高橋誠一郎 公式ホームページ

ニコライ一世

夏目漱石の高等師範学校の退職と軍事教練――長編小説『破戒』との関連で

夏目漱石が東京を発って遠く四国松山の尋常中学校に向ったのは、明治28年(1895)4月7日のことでした。

漱石が松山になぜ行ったのかを考察して「東京での挫折感、厭世感、失恋などが考えられる」とし、正岡子規の斡旋説も紹介した中村文雄氏は、さらに「高等師範学校が教師をうるさく束縛する」との理由を伊藤整が挙げていたと指摘しています(『漱石と子規・漱石と修――大逆事件をめぐって』(中村文雄著・和泉書院、2002年)。

漱石の高等師範学校の退職の原因に迫ったこの一文は、拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)で松山中学を舞台にした漱石の『坊っちゃん』にも言及した時から気になっていたのですが、子規を中心としたこの書では深く分析することはできませんでした。

しかし、帝政ロシアの法制度をも鋭く考察したドストエフスキーの『罪と罰』と長編小説『破戒』との関連について調べ始めた時に、再びこの問題が大きく浮かび上がってきました。

なぜならば、島崎藤村はこの長編小説の主人公・瀬川丑松を師範学校の卒業生としたばかりでなく、彼が師と仰ぐ猪子蓮太郎も同じ師範学校で心理学の講師でしたが、被差別部落出身であることが明るみにでたことで師範学校から追放されたと書いていたからです。

このエピソードは「教育勅語」発布の翌年1月に第一高等中学校教員であった内村鑑三が、教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対して敬礼はしたが最敬礼をしなかったために、「国賊」「不敬漢」という「レッテル」を貼られて退職を余儀なくされたといういわゆる不敬事件が起きていたことを強く想起させます。

しかも、『文学界』第2号に発表された頼山陽の歴史観を賛美した山路愛山の史論「頼襄(のぼる)を論ず」を厳しく批判した北村透谷の「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」に端を発した愛山と徳富蘇峰などとの激しい論争と透谷の自殺の背景には、「教育勅語」の問題がありました(拙論「北村透谷と島崎藤村――「教育勅語」の考察と社会観の深まり」『世界文学』第125号参照)。

それらのことを考慮するならば、解放運動の指導者だった猪子廉太郎が暴漢に襲われて亡くなった後では、師の理念を受け継ぐことになることが示唆されている長編小説『破戒』の瀬川丑松の歩みは、透谷死後の藤村の歩みとも重なるように思えます。

それゆえ、ここでは水川隆夫氏の『夏目漱石と戦争』(平凡社新書、2010年)の記述をとおして、漱石の高等師範学校の退職の問題を簡単に整理しておきます。

*   *

太政官布告により徴兵令が発せられたのは、明治6年(1873)1月のことでしたが、明治19年(1886)4月に発布された師範学校令によって設置された師範学校と高等師範学校が設置されると、「師範学校では全寮制をとり、軍隊内務班にならって隊伍を編制し、兵式体操を重視し、生活のすべてをラッパによって規制するなど兵営生活と同じような軍隊式教育を実施」していました。

一方、漱石は第一高等中学校予科を卒業し、英文学専攻を決意して本科第一部に進んだ明治21年(1888)に書いた英作文「討論――軍事教練は肉体錬成の目的に最善か?」で、「私は軍事教練という名前を聞いただけで、虫酸(むしず)が走ります。軍事教練において、われわれは、形こそ人間でも、鈍感な動物か、機械的な道具のごとく遇されるのであります。われわれは、奴隷か犬のように扱われるのであります」と厳しく軍事教練を批判していました。

このことに注意を促した水川隆夫氏は、漱石が高等師範学校講師の時代を振り返った「私の個人主義」(1914年)において次のように語っていたことを指摘しています。

「然し教育者として偉くなり得るやうな資格は私に最初から欠けてゐたのですから、私はどうも窮屈で恐れ入りました。(中略)何(ど)うあっても私には不向(ふむき)な所だとしか思はれませんでした。奥底(おくそこ)のない打ち明けた御話をすると、当時の私はまあ肴(さかな)屋が菓子屋へ手伝ひに行ったやうなものでした。/ 一年の後私はとうとう田舎の中学へ赴任しました。」

