(明治41)などをも視野に入れることで、「非凡人の思想」の危険性を明らかにした『罪と罰』と「差別思想」の問題点を示した『破戒』との深い関係を明らかにしたい。

*   *   *

例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり――「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』へ(レジュメ)

序に代えて

夏目漱石生誕150年によせて「夏目漱石と世界文学」をテーマとした「世界文学会」の2017年度第4回研究会が7月22日に行われました。

ホームページに掲げたレジュメとは副題と内容が少し異なりますが、発表では慶応3年に生まれた漱石と子規との交友だけでなく、明治の『文学界』の北村透谷と島崎藤村の交友や『国民之友』の社主・徳富蘇峰の関係をも視野に入れることで、「明治憲法」の発布と「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』への流れを分析しました。

それにより「共謀罪」が強行採決された現在の日本における夏目漱石の作品の意義により肉薄できたのではないかと考えています。

なお、今回の発表は、拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)の記述を踏まえて、「教育勅語」の問題と文学者との関わりを考察した論文(文末の引用・参考文献)など加えて考察したものです。

 ISBN978-4-903174-33-4_xl(←画像をクリックで拡大できます)
 その後、初めての試みとしてユーチューブに動画がアップされましたが、慣れないために声もかすれて少し聞きにくい発表になっていましたので、レジュメ資料の1を見ながらお聞き頂ければ幸いです。

 http://youtu.be/nhIPCAoGNsE (1)

http://youtu.be/_1KBH3Lx0Fc (2)

 

資料1、講座の流れと主な引用箇所

はじめに――漱石と子規の青春と「教育勅語」の影

Ⅰ.子規の退寮事件と「教育勅語」論争

Ⅱ.陸羯南の新聞『日本』の理念と新聞『小日本』

Ⅲ.従軍記者・子規の戦争観と日露戦争中に書かれた『吾輩は猫である』

Ⅳ.漱石の『草枕』と子規の紀行文「かけはしの記」――長編小説『三四郎』へ

おわりに 「教育勅語」問題の現代性

主な引用・参考文献

夏目漱石と正岡子規の交友と方法としての比較・関連年表

 

はじめに――漱石と子規の青春と「教育勅語」の影

a.「子規は果物(くだもの)が大変好(す)きだった。且(か)ついくらでも食(く)える男だった。」(『三四郎』第1章)

「我死にし後は」(前書き)、「柿喰ヒの俳句好みと伝ふべし」(子規、明治30年)

b.「憲法発布は明治二十二年だったね。その時森文部大臣が殺(ころ)された。君は覚えていまい。幾年(いくつ)かな君は。そう、それじゃ、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等学校の生徒であった。大臣の葬式に参列するのだと云って、大勢鉄砲を担(かつ)いで出た。墓地へ行くのだと思ったら、そうではない。体操の教師が竹橋内(たけばしうち)へ引っ張って行って、路傍(みちばた)へ整列さした。我々は其処(そこ)へ立ったなり、大臣の柩(ひつぎ)を送ることになった。」(『三四郎』第11章)

c.「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」(「教育勅語」)

 Ⅰ.子規の退寮事件と「教育勅語」論争

a.「私は卯の年の生れですから、まんざら卯の花に縁がないでもないと思ひまして『卯の花をめがけてきたか時鳥(ほととぎす)』『卯の花の散るまで鳴くか子規(ほととぎす)』などとやらかしました。又子規といふ名も此時から始まりました。」(子規「啼血始末」)

b.「(佃にとっては)大学に文科があるというのも不満であったろうし、日本帝国の伸長のためにはなんの役にも立たぬものと断じたかったにちがいない。…中略…この思想は佃だけではなく、日本の帝国時代がおわるまでの軍人、官僚の潜在的偏見となり、ときに露骨に顕在するにいたる」(『坂の上の雲』第2巻「日清戦争」)。

c.「『義勇公に奉すべし』とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議」(大町桂月、与謝野晶子「君死にたまふこと勿(なか)れ」の批判)

d.『教育勅語』は「国体教育主義を経典化した」もの。

「正直に云えば、我が青年及び少年に歓迎せらるる書籍、及び雑誌等は、半ば以上は病的文学也、不完全なる文学也」(徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』)

Ⅱ.陸羯南の新聞『日本』の理念と新聞『小日本』

a.「秘密秘密何でも秘密、殊には『外交秘密』とやらが当局無二の好物なり、…中略… 斯かる手段こそ当局の尊崇する文明の本国欧米にては専制的野蛮政策とは申すなれ」新聞『小日本』)

b.「北村透谷子逝く 文学界記者として当今の超然的詩人として明治青年文壇の一方に異彩を放ちし透谷北村門太郎氏去る十五日払暁に乗し遂に羽化して穢土の人界を脱すと惜(をし)いかな氏年未だ三十に上(のぼ)らずあたら人世過半の春秋を草頭の露に残して空しく未来の志を棺の内に収め了(おは)んぬる事嗟々(あゝ)エマルソンは実に氏が此世のかたみなりけり、芝山の雨暗うして杜鵑(ほとゝとぎす)血に叫ぶの際氏が幽魂何処(いづこ)にか迷はん」新聞『小日本』)。

c.「愚なるかな、今日に於て旧組織の遺物なる忠君愛国などの岐路に迷ふ学者、請ふ刮目(くわつもく)して百年の後を見ん」(北村透谷「明治文学管見(日本文学史骨)」)

d.「(松陰の)尊王敵愾(てきがい)の志気は特に頼襄(らいのぼる)の国民的詠詩、及び『日本外史』より鼓吹し来たれるもの多し」(徳富蘇峰『吉田松陰』)

e.「青木(モデルは北村透谷)君が生きていたら、今頃は何を為(し)てるだろう」/「何を為てるだろう。新聞でもやってやしないか――しきりに新聞をやって見たいッて、そう言ってたからネ」(島崎藤村『春』)

Ⅲ.従軍記者・子規の戦争観と日露戦争中に書かれた『吾輩は猫である』

a.「若し夫の某将校の言ふ所『新聞記者は泥棒と思へ』『新聞記者は兵卒同様なり』等の語をして其胸臆より出でたりとせんか。是れ冷遇に止まらずして侮辱なり」(子規「従軍記事」)

「一国政府の腐敗は常に軍人干政のことより起こる」(陸羯南「武臣干政論」)

b.「三崎の山を打ち越えて/いくさの跡をとめくれば、此処も彼処も紫に/菫花咲く野のされこうべ」(子規「髑髏」)。

c.「(景樹が)大和歌の心を知らんとならば大和魂の尊き事を知れ、などと愚にもつかぬ事をぬかす事、彼が歌を知らぬ証拠なり」(子規「歌話」)

