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坂口安吾

「維新」という幻想と裏切られた「革命」――小林秀雄のドストエフスキー観と『夜明け前』論

序に代えて――『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』を書き終えて

 ブルガリア・ドストエフスキー協会の主催による国際シンポジウムが昨年の10月23日から26日にかけて行われた。この年が長編『白痴』の刊行から一五〇年に当たる年であるため、『白痴』をテーマとした発表が多く行われ、黒澤映画《白痴》の「円卓会議」も行われた。その企画の打ち合わせや発表の準備のために、発行を急いでいた拙著の脱稿は大幅に遅れてしまった。

しかし、私のドストエフスキー論を確立する上でも重要なこの映画について再び考える機会が与えられたのは私にとって幸いだったのでいずれ論文として発表することにしたい。

 ここでは拙著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(成文社)執筆までの私の小林秀雄についての考察の歩みと今後の方向性を覚え書きの形で簡単に書いておきたい。

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社  

一、小林秀雄の復権と「神話」への懐疑

 敗戦後間もない1946年の座談会「コメディ・リテレール」ではトルストイ研究者の本多秋五などから戦時中の言動を厳しく追及された文芸評論家の小林秀雄(1902~1983)は、「僕のような気まぐれ者は、戦争中支那なぞをうろつき廻り、仕事なぞろくにしなかったが、ドストイエフスキイの仕事だけはずっと考えていた」と語っていた。

 作家の坂口安吾も1947年に著した「教祖の文学 ――小林秀雄論」で、「思うに、小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」と書き、小林秀雄が「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったと厳しく批判したことはよく知られている(『坂口安吾全集 5』、筑摩書房、1998年、239~243頁)。

 1948年には「『罪と罰』についてⅡ」を『創元』に掲載し、黒澤明監督の映画《白痴》が公開された翌年の1952年から2年間にわたって「『白痴』についてⅡ」を連載した小林は、徐々に評論家としての復権を果たし、「評論の神様」と称されるようになる。

 一九四九年生まれの私は、いわゆる「小林神話」が強い時期に青春を過ごし、「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論からは私も一時期、強い影響を受けた。

 しかし、原作の文章と比較しながら小林秀雄の評論を再読した際には、「異様な迫力をもった文体」で記されてはいるが、そこでなされているのは研究ではなく新たな「創作」ではないかと感じるようになった。

 それゆえ、作家の丸谷才一が1980年に「小林秀雄の文章を出題するな」というエッセイを発表して、芥川龍之介の『少年』と『様々なる意匠』の2つの文章を並べて出題した「北海道大学の入試問題をこてんぱんにやっつけたときには、よくぞ言ってくれたと快哉を叫んだものである」と書いたフランス文学者の鹿島茂氏同じような感慨を私も強く抱いた。

二、方法の模索

 文壇だけでなく学問の世界にも強く根をはっていた小林秀雄のドストエフスキー論と正面から対峙するには、膨大な研究書や関連書がある小林秀雄を批判しうる有効な手法を模索せねばならず、予想以上の時間が掛かった。

 ようやくその糸口を見つけたと思えたのは、小林秀雄の『白痴』論とはまったく異なったムィシキン像が示されている黒澤映画《白痴》をとおして長編小説『白痴』を具体的に分析した拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』を2011年に出版した後のことであった。

 すなわち、『罪と罰』と『白痴』の連続性を強調するために小林秀雄は、「来るべき『白痴』はこの憂愁の一段と兇暴な純化であつた。ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」と書いていた。しかし、シベリアから帰還したことになると、判断力がつく前に妾にされていたナスターシヤの心理や行動を理解する上で欠かせない、ムィシキンのスイスの村での体験――マリーのエピソードやムィシキンが衝撃を受けたギロチンによる死刑の場面もなくなってしまうのである。

 「『白痴』についてⅠ」の第三章で、小林は「ムイシュキンの正体といふものは読むに従つていよいよ無気味に思はれて来るのである」と書き、簡単な筋の紹介を行ってから「殆ど小説のプロットとは言ひ難い」と断じている〔87~88〕。しかしそれは、それはスイスでのエピソードが省かれているばかりでなく、筋の紹介に際しても重要な登場人物が意図的に省略されているために、ムィシキンの言動の「謎」だけが浮かび上がっているからだと思われる。

 一方、黒澤明は復員兵の亀田(ムィシキン)が死刑の悪夢を見て絶叫するという場面を1951年に公開した映画《白痴》の冒頭で描くことで、長編小説『白痴』のテーマを明確に示していたのである。

 福島第一原発事故後の2014年に出版した『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』では、長編小説『白痴』に対する彼らの解釈の違いばかりでなく、「第5福竜丸」事件の後で映画《生きものの記録》を撮った黒澤明監督と、終戦直後には原爆の問題を鋭く湯川秀樹に問い詰めていながら、その後は沈黙した小林との核エネルギー観の違いにも注意を払うことで、彼らの文明観の違いをも浮き彫りにした。

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三、「維新」という幻想――明治の文学者のドストエフスキー理解

 ただ、黒澤明は評論家ではなく、映像をとおして自分の考えを反映する映画監督であった。そのために、黒澤明の映画をとおして小林秀雄のドストエフスキー論を批判をするという方法では小林秀雄の問題点を指摘することはできても、言論活動である小林秀雄の評論をきちんと批判すること上ではあまり有効ではなかった。

 一方、2010年にはアメリカの圧力によって「開国」を迫られた幕府に対して、「むしろ旗」を掲げて「尊王攘夷」というイデオロギーを叫んでいた幕末の人々を美しく描いたNHKの大河ドラマ《龍馬伝》が放映され、2015年には小田村四郎・日本会議副会長の曽祖父で吉田松陰の妹・文の再婚相手である小田村伊之助(楫取素彦・かとりもとひこ)をクローズアップした大河ドラマ《花燃ゆ》が放映された。

 さらに、「明治維新」150年が近づくにつれて「日本会議」系の政治家や知識人が「明治維新」の意義を強調するようになった。そのことを夏目漱石の親族にあたる半藤一利は、漱石の「維新」観をとおしてきびしく批判していたが、それは間接的には小林秀雄の歴史認識をも批判するものであった。

→ 半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」 – 東洋経済オンライン

 それゆえ、私は拙著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』では、『罪と罰』を邦訳した内田魯庵や、明治時代に『罪と罰』のすぐれた評論「『罪と罰』の殺人罪を書いた北村透谷、そして、『罪と罰』の筋や人物体系を詳しく研究することで長編小説『破戒』を書き上げた島崎藤村などをとおして、小林秀雄のドストエフスキー観の問題点を明らかにしようとした。