この言葉を引用した水川氏は、師範学校ほどには厳しくはないとしても、高等師範学校でも「漱石が『窮屈』と感じるような国家主義的、権威主義的、形式主義的な教育が行われていたものと思われます」と記しているのです。

*   *

福沢諭吉は自由民権運動が高まっていた明治12年に書いた『民情一新』で、学校の生徒を「兵学校の生徒」と見なしたニコライ一世の政治を「未曽有(みぞう)の専制」と断じて厳しく批判していましたが、徳富蘇峰は大正5年に発行した『大正の青年と帝国の前途』で、「必要なるは、学校をして兵営の気分を帯ばしめ、兵営をして学校の情趣を兼ねしむる事也」と記して、軍事教練の必要性を説いていました。

そして、戦後72年を経た日本では大阪の塚本幼稚園で「教育勅語」を暗唱させていたことが国会などで問題となりましたが、来年からは小学校で再来年からは中学校でも「道徳」が「特別の教科」として教えられることになったばかりでなく、自衛隊で行われている実戦的な「銃剣道」が中学の「武道」に入りました。

軍事教練に対する夏目漱石の厳しい批判や長編小説『破戒』の校長批判は、「特定秘密保護法」や「戦争法」が次々と強行採決されるなど「立憲主義」を軽視して軍拡に向かっている安倍政権の問題点をも明確に示していると思えます。

山崎雅弘著『日本会議 戦前回帰への情念』(集英社新書)を読む

戦前の『国体の本義』などの分析をとおして「日本会議」と安倍政権の本質に肉薄した好著である。膨大な資料をもとに「日本会議」の「思想の原点」に迫るとともに、二〇一二年に発表された自民党の「日本国憲法改正草案」の内容や文言が、むしろ戦前の『国体の本義』を連想させるものであることを明らかにしている。

さらに、NHKの大河ドラマ《花燃ゆ》では「桂小五郎(木戸孝允)が果たした重要な役割」が、吉田松陰の妹・文が再婚した相手の小田村伊之助が行ったことになっているとの視聴者からの批判を紹介した著者は、安倍首相の地元ともゆかりの深い小田村四郎・日本会議副会長に注目することで、人間的なドラマをも描き出すことに成功している。

ここでは、第一章と第三章、および第五章を考察することで本書の内容を簡単に紹介しておきたい。

第一章「安倍政権と日本会議とのつながり」では、第一次安倍政権時代から安倍首相が「日本会議」に忠実だったことや、安倍首相の返り咲きが「日本会議」の「運動の大きな成果」だと総会で報告されていたことが紹介されている。第二節「重なり合う『日本会議』と『神道政治連盟』の議員たち」では、この二つの組織が「美しい伝統の国柄を明日の日本へ」、「新しい時代にふさわしい新憲法を」、「日本の感性をはぐくむ教育の創造を」などの主要な三つの項目で両者の目標が一致しているばかりでなく、それ以外の活動方針にも対立するような点がないことが指摘されている。

「日本会議の「肉体」――人脈と組織の系譜」と題された第二章に続く、第三章「日本会議の『精神』――戦前・戦中を手本とする価値観」では、安倍首相が盛んに用いた「日本を取り戻す」というキャッチフレーズが、一九九七年に行われた「日本会議」の設立大会において小田村四郎・副会長が語った「かつての輝かしい日本に戻して参りたい」という言葉に由来することを明らかにしている。

さらに、日本会議の思想の原点を物語る書物」として『国体の本義』と『臣民の道』を挙げ、『国体の本義』の解説叢書の一冊として一九三九年に出版された『我が国体と神道』の冒頭では、「国体とは国がら」であると記され、「この皇国の本質を発揚すべく支持し奉っているものは、日本国民の信念」であり、「この国民的努力に励む心がすなわち、日本魂であり、日本精神である」と強調されていたことを指摘している。

さらに、アメリカとの全面戦争をも視野に入れた時期に出版された『臣民の道』では、「皇国の臣民は、国体の本義に徹することが第一の要件」であり、「実践すべき道は」、「抽象的な人道や観念的な規範ではなく…中略…皇国の道である」と続いていたことにも注意を促している。