万の外国其声音の溷濁不清なるものは其性情の溷濁不正なるより出れば也」(香川景樹『古今和歌集正義総論』)

d.「世の中に比較といふ程明瞭なることもなく愉快なることもなし…中略…織田 豊臣 徳川の三傑を時鳥(ほととぎす)の句にて比較したるが如き 面白くてしかも其性質を現はすこと一人一人についていふよりも余程明瞭也」。「併シ斯く比較するといふことは総(すべて)の人又は物を悉(ことごと)く腹に入れての後にあらざれば出来ぬこと故 才子にあらざれば成し難き仕事なり」(子規「筆まかせ」)。

e.「大和魂(やまとだましい)! と叫んで日本人が肺病みの様な咳をした。/(中略)/大和魂! と新聞屋が云ふ。大和魂! と掏摸(すり)が云ふ。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸(ドイツ)で大和魂の芝居をする/東郷大将が大和魂を有(も)つて居る。肴屋の銀さんも大和魂を有つて居る。詐欺師(さぎし)、山師(やまし)、人殺しも大和魂を有つて居る。/(中略)/誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇(あ)つた者がない。大和魂はそれ天狗の類か」(漱石『吾輩は猫である』第6章)。

f.「どうかしてイワンの様な大馬鹿に逢つて見たいと存候。/出来るならば一日でもなつて見たいと存候。近年感ずる事有之イワンが大変頼母しく相成候」(夏目漱石、内田魯庵『イワンの馬鹿』訳の礼状)

g.「社会の暗黒裡に潜める罪悪を解剖すると同時に不完全なる社会組織、強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」(内田魯庵『復活』について)

 Ⅳ.漱石の『草枕』と子規の紀行文「かけはしの記」――長編小説『三四郎』へ

a.「やがて、長閑(のどか)な馬子唄(まごうた)が、春に更(ふ)けた空山(くうざ ん)一路の夢を破る。憐(あわ)れの底に気楽な響きがこもって、どう考えても画にかいた声だ。/ 馬子唄の鈴鹿(すずか)越ゆるや春の雨/ と、今度は斜(はす)に書き付けたが、書いて見て、これは自分の句でないと気が付いた。」(漱石『草枕』)

「馬子唄の鈴鹿(すずか)上るや春の雨」(子規、明治25年)

b.小説で「白いひげをむしゃむしゃと生やした老人」として描かれているのは熊本実学党の名士・前田案山子(かかし)で、彼が明治11年に建てた別邸には中江兆民が訪れてルソーの講義をしたり、女性民権家の岸田俊子が来て演説をおこなっていた(安住恭子『「草枕」の那美と辛亥革命』)白水社、2012年)。

c.「一体戦争は何のためにするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない」

d.「亡びるね」という男の言葉を聞いた三四郎は最初「熊本でこんなことを口に出せば、すぐ擲(な)ぐられる。わるくすると国賊取扱にされる」と感じた。しかし、「囚(とら)われちゃ駄目だ。いくら日本のためを思っても贔屓(ひいき)の引倒しになるばかりだ」という男の言葉を聞いたときに、「真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った」と記されている(『三四郎』)。

e.「反動は愛山生を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす」(北村透谷「人生に相渉るとは何の謂ぞ」)。

おわりに 「教育勅語」問題の現代性

a.「教育勅語」の「始まりと終わりの部分で天皇と臣民の間の紐帯、その神的な由来、 また臣民の側の神聖な義務について」述べられているという構造を持っている(島薗進『国家神道と日本人』岩波新書)。

b.「日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也。君国の為めには、我が 生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也」(徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』)

 

主な引用・参考文献

高橋誠一郎『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年。
――『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』成文社、2007年。
――『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002年 。
――「北村透谷と島崎藤村――「教育勅語」の考察と社会観の深まり」『世界文学』 第125号、2017年。
――「作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観」『世界文学』第122号、2015年。
――「司馬遼太郎の徳冨蘆花と蘇峰観――『坂の上の雲』と日露戦争をめぐって」『COMPARATIO』九州大学・比較文化研究会、第8号、2004年。
 『漱石全集』全15巻、岩波書店、1965~67年(振り仮名は一部省略した)。
小森陽一『世紀末の予言者・夏目漱石』講談社、1999年。
木下豊房『ドストエフスキー その対話的世界』成文社、2002年。
大木昭男『漱石と「露西亜の小説」』東洋書店、2010年。
井桁貞義『ドストエフスキイ 言葉の生命』群像社、2011年。
安住恭子『「草枕」の那美と辛亥革命』白水社、2012年。
清水孝純『漱石『夢十夜』探索 闇に浮かぶ道標』翰林書房、2015年。
中村文雄『漱石と子規 漱石と修――大逆事件をめぐって』和泉書院、2002年。
『子規と漱石』(『子規選集』第9巻)、増進会出版社、2002年。
『子規全集』全22巻、別巻3巻、監修・正岡忠三郎・司馬遼太郎・大岡昇平他、講談社、1975~79年。
坪内稔典『正岡子規 言葉と生きる』岩波新書、2010年。
末延芳晴『正岡子規、従軍す』平凡社、2010年。
成澤榮壽『加藤拓川――伊藤博文を激怒させた硬骨の外交官』高文研、2012年。
『現代日本文學大系6 北村透谷・山路愛山集』筑摩書房、1969年。
槇林滉二「透谷と人生相渉論争――反動との戦い」、桶谷秀昭・平岡敏夫・佐藤泰正編『透谷と近代日本』翰林書房、1994年。
徳富蘇峰『吉田松陰』岩波文庫、1981年 司馬遼太郎『本郷界隈』(『街道をゆく』第37巻)朝日文芸文庫、1969年。
有山輝雄『陸羯南』吉川弘文館、2007年。
島崎藤村『春』、『破戒』、新潮文庫。
相馬正一『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』人文書館、2006年。
木村毅「日本翻訳史概観」『明治翻訳文學集』筑摩書房、1972年。

夏目漱石と正岡子規の交友と方法としての比較・関連年表

明治憲法、「ウィキペディア」

(憲法発布略図、楊洲周延画、出典は「ウィキペディア」クリックで拡大できます)