 その第一の理由は彼らの読みが深いためだが、さらに、「明治維新」が強調される現代の政治や社会の状況が、「神祇官」が設置された明治初期の藩閥政府による独裁政治や、「大東亜戦争」に突入する暗い昭和初期と似てきているからである。明治政府の宗教政策や文化政策の問題点を正確に把握していた北村透谷や島崎藤村などの視点と手法で『罪と罰』を詳しく読み解くことは、「古代復帰」を夢見て、武力による「維新」を強行した日本の近代化の問題点と現政権の危険性をも明らかにすることにもつながると考えた。

 拙著では小林秀雄の『罪と罰』論が本格的に考察されるのはようやく第6章にいたってからなので、迂遠な感じもするのではないかとの危惧もあったが、献本した方々からの反応は予想以上によかった。それは、幕末から明治初期に至る激動の時代に生き、平田篤胤没後の門人となって「古代復帰の夢想」を実現しようと奔走しながら夢に破れて狂死した自分の父を主人公のモデルにした島崎藤村の大作『夜明け前』を最初に考察したことがよかったのではないかと思える。

 実は、『夜明け前』の主人公の青山半蔵が「明治維新後」には「過ぐる年月の間の種々(さまざま)な苦い経験は彼一個の失敗にとどまらないように見えて来た。いかなる維新も幻想を伴うものであるのか、物を極端に持って行くことは維新の附き物であるのか(後略)」と考えるようになっていたとも島崎藤村は記していたのである(『夜明け前』第2部第13章第4節)。

 

 そして、明治の賛美者とされることの多い作家の司馬遼太郎も、幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったと指摘し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と続けていた(太字は引用者、『竜馬がゆく』文春文庫)。

 →https://twitter.com/stakaha5/status/907828420704395266

こうして、島崎藤村の作品に対する小林秀雄の評論をも参照することにより、「天皇機関説」事件によって明治に日本が獲得した「立憲主義」が崩壊する一方で、「弱肉強食」を是とするドイツのヒトラー政権との同盟が強化されていた昭和初期に評論家としてデビューした小林秀雄のドストエフスキー論には、幕末の「尊王攘夷」運動にも通じるような強いナショナリズムが秘められていることを明らかにできたのではないかと考えている。

そして、それは「政教一致」政策を行うことでキリスト教の弾圧を行ったばかりでなく、仏教に対する「廃仏毀釈」運動を行っていた明治の「維新」を高く評価している現在の政権の危険性をも示唆通じるだろう。

 →https://twitter.com/stakaha5/status/816241410017882112

 

四、小林秀雄の戦後の言論活動と堀田善衛の『若き日の詩人たちの肖像』

 ただ、小林秀雄が戦後に評論家として復活する時期の言論活動についての考察まで含めると発行の時期が大幅に遅れるので今回は省いた。

 「評論の神様」として復権することになる小林秀雄の評論の詳しい検証は、稿を改めてドストエフスキーの『白夜』だけでなく、『罪と罰』や『白痴』にも言及しながら、昭和初期の日本を詳しく描くことにより、戦後に復権した岸政権との類似性とその危険視を鋭く指摘していた堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』の考察をとおして行うことにしたい。

 最後に、拙著で考察した小林秀雄の文学解釈の特徴と危険性を箇条書きにしておく。

1,作品の人物体系や構造を軽視し、自分の主観でテキストを解釈する。

2,自分の主張にあわないテキストは「排除」し、それに対する批判は「無視」する。

3,不都合な記述は「改竄」、あるいは「隠蔽」する。

 これらの小林秀雄の評論の手法の特徴は、現代の日本で横行している文学作品の主観的な解釈や歴史修正主義だけでなく、「公文書」の改竄や隠蔽とも深くかかわっていると思われる。

https://twitter.com/stakaha5/status/1100621472278536193

 (2019年3月11日、改訂)

 

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(4)――大衆の軽蔑と「プロパガンダ」の効用

はじめに

7月24日と25日の2日間にわたって行われた国会の閉会中審査でも安倍政権と閣僚、そして官僚たちが「記憶ない」と連発し、明らかに嘘と思われる答弁を繰り返したことにより、加計学園問題の闇はいっそう深くなったように思われる。

前回は安倍政権と閣僚たちが平然と嘘をつけるのは、「日本会議」などで代表委員を務めることになる小田村寅二郎からの依頼に応えて1961年以降、国民文化研究会で講演を行うようになる小林秀雄が、その前年の1960年に書いた「ヒットラーと悪魔」にあるのではないかという仮説を示した。

「評論の神様」とも評される小林秀雄の批判としては大胆すぎる仮説のようにも思われるかもしれない。しかし、作家の坂口安吾は戦後に文芸批評の「大家」として復権した文芸評論家・小林秀雄を、「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったときびしく批判し、「思うに小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」と指摘した自分の小林秀雄論を「教祖の文学」と名付けていた(『坂口安吾全集』第五巻、筑摩書房、1998年、320~328頁)。

坂口安吾のこの指摘に留意しながら、雑誌『改造』の懸賞評論二席に入選した小林秀雄の1929年の「様々な意匠」を読み直すとき、小林秀雄の評論の問題点は上海事変が勃発して満州国が成立した1932年に書かれた「現代文学の不安」だけでなく、すでにデビュー作にも見られるように思われる。

『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社、2014年)

「様々な意匠」と隠された「意匠」

*   *   *

日本における原発の問題を広告という視点から詳しく考察した『原発プロパガンダ』(岩波新書)で本間龍氏は「宣伝を正しく利用するとどれほど巨大な効果を収めうるかということを、人々は戦争の間にはじめて理解した」というヒトラーの言葉を引用している。

注目したいのは、「ヒットラーと悪魔」において、「死んでも嘘ばかりついてやると固く決意し、これを実行した男だ。つまり、通常の政治家には、思いも及ばぬ完全な意味で、プロパガンダを遂行した男だ」とヒトラーを評価した小林秀雄が、彼の言葉を紹介する形で「プロパガンダ」の効用をこう説いていたことである(太字は引用者)。

「大衆が、信じられぬほどの健忘症である事も忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の眼を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。これには忍耐が要るが、大衆は、政治家が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに、敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読み取ってくれる」(115~116頁)。