これらを紹介して、戦前の「国体思想」「これは、当時の日本軍が、なぜ特攻や玉砕のような『非人道的』な戦法をくり返し行うことができたのか」についてのヒントを与えているように見えると続けていた山崎氏は、日本会議の活動方針が「戦前・戦中の思想と価値判断を継承」していると記している。

ついでながら、『風土・國民性と文學』と題された『国体の本義』解説叢書の一冊でも「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっていることは」、「日本の国体の精華であって、万国に類例が無いのである」とされ、「神道」を諸宗教の頂点においた「国体」の意義が強調されていた。

しかし、「暗黒の三〇年」と呼ばれる時代にもロシア皇帝ニコライ一世は、「自由・平等・友愛」の理念に対抗するために「ロシアにだけ属する原理を見いだすことが必要」と考えて、「正教・専制・国民性」の「三位一体」による愛国的な教育を行うことを命じるロシア版の「教育勅語」を発していた。このような時代に青春を過ごしたドストエフスキーは言論の自由を求める執筆活動を行っていたが、それすらも厳しく弾圧されるなど専制政治が続き格差が広がったために、ロシアはついに革命に至っていたのである。「教育勅語」が渙発された後の日本は、教育・宗教システムの面ではロシア帝国の政策にきわめて似ていたといえるだろう。

第四章「安倍政権が目指す方向性」では、安倍首相と日本会議の方向性を、「教育改革」、「家族観」、「歴史認識」、そして「靖国神社」の問題に絞って具体的に考察している。

そして、第五章「日本会議はなぜ『日本国憲法』を憎むのか――改憲への情念」では、それまでの考察を踏まえた上で、「特定秘密保護法案」や「安全保障法案」などの重要法案を短期間の審議で次々と強行採決した安倍政権が「国民」に突きつけた「改憲」の問題の本質にも迫っている。

注目したいのは、「はじめに」でも言及されていた小田村四郎・日本会議副会長の憲法観をとおして、「憲法改正運動の最前線に躍り出た」日本会議の憲法観が伝えられていることである。二〇〇五年六月号の『正論』に、小田村氏は「日本を蝕(むしば)む『憲法三原則』国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という虚妄をいつまで後生大事にしているのか」というタイトルの記事を寄稿していた。

つまり、安倍首相を会長とする創生「日本」東京研修会で長勢甚遠・元法務大臣が、「国民主権、基本的人権、平和主義、これをなくさなければ本当の自主憲法ではないんですよ」と語っている動画が最近話題となったが、これは小田村副会長の言葉のほとんど繰り返しにすぎなかったのである。

さらに、「自民党改善案では、日本国憲法にはまったく存在していない『第九章 緊急事態』という項目を、新たに創設して追加して」いることを指摘した著者は、「もし自民党の改憲案が正式な憲法となれば、時の政権は、自らを批判して退陣を求める反政府デモを鎮圧するために、この条文を使う可能性」があると書いている。

つまり、憲法学者の樋口陽一氏は安倍政権の政治の手法によって日本では、「法治国家の原則が失われており、専制政治の状態に近づいている。そういう状態に、我々は立っている」と『「憲法改正」の真実』(集英社新書)に書いているが、自民党の改憲案が採用されれば、首相がロシア皇帝と同じような独裁政治を行う権力を手にすることになると思える。

注目したいのは、「日本会議」の論客が「大東亜戦争」が「自存自衛の戦争であって侵略ではない」と主張していることに注意を促した著者が、「もし『大東亜戦争』が『侵略ではなく自衛戦争』であるなら、自民党の憲法改正案が実現した時、理論的には、日本は再び『大東亜戦争』と同じことを『自衛権の発動』という名目で行うことが可能になります」と指摘していることである。

敗戦七〇周年にあたる二〇一五年の「安倍談話」では日英の軍事同盟の締結(一九〇二)によって勝利した日露戦争の意義が強調されたが、日本はそれから四〇年足らずの一九四一年には、米英を「鬼畜」と罵りながら太平洋戦争に突入していた。

「報復の権利」を主張したアメリカのブッシュ元大統領が、イラク戦争を「正義の戦争」としていたことを考慮するならば、「日本会議」や安倍政権の方針に沿って教育された日本の若者たちは、早晩、「報復の権利」を主張してアメリカとの戦争にさえ踏み切る危険性があるといえるだろう。

