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映画《惑星ソラリス》

映画《ゴジラ》六〇周年と終戦記念日(四)、「終末時計」の時刻と『ゴジラの哀しみ』の構想

いよいよ選挙の日が近づいてきましたが、いまだに新聞などの分析では「改憲」勢力が議席の三分の二を占める可能性が高いことが指摘されています。

できれば、選挙前に出版したかったのですが、全体の流れを紹介する序章をなんとか書き上げましたので、今回はその(四)を掲載します。より多くの人に安倍政権の反憲法的な危険性の一端が伝わり、一人でも多くの方が投票することを願っています。

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第四節 「終末時計」の時刻と『ゴジラの哀しみ』の構想

憲法学者の樋口陽一氏は、安倍政権の政治の手法によって日本では、「法治国家の原則が失われており、専制政治の状態に近づいている。そういう状態に、我々は立っている」と書いている(『「憲法改正」の真実』)。

実際、八割を超える閣僚が「日本会議国会議員懇談会」に所属しているだけでなく、自分の気に入らない質問に対してはきちんと答えない安倍首相の国会答弁や、問答無用という感のある「特定秘密保護法」や「戦争法」の強行採決などを見ていると同じような危惧の念を強く持つ。さらに問題は、年金の問題など国民に公表すべき重要な情報であっても、ことに政権に不利な情報は徹底的に隠蔽することである。

それは大地震や火山の噴火が続くにも関わらず、川内原発などの稼働を止めない安倍政権の非科学的な自然観についてもいえる。安倍政権の閣僚たちは中世と同じように日本が「国造り神話」によって出来たと考えているのかもしれないが、地球の地殻変動で形成された日本が地震大国であり、火山の国でもあることを忘れてはならない。安倍政権は「四海に囲まれた自然豊かな風土を持つ日本」を強調しているが、その豊かな自然を放射能で汚染し、日本人の生命を危険にさらす原発政策を進めているのが安倍政権である。

たとえば、その意向を受けたNHKの籾井会長は、地震後の原発報道は「住民の不安をいたずらにかき立てないよう、公式発表をベースに伝えてほしい」という指示を出していた。このような対応は核汚染の危険性の公表は国民を恐怖に陥れるとして報道規制をした政府の対応も描き出していた映画《ゴジラ》のことを思い起こさせる。

終戦直前の八月に広島と長崎にウラン型原子爆弾「リトルボーイ」とプルトニウム型原爆「ファットマン」が相次いで投下されてから二年後の一九四七年にアメリカの科学誌『原子力科学者会報』は、原爆争など人類が生み出した技術によって世界が滅亡する時間を午前〇時になぞらえた「世界終末時計」の時刻が終末の七分前になったと発表した。さらに湯川秀樹博士ら著名な科学者は「第五福竜丸」の後の一九五五年に「ラッセル・アインシュタイン宣言」を発表して核の時代における戦争が地球を破滅に導く危険性を指摘したが、映画《ゴジラ》の公開はそれに先だっていたのである。

それゆえ、『ゴジラの哀しみ』の「第一部 映画《ゴジラ》から黒澤映画《夢》へ」では、本多監督と黒澤監督との交友にも注意を払いながら、「ゴジラ」の変貌の問題を「第五福竜丸」事件の後で撮影された映画《ゴジラ》からチェルノブイリ原発事故に衝撃を受けて製作された映画《夢》までの流れをとおして考察することにしたい。

すなわち、第一章「ゴジラの咆哮と悲劇の発生」では、映画《ゴジラ》と《ジョーズ》とを比較することでこの二つの映画では悲劇の発端が、重大な情報の隠蔽であることに注意を促す。

第二章「映画《モスラ》(一九六一)から《風の谷のナウシカ》(一九八四)へ」では、社会的・文化的な背景をも詳しく考察することで映画《モスラ》や《モスラ対ゴジラ》が、黒澤映画《用心棒》や《風の谷のナウシカ》とも深い関わりがあることを示した『モスラの精神史』を分析する。

第三章「映画《惑星ソラリス》から一九八四年版の映画《ゴジラ》へ」では、時間的には少し遡ることになるが、黒澤監督が映画《デルス・ウザーラ》の撮影中にソ連のタルコフスキー監督の映画《惑星ソラリス》(一九七三)を見ていたことに注目することにより、黒澤が語ったソ連の若者の核戦争観が、一九八四年版の映画《ゴジラ》の筋に強い影響を与えている可能性を指摘する。さらに、映画《日本沈没》(一九七三)における日本海トラフの指摘に注目することにより、一九八四年版の映画《ゴジラ》が地震大国であり火山国でもある日本の自然環境をきちんとふまえて映画化されていることを指摘する。

第四章「「ゴジラ」の理念の変質と映画《夢》」では、序章でも簡単に見た「ゴジラシリーズ」での「ゴジラ」の変貌を追うとともに、チェルノブイリ原発事故が起きた年に亡くなったタルコフスキーの《サクリファイス》にも注意を払うことで、福島第一原子力発電所を予言したとも言われる本多監督が演出補佐として参加していた映画《夢》の「赤富士」のシーンの意味に迫る。