そして、小林秀雄は次のように続けているが、その一連の記述は国会の論戦において安倍首相や「日本会議」に支えられた閣僚たちの論争術を連想させる。

「彼等(引用者註――知識階級)は論戦を好むが、戦術を知らない。論戦に勝つには、一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事だ。これは鉄則である。押しまくられた連中は、必ず自分等の論理は薄弱ではなかったか、と思いたがるものだ。討論に、唯一の理性などという無用なものを持ち出してみよう。討論には果てしがない事が直ぐわかるだろう。だから、人々は、合議し、会議し、投票し、多数決という人間の意志を欠いた反故を得ているのだ」(116頁)。

そして、「専門的政治家達は、準備時代のヒットラーを、無智なプロパガンディストと見なして、高を括っていた。言ってみれば、彼等に無智と映ったものこそ、実はヒットラーの確信そのものであった。少くとも彼等は、プロパガンダのヒットラー的な意味を間違えていた」と書いた小林は、ヒトラーにおける「プロパガンダ」と「言葉」の関係をこう規定していた。

「彼はプロパガンダを、単に政治の一手法と解したのではなかった。彼には、言葉の意味などというものが、全く興味がなかったのである。プロパガンダの力としてしか、凡そ言葉というものを信用しなかった。これは殆ど信じ難い事だが、私はそう信じている」(118頁)。

小林のこの言葉を読んだときに思い浮かべたのが、『テスト氏』の邦訳において主人公の「善」と「悪」の意識に関わる重要な箇所を小林秀雄が著者の言葉を正確に伝えようとはせずに、意図的に誤訳したと指摘していた寺田透の記述であった。

すなわち、「こういう、より情緒的、より人間臭く、そして、じかに生理にはたらきかけてくる表現の方向をとる小林さんの傾向は『テスト氏』の翻訳の中にも頻繁」に見出されると指摘した寺田は、「『善と縁を切る』といった訳語でなければならない」「s’abstraire de」という原文を、「『善に没頭する事はひどく拙い』と小林さんのように訳しては、話が反対になってしまいはしないでしょうか。/小林さんはこういった間違いを不注意でやったのではないと僕は感じるのです」と記して、こう続けている

「善を断つにはひどい苦渋を伴うが、悪を断つことは楽々とできるテスト氏の性分を暗示した対句ととらなければなりませんでしょう。/あとのほうを小林さんは『悪には手際よく専念している……』と訳していますが、こうなると、ある人間解釈にもとづく、積極的な誤訳としかいいようがありません」(寺田透「その頃のヴァレリー受容――小林秀雄氏の死去の折にⅢ」『私本ヴァレリー』、筑摩叢書、1987年、58~63頁)。

少し長い引用となったが、この指摘はドストエフスキーの作品の意味を正確に読み取るのではなく、不安な時代に合わせてセンセーショナルな解釈をすることで読者を獲得しようとしていた小林秀雄のドストエフスキー論の本質をも鋭く突いていると思われる。そのことについては稿を改めて考察したい。

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(2017年8月6日、リンク先を追加)

坂口安吾の小林秀雄観(3)――『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャをめぐって

少し寄り道をしましたが、いよいよ1948年に行われた『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャをめぐる小林秀雄と坂口安吾の議論を考察することにしますが、この対話を読んで驚いたのは、そこでは安吾が戦前からドストエフスキー論の権威とみられていた小林に対して押し気味に議論を進めているように見えたことです。

ただ、小林秀雄は未完に終わった全八章からなる『カラマアゾフの兄弟』論を、太平洋戦争が始まることになる一九四一年の一〇月号から翌年の九月号にかけて発表していました。対談はこの論稿を踏まえて行われていると思われますので、アリョーシャについての記述を中心にこの『カラマアゾフの兄弟』論をごく簡単に見、その後で戦後の「モーツァルト」から「ゴッホの手紙」を経て「『白痴』についてⅡ」までの流れを時系列的に整理しておくことにします。

*   *   *

『カラマアゾフの兄弟』論の冒頭で「バルザックもゾラも、フョオドルの様な堕落の堂々たるタイプを描き得なかつた」と指摘した小林は、ゾシマの僧院に集まった家族たちについて紹介しながら、「カラマアゾフ一家は、ロシヤの大地に深く根を下してゐる。その確乎たる感じは、ロシヤを知らぬ僕等の心にも自から伝はる。大芸術の持つ不思議である」と高く評価しています。

そして「長男のドミトリイは、田舎の兵営からやつて来る。次男のイヴァンはモスクヴァの大学から、三男のアリョオシャは僧院から。彼等は長い間父親から離れて成人したのだし、お互に知る処も殆どない」と家族関係を簡明に紹介し、「道具立てはもうすつかり出来上がつてはゐるのだが、何も知らぬ読者は謎めいた雰囲気の中に置かれてゐる。その中で、フョオドルの顔だけが、先ず明らかな照明をうける」とし、「コニャクを傾け、馬鹿気た事を喋り散らすだけで、フョオドルはもうそれだけの事をしてしまふ。ともあれ、其処には、作者の疑ふべくもない技巧の円熟が見られる」と記していました。

本稿の視点から興味深いのは、「この円熟は、『カラマアゾフの兄弟』の他の諸人物の描き方や、物語の構成に広く及んでゐる」と続けた小林が、『白痴』のムィシキンとの類似点にも注意を促しながらアリョーシャについてこう書いていることです。

「『白痴』のなかでは、ムイシュキンといふ、誰とでも胸襟を開いて対する一人物を通じ、謎めいた周囲の諸人物が、次第に己れの姿を現して行くといふ手法が採られてゐたが、この作でもアリョオシャが同じような役目を勤める」が、アリョーシャは世俗の世界と「静まり返つたゾシマの僧院」の「二つの世界に出入して渋滞する処がない」。

さらに、「言ふ迄もなく、イヴァンは、『地下室の手記』が現れて以来、十数年の間、作者に親しい気味の悪い道連れの一人である」とした小林は、「確かに作者は、これらの否定と懐疑との怪物どもを、自分の精神の一番暗い部分から創つた」として、イワンがアリョーシャに語る子供の苦悩についての話や「大審問官」についても、忠実に紹介しています。

こうして『カラマーゾフの兄弟』の構成と登場人物との関わりを詳しく分析した小林は、この評論の第六章ではドミートリーについて、「恐らく彼ほど生き生きと真実な人間の姿は、ドストエフスキイの作品にはこれまで現れた事はなかつたと言つてもいゝだらう。読者は彼の言行を読むといふより、彼と付合い、彼を信ずる。彼の犯行は疑ひなささうだが、やはり彼の無罪が何となく信じられる、読者はさういふ気持にさせられる」と見事な指摘をしていました。