*   *

緻密なインタビューによって、「強力なロビー団体」であり豊富な資金力を持つ神社などに支えられている「日本会議」の実態に迫った好著『日本会議の正体』(平凡社新書)の冒頭でジャーナリストの青木理氏は、イギリスの『エコノミスト』や『ガーディアン』、アメリカの『CNNテレビ』、オーストラリアの『ABCテレビ』、フランスの『ル・モンド』など多くの外国のメディアが「日本会議」について、「国粋主義的かつ歴史修正的な目標を掲げている」などと「かなり詳細な分析記事」を載せているのにたいして、日本の報道機関がほとんど沈黙を守っていたことを指摘していた。

「立憲主義」が存亡の危機に立たされた現在、ようやく「日本会議」についての充実した本が相次いで出版されるようになった。さまざまな戦史と紛争史を研究してきた山崎雅弘氏による本書も、『我が国体と神道』など過去の文献も読み込んだ歴史的な深みと世界史的な視野を持ち、分かりやすく説得力のある著作となっている。

 

安倍政権の政治手法と日露の「教育勅語」の類似性

59lisbn978-4-903174-33-4_xl 

安倍政権の強引な政治手法からは、「憲法」のなかったニコライ1世治下の「暗黒の30年」との類似性を痛感します。

2007年に発行した『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』(成文社)では、ニコライ1世の時代に出されたロシア版「教育勅語」の問題と厳しい検閲下で『貧しき人々』などの小説をとおして言論の自由の必要性を主張した若きドストエフスキーの創作活動との関係を考察していました。

前著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)では、ロシア版「教育勅語」と日本の「教育勅語」の類似性についても詳しく考察しました。

ロシア思想史の研究者の高野雅之氏は、「正教・専制・国民性」の「三位一体」を強調した「ウヴァーロフの通達」を「ロシア版『教育勅語』」と呼んでいますが、注目したいのは一九三七年には文部省から発行された『國體の本義』の「解説叢書」の一冊として教学局から出版された『我が風土・國民性と文學』と題する小冊子では、「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっていることは」、「日本の国体の精華であって、万国に類例が無いのである」と強調されていたことです。

この「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっている」という文言は、「正教・専制・国民性」の「三位一体」による「愛国主義的な」教育を求めたウヴァーロフの通告を強く連想させます。「教育勅語」が渙発された後の日本は、教育システムの面ではロシア帝国の政策に近づいていたといえるでしょう。(註――「教育勅語」と帝政ロシアの「ウヴァーロフの通達」だけでなく、清国の「聖諭廣訓」との類似性については高橋『新聞への思い』人文書館、2015年、106~108頁参照)。

*   *   *

現在は新たな著書の執筆にかかっていますが、「憲法停止状態」とも言える状態から脱出するためにも、もう一度北村透谷や島崎藤村などの著作をとおして、「教育勅語」の影響を具体的に分析したいと考えています。

若きドストエフスキーを「憲法」のない帝政ロシアの自由民権論者として捉え直すとき、北村透谷や島崎藤村など明治の『文学界』同人たちによる『罪と罰』の深い受容の意味が明らかになると思えます。

「教育勅語」の問題を再考察する際にたいへん参考になったのが、リツイートで紹介した中島岳志氏と島薗進氏の『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』と樋口陽一氏と小林節氏の『「憲法改正」の真実』(ともに集英社新書)でした。

それらの著書を読む中で「教育勅語」の問題が「明治憲法」の変質や現在の「改憲」の問題とも深く絡んでいたことを改めて確認することができました。それらについてはいずれ参考になった箇所を中心に詳しく紹介することで、島崎藤村が『夜明け前』で描いた幕末から明治初期の時代についても考えてみたいと思います。

(2017年2月22日、図版と註を追加し、題名を改題)

なぜ今、『罪と罰』か(8)――長編小説『破戒』における教育制度の考察と『貧しき人々』

前回は校長が「教育勅語」に記された「忠孝」の理念を強調する一方で、「憲法」に記された「四民平等」の理念にもかかわらず差別的な考えを持っていたことや、郡視学の甥・勝野文平がつかんだ情報を用いて丑松を学校から放逐しようとしていたことを確認しました。