昨年の一月二二日に『原子力科学者会報』は、「終末時計」が冷戦期の一九四九年と同じく「残り3分」になったと発表した。

冷戦が終わり、二一世紀に入った現代においても、世界終末時計が米ソの二つの大国が激しく対立していた一九四九年と同じ「残り3分」になったことに衝撃を受けた。軍事的な超大国となったアメリカを初めとして多くの国が、武力によって「テロ」などが制圧できると信じているようだが、歴史をふりかえるならばそれは妄想にすぎないだろう。一方、岸信介首相と同じように未だに原子力エネルギーの危険性を認識していないだけでなく、「歴史修正主義」的な傾向を強く持つ安倍政権は、原発だけでなく武器輸出などの軍拡政策をとることにより、目先の経済的利益を追求し始めているのである。

第二部「小説『永遠の0(ゼロ)』(二〇〇六)の構造と「オレオレ詐欺」の手法」では、安倍首相との共著もある百田尚樹氏が二〇〇六年に出版した『永遠の0(ゼロ)』(太田出版)を歴史的な事実をふまえて文学論的な手法で分析することにより、そこに秘められているイデオロギーの危険性を明らかにする。

すなわち、第一章「孫が書き記す祖父の世代の美しい物語」では、もう一人の主人公ともいえるほど影響力が大きい存在ながらあまり焦点が当てられないもう一人の「祖父」の役割などに注意を払うとともに、物語の骨格を定めている「取材という手法」と百田氏がノンフィクションと称する『殉愛』との類似性を指摘する。

第二章「地上での視線を欠いた『空』の戦いの物語」では、たしかにガダルカナル島での兵士の悲惨な状態や将軍たちの批判は為されてはいものの、それは伝聞の形で語られており、生の声で語られる体験としての迫力や説得力には欠けることを、国内の状況を具体的に描いた映画《少年H》や劇《闇に咲く花》との比較をとおして明らかにする。

第三章「高山という新聞記者――新聞の役割と『司馬史観』論争」では、小説のクライマックスともいえる高山と元一部上場企業の社長だった武田との対決やその前後の登場人物の言葉をとおして、この小説が一九九六年の司馬遼太郎の死後に起きたいわゆる「司馬史観」論争に際して科学的な歴史観を「自虐史観」と呼んだ「つくる会」のイデオロギーを強く受け継いでいることを、一九九七年に公演された井上ひさし氏の劇《紙屋町さくらホテル》と比較することで明らかにする。

第四章「神話の捏造――英雄の創出と『ゼロ』の神話化」では、プロローグでは「悪魔のようなゼロ」と描かれていた「特攻」が、英雄の創出と零戦の神話化によって、エピローグでは正反対の価値観になっていることを具体的に示す。

私がはじめて宮崎駿監督の作品を意識したのは、《風の谷のナウシカ》で「火の七日間」と「巨神兵」による「最終戦争」と科学文明の終焉が描かれているのを見たときであった。そこでは『罪と罰』のエピローグで描かれている「人類滅亡の悪夢」が見事に映像化されていると感じるとともに、映画《ゴジラ》の最も重要なテーマを受け継いでいると感じた。それゆえ、安倍政権が一九世紀的な「積極的平和主義」を掲げて、戦争のできる国を目指して「改憲」を掲げる中、宮崎駿監督の強い信頼を得ている庵野秀明監督が、どのような《シン・ゴジラ》を製作するのかを強い期待と不安を持って見守っている。

全体の終章にあたる「映画《風の谷のナウシカ》から映画《風立ちぬ》へ」では、「神話の捏造」という言葉で『永遠の0(ゼロ)』を厳しく非難していた宮崎駿監督のアニメ映画《風の谷のナウシカ》から映画《風立ちぬ》までを分析することにより、専制政治と核戦争の岐路に立たされていると思える現在の日本の状況を明らかにする。

そして、最後に核エネルギーの悲惨さを知っている日本の「自衛隊」には、ブッシュ政権の「大義なき戦争」によって始まった二一世紀の混乱を収束させるためには憲法九条の理念に沿って戦争には参加せず、大地震の際の救助活動など平和的な目的に限って活動するとともに、核の廃絶を世界に訴えるという文明的な課題があることを示したい。

(2016年11月2日、改訂してタイトルを改題)

田中沙季氏の「現代に『カラマーゾフの兄弟』は可能か」を聴いて

第231回例会「傍聴記」

今回は2015年にチェーホフ記念モスクワ芸術座で上演されていた四時間半にわたるボゴモロフ監督の長大な劇『カラマーゾフ』を3回見た田中氏の発表で、配布された資料には「ゾシマの死を伝えるニュース番組」の場面や、舞台の上部だけでなく両脇の壁に設置された「左の眼」と「右の眼」に映った映像を示す小さなスクリ-ンの写真もあり、臨場感のある報告となった。

発表では役者の顔をクローズアップしたり、複数の視線を提供するなど映像技術を利用した舞台が詳しく紹介され、アリョーシャを演じたのが白髪の女優であり、スメルジャコフとゾシマを同一の俳優が演じるなど配役の特徴だけでなく、母親が悲しみを訴える場面でロックバンドの音楽が流れたり、グルーシェンカがカリンカを踊るなどの音楽を取り入れた場面が多いとの指摘もなされた。

