高橋誠一郎 公式ホームページ

原子力規制委員会

『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の「あとがき」を掲載

%e3%82%b4%e3%82%b8%e3%83%a9%e3%81%ae%e5%93%80%e3%81%97%e3%81%bf%e8%a1%a8%e7%b4%99%e3%82%ab%e3%83%90%e3%83%bc%e8%a3%8f%e5%b8%af%e4%bb%98(←画像をクリックで拡大できます)

あとがき

本書の発行に向けての思いをブログに記したのは、今年の六月二一日のことだった。七月一〇日に投開票が行われることになった参議院議員選挙が「改憲」の問題点が隠されたままで行われようとしていただけでなく、「原子力規制委員会が『四〇年廃炉』の原則をなし崩しにして、老朽原発に初の延長認可を出した」との報道に強い危機感を覚えたからである。

広島や長崎への原爆の投下や「第五福竜丸」の悲劇の後で原発の推進を進めた自民党の政策の破綻が明らかになったのが福島第一原子力発電所の大事故で、それは「徹底した人命軽視の思想」に基づいて戦争を遂行した「参謀本部」が、ミッドウェー海戦やガダルカナルの戦いに負けたのと同じような事態であると考えていた。

それにもかかわらず原発の稼働や推進を続けることは、すでに時代遅れとなった「大艦巨砲主義」によって建造された戦艦大和の力や、元寇の時に吹いたとされる「神風」のような奇跡が起こることを信じて、「一億玉砕」となるまで戦争を続けようとしたのと同じ間違いを繰り返すことになる危険性が高いと思われたのである。

幸い、原発の再稼働が焦点となった新潟県の知事選挙で脱原発派の米山隆一氏が、原子力ムラや安倍政権の恫喝に近い圧力にもかかわらず当初の予想を覆して圧勝した。さらに、一〇月二二日の朝日新聞・デジタル版は、ドイツなど西欧に続いて台湾政府が「脱原発」の閣議決定をしたと伝えている。

日本では安倍政権の厳しい情報統制や「原発プロパガンダ」にまだ多くの国民が惑わされているが、「フクシマ」の大事故の際には首都圏も被爆する可能性があったことが多くの関係者の証言から明らかになっている。原発の立地県とその周辺だけでなく、大阪や東京など大都市の住民も、原発の危険性だけでなく核の汚染物質の廃棄場所や廃炉にかかる費用などの問題を隠蔽している安倍政権の実態にそろそろ目覚めるべき時だろう。

映画などポピュラー文化との関係をとおして原爆や原発などの問題や歴史認識の問題を考察するという新しい試みでもあったので、本書の執筆は思った以上に難航したが、なんとか異なるテーマを扱った三部を有機的に結び付けることには成功したのではないかと考えている。

第一部は黒澤明監督の映画《夢》と本多猪四郎監督の映画《ゴジラ》との関係を中心にホームページに五回にわたって考察したブログ記事「映画《ゴジラ》考」をもとに、『黒澤明研究会誌』第三二号に発表した論考を大幅に加筆したものである。当初は「ゴジラ」の変貌に焦点をあてた映画論にしようと考えていたが、ポピュラー文化をも視野に入れながら「日本人の核意識」の変遷を考察した関連の書物を読み返す中で、文明論的な視点から「ゴジラ」の変貌を考察してみたいと思うようになった。ソ連やアメリカの映画や日露関係などにも言及したことにより、核の問題をより深く考えることができたと思う。

第二部は「オレオレ詐欺の手法と『永遠の0(ゼロ)』」という題でブログに連載した記事を全面的に書き直したものである。ブログでは宮部久蔵の孫・健太郎を作者の分身として解釈していたが、改訂版では最初の内は「臆病者」と非難された実の祖父の汚名を晴らそうとした健太郎が、取材を続ける中で次第に取り込まれて後半では積極的に作者の思想を広めるようになる若者として解釈した。

このことにより登場人物たちの人間関係や思想的背景にも迫ることができ、作者が証言者たちに語らせている歴史観が「日本会議」や「新しい歴史教科書をつくる会」の論客たちの歴史認識ときわめて似ていることを明らかにしえたのではないかと考えている。たとえば、作者は「一部上場企業の社長」であった武田に、新聞記者の高山を激しく批判させる一方で徳富蘇峰を高く評価させているが、蘇峰は『大正の青年と帝国の前途』において、「君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるもの」を献げるという精神の重要性を説いていた。このことに留意するならば、このような蘇峰の「忠君愛国」の思想こそが日本軍の「徹底した人命軽視の思想」に直結していると思われるのである。『永遠の0(ゼロ)』を詳しく分析することで、地震や火山の活動が活発化している日本で原発の再稼働を進める安倍政権の多くの閣僚が、戦前と同じような「徹底した人命軽視の思想」の持ち主であることをも浮き彫りにすることができだろう。