*   *   *

『破戒』で日本における差別の問題を取り上げた藤村は、その一方で「人種の偏執といふことが無いものなら、『キシネフ』(引用者注――キシニョフ、キシナウとも記される。モルドバ共和国の首都。1903年にポグロムが起きた)で殺される猶太人(ユダヤじん)もなからうし、西洋で言囃(いひはや)す黄禍の説もなからう」とも記して、国際的な状況にも注意を促していました(第1章第4節)。

この意味で注目したいのは、若きドストエフスキーが言論の自由がほとんどなく「暗黒の30年」と呼ばれるニコライ一世の時代に、第一作『貧しき人々』で、女主人公ワルワーラの「手記」において「権力者としての教師」の問題や寄宿学校における教師による「体罰」や友達からの「いじめ」という差別に深くかかわる問題を描いていたばかりでなく、裁判のテーマも取り上げていたことです。

*   *   *

田舎で育ったために学校生活にまったく慣れていなかったワルワーラが学校生活の寂しさから、最初のうちは予習もできなかったために、怒りっぽかった女の先生たちから、「教室の隅っこに膝をついて坐らされ、食事も一皿しか貰えない」というような罰を受けたのです。

このような体罰の問題については、『死の家の記録』(1860~62)でより深く考察されることになるのですが、すでにドストエフスキーは『貧しき人々』で、田舎育ちで学校生活に慣れなかったワルワーラを、教師たちが学習の進度を邪魔する「できない子」として体罰を与えるとき、「教室」という一種の「閉ざされた空間」において「いじめ」の問題が発生することを描いていました。

「ワルワーラの手記」では、そのことが次のように記されています。「女生徒たちはあたくしのことを笑ったり、からかったり、あたくしが質問に答えていると横から口をはさんでまごつかせたり、みんなでいっしょに並んで昼食やお茶にいくときにはつねったり、なんでもないことを舎監の先生に告げ口したりするのでした」。

級友たちも「秩序」の受動的な破壊者である「できない子」を批判することで、「権力」を持つ教師に気に入られようとし始めるのです。ワルワーラは「一晩じゅう校長先生や女の先生や友だちの姿が夢にあらわれ」たと書いていますが、それは学校の日常生活の中で次第に追いつめられた彼女の心理状態をもあらわしているでしょう。

しかも、『貧しき人々』の構造で注目したいのは、プーシキンの作品に出会ったことでより広い世界に目覚めるようになる「ワルワーラの手記」がこの作品の中核に置かれることで、それまで自分を「ゼロ」と考えていた中年の官吏ジェーヴシキンが、ワルワーラとの文通や貸し与えられたプーシキンの作品によって、自分の価値を見いだすようになるだけでなく、社会的な意識にも目覚めていく過程も描かれていることです。

たとえば、九月五日付けの手紙では夕暮れ時のフォンタンカの通りを歩く貧しい人々と華やかなゴローホワヤ街やそこを馬車で通る金持ちの人々とを比較したジェーヴシキンは、大金持ちの耳に「自分のことばかりを考えるのは、自分ひとりのために生きていくのはたくさんだ」とささやく者ものがいないことがいけないのであると記しています。

注目したいのは、この作品でも「国庫の利益をなおざりにした」として解雇された元役人ゴルシコーフが、「請負仕事をごまかした商人」と争って、「こね」や「財産」のない者が裁判に勝つことはきわめて難しかったにもかかわらずこの裁判に勝ったものの、それまでのストレスからあまりの興奮に、突然亡くなってしまったという顛末が描かれていることです。

この小説は悲劇的な結末を迎えますが、それは、裁判の公平さや権力の暴走を防ぐことのできるような「憲法」の重要性を、イソップの言葉で読者に示唆するためだったと思えるのです。

(リンク→高橋『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』成文社、2007年)

それゆえ、私は初めて『貧しき人々』を読んだ時には、言論の自由が厳しく制限されていたニコライ一世治下の「暗黒の30年」にこのような小説を発表していた若きドストエフスキーに、「薩長藩閥政府」から「憲法」を勝ち取ろうとしていた日本の自由民権論者たちとの類似性すら感じていたのです。