さらに、俳優名のリストの一番下に「悪魔 ある」と記される一方で、アリョーシャと少年達との交流や大審問官の話、ゾシマの伝記などが省略されていたことに対しては、日本における『カラマーゾフの兄弟』の受容と比較して興味深いとの感想や「『悪魔』的にドストエフスキーを読む」ことの面白さを強調する意見が出された一方で、果たしてこれがドストエフスキー劇と呼べるのだろうかといった率直な疑問も出された。実は、私も監督の意図がなかなかつかめずに、この劇も大衆受けするようにセンセーショナルに作られているのかもしれないと戸惑いながら聞いていた。

しかし、千葉大学で行われた国際研究集会で「ドストエフスキイの終末論――地獄の克服」(『ドストエーフスキイ広場』第10号参照)という題の講演をした研究者サラスキナが記したこの劇への肯定的なコメントや、配付資料ではあまり詳しく記されていなかった劇の筋が、参加者の質問に対する答えから明らかになるにつれて印象が変わった。

すなわち、監督のボゴモロフが自分の劇の題名からロシア語でも「同胞愛(ブラーツトヴォ)」という単語の語源となっている「兄弟(ブラーチヤ)」という単語を削除して『カラマーゾフ』と名付けていることに注意を促したサラスキナはコメントで、この題名は「『同胞愛』が存在するためには、『兄弟』が必要だというドストエフスキーの言葉に合致している」と記していた。

実際、この劇では最後にアリョーシャがリーザと心中するだけではなく、イヴァンも死にドミートリイも死刑になって、スメルジャコフのみが生き残り、ゾシマ二世ともいうべき役割を果たしていたのである。つまり、登場人物や基本的な筋は原作に拠りながらも、監督は後半の筋を大きく変えることで重たい問題提起をしていたと思える。

会場からはモスクワ芸術座だけでなくタガンカ劇場でも演出した鈴木忠志監督についての指摘もあったが、「宗教と政治との癒着」を批判する劇も上演していたボゴモロフ監督が、プーシキンの『ボリス・ゴドゥノフ』も上演していたことを知って、ロシアの演劇界で一世を風靡したタガンカ劇場のリュビーモフ監督も権力者の「良心の呵責」を描いたこの劇を上演していたことを思い出した。ことに劇『巨匠とマルガリータ』(ブルガーコフ作)でリュビーモフは、悪魔の口をとおして、今あなた方は物質的には多少豊かになったかもしれないが、精神的にはどうかという鋭い問いを発していたのである。

懇親会では劇『カラマーゾフ』には、ドストエフスキーを深く敬愛し、オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』の演出も行っていたタルコフスキー監督の映画《惑星ソラリス》を示唆するような場面があることもわかり、会話が盛り上がった。実際に見ていないので断定はできないが、「卑俗的なものが付加され、聖なるものが排除されている」この劇も、タガンカ劇場などの前衛的なロシア演劇や映画の伝統を踏まえつつ、原作のテーマをしっかりと受け継いでいる可能性があると思われる。タガンカ劇場の熱気が思い出されるような知的刺激に富んだ報告であった。              

 

「映画《惑星ソラリス》をめぐって」を「映画・演劇評」に掲載

黒澤監督とタルコフスキー監督のドストエフスキー観に迫った堀伸雄氏の二つの論文に強い知的刺激を受けて書いた論文「映画《惑星ソラリス》をめぐって――黒澤明とタルコフスキーのドストエフスキー観」が、黒澤明研究会の『会誌』第33号に掲載されました。たいへん遅くなりましたが、「映画・演劇評」のページに転載します。

この論文では映画《惑星ソラリス》とドストエフスキーの『罪と罰』との関係だけでなく、『おかしな男の夢』とのつながりにも言及しました。

注では記しませんでしたが、その考察に際しては「ドストエーフスキイの会」第215回例会で「ドストエーフスキイとラスプーチン ――中編小説『火事』のラストシーンの解釈」という題で発表された大木昭男氏の考察からも強い示唆を受けています。

ドストエフスキーが1864年に書いたメモで、人類の発展を「1,族長制の時代、2,過渡期的状態の文明の時代、3,最終段階のキリスト教の時代」の三段階に分類していたことを指摘した大木氏は、『火事』とドストエフスキーの『おかしな男の夢』の構造を比較することで、その共通のテーマが「己自らの如く他を愛せよ」という認識と「新しい生」への出発ということにあると語っていたのです。

この指摘は長編小説『白痴』の映画化にも強い関心をもっていたタルコフスキーのドストエフスキー観を理解するうえでも重要でしょう。

 

リンク→映画《惑星ソラリス》をめぐって――黒澤明とタルコフスキーのドストエフスキー観

リンク→大木昭男氏の「ドストエーフスキイとラスプーチン」を聴いて

リンク→《かぐや姫の物語》考Ⅱ――「殿上人」たちの「罪と罰」