残念ながら、この『カラマーゾフの兄弟』論も未完で終わっているのですが、注目したいのは、小説の全体的な構造や結末での少年たちとアリョーシャとの会話も踏まえて小林秀雄が次のように記していたことです。

「今日、僕等が読む事が出来る『カラマアゾフの兄弟』が、凡そ続編といふ様なものが全く考へられぬ程完璧な作と見えるのは確かと思はれる。彼が嘗て書いたあらゆる大小説と同様、この最後の作も、まさしく行くところまで行つてゐる。完全な形式が、続編を拒絶してゐる」。

この適確な指摘は、現在の通俗的な『カラマーゾフの兄弟』の理解をも凌駕していたように見えます。

*   *   *

こうして、太平洋戦争が始まる1941年の10月から翌年の9月まで「『カラマアゾフの兄弟』」を『文藝』に8回数連載して中断した小林秀雄は、戦況が厳しくなり始めた同年の12月頃から「モーツァルト」の構想を練り始め、敗戦をむかえる頃から執筆を開始して、1947年の7月に『モオツアルト』を創元社から刊行していました。

同じ1947年に「通俗と変貌と」を『書評』1月号に発表した坂口安吾は、『新潮』6月号に発表した「教祖の文学」で、研究者の相馬正一が書いたように、「面と向かって評論界のボス・小林秀雄」を初めて「槍玉に挙げた」のです。

一方、翌年の1948年8月に湯川秀樹との対談「人間の進歩について」(『新潮』)で原子力エネルギーを批判した小林秀雄は、その11月に「『罪と罰』についてⅡ」(『創元』)を、12月に「ゴッホの手紙」(『文體』)発表しています。

そして、1951年1月から発表の場を『藝術新潮』に移して「ゴッホの手紙」を翌年の2月まで連載した小林秀雄は、その年の5月からは「白痴」についてII」を『中央公論』に連載を始めます。このことを考えれば、「作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観」で記したように、「ゴッホの手紙」は「白痴」についてII」の構想とも結びついていたといえるでしょう。

「伝統と反逆」と題された対談で、「僕が小林さんの骨董趣味に対して怒ったのは、それなんだ」といい、さらに「小林さんはモーツァルトは書いただろうけど音楽を知らんよ」と批判した安吾は、ゴッホをやると語ったことについても「しかし小林さんは文学者だからね、文学でやってくれなくちゃ。文学者がゴッホを料理するように、絵に近づこうとせずに」と批判していました。

小林の伝記的研究の問題点を指摘していた寺田透も、「それはそうとゴッホに対してこの小林のやり方はうまく行っただろうか。/世評にそむいて僕は不成功だったと思っている」と書き、「小林流にやったのでは」、「絵をかくものにとって大切な、画家ゴッホを理解する上にも大切な考えは、黙過されざるをえない」と批判するようになるのです。

一方、安吾の批判に対して小林はメソッドを強調しながら次のように反論したのです。

「例えば君が信長が書きたいとか、家康が書きたいとか、そういうのと同じように俺はドストエフスキイが書きたいとか、ゴッホが書きたいとかいうんだよ。だけど、メソッドというものがある。手法は批評的になるが、結局達したい目的は、そこに俺流の肖像画が描ければいい。これが最高の批評だ。作る素材なんか何だってかまわぬ」。

しかし、安吾は追求の手を緩めずに、「小林さんは、弱くなってるんじゃないかな。つくるか、信仰するか、どっちかですよ。小林さんは、中間だ。だから鑑賞だと思うんです。僕は芸術すべてがクリティックだという気魄が、小林さんにはなくなったんじゃないか、という気がするんだよ」と厳しく迫ります。この発言から対談は一気に『カラマーゾフの兄弟』論へと入っていきます。

「まあ、どっちでもよい。それより、信仰するか、創るか、どちらかだ……それが大問題だ。観念論者の問題でも唯物論者の問題でもない。大思想家の大思想問題だ。僕は久しい前からそれを予感しているんだよ、だけどまだ俺の手には合わん。ドストエフスキイの事を考えると、その問題が化け物のように現われる。するとこちらの非力を悟って引きあがる。又出直す。又引きさがる、そんな事をやっている。駄目かも知れん。だがそういう事にかけては、俺は忍耐強い男なんだよ。癇癪を起すのは実生活に於てだけだ」。

この発言からは山城むつみ氏が『小林秀雄とその戦争の時――「ドストエフスキイの文学」の空白』(新潮社、2014年)で言及していた戦時中から敗戦直後までの、ドストエフスキー作品に対する小林の真摯な取り組みが感じられます。

それに対して安吾も「僕がドストエフスキイに一番感心したのは『カラマアゾフの兄弟』だね、最高のものだと思った。アリョーシャなんていう人間を創作するところ……」と応じ、「アリョーシャっている人はね……」と言いかけた小林も、安吾に「素晴らしい」とたたみかけられると、「あれを空想的だとか何とかいうような奴は、作者を知らないのです」と答えていたのです。

ただ、その後の安吾とのやりとりからは、小林秀雄が『カラマーゾフの兄弟』に対する見方を少しずつ変えていくことになる予兆さえも感じられるので、稿を改めて考察することにします。

坂口安吾の小林秀雄観(2)――バルザック(1799~1850)の評価をめぐって

FRANCE - HONORE DE BALZAC

(Honoré de Balzac ,Louis-Auguste Bisson – Paris Musées. 図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

1932(昭和6)年10月に創刊された同人誌『文科』(~昭和7年3月)で小林秀雄や河上徹太郎とともに同人だった作家の坂口安吾が、戦後間もない1947年に著した「教祖の文学 ――小林秀雄論」で、「思うに、小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」と書き、小林秀雄が「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったと厳しく批判したのはよく知られています。

しかし安吾は、その少し前に「日本は小林の方法を学んで小林と一緒に育つて、近頃ではあべこべに先生の欠点が鼻につくやうになつたけれども、実は小林の欠点が分るやうになつたのも小林の方法を学んだせゐだといふことを、彼の果した文学上の偉大な役割を忘れてはならない」とも断っていたのです。

実際、その翌年の1933年12月に発表した「『未成年』の独創性について」と題された論考で、「たうとう我慢がし切れないのでわたしは自分の実生活に於ける第一歩の記録を綴る事に決心した」という冒頭の言葉を引用した小林は、「『未成年』は全篇ドルゴルウキイといふ廿一歳の青年の手記である。彼の作品中で最も個性的な書出しで、この青年の手記は始る」ことに注意を促していました。