1889(明治22)1月、夏目金之助(漱石)、落語を介して正岡常規(子規)と交遊を始める。2月11日、大日本帝国憲法発布陸羯南の新聞『日本』が発刊。当日の朝、国粋主義者に脇腹を刺された文部大臣森有礼が翌日死亡。5月、子規『七草集』脱稿。5月9日、夜喀血、時鳥の句を作り「子規」と号す。漱石、『七草集』を漢文で批評し七言絶句九編を添えて「漱石」の号を用いる。9月に房総の紀行漢詩文『木屑録』(ぼくせつろく)を書き子規に批評を求める。

1890(明治23) 2月1日、徳富蘇峰の『国民新聞』が創刊(総合雑誌『国民之友』は1887年2月~1898年8月)。漱石・子規、9月、東京帝国大学文科大学に入学。10月、「教育勅語」渙発

教育勅語

(図版は「ウィキペディア」より、クリックで拡大できます)

1891(明治24) 1月、「教育勅語」に対する「不敬事件」。子規、2月、 国文科に転科。5月、皇太子ニコライが大津で襲撃される。6月、木曽路を経て松山へ帰省。試験放棄。寄宿舎追放事件後、12月に駒込追分町へ転居。小説「月の都」の執筆に着手。冬、「俳句分類丙号」に着手。12月、漱石、『方丈記』を英訳する。

1892(明治25) 漱石、5月、東京専門学校(現在の早稲田大学)講師に就任。子規、「かけはしの記」を5月から、6月からは「獺祭書屋俳話」を『日本』に連載。7月 帰省、漱石も松山を旅行。12月、子規が日本新聞社入社。【3月、徳富蘇峰が本郷教会会堂で「吉田松陰」を講演し、『国民之友』に10回連載(5月~9月)。5月、北村透谷、評論「トルストイ伯」、11月、内田魯庵訳『罪と罰』(巻之一)】。

1893(明治26) 子規、2月、俳句欄を『日本』に設ける。7月19日~8月20日 東北旅行。俳諧宗匠を歴訪する。11月「芭蕉雑談」、「はてしらずの記」を『日本』に連載。【1月、北村透谷、評論「『罪と罰』の殺人罪」。『文学界』創刊(~1898年1月)。2月、透谷、雑誌『文学界』の第2号に「人生に相渉るとは何の謂ぞ」を発表し、雑誌『国民之友』に発表された山路愛山の史論「頼襄を論ず」を厳しく批判。内田魯庵訳『罪と罰』(巻之二)。4月、井上哲次郎『教育ト宗教ノ衝突』発行。5月、透谷「井上博士と基督教徒」(雑誌『平和』)。12月、蘇峰『吉田松陰』発行。】

1894(明治27) 子規、2月、羯南宅東隣へ転居。2月11日『小日本』創刊、編集責任者となり、小説「月の都」を創刊号より3月1日まで連載。

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(図版は大空社のHPより、『小日本』全2巻・別巻、大空社、1994年〉

5月、北村透谷の追悼文が『小日本』に掲載される。内田魯庵の「損辱」(『虐げられた人々』)の訳が『国民之友』に連載される(5月~1895年6月)、7月、『小日本』廃刊により『日本』に戻る。日清戦争(7月29日~1895年4月)

1895(明治28) 漱石、横浜の英語新聞「ジャパン・メール」の記者を志願したが、不採用に終わる。4月、高等師範学校を退職し、愛媛県尋常中学校(松山中学)教諭に就任。子規、4月10日、宇品出港、近衛連隊つき記者として金州・旅順をまわる。金州で従弟・藤野潔(古白)のピストル自殺を知る。5月4日、金州で森鴎外を訪問。17日、帰国途上船中で喀血。23日、県立神戸病院に入院、7月23日、須磨保養院へ移る。8月20日、退院。8月27日、松山中学教員夏目金之助の下宿「愚陀仏庵」に移る。10月、帰京、「俳諧大要」を『日本』に連載。

1896(明治29)1月3日、子規庵で句会。鴎外・漱石が同席。「従軍記事」の連載。3月、カリエスの手術を受ける。4月、「松蘿玉液」(~12月)。漱石、4月、熊本県の第五高等学校講師となる。

1897(明治30)島崎藤村が正岡子規と会って新聞『日本』への入社についての相談。

1898(明治31) 子規、2月、「歌よみに与ふる書」を連載(~3月)。10月、発行所を東京に移し、『ホトトギス』第一号発刊。

1899(明治32) 子規、1月 『俳諧大要』刊。漱石、4月、エッセー「英国の文人と新聞雑誌」(『ホトトギス』)。10月、「飯待つ間」(『ホトトギス』)。

猫の写生(「猫の写生画」、図版は青空文庫より)

1900(明治33)子規、8月、大量喀血。8月26日、漱石、寺田寅彦と来訪。9月、第1回「山会」(写生文の会)を開催。漱石、9月、イギリスに留学。

1901(明治34) 1月、「墨汁一滴」を『日本』に連載開始(~7月)、5月、漱石の「倫敦消息」が『ホトトギス』に掲載される。9月、「仰臥漫録」を書き始める。11月6日、子規が漱石宛書簡に「僕ハモーダメニナツテシマツタ」と書く。

1902(明治35) 1月、日英同盟締結。5月、「病牀六尺」を『日本』に連載開始(~9月)。9月18日、絶筆糸瓜三句を詠み、翌日死亡。12月、漱石、帰国の途につく。

1903(明治36) 漱石、4月、第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。藤村操、投身自殺。幸徳秋水たちが『平民新聞』創刊。

1904(明治37) 木下尚江、「火の柱」を東京毎日新聞に連載(1月~3月)、日露戦争(2月8日~1905年9月5日)。4月、瀬沼夏葉「貧しき少女」(『貧しき人々』のワルワーラの手記の訳、『文芸倶楽部』)。8月、トルストイの「悔い改めよ」と題する非戦論が『平民新聞』に掲載される。

1905(明治38) 漱石、1月、『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を発表(翌年8月まで断続連載。4月、内田魯庵訳の『復活』が新聞『日本』に掲載(~12月)。9月5日、ポーツマス条約の条件に不満をもつ群衆が国民新聞社を襲撃、10月、単行本『吾輩は猫である』上編。

1906(明治39)  1月、漱石が内田魯庵に『イワンの馬鹿』贈呈の礼状、「趣味の遺伝」(日露戦争時の突撃への厳しい批判の記述)。3月、島崎藤村『破戒』。4月、「坊つちやん」(『ホトトギス』)。5月、『漾虚集』。9月、「草枕」。10月、「二百十日」。11月、『吾輩は猫である』中編(子規の手紙を掲載)。