*   *   *

一方、日本が国際連盟から脱退して国際関係において孤立を深めるとともに、国内では京都帝国大学で滝川事件が起きるなど検閲の強化が進んだ1932年に発表した評論「現代文学の不安」で文芸評論家の小林秀雄は、芥川龍之介を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定する一方で、「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記して、ドストエフスキーの作品を知識人の不安や孤独に焦点をあてて読み解いていました。

しかも、前期と後期の作品との間に深い「断層」を見て、『罪と罰』の前作『地下室の手記』を論じつつ、ドストエフスキーを「理性と良心」を否定する「悲劇の哲学」の創造者と規定していた哲学者のシェストフから強い影響を受けていた小林は、前期の作品をほとんど無視し、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(注――ラスコーリニコフ)には現れぬ」と解釈したのです。

「報復の権利」を主張したブッシュ元大統領が始めたイラク戦争の翌年の2004年に、ドストエフスキーの作品を「父殺しの文学」と規定する著作を発表した小説家の亀山郁夫氏も主人公たちに犯罪者的な傾向を強く見て、「現代の救世主たるムイシキンは、じつは人々を破滅へといざなう悪魔だった」という独創的な解釈を示しました(『ドストエフスキー 父殺しの文学』上、285頁)。

さらに亀山氏は前期の作品との継続性も指摘して、『貧しき人々』のジェーヴシキンをも悪徳地主である「ブイコフの模倣者」であり、「むしろ悪と欲望の側へとワルワーラを使嗾する存在」でもあると断定したのです(上、72頁)。

このようなセンセーショナルな解釈は読み物としては面白いものの、その作品で主人公たちの「不安」をとおして「教育制度」などについても深く考察していたドストエフスキーの作品を矮小化していると私は感じました。

さらに大きな問題はこのような主観的な解釈が、「憲法」のない帝政ロシアで検閲を強く意識しながらも、「裁判の公平」や「言論の自由」をイソップの言葉で果敢に主張していたドストエフスキー作品の意味を読者から隠す結果になっていることです。

*   *   *

これらの小林氏や亀山氏のドストエフスキー論と比較するとき、明治時代の北村透谷や島崎藤村は、なぜ文明論的な視野と骨太の骨格を持つ『罪と罰』に肉薄し得ていたのでしょうか。

次回は、ドストエフスキーが弁護士ルージンとラスコーリニコフなどの対決をとおして「法律」の問題を深く考察していることを踏まえて、再び帝政ロシアの時代に書かれた『罪と罰』における「良心」の問題を考えて見たいと思います。

なぜ今、『罪と罰』か(7)――教育制度の問題と長編小説『破戒』(2)

 

Niju-shi_no_Hitomi_poster

(映画《二十四の瞳》、壺井栄原作、木下恵介監督。1954年 松竹大船。図版は「ウィキペディア」より)

前回は「教育勅語」と同時に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた小学校教育の状況がどのようなものとなったかが、長編小説『破戒』の第2章でかなり詳しく描かれているだけでなく、校長が郡視学の甥の若い教員・勝野文平を使ってなんとか丑松を学校から放逐したいと考えていたことも記されていることを確認しました。

*   *   *

第5章では明治6年(1873)国の祝日とされた天長節(天皇の誕生日)の式典をめぐって、教頭のような地位にあった丑松と校長の関係が次のように描かれています。

「主座教員としての丑松は反(かえ)って校長よりも男女の少年に慕はれていた。丑松が『最敬礼』の一声は言ふに言はれぬ震動を幼いものの胸に伝へるのであつた。やがて、『君が代』の歌の中に、校長は御影(みえい)を奉開して、それから勅語を朗読した。万歳、万歳と人々の唱へる声は雷(らい)のやうに響き渡る。その日校長の演説は忠孝を題に取つたもので、例の金牌(きんぱい)は胸の上に懸つて、一層(ひとしお)その風采を教育者らしくして見せた。」

このあとで、郡視学の甥・勝野文平をわざわざ呼び止めた校長が、「時に、どうでした、今日の演説は?」と尋ねて、「御世辞でも何でも無いんですが、今まで私が拝聴(うかゞ)った中(うち)では、先(ま)づ第一等の出来でしたらう」という返事を得たと記した藤村は、こう続けています。