「告白」という文体の重要性を指摘した小林は、次のように記してドストエフスキー作品の特徴にも鋭く迫っていました〔一五〕。

「私は以前ドストエフスキイの作品の奇怪さは現実そのものの奇怪さだと書いた事があるが、彼の作品の所謂不自然さは、彼の徹底したリアリズムの結果である、この作家が傍若無人なリアリストであつたによる。外に秘密はない。さういふ信念から私は彼の作品を理解しようと努めてゐる」〔二〇〕。

相馬正一氏の『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』の巻末に付けられた略年譜によれば、安吾もこの年の9月に「文学仲間を誘ってドストエフスキー研究会を立ち上げ」ていました。同じ年に書いた「ドストエフスキーとバルザック」で、「小説は深い洞察によって初まり、大いなる感動によって終るべきものだと考えている」と書いた安吾は、「近頃は、主として、ドストエフスキーとバルザックを読んでいる」と記し、こう続けていたのです。

「バルザックやドストエフスキーの小説を読むと、人物人物が実に的確に、而して真実よりも遙かに真実ではないかと思われる深い根強さの底から行動を起しているのに驚嘆させられる」と記した安吾は、「ところが日本の文学ではレアリズムを甚だ狭義に解釈しているせいか、『小説の真実』がひどくしみったれている」。

このような安吾のバルザック観やドストエフスキー観は、この時期の小林秀雄のドストエフスキー観とも深く共鳴しているように見えます。しかし、小林秀雄は戦後の1948年11月に『創元』に掲載した「『罪と罰』についてⅡ」では、「ドストエフスキイは、バルザックを尊敬し、愛読したらしいが、仕事は、バルザックの終つたところから、全く新に始めたのである」と書き、「社会的存在としての人間といふ明瞭な徹底した考へは、バルザックによつてはじめて小説の世界に導入されたのである」が、「ドストエフスキイは、この社会環境の網の目のうちに隈なく織り込まれた人間の諸性格の絨毯を、惜し気もなく破り捨てた」と続けていました。

拙著『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』では、バルザックの『ゴリオ爺さん』(一八三四)におけるヴォートランと若き主人公のラスティニャックとの関係とスヴィドリガイロフとラスコーリニコフとの関係を比較しました。ここでは詳しく検証する余裕はありませんが、知識人の自意識と「孤独」の問題を極限まで掘り下げたドストエフスキーは、むしろ、バルザックの「社会的存在としての人間」という考えも受け継ぎ深めることで、「非凡人の理論」の危険性などを示唆し得ていたと思われます。

この点で参考になるのが、1953年に『バルザック 人間喜劇の研究』(筑摩書房)を刊行していたフランス文学者・寺田透の考察です。寺田は1978年に刊行した『ドストエフスキーを讀む』(筑摩書房)の冒頭に置いた『未成年』論をこう始めていました。

「しばらく外国の文学者について長い文章を書かずにゐた。中でもドストエフスキーについては、それを正面からとりあげて論文めいたものを書いたたことがない。バルザックとの関係で、あるいはリアリズムの問題を論ずるついでにとりあげたことはあつても」。

そして、「ドストエフスキーほどにはバルザックを読まない日本の読者たちのために」、『村の司祭』などの筋を紹介しながら、ことに『浮かれ女盛衰記』のリュシアンの「操り手だった」ジャク・コランの思想と『罪と罰』のラスコーリニコフの主張との共通性を指摘した寺田は、作者の手法の違いについてこう記しているのです。

「バルザックが政治的妥協によつて解決したかに見せたところを。ドストエフスキーは、罪を犯したひとりの人間にはどう手の施しやうもない情況を作ることによつて、かれを社会と対決させ、その向うでのかれの甦生をはかつたのである」。

寺田が1978年に刊行した『ドストエフスキーを讀む』(筑摩書房)の冒頭に『未成年』論を置いたのは、本格的なドストエフスキー論を1933年の『未成年』論で始めながら、その後バルザックの評価を大きく変えた小林秀雄への強い批判があったからではないかと私は考えています。

実は、「教祖の文学」の直前に『書評』に掲載した「通俗と変貌と」で坂口安吾はすでにこう記していたのです。少し長くなりますが、寺田透の小林観にもつながる観察ですので引用しておきます。

「いったいこの戦争で、真実、内部からの変貌をとげた作家があったであろうか。私の知る限りでは、ただ一人、小林秀雄があるだけだ。(中略)彼はイコジで、常に傲然肩を怒らして、他に対して屈することがないように見えるけれども、実際は風にもそよぐような素直な魂の人で、実は非常に鋭敏に外部からの影響を受けて、内部から変貌しつづけた人であり、この戦争の影響で反抗や或いは逆に積極的な力の論者となり得ずに諦観へ沈みこんで行った」。

このように小林秀雄を分析した安吾は、それは「勝利の変貌であるよりも、敗北の変貌であったようだ」と結んでいました。

少し寄り道をしましたが、次回は再び1948年に行われた小林秀雄と坂口安吾との対談に戻って、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャをめぐる議論を分析することにします。

 

坂口安吾の小林秀雄観(1)――モーツァルト論とゴッホ論をめぐって

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(坂口安吾の写真。図版は「ウィキペディア」より)

『ドストエフスキーを讀む』(筑摩書房、1978年)という研究書もあるフランス文学者・寺田透(1915~1995)には、文芸評論家の小林秀雄(1902~1983)についての一連の考察があります。

たとえば、1951年に発表された「小林秀雄論」で「たしかにかれはその文体によって読者の心理のうちに生きた」と小林の強烈な文体から受けた印象を記し、「いわば若年の僕は、そういうかれの文体に鞭打たれ、薫染されたと言えるだろう」と続けた寺田は、小林の伝記的研究『モーツアルト』についてこう記しているのです。

「二つの時代が、交代しようとする過渡期の真中に生きた」モーツアルトの「使命は、自ら十字路と化す事にあった」とを規定しながら、自分自身は、「みずから現代の十字路と化すかわりに、現代の混乱と衰弱を高みから見降し」た。

そして寺田は、そのような解釈の方法は小林が「対象を自分に引きつけて問題の解決をはかる、何というか、一種の狭量の持ち主であることをも語っている」と批判していたのです。

このことについては拙論 「作品の解釈と『積極的な誤訳』――寺田透の小林秀雄観」(『世界文学』第122号、2015年)でふれていましたが、今回、相馬正一氏の『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』を読み直す中で、安吾が同じような批判を直接小林秀雄に投げかけていたことに気づきました。