1907(明治40) 漱石、1月、「野分」を『ホトトギス』に発表。4月、朝日新聞社に入社。5月、『文学論』、『吾輩は猫である』下編。6月、「虞美人草」を朝日新聞に連載(~10月)。

1908(明治41) 漱石、1月「坑夫」(~4月)。4月、島崎藤村、「春」(~8月まで「東京朝日新聞」に連載)、7月、8月、「夢十夜」。9月「三四郎」(~12月)。10月、蘇峰、改訂版『吉田松陰』。

1909(明治42) 漱石『永日小品』(1月~3月)。3月『文学評論』(春陽堂)。『それから』(6月~10月)。10月、伊藤博文、ハルビンで暗殺される。『満韓ところどころ』(~12月)。11月25日「朝日文芸欄」を創設。

1910(明治43) 漱石『門』(3月~6月)。4月、雑誌『白樺』創刊。5月、大逆事件。6月~7月、胃潰瘍で入院。8月22日、日韓合併条約調印。8月24日、修善寺温泉での「大患」。11月、トルストイ死去。

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(セミョーノフスキー練兵場における死刑の場面、ポクロフスキー画。図版はロシア版「ウィキペディア」より)

1914年(大正3年)  第一次世界大戦(~1918)。

1915年(大正4年)  芥川龍之介「羅生門」、漱石の木曜会に参加する。

1916年(大正5年)  12月、夏目漱石没。徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』

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本年表は夏目漱石生誕150年によせて「夏目漱石と世界文学」をテーマとして7月22日に行われた「世界文学会」の第4回研究会での配布資料に加筆したものである。

例会発表の際には正岡子規や夏目漱石と池辺三山との関係や『それから』と「大逆事件」との関係には時間の都合で言及できなかったが、発表を踏まえて書いた論文〔夏目漱石と正岡子規の交友と方法としての比較――「教育勅語」の渙発から大逆事件へ〕では言及した。

夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり――「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』へ(レジュメ 

ユーチューブの動画

http://youtu.be/nhIPCAoGNsE (1)

http://youtu.be/_1KBH3Lx0Fc (2)

(2017年8月10日、記事を差し替えて図版を追加。9月8日、加筆)

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(3)――PKO日報破棄隠蔽問題と「大きな嘘」をつく才能

1,PKO日報破棄隠蔽問題と稲田防衛相

稲田防衛相、フジテレビ(写真はフジテレビ系の映像より)

7月19日に新聞各紙はPKO日報問題について「二月に行われた防衛省最高幹部による緊急会議で、保管の事実を非公表とするとの方針を幹部から伝えられ」、稲田防衛相が「了承していた」ことが明らかになったと報道した(「東京新聞」を参照)。

これに対して稲田氏は21日に開いた記者会見で、自分は「一貫して公表すべきだとの姿勢だった」と繰り返し、非公表や隠蔽の指示は「私の姿勢とは真逆で相いれない」と強調した。

「省幹部が嘘をついているのか」と厳しく追及された稲田氏は「嘘をついたとは言っていない」と語ったが、陸上自衛隊幹部が漏らしたように「防衛相の関与まで報道された以上、監察の結果が出るだけでは騒動は収まらないだろう」(「日本経済新聞」デジタル版を参照)。しかも、umekichi氏はツイッターで先ほど次のように指摘している。

〔前にもツイートしたけど、見てる限りきちんと報道していない。PKO日報破棄隠蔽について。稲田防衛大臣「私の指示により、探させ日報を見つけた」 平気でをつく。探させたのは河野太郎議員率いる「行政改革推進本部」だからね。 手柄欲しさに姑息な事をやる。〕(7月23日)。

また、生命倫理の研究者・澤田愛子氏も「今安倍内閣で生じていること。どんな不正を働いても、重大な証拠があっても、見え透いた嘘で否定し続ければスルーしていくという事。明らかに嘘と分かる弁明でも強弁し続ければそれで通っていくとしたら恐ろしい前例になる。今後不祥事で辞任などする閣僚はいなくなるということだ。恐ろしすぎる」とツイートしている(7月21日)。

このブログでは「復古」的な価値観を賛美する稲田朋美防衛相の憲法観と「教育勅語」観や戦争観の危険性をいくつかの論考で指摘してきたので、次節で小林秀雄がヒトラーの「平和」観をどのように描いていたかを分析する前に、以下にリンク先を再掲しておく。

稲田朋美・防衛相と作家・百田尚樹氏の憲法観――「森友学園」問題をとおして(増補版)

稲田朋美・防衛相の教育観と戦争観――『古事記と日本国の世界的使命』を読む(増補改訂版) 

2,「ヒットラーと悪魔」における「大きな嘘」をつく才能の賛美

戦史・紛争史研究家の山崎雅弘氏は、安倍政権の閣僚や取り巻きの嘘について7月21日のツイッターでこう記している。〔「安倍首相やその取り巻きは、なぜあんなに平気でウソばかりつくんでしょう」とよく聞かれるが、私の認識は「主観が肥大した世界に生きている」からというもの。不都合な事実を主観で操作しているだけで、ウソをついているという罪悪感はたぶん無い。〕

鋭い分析で彼らには「ウソをついているという罪悪感はたぶん無い」との指摘は正鵠を射ていると思うが、彼らは「不都合な事実を主観で操作している」だけではなく、むしろ小林秀雄のように「大きな嘘」をつくことを「政治の技術」と捉えている可能性が大きいと思える。

「ヒットラーの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた」と書いた小林は、こう続けていたのである。

「彼(引用者註――ヒトラー)は世界観を美辞と言わずに、大きな嘘と呼ぶ。大衆はみんな嘘つきだ。が、小さな嘘しかつけないから、お互いに小さな嘘には警戒心が強いだけだ。大きな嘘となれば、これは別問題だ。彼等には恥かしくて、とてもつく勇気のないような大嘘を、彼等が真に受けるのは、極く自然な道理である。大政治家の狙いは其処にある。」

問題は小林秀雄が、この随筆を書いた翌年の1961年から「国民文化研究会」の主宰者で、「日本を守る会」や「日本会議」などで代表委員を務め、「日青協」のメンバーから「先生」と深く尊敬されるようになる小田村寅二郎から「全国学生青年合宿所」と銘打たれた研修会に招かれて、1978年までに5回もの講演と学生との対話を行っていたことである(国民文化研究会・新潮社編『小林秀雄 学生との対話』新潮社、2014年)。