「校長は、やがて思ふことを切出した。わざわざ文平を呼留めてこの室へ連れて来たのは、どうかして丑松を退ける工夫は無いか、それを相談したい下心であつたのである。」

さらに、第14章で校長が「この鍾愛(きにいり)の教員から、さまざまの秘密な報告を聞くのである。男教員の述懐、女教員の蔭口(かげぐち)、その他時間割と月給とに関する五月蠅(うるさい)ほどの嫉(ねた)みと争いとは、是処(ここ)に居て手に取るやうに解(わか)るのである」と記した藤村は、勝野文平が「学校に居られないばかりぢや無い、あるいは社会から放逐されて、二度と世に立つことが出来なくなる」かも知れないような丑松の出自についての情報を語ったと続けていました。

ここで注意を払っておきたいのは、「正教・専制・国民性」の「三位一体」が強調された「ロシアの教育勅語」により、言論の自由が厳しく制限されていたニコライ一世治下の「暗黒の30年」に青春を過ごしたドストエフスキーが、すでに第一作『貧しき人々』の女主人公ワルワーラの「手記」において「何から何まで時間割で」決っていた当時の寄宿学校の問題点を鋭く描いていたことです。

このことの意味と長編小説『罪と罰』との関連については次回考えることにしますが、『破戒』でも天長節の日に「忠孝」という「教育勅語」の理念を広めようとしていた校長が、その一方で四民平等が唱えられ、「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」とされた1871(明治4)年の「解放令」のあとでも昔ながらの差別感を持ち続けており、自分の気に入らない丑松を学校から放逐する策略を裏で行っていたことが記されていたのです。

福沢諭吉は、自由民権運動と国会の開設への要求が高まりを見せていた明治一二年(一八七九)に書いた『民情一新』でニコライ一世が、「学校の生徒は兵学校の生徒」と見なしたばかりでなく、西欧の「良書を読むを禁じ、其雑誌新聞紙を見るを禁じ」、大学においては「理論学を教へ普通法律を講ずる」ことを禁じるなど「未曽有〔みぞう〕の専制」を行ったと厳しい批判をしていました(太字は引用者)。

福沢の批判を考慮するならば、自由民権運動の高まりによって、「薩長藩閥政府」から「憲法」を1889年に勝ち取っていた日本でも、その翌年に「教育勅語」が渙発されたことによって、次第に帝政ロシアに近い教育体制へと後退をし始めていたのです。

*   *   *

少し脱線することになりますが、若い勝野文平を使って丑松を放逐しようとする校長の策謀や苦悩する丑松を助ける土屋銀之助の働きは、松山中学を舞台に「マドンナ」に惚れたために「うらなり」を放逐しようとしていた文学士の「赤シャツ」と「のだいこ」の策略を見抜いた「坊っちゃん」が「山嵐」とともに彼等を成敗して去って行くという夏目漱石の『坊つちやん』の構造も連想させられます。

『破戒』が自費出版されたのが1906年3月で、『坊つちやん』が『ホトトギス』の付録として載ったのが4月1日とのことですので、直接的な関係はないようですが、二人の文学者の当時の教育制度への批判がうかがえるように思えます。

さらに脱線を重ねることになりますが、小さな島の学校に1938年に赴任した若い大石先生と子供たちの触れ合いを描いた壺井栄の小説『二十四の瞳』(1952)では、夏目漱石の弟子・鈴木三重吉の影響下に事実を写生するように教えた「生活綴方運動」を教育の場で実践して六年生の文集『草の実』を編み、「生徒の信望を集めていた」教員が、「一朝にして国賊に転落させられた」という出来事も描かれています。

興味深いのはこの原作をもとに映画《二十四の瞳》(松竹大船、主演女優:高峰秀子)を1954年に公開した木下恵介監督が、池部良・桂木洋子・滝沢修などの俳優により、島崎藤村の『破戒』を原作とする映画を1948年に公開していたことです。

残念ながら映画《破戒》を見ていないので、詳しく論じることはできませんが、そのことからは『破戒』から『二十四の瞳』に至る教育制度の題点に対する木下監督の深い理解が感じられます。

追記:いずれ木下恵介監督の映画《破戒》についても記したいと思いますが、You Tubeに「予告」が掲載されていたことが分かりましたので、そのリンク先を取りあえず記しておきます。

リンク→破戒(予告) – YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=Po8Jmry4728

(2016年1月27日。青字の箇所を追加。2017年4月18日、改訂)