評論「教祖の文学」を発表した1年後の1948年に行われた小林秀雄と坂口安吾との「伝統と反逆」と題した対談について、相馬氏は評論家の奥野健男が「真剣勝負とも形容したい名対談である」と評価していることを紹介していますが、「酒豪同士の酒席での対談」からは、時に剣戟の音が聞こえるような激しいものでした。

すなわち、すでに安吾は次のように迫っていたのです。「僕が小林さんに一番食って掛りたいのはね、こういうことなんだよ。生活ということ、ジャズだのダンスホールみたいなもの、こういうバカなものとモーツァルトとは、全然違うものだと思うんですよ。小林さんは歴史ということを言うけれども、僕は歴史の中には文学はないと思うんだ。文学というものは必ず生活の中にあるものでね、モーツァルトなんていうものはモーツァルトが生活してた時は、果して今われわれが感ずるような整然たるものであったかどうか、僕は判らんと思うんですよ」。

小林が「そう、そう。それで?」と発言を促すと、安吾は「僕が小林さんの骨董趣味に対して怒ったのは、それなんだ」といい、さらに「小林さんはモーツァルトは書いただろうけど音楽を知らんよ」と批判したのです。

これに対して「知らんさ」と答えた小林は、「僕は音楽家ではないから、僕は専門の音楽批評家と争おうとは少しも考えていなかった。そんな事は出来ない。あれは文学者の独白なのですよ。モオツァルトという人間論なのです。音楽の達人が音楽に食い殺される図を描いたのだ」と弁明していました。

そして、「今度ゴッホ書くよ。冒険することは面白い事だ」と語ると、安吾は「詰らないことだよ。あなた、画のことなんか知らんから画にぶつかるのが嶮しい道だと思ってる」と切り返し、「私はぶつかりたいのだよ」と繰り返した小林との間で次のような激しやりとりをしていたのです。

*   *   *

坂口 でも、あそこには小林秀雄の純粋性がないよ。つまり、小林がジカにぶつかっていないね。ひねくり廻してはいるが、争ってはいない。書斎の勤労はあるかも知れないが、レーゾン・デートルがあるわけじゃない。そして、何かモデルがあるよ。スタンダールとか、変テコレンなモデルがあるよ。

小林 新しい文学批評形式の創造、それがレーゾン・デートルだ。新しいモデルがなければ、新しい技術を磨く事が出来ない。新しい技術がなければ新しい思想も出て来ない。思想と技術を離すのは観念論者にまかせて置く。

坂口 しかし小林さんは文学者だからね、文学でやってくれなくちゃ。文学者がゴッホを料理するように、絵に近づこうとせずに。

*   *   *

1953年に書かれた寺田透の「ゴッホ遠望」はこの対談を踏まえて書かれていたと思われますが、そこで寺田は「批評家小林秀雄には多くのディレンマがある。そのひとつは芸術家の伝記的研究などその作品の秘密をあかすものではないと、デビュの当初から考え、…中略…それを喧伝するかれが、誰よりも余計に伝記的研究を世に送った文学評論家だということのうちに見出される」と指摘していたのです。

「ゴッホ遠望」では『ドストエフスキイの生活』という小林秀雄の伝記的な作品についてはふれられていませんが、『ドストエフスキーを讀む』を書くことになる寺田透は、このとき小林秀雄のドストエフスキー論の問題点を強く意識していたのではないかと私は考えています。ただ大きなテーマなので、この問題については稿を改めて論じることにします。

相馬正一著『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』(人文書館、2006年11月)

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『国家と個人――島崎藤村「夜明け前」と現代』で長編小説『夜明け前』を本格的に論じていた相馬正一氏は、それから二カ月後に発行した『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』((人文書館、2006年11月)の第5章「教祖・小林秀雄への挑戦状」では、戦後に文芸批評の「大家」として復権した文芸評論家・小林秀雄を厳しく批判していた作家・坂口安吾について詳しく考察していました。

拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』でもその文章の一部を紹介しましたが、1947年に著した「教祖の文学──小林秀雄論」で、小林秀雄を「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったときびしく批判した坂口安吾は、「思うに小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」と指摘していたのです。

相馬氏はこのような安吾の小林秀雄批判が、1947(昭和22)年に行われた鼎談「現代小説を語る」『文学季刊』〈昭和22年4月、実業日本社〉での盟友・太宰治の志賀直哉批判を踏まえた上で行われていたことを第2章「小説の神様・志賀直哉批判」で明らかにしていました。

私は坂口安吾や太宰治などの研究者ではないので、ここでは彼らの小林秀雄観などに絞って本書を紹介したいと思いますが、その前にまず『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』の構成を簡単に見ておくことにします。

*   *   *

はじめに――いま、なぜ安吾なのか

一、倫理としての「堕落論」

二、小説の神様・志賀直哉批判

三、女体の神秘「白痴」の世界

四、自伝的小説という名の虚構

五、教祖・小林秀雄への挑戦状

六、「桜の森の満開の下」の手法

七、盟友・太宰治への鎮魂歌

八、純文学作家の本格推理小説

九、飛騨のタクミと魔性の美少女

十、安吾史譚・柿本人麿の虚実

十一、サスペンス・ドラマ「信長」

十二、巨漢・安吾の褌を洗う女

十三、安吾、全裸の仁王立ち

十四、未完の長篇「火」の破綻

十五、負ケラレマセン勝ツマデハ

十六、無頼派作家の変貌と凋落

十七、風雲児・安吾逝く

おわりに――詩魂と淪落と

坂口安吾・略年譜

あとがき

*   *   *

さて、平野謙の司会で行われた鼎談「現代小説を語る」には、坂口安吾の他に太宰治と織田作之助の三人が出席していました。この鼎談について相馬氏は「三人が一処に会するのはこれが初めてであった」だけでなく、その座談会から一と月後に織田が肺結核が悪化して34歳で亡くなっていることも紹介しています。

そして、「同人誌『現代文学』で安吾と仲間同士だったという気安さもあって」冒頭から挑発的な発言をした平野に太宰治が激しく反撥したことを伝えています。重要な鼎談だと思われるので、少し長く引用しておきます。

平野「大体現代文学の常識からいふと、志賀直哉の文学といふものが現代日本文学のいつとうまつたうな、正統的な文学だとされてゐる。さういふ常識からいへばここに集まつた三人の作家はさういふオーソドックスなリアリズムからはなにかデフォルメした作家たちばかりだと見られてゐるが……。」