しかも、「信ずることと考えること」と題して行われた1974年の講演会の後の学生との対話で、小林は「歴史は流行って」いるが「大衆小説的歴史観」とともに「考古学的歴史観もよくない」として、次のように語っていた。「たとえば、本当は神武天皇なんていなかった、あれは嘘だとういう歴史観。それが何ですか、嘘だっていいじゃないか。嘘だというのは、今の人の歴史だ」(太字は引用者、127頁)。

三笠宮は1958年に神武天皇の即位は神話であり史実ではないとして強く批判し、「国が二月十一日を紀元節と決めたら、せっかく考古学者や歴史学者が命がけで積上げてきた日本古代の年代大系はどうなることでしょう。本当に恐ろしいことだと思います」と書いていた(上丸洋一『「諸君!」「正論」の研究 保守言論はどう変容してきたか』岩波書店、10頁)。

そのことを思い起こすならば、「嘘だっていいじゃないか」という小林の言葉は、神武天皇の即位は神話であり史実ではないとした考古学者や歴史学者の見解を真っ向から否定するものだったと言えるだろう。

しかも、すでにみたように小林秀雄はヒトラーの政治手法について、「バリケードを築いて行うような陳腐な革命は、彼が一番侮蔑していたものだ。革命の真意は、非合法を一挙に合法となすにある。それなら革命などは国家権力を合法的に掌握してから行えば沢山だ。これが、早くから一貫して揺るがなかった彼の政治闘争の綱領である」と書いていた(『考えるヒント』文春文庫、新装版、111頁)。

そして、『神社新報』編集長の西田廣義も「日青協」の機関誌『祖国と青年』(1976年7月)で、「例えばヒトラーですが、政権奪取の運動をしている時は、現憲法擁護だと言って、運動を展開していた。そして政権をとった後、憲法を変えたり、体制変革したりした」と小林秀雄と同じように語っていた(『ドキュメント 日本会議』58頁)。

こうして、ヒトラーの「大きな嘘」を「感傷性の全くない政治の技術」と賛美していた小林秀雄の考えは、「日青協」のメンバーだけでなく、憲法改正論に関してナチス政権の「手口」を学んだらどうかと発言した麻生副総理や1994年に『ヒトラー選挙戦略 現代選挙必勝のバイブル』に推薦文を寄せていた高市早苗・総務相だけでなく、稲田防衛相にも強い影響を与えていたように思える。

ヒトラーの思想と安倍政権――稲田朋美氏の戦争観をめぐって

大きな問題は日本におけるヒトラー的な手法の賛美が政治家に留ってはいないことにある。7月12日の午後に生放送された情報番組「ごごナマ」には実業家の堀江貴文氏がナチスの独裁者ヒトラーに似た人物が描かれたTシャツを着用して出演した。

このことを批判された本人は、「ヒトラーがピースマークでNO WAR叫んでるTシャツ何回も着てたけど初めて炎上してる。どっからどう見ても平和を祈念しているメッセージTシャツにしか見えない」と書き、「シャレわかんねー奴多い」とツイッターで反論したばかりでなく、「No Warの文字が入っていた」ので問題はないとする応援のツイッターもあることに驚かされた。

なぜならば、小林秀雄が「ヒットラーと悪魔」で明確に指摘していたように、ヒトラーは「自分の望むものは正義と平和だ」と声明だけでなく演説でも絶叫したが、彼は「戦争を覚悟して首相になった」のであり、「外交も文字通り芝居だった」のである(117~118頁)。

堀江氏の記述は彼の歴史認識の浅さを物語っているだけで反論にもなりえていない。番組の司会をしたアナウンサーは「不快な思いを抱かれた方にはおわび申し上げます」と謝罪したとのことが、すでにツイッターなどで指摘されているように、堀江氏のような歴史観を持つ人物をゲストに招いたNHKだけでなく、大阪万博誘致担当の特別顧問に任命した大阪府の見識は厳しく批判されるべきだろう。

だが、それ以上に「大きな嘘」をつくことを「政治の技術」と捉えてそれができるものを「大政治家」と記していた「評論の神様」小林秀雄の歴史観や文学観は、より厳しく批判されるべきだと思える。

「世界文学会」2017年度第4回研究会(発表者:大木昭男氏・高橋誠一郎)のご案内

夏目漱石生誕150年によせて「夏目漱石と世界文学」をテーマとした2017年度第4回研究会の案内が「世界文学会」のホームページに掲載されましたので、発表者の紹介も加えた形で転載します。

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日時:2017年7月22日(土)午後3時~5時45分

場所:中央大学駿河台記念会館 (千代田区神田駿河台3-11-5 TEL 03-3292-3111)

発表者:大木昭男氏(桜美林大学名誉教授)

題目:「ロシア文学と漱石」

発表者:高橋誠一郎(元東海大学教授)

題目:「夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり」

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発表者紹介:大木昭男氏

1943年生まれ。早稲田大学大学院(露文学専攻)修了。世界文学会、日本比較文学会、国際啄木学会会員。1969年~2013年、桜美林大学にロシア語・ロシア文学担当教員として在職し、現在は桜美林大学名誉教授。主要著作:『現代ロシアの文学と社会』(中央大学出版部)、『漱石と「露西亜の小説」』(東洋書店)、『ロシア最後の農村派詩人─ワレンチン・ラスプーチンの文学』(群像社)他。

発表者紹介:高橋誠一郎

1949年生まれ。東海大学大学院文学研究科(文明研究専攻)修士課程修了。東海大学教授を経て、現在は桜美林大学非常勤講師。世界文学会、日本比較文学会、日本ロシア文学会などの会員。主要著作『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)、『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社)他。

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発表要旨「ロシア文学と漱石」

漱石は二年間の英国留学中(1900年10月~1902年12月)に西洋の書物を沢山購入して、幅広く文学研究に従事しておりました。本来は英文学者なので、蔵書目録を見ると英米文学の書物が大半ですが、ロシア文学(英訳本のほか、若干の独訳本と仏訳本)もかなり含まれております。ここでは、大正五年(1916年)の漱石の日記断片に記されている謎めいた言葉─「○Life 露西亜の小説を読んで自分と同じ事が書いてあるのに驚く。さうして只クリチカルの瞬間にうまく逃れたと逃れないとの相違である、といふ筋」という文言にある「露西亜の小説」とは一体何であったのかに焦点を当てて、漱石晩年の未完の大作『明暗』とトルストイの長編『アンナ・カレーニナ』とを比較考量してみたいと思います。