第三部も宮崎駿監督の映画《紅の豚》と《風立ちぬ》ついての感想を記したブログ記事を中心にまとめるつもりであったが、第一部や第二部での考察の対象が広がり、分析が深まったことにより、黒澤明監督の映画《七人の侍》から映画《夢》にいたる流れと比較しながら、《風の谷のナウシカ》から《もののけ姫》を経て映画《風立ちぬ》にいたる深まりを考察することになった。

私にとって思いがけぬ収穫となったのは、『発光妖精とモスラ』の作者の一人である堀田善衛などとの共著『時代の風音』を考察する中で、日本では「弥生式のころから引き継いでいる大地への神聖観というのをどうも失いつつある」という司馬遼太郎の指摘が、宮崎駿監督の《もののけ姫》や映画《夢》における「自然支配の思想」の批判とも結びついていることを確認できたことであった。

国民の健康にも深くかかわるTPP交渉を秘密裏に行い、その資料を公開しようともしない安倍政権は、「安全保障関連法案」を強行採決した後では武器の製造や輸出を奨励しているばかりでなく、沖縄の歴史や住民の意向を無視してジュゴンが住む辺野古の海にアメリカ軍のより恒常的な基地をつくろうとしている。ヤンバルクイナをはじめ多くの固有種が見られ、住民たちが「神々のすむ森」として畏敬してきた高江には多くの機動隊員が派遣されて住民を排除しながらヘリパッドの建設を進めている。

日本の大地や河川、そして海までも放射能で汚染した「フクシマ」の悲劇の後でも、原発の推進や軍事力の拡大など、一九世紀的な「富国強兵」策を行っている安倍政権を強く支持している「日本会議」や「神社本庁」は、すでに真の宗教心を失って政治団体化しているのではないかとさえ思われる。

執筆の際には多くの著書やネット情報から教えられることが多かったので、引用させて頂いた著者の方々にこの場を借りて感謝の意を表したい。また、日本ペンクラブ・環境委員会での活動や、黒澤明研究会、比較文明学会、世界システム倫理学会や国際ドストエフスキー学会での発表と質疑応答の機会を得ることができたのがありがたかった。ただ、急いで書いたこともあり、言及すべき資料にふれられていない箇所や思い違いや誤記などもあると思われるのでご指摘頂ければ幸いである。

本書の第二部では日露戦争を描いた長編小説『坂の上の雲』をめぐる「史観論争」にも言及したが、それは「教育勅語」の渙発後に北村透谷と山路愛山や徳富蘇峰との間で繰り広げられた「史観論争」とも深く結びついている。北村透谷の『罪と罰』論と自由民権運動との関連などについては、『絶望との対峙――「憲法」の発布から「鬼胎」の時代へ』(仮題、人文書館)の構想を進めていた。本書を書くために途中で中断していたので、なるべく早くに書き上げて上梓したいと考えている。

なぜならば、今年の正月には参拝客で賑わう多くの神社で政教分離の原則に反した「改憲」の署名運動が行われたことが報道されたが、自民党の「改憲」案にはヒトラーが独裁権を握ったときときわめて似た「緊急事態条項」が盛り込まれているからである。

このように危険な安倍政権を生み出すきっかけは、作家の司馬遼太郎が亡くなった後で起きた論争の際に、「自由主義史観」を唱える論客たちが、「司馬史観」と自分たちの情念的な歴史観との類似性を強調しつつ、客観的な歴史認識に「自虐史観」という差別的な「レッテル」を貼って非難したことにあったと私は考えている。

憲法学者の樋口陽一氏は最近亡くなった劇作家の井上ひさし氏との対談で、イラク戦争を「ブッシュの復讐」と呼び、「これは復讐ですから、戦争ですらないのです」と喝破していた(『日本国憲法を読み直す』岩波現代文庫)。

司馬遼太郎氏は一九〇二年の日英同盟から四〇年足らずで日本が英米との「大東亜戦争」に踏み切っていたことを指摘していたが、敗戦後から七〇年経った現在、沖縄の住民を「土人」と呼んで軽蔑した警官をねぎらうような大阪府知事や閣僚が出て来ている。そのことに注目するならば、「大東亜戦争」を正当化している「日本会議」的な理念によって教育された若い世代が、近い将来にアメリカを再び「鬼畜」と見なして「報復の戦争」を始める危険性は少なくないだろう。司馬氏が「鬼胎」の時代と呼んだ昭和初期の時代の再来を防ぐためにも、本書が少しでも役に立てれば幸いである。

二〇一六年一〇月二二日

(謝辞を省いた形で掲載。2016年11月6日、青い字の箇所を追加)。

近著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』(のべる出版企画)の発行に向けて

ゴジラ

(図版は露語版「ウィキペディア」より)