太宰「冗談言つちゃいけないよ。」

このような太宰の反撥に共感した織田が、「志賀直哉はオーソドックスだと思つてはゐないけど、さういふものにまつり上げてしまつたんだ。オーソドックスなものに……」と批判したのを受けて、坂口が「あれを褒めた小林の意見が非常に強いのだよ」と語ると、鼎談の流れは一気に小林秀雄批判に傾いていたのです。

織田「さうさう(繰り返し記号)、小林秀雄の文章なんか読むと、一行のうちに『もつとも」といふ言葉が二つくらゐ出て来るだらう。褒めてゐるうちに褒めていることに夢中になつて、自分の理想型をつくつてゐるのだよ。志賀直哉の作品を論じてゐるのぢやない。小林の近代性が志賀直哉の中に原始性といふノスタルヂアを感じたでけで……。』

すると、坂口は「小林といふ男はさういふ男で、あれは世間的な勘が非常に強い。世間が何か気がつくといふ一歩手前に気がつく。さういふカンの良さに論理を托したところがある。だからいま昔の作家論を君たち読んでご覧なさい。実に愚劣なんだ、いまから見ると……。小林の作家論の一歩先のカンで行く役割といふものは全部終つてゐる役割だね」と語っていたのです。

私がこの書からことに強い刺激を受けたのは、この鼎談の翌年に太宰治が「如是我聞(にょぜがもん)」〈昭和23年3~7、『新潮』〉を書いて、自殺した芥川龍之介にも言及しながら「小説の神様」に収まっていた志賀直哉を徹底的に批判した文章を読んだときでした。

このエッセーを「太宰が後進に托した捨て身の〈遺書〉である」とした相馬氏は、太宰が「様々の縁故にもお許しをねがい、或いは義絶も思い設ける」覚悟で書いたこのエッセーから本書でかなり長い引用をしています。

注目したいのは、志賀を評して「も少し弱くなれ、文学者なら弱くなれ。柔軟になれ。おまえの流儀以外のものを、いや、その苦しさを解るやうに努力せよ。どうしても、解らぬならば、だまつてゐろ」と書いた太宰が、「君について、うんざりしてゐることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解つてゐないことである。/日蔭者の苦悶。弱さ。聖書。生活の恐怖。敗者の祈り。/君たちには何も解らず、それの解らぬ自分を、自慢にさへしてるやうだ。そんな芸術家があるだろうか。知っているものは世知だけで、思想もなにもチンプンカンプン。開(あ)いた口がふさがらぬとはこのことである。」と書いていたことです。

そして、「腕力の強いガキ大将、お山の大将、乃木大将。…中略…売り言葉に買い言葉、いくらでも書くつもり」と宣言しておきながら、太宰はこの直後に自殺してしまったのです。

本書に掲載されている「略年譜」によれば、昭和2年に安吾は「私淑していた芥川龍之介の自殺に衝撃を受けて、自殺の誘惑に駆られ」ていました。このことを考えるならば、太宰の自殺から受けた安吾の衝撃の大きさが理解できます。

ただ、第7章「盟友・太宰治への鎮魂歌」で相馬氏は安吾が「不良とキリスト」で『斜陽』などの作品を「傑作として賞賛する一方で」、「死に近きころの太宰は、フツカヨイ的でありすぎた。毎日がいくらフツカヨイであるにしても、文学がフツカヨイじゃ、いけない」と批判的に捉えていたことも紹介しています。

明治期の『文学界』の精神的なリーダーであった北村透谷と徳富蘇峰との関係に関心を持っていた私が注目したのは、内閣情報局の主導で「日本文学報国会」(会長・徳富蘇峰)が結成された1942(昭和17)年6月に、安吾が『現代文学』第7号に「甘口辛口」と題する次のようなエッセーを発表して、国策文学を牽制していたことにも相馬氏が「あとがき」でふれていたことです。

すなわち、ここで「日本文学の確立ということは戦争半世紀以前から主要なる問題であった」と記した安吾は、「ところが戦争このかた、文学の領域では却ってこの問題に対する精彩を失い、独自なる立場を失い、人の後について行くだけが能でしかないという結果になっている」と続けていたのです。

こうして本書からはいろいろと考えさせられることがありましたが、相馬氏は「あとがき」で1948(昭和23)年10月に発表された安吾の「戦争論」にも言及していました。

原子爆弾のような人間の空想を遙かに超えた魔力が現われた以上、これからは「「戦争の力に頼ってその収穫を待つことは許されない。他の平和的方法によって、そして長い時間を期して、徐々に、然し、正確に、その実現に進む以外に方策はない」と当然の理を記した安吾は、すでにこう続けていたのです。

「今日、我々の身辺には、再び戦争の近づく気配が起りつつある。国際情勢の上ばかりではなく、我々日本人の心の中に」。

最後にこのような文筆活動を行っていた「坂口安吾の文学」の全体像を紹介した出版社の文章を引用することでこの小文を終えることにします。

 

坂口安吾の内部には、時代の本質を洞察する文明評論家と

豊饒なコトバの世界に遊ぶ戯作者とが同居しており、

それが時には鋭い現実批判となって国家権力の独善や欺瞞を糾弾し、

時には幻想的なメルヘンとなって読者を耽美の世界へと誘導する。

安吾文学の時代を超えた斬新さ、詩的ダイナミズムの文章力、

そして何よりも、奇妙キテレツな人間どもの生きざまを

面白おかしく説き明かす“語り”の巧さ、

などの魅力の秘密もそこに由来している。」

(2016年3月20日。青い字の部分を加筆)

 

小林秀雄の『夜明け前』評と芥川龍之介観

一,小林秀雄の『夜明け前』評

前回の小文で記したように、長編小説『夜明け前』を正面から論じた相馬正一氏の『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』(人文書館)からは、いろいろと教えられることが多くありました。

たとえば、「長年藤村の告白文学に馴染んできた批評家の多くは『夜明け前』をもその延長線上で捉え、父・島崎正樹をモデルにした〈私小説〉だ」と評価してきたことを紹介した相馬氏は、批評家の篠田一士が「もし世界文学というべきものが近い将来構成されるとすれば、『夜明け前』は当然、たとえば、『戦争と平和』の隣りに並ぶことになるだろう」と述べ、作家の野間宏もこの作品を「近代を超えて現代に通じるものを内に大きくかかえこんでいる」、「近代日本文学のもっとも重要な作品の一つ」と絶賛していたことにもふれています。