発表要旨「夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり」

子規の短編「飯待つ間」と漱石の『吾輩は猫である』との比較を中心に、二人の交友と作品の深まりを次の順序で考察する。 1,子規の退寮事件と「不敬事件」 2,『三四郎』に記された憲法の発布と森文部大臣暗殺  3,子規の新聞『日本』入社と夏目漱石   4,子規の日清戦争従軍と反戦的新体詩  5,新聞『小日本』に掲載された北村透谷の追悼文と子規と島崎藤村の会見   6,ロンドンから漱石が知らせたトルストイ破門の記事と英国の新聞論   7、『吾輩は猫である』における苦沙弥先生の新体詩と日本版『イワンの馬鹿』   8、新聞『日本』への内田魯庵訳『復活』訳の連載  9、藤村が『破戒』で描いた学校行事での「教育勅語」朗読の場面   結語 「教育勅語」問題の現代性と子規と漱石の文学

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会場(中央大学駿河台記念会館)への案内図

案内図

JR中央・総武線/御茶ノ水駅下車、徒歩3分

東京メトロ丸ノ内線/御茶ノ水駅下車、徒歩6分

東京メトロ千代田線/新御茶ノ水駅下車(B1出口)、徒歩3分

「森友学園」問題と「教育勅語」そして中学での「銃剣道」――安倍政権の「戦前の価値観」への明確な回帰

「森友学園」問題は幼稚園児に「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」と記された「教育勅語」を暗唱させている映像がテレビでも放映されたことが視聴者の関心を引いたこともあり、世論を動かすような事態となった。

しかし、安倍政権(ほとんどの閣僚が「日本会議」や「神道政治連盟」の「国会議員懇談会」に所属している)は、このような状況を政治利用する形で、憲法や教育基本法に反しない形での教育勅語の教材活用を否定しないとした政府答弁書を作成した。

そして、菅官房長官は 「教育勅語」について「親を大切にとか、兄弟姉妹仲良くとか、教育上支障のないことを取り扱うことまでは否定しない。適切な配慮の下、教材使用自体に問題はない」と説明した(なお、育鵬社の歴史教科書が政府見解を先取りするように「教育勅語」を肯定的に論じていることがツイッターに記されている)。

これに対しては朝日新聞が「この内閣の言動や思想をあわせ考えれば、今回の閣議決定は、戦前の価値観に回帰しようとする動きの一環とみなければならない」と厳しく批判し、毎日新聞も4日付朝刊で「戦前回帰 疑念招き」「安倍政権 保守層に配慮」との見出しを掲げた。

東京新聞も「戦前回帰の動きとすれば、封じ込めねばならない。安倍政権は、教育勅語を道徳教育の教材として認める姿勢を鮮明にした。個人より国家を優先させる思想である。復権を許せば、末路は危うい」との社説を5日に掲載した。

一方、「教育勅語を全否定する野党と一部メディアの大騒ぎ それこそ言論統制ではないか」と題する署名入りの記事でこれらの批判記事を紹介した産経新聞は、ことに朝日新聞が「おどろおどろしく断じていた。まさに『妄想』全開である」と小説『永遠の0(ゼロ)』の文章を連想させるような激しい言葉で批判した。さらに「教育勅語の排除と失効確認の決議はGHQ(連合国軍総司令部)の統治下に行われた」と「日本会議」と同じような主張を記して記事を結んでいる。

しかし、宗教学者の島薗進氏が『国家神道と日本人』で明らかにしていたように、「国家神道は教育勅語煥発以後、公的精神秩序の規範として次第に国民生活を蔽っていくようになり、諸宗教・思想はそれを受け入れた上で限定的な『信教の自由』を享受するという宗教・思想の二重構造が成立」していた。

そのような状況で「教育勅語」は絶対化されて、職員室や校長室に設けられた奉安所は、社や神殿のような荘厳な奉安殿となり、配属将校のもとで軍事教練を繰り返させられた若者たちは、「徹底した人命軽視の思想」(『永遠の0(ゼロ)』)によって行われていた悲惨な戦争へと駆り出されることになったのである。

たとえば、ツイッターで下記の写真を紹介した津川ともひさ氏(@TsugawaTomohisa)は、「かの人たちのイメージする『人づくり』はまさに下の写真の通り。1942年5月、東京中目黒国民学校の軍事教練。御真影と教育勅語を収めた軍事教練の前で銃剣をかついだ子どもたちに「かしらーツ、みぎツ」の号令が。」と書いている。

奉安殿2(←画像をクリックで拡大できます)

(写真は『別冊一億人の昭和史 学童疎開』(1977年9月15日 毎日新聞社、56~57頁より)

私はこのような方向性を教育界だけでなく文学界でも決定づけたのが、「教育勅語」の渙発の翌年の1月に起きた内村鑑三の「不敬事件」であり、その後に起きた「教育ト宗教ノ衝突」論争や「人生相渉論争」だっただろうと考えている。

それについてはこのホームページでもすでに言及しているので、ここでは先に公開された陸上自衛隊の新たなエンブレムと、公立中学校の「森友学園」化の危険性を示唆している図版を2点挙げるにとどめる。

陸上自衛隊、エンブレム銃剣道2

集団銃剣道を演ずる私学校の生徒(1942年、写真は「ウィキペディア」より)

これらの図版は「積極的平和主義」を掲げつつ、広島・長崎だけでなく福島の悲惨な経験を反省することなく、原発産業や軍需産業に肩入れして戦争に突き進んでいる安倍自公政権の「戦前復帰的な」価値観を雄弁に物語っていると思えるからである。

「森友学園」問題と「教育勅語」の危険性――『夜明け前』論にむけて(5) 

前回は「森友学園」における「教育勅語」をめぐる問題のようなことは、内村鑑三の「不敬事件」以降、日本の近代化や宗教政策とも複雑に絡み合いながら常に存在しており、それを明治から昭和初期にかけて深く分析したのが作家の島崎藤村だったと記した。

今回は「教育勅語」の成立をめぐる問題をもう少し補った後で、島崎藤村と「教育勅語」の関わりを掘り下げることにしたい。

*   *   *

明治憲法は明治22年年2月11日に公布され、翌年の11月29日に施行されたが、この間にその後の日本の教育や宗教政策を揺るがすような悲劇が起きていた。すなわち、大日本帝国憲法発布の式典があげられる当日に「大礼服に威儀を正して馬車を待っていた」文部大臣の森有礼が国粋主義者によって殺されたのである。