ここでは昭和11年に『文学界』5月号に掲載された合評会で、この作品の脚色をした村山知義の「人間が充分に描けていない」という批判に対して、小林秀雄が「人間が描けていないという様な議論もあったが、これは作者が意識して人物の性格とかを強調しなかったところからくる印象ではあるまいか」と弁護していたことも記されています。この前年の1月から『文学界』に『ドストエフスキイの生活』(~37年3月号)を連載し始めていた小林秀雄のこのような評価は客観的で『夜明け前』の意義をすでに見抜いていたことはさすがだと感じました。

ただ、相馬氏の少し踏み込みが足りないと感じたのは、この後で出席者の多くが『夜明け前』を特定のイデオロギーで意味づけようとしていたのに対して小林秀雄が、「『夜明け前』のイデオロギイという言葉自体が妙にひびくほど、この小説は詩的である。この小説に思想を見るというよりも、僕は寧ろ気質を見ると言いたい」と語って、「気質」を強調していたことが批判抜きで紹介されていたことです。

なぜならば、相馬氏は〈結、「夜明け前」と現代〉の章で、この長編小説と時代との関わりについてこう記していたからです。

「藤村が『夜明け前』第二部を発表した昭和七年から十年までは、日本が中国東北部に傀儡(かいらい)政権の〈満州国〉を造り上げて戦争へと突き進んだ時期であり、皇国史観と治安維持法を武器にして自由主義者や進歩的な学者への弾圧を強化した時期である」。

そして相馬氏は、「藤村にとっては、まさに戦前の恐怖政治を見据えての執筆だったのである」と続けていました。

長編小説『夜明け前』の合評会はこのような時期の直後の昭和11年に行われていたのですが、上海事変が勃発した1932(昭和7)年6月に雑誌『改造』に書いた評論「現代文学の不安」で、文芸評論家の小林秀雄は「この絶望した詩人たちの最も傷ましい典型は芥川龍之介であつた。多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書き、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していました〔『小林秀雄全集』第1巻〕。

こうして芥川文学の意義を低める一方で、小林はドストエフスキーについては「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記し、「『憑かれた人々』は私達を取り巻いてゐる。少くとも群小性格破産者の行列は、作家の頭から出て往来を歩いてゐる。こゝに小説典型を発見するのが今日新作家の一つの義務である」と高らかに宣言していました。

執筆中の拙著『絶望との対峙――「坂の上の雲」の時代と「罪と罰」の受容』(仮題)で詳しく考察することにしますが――なお、ここで用いている「『坂の上の雲』の時代」とは、夏目漱石と正岡子規が生まれた1867年から日露戦争の終結までの時期を指しています――、私は絶望して自殺した北村透谷と同じように芥川龍之介もドストエフスキー文学の深い理解者だったと考えています。

それゆえ、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定することは、比較文明的な広い視野と文明論的な深い考察を併せ持つドストエフスキー文学をも矮小化する事にもつながっていると思えるのです。

二、小林秀雄の芥川龍之介論と徳富蘇峰の北村透谷観

一九四一年に書いた「歴史と文学」という題名の評論の第二章で小林秀雄は、「先日、スタンレイ・ウォッシュバアンといふ人が乃木将軍に就いて書いた本を読みました。大正十三年に翻訳された極く古ぼけた本です。僕は偶然の事から、知人に薦められて読んだのですが、非常に面白かつた」と、徳富蘇峰による訳書推薦の序文とともに目黒真澄の訳で出版された『乃木大将と日本人』という邦題の伝記を高く評価していました。

問題はその直後に小林が日露戦争時の乃木大将をモデルにした芥川の『将軍』にも言及して、「これも、やはり大正十年頃発表され、当時なかなか評判を呼んだ作で、僕は、学生時代に読んで、大変面白かつた記憶があります。今度、序でにそれを読み返してみたのだが、何んの興味も起こらなかつた。どうして、こんなものが出来上つて了つたのか、又どうして二十年前の自分には、かういふものが面白く思はれたのか、僕は、そんな事を、あれこれと考へました」と続け、「作者の意に反して乃木将軍のポンチ絵の様なものが出来上る」と解釈していたことです(下線引用者))。

このことについてはすでに(〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉(『全作家』第90号、2013年)で書きましたが、実はそのときに思い浮かべていたのが、明治期の『文学界』(1893年1月~1898年1月)の第2号に発表した「人生に相渉るとは何の謂ぞ」で、頼山陽を高く評価した山路愛山の史論を厳しく批判したことから徳富蘇峰の民友社からの激しい反論にあい、生活苦や論戦にも疲れて次第に追い詰められ日清戦争の直前に自殺した北村透谷と徳富蘇峰の関係のことでした。

徳富蘇峰はなぜが自殺に追い詰められたかを分析するのではなく、北村透谷や戦争中の1895年にピストル自殺した正岡子規より四歳年下の従兄弟・藤野古伯のことを念頭に、「文学界に不健全の空気充満せんとする……吾人は断然此種不健全の空気を文学界より排擠(せい)せんと欲す」と『国民新聞』で断じていたのです。

一方、先に見た昭和11年の『文学界』5月号に掲載された合評会で小林秀雄は言葉を継いで長編小説『破戒』なども視野に入れつつ、『夜明け前』をこう絶賛していました。

「作者が長い文学的生涯の果に自分のうちに発見した日本人という絶対的な気質がこの小説を生かしているのである。個性とか性格とかいう近代小説家が戦って来た、又藤村自身も戦って来たもののもっと奥に、作者が発見し、確信した日本人の血というものが、この小説を支配している。この小説の静かな味わいはそこから生れているのである」。

ここで小林秀雄が『夜明け前』を高く評価していることは確かです。しかし、藤村が敬愛した北村透谷と徳富蘇峰との関係をも視野に入れるならば、「日本人の血」が強調されているのを読んだ藤村は、喜多村瑞見(モデルは栗本鋤雲)の「東西文明を見据えた公平な史観」などによりながら激動の時代を描いた自作が矮小化されているとの強い不満を感じたのではないでしょうか。

おわりに――島崎藤村から坂口安吾へ

こうして、多くの知的刺激を受けた相馬氏の『国家と個人――島崎藤村「夜明け前」と現代』における小林秀雄の評価には、物足りなさと強い違和感を覚えていたのですが、その二ヶ月後に刊行された『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』(人文書館、2006年11月)を読んだ時に、その印象は一変しました。

太宰治の研究で知られる相馬氏は、太宰治の志賀直哉批判を踏まえた上で、太宰の盟友でもあった坂口安吾の厳しい小林秀雄批判にも言及していたのです。

この本については、稿を変えて紹介することにします。

リンク→相馬正一著『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』(人文書館、2006年11月)