林竹二は『明治的人間』(筑摩書房)において、この暗殺事件の背景には「学制」以来の教育制度を守ろうとした伊藤博文と国粋の教育を目指した侍講元田永孚のグループとの激しい対立があったと指摘し、この暗殺により「国教的な教育」を阻止する者はなくなり、この翌年には「教育勅語」が渙発(かんぱつ)されることになったと記している。

作家の司馬遼太郎も西南戦争の後で起きた竹橋事件を鎮圧して50余名を死刑とした旧長州藩出身の山県有朋が発した「軍人訓戒」が明治15年の「軍人勅諭」につながるばかりか、さらに「明治憲法」や「教育勅語」にも影響を及ぼしていることに『翔ぶが如く』(文春文庫)でふれていたが、このあとに総理大臣となった山県有朋は「勅語」の作成に熱心でなかった第二代文部大臣の榎本武揚を退任させ、代わりに内務大臣の時の部下であった芳川顕正を起用して急がせていた。

こうして、山県内閣の下で起草され、明治天皇の名によって山県首相と芳川文部大臣に下された「教育勅語」は、大日本憲法が施行されるより前の明治23年10月30日に発布され、また島崎藤村が長編小説『破戒』で描くことになる教育事務の監督にあたる郡視学や「小学校祝日大祭日儀式規程」などを定めた第二次小学校令もそれより少し前の10月7日に公布された。

注目したいのは、宗教学者の島薗進氏が「教育勅語が発布された後は、学校での行事や集会を通じて、国家神道が国民自身の思想や生活に強く組み込まれていきました。いわば、『皇道』というものが、国民の心とからだの一部になっていったのです」と語っていることである(『愛国と信仰の構造』集英社新書)。

このように見てくるとき、「言論の自由や結社の自由、信書の秘密」など「臣民の権利」や司法の独立を認めた明治憲法が施行される前に、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」と明記された「教育勅語」を、学校行事で習得させることができるような体制ができあがっていたように思われる。

実際、明治24年1月9日に第一高等中学校の講堂で行われた教育勅語奉読式においては教員と生徒が順番に「教育勅語」の前に進み出て、天皇親筆の署名に対して「奉拝」することが求められたが、軽く礼をしただけで最敬礼をしなかったキリスト教徒の内村鑑三は、「不敬漢」という「レッテル」を貼られ退職を余儀なくされたのである。

比較文明学者の山本新が指摘しているように「不敬事件」として騒がれた内村鑑三の事件は、「大量の棄教現象」を生みだすきっかけとなり、この事件の後では「国粋主義」が台頭することになったが、同じ年に「教育勅語」の解説書『勅語衍義(えんぎ)』を出版していた東京帝国大学・文学部哲学科教授の井上哲次郎が、明治26年4月に『教育ト宗教ノ衝突』を著して改めて内村鑑三の行動を例に挙げながらキリスト教を「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」とした「教育勅語」の「国家主義」に反する反国体的宗教として激しく非難したことはこのような動きを加速させた。

私たちの視点から興味深いのは、長編小説『春』(明治41)において『文学界』の同人たちの交友や北村透谷の自殺を描いた藤村が、徳富蘇峰の『国民之友』に掲載された山路愛山の史論「頼襄(のぼる)を論ず」を厳しく批判した透谷の「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」と題した論文からも長い引用を行っていたことである。

島崎藤村は後に北村透谷について「彼は私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人の一人だ。そして私達のために、早くもいろいろな支度をして置いて呉れたやうな気がする」と書いているが、「尊皇攘夷の声四海に遍(あまね)かりしもの、奚(いづくん)ぞ知らん彼が教訓の結果に非るを」と、頼山陽をキリスト教の伝道師・山路愛山が書いたことを厳しく批判した透谷の論文も、その2ヶ月後におきる「教育ト宗教ノ衝突」論争をも先取りしていたようにみえる。

そして、島崎藤村も北村透谷の批判を受け継ぐかのように、日露戦争の最中に書いた長編小説『破戒』で、「教育勅語」と同時に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた小学校教育の状況を、明治6年に国の祝日とされた天長節の式典などをとおして詳しく描いた。

この長編小説では、ロシア帝国における人種差別の問題にも言及しながら、四民平等が宣言されたあともまだ色濃く残っていた差別の問題を鋭く描き出していることに関心が向けられることが多い。しかし、現在の「森友学園」の問題にも注意を向けるならば、「『君が代』の歌の中に、校長は御影(みえい)を奉開して、それから勅語を朗読した。万歳、万歳と人々の唱へる声は雷(らい)のやうに響き渡る。其日校長の演説は忠孝を題に取つたもので」と、「教育勅語」が学校教育に導入された後の学校行事を詳しく描き出していた長編小説『破戒』の現代的な意義は明らかだろう。

一方、自伝的な長編小説『桜の実の熟するとき』で学生時代に「日本にある基督教界の最高の知識を殆(ほと)んど網羅(もうら)した夏期学校」に参加した際に徳富蘇峰と出会ったときの感激を「京都にある基督教主義の学校を出て、政治経済教育文学の評論を興し、若い時代の青年の友として知られた平民主義者が通った」と描いていた。実際、明治19年に『将来之日本』を発行して、国権主義や軍備拡張主義を批判した言論人・徳富蘇峰は、翌年には言論団体「民友社」を設立して、月刊誌『国民之友』を発行するなど青年の期待を一身に集めていた。

しかし、『大正の青年と帝国の前途』(大正5)で蘇峰は、「教育勅語」を「国体教育主義を経典化した」ものと高く評価し、「君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神」の養成と応用に「国民教育の要」があると主張していた。

この長編小説が発行されたのが、第一次大戦後の大正8年であったことを考慮するならば、長編小説『桜の実の熟するとき』における「若い時代の青年の友として知られた平民主義者が通った」という描写には、権力に迎合して「帝国主義者」に変貌した蘇峰への鋭い皮肉と強い批判が感じられる。

奉安殿2(←画像をクリックで拡大できます)

(写真は『別冊一億人の昭和史 学童疎開』(1977年9月15日 毎日新聞社、56~57頁より)

司馬遼太郎は昭和初期を「別国」と呼んでいるが、大正14年に制定された治安維持法が昭和3年に改正されていっそう取り締まりが厳しくなると、学校の奉安殿建築が昭和10年頃に活発になるなど蘇峰が「国体教育主義を経典化した」ものと位置づけていた「教育勅語」の神聖化はさらに進んだ。ロシア文学にも詳しい作家の加賀乙彦氏は、この時代についてこう語っていた。

「昭和四年の大恐慌から、その後満州事変が起こり軍国主義になっていく。軍需産業が活性化して、産業資本は肥え太っていく。けれども、その時流に乗れないのは農村、山村、そして東北の人々などの…中略…草莽の人々は、昭和四年から昭和十年にかけて、どんどん置き忘れられて、結局は兵隊として役に立つしかないようになる」。

島崎藤村の大作『夜明け前』は、このように厳しい時代に書き続けられていたのである。

奉安殿(←かつて真壁小学校にあった奉安殿。図版は「ウィキペディア」より)

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「森友学園」をめぐっては次々と新たな疑惑が発覚している。

その一つが2月22日の国会質疑で以前から塚本幼稚園を知っていたかとの質問に、「聞いたことはありますけれど、その程度でございます」と答弁していた稲田防衛相の「教育勅語」観と「森友学園」との関係である。

「教育勅語」をめぐる問題は急に持ち上がったことではなく、内村鑑三の「不敬事件」以降、日本の近代化や宗教政策とも複雑に絡み合いながら常に存在しており、それを明治から昭和初期にかけて深く分析したのが作家の島崎藤村だったと私は考えている。

それゆえ、ここではもう少し現代の日本の政治と「教育勅語」の問題をもう少し考察しておきたい。

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弁護士出身の稲田朋美防衛相と「森友学園」の問題がクローズアップされたのは、「保守の会」会長の松山昭彦氏が15年3月のFacebookに「塚本幼稚園の籠池園長とは今後も連絡を取り合うことにしました。ちなみに国会議員になる前の稲田朋美先生は塚本幼稚園の顧問弁護士だったそうです。驚きました」と書き込んだ投稿が見つかったことによる。

これには出典も明記されていたので、私も3月4日付けの記事で稲田氏が「顧問弁護士を努めていたことが判明した」と記した(稲田朋美・防衛相と作家・百田尚樹氏の憲法観――「森友学園」問題をとおして)

しかし、その後松山氏自身が2年前の書き込みの間違いを認めて削除した上、新たに「顧問弁護士だったのは稲田先生の旦那さんの方でした。この場を借りて訂正いたします」との書き込みをしていた。

この件については、「リテラ」(3月7日号)が「稲田と夫は同じ弁護士事務所で、政治的にも一心同体の関係。もし、稲田の夫が森友学園の顧問弁護士なら、稲田と森友学園もそれなりの関係にあったと考えるべきだろう」と書いていたが→lite-ra.com/2017/03/post-2970.html … @litera_web、菅野完氏の3月13日のインタビューと平成17年の文書によって、夫の稲田龍示氏だけでなく稲田朋美防衛相も森友学園の訴訟代理人を務めていたことが明らかなった。

しかも、この論考の第二回では2月23日の衆院予算委員会で民進党の辻元清美議員から質問された稲田氏が、「教育勅語の中の親孝行とかは良い面だ。文科省が言う、丸覚えさせることに問題があるということはどうなのかと思う。どういう教育をするかは教育機関の自由だ」と答弁していたことも紹介した。

今回の「リテラ」の記事からは、それがすでに2006年7月2日付紙面で「教育勅語 幼稚園で暗唱 大阪の2園 戸惑う保護者も 園長『愛国心はぐくむ』」と題した「東京新聞」の次のような記事への反論の延長戦上にあったことが分かった。

〈園側は「幼児期から愛国心、公共心、道徳心をはぐくむためにも教育勅語の精神が必要と確信している」と説明〉、さらに籠池理事長も「戦争にいざなった負の側面を際立たせ、正しい側面から目をそむけさせることには疑問を感じる」などと発言したことも記した同記事には、取材を受けた文部科学省幼児教育課が、「教育勅語を教えるのは適当ではない。教育要領でも園児に勅語を暗唱させることは想定していない」とコメントしたことも記載されていたが、これを厳しく批判していたのが当の稲田氏だったのである。

「リテラ」は稲田防衛相が自らほこらしげに「WiLL」(ワック)2006年10月号の新人議員座談会でこう語っていた箇所を引用している。

〈そこで文科省の方に、「教育勅語のどこがいけないのか」と聞きました。すると、「教育勅語が適当ではないのではなくて、幼稚園児に丸覚えさせる教育方法自体が適当ではないという主旨だった」と逃げたのです。/ しかし新聞の読者は、文科省が教育勅語の内容自体に反対していると理解します。今、国会で教育基本法を改正し、占領政策で失われてきた日本の道徳や価値観を取り戻そうとしている時期に、このような誤ったメッセージが国民に伝えられることは非常に問題だと思います」。

さらに「リテラ」は前述の座談会で、麻生太郎財務相が「教育勅語の内容はよいが、最後の一行がよくない」「『以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ』と言ったような部分が良くない」と指摘したことを新人の稲田議員が「教育勅語は、天皇陛下が象徴するところの日本という国、民族全体のために命をかけるということだから、(略)教育勅語の精神は取り戻すべきなのではないかなと思ってるんです」と批判していたことも紹介している。

一番の問題はこの箇所だろう。なぜならば、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と記された箇所こそは、『教育勅語』を「国体教育主義を経典化した」ものと高く評価した言論人・徳富蘇峰が『大正の青年と帝国の前途』で、「君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神」の養成と応用に「国民教育の要」があると主張する根拠となった一節だと思えるからである。

戦時中の1942年12月には内閣情報局の指導のもとに設立された大日本言論報国会の会長となって言論統制にあたることになる蘇峰は同書において、集団のためには自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを讃えて、「我が旅順の攻撃も、蟻群の此の振舞に対しては、顔色なきが如し」と記して、作家の司馬遼太郎が『坂の上の雲』で「自殺戦術」によって兵士が「虫のように殺されてしまう」と厳しく批判した「突撃」の精神を讃えていた。

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 こうして、すでに2006年には「森友学園」の問題が指摘されており、公的な秘書が5人もついていたにもかかわらず、安倍昭恵首相夫人が2014年12月に続いて2015年9月にも「森友学園」で講演し、その教育方法を称賛して名誉校長を2017年2月24日まで引き受けていたことはきわめて問題だと思われる。

「森友学園」をめぐっては、さまざまな問題が次々と発覚するために報道もそれに追われてしまうという傾向も見られるが、徳富蘇峰の解釈に現れているように「徹底した人命軽視の思想」も秘めている「教育勅語」の重要性を強調する稲田防衛相と彼女を防衛相に任命した安倍首相の責任問題も焦点の一つであることはたしかだろう

(2017年3月13日、加筆しリンク先を追加)

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