今回の選挙でも「改憲」の問題はまたも隠される形で行われるようになりそうですが、日本の未来を左右する大きな争点ですので、今年中にはなんとか「世田谷文学館・友の会」の講座で発表した「『坂の上の雲』の時代と『罪と罰』の受容」を中核とした本を書き上げたいと思っていました。

しかし、今朝のニュースでも原子力規制委員会が「40年廃炉」の原則をなし崩しにして、老朽原発に初の延長認可を出したとのニュースが報道されていたように、核戦略をも視野に入れた安倍政権や目先の利益にとらわれた経済界の意向に従って、地震大国であり火山の噴火が頻発しているにもかかわらず、川内原発などの再稼働に舵を切った自公政権の原発政策は、これまでこのブログで指摘してきたように国民の生命や財産を軽視したきわめて危険なものです。

「原子力規制委員会」関連記事一覧

また、68回目の終戦記念日の安倍首相の式辞では、これまで「歴代首相が表明してきたアジア諸国への加害責任の反省について」はふれられておらず、「不戦の誓い」の文言もなかったことが指摘されています。

終戦記念日と「ゴジラ」の哀しみ

一方、一九九六年に起きたいわゆる「司馬史観」論争では、「新しい歴史教科書をつくる会」を立ち上げた藤岡氏が『坂の上の雲』を「戦争をする気概を持った明治の人々を描いたと讃美する一方で、きちんと歴史を認識しようとすることを「自虐史観」という激しい用語で批判していました。

しかし、このような考えはむしろ司馬氏の考えを矮小化し歪めるものと感じて『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、2002年)を発行しました。なぜならば、作家・井上ひさし氏との対談で、戦後に出来た新しい憲法のほうが「昔なりの日本の慣習」に「なじんでいる感じ」であると語った司馬氏は、さらに、「ぼくらは戦後に『ああ、いい国になったわい』と思ったところから出発しているんですから」、「せっかくの理想の旗をもう少しくっきりさせましょう」と語り、「日本が特殊の国なら、他の国にもそれも及ぼせばいいのではないかと思います」と主張していたからです(「日本人の器量を問う」『国家・宗教・日本人』)。

最近になって相次いで「日本会議」に関する著作が出版されたことにより、現在の安倍政権と「新しい歴史教科書をつくる会」との関係や、『永遠の0(ゼロ)』の百田直樹氏と「日本会議」が深く繋がっていることが明らかになってきました。

菅野完著『日本会議の研究』(扶桑社新書)を読む

国民の生命や安全に関わる原発の再稼働や武器輸出などが「国会」で議論することなく、「日本会議に密着した政治家たちが」「内閣の中枢にいる」(『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』)閣議で決まってしまうことの危険性はきわめて大きく、戦前の日本への回帰すら危惧されます。

『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書) を読む

憲法学者の樋口陽一氏が指摘しているように、「法治国家の原則が失われており、専制政治の状態に近づいている。そういう状態に、我々は立っている」(『「憲法改正」の真実』)のです。

樋口陽一・小林節著『「憲法改正」の真実』(集英社新書)を読む

それゆえ、原爆や原発の問題や歴史認識などの問題を可視化して掘り下げるために、『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』と題した映画論を、急遽、出版することにしました。

参議院選挙には間に合いそうにありませんが、事前に出版の予告を出すことで、日本の自然環境を無視して原発の稼働を進め、「戦争法」を強行採決しただけでなく、「改憲」すら目指している安倍政権の危険性に注意を促すことはできるだろうと考えています。自分の能力を超えた執筆活動という気もしますが、このような時期なので、なんとか6月末頃までに書き上げて出版したいと考えています。

(2016年11月2日、リンク先を追加)

『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の「あとがき」を掲載

高浜原発に停止命令――21世紀のエネルギー政策への英断

大津地裁が「新基準で安全といえず」として、関西電力高浜原発3、4号機(福井県高浜町)の運転を差し止める決定をしました。

このことを報じた10日付けの「東京新聞」は、〈東京電力福島第一原発事故の原因究明が進んでいない状況を重視し、政府が「世界一厳しい」と強調する原子力規制委員会の新規制基準に「関電の主張や説明の程度では公共の安心、安全の基礎と考えるのはためらわざるを得ない」と疑問を呈した。〉ことを伝えるとともに、〈申し立てた住民は原発の半径約七十キロまでの範囲に居住。各地の原発で同じ条件を当てはめれば立地県外でも多くの自治体に影響し、広域被害の議論に一石を投じそうだ。〉と記しています。

「福島第一原発事故の避難生活による体調悪化などが原因の「震災関連死」は2月末時点で、岩手、宮城、福島3県で計3405人に上った」事実を伝えた「東京新聞」は、「11日で震災から丸5年。長期にわたる避難が、被災者の心身に影響し続けている」とも記しています。

「朝日新聞」(デジタル版)も大津地裁の決定を受けて、小泉元首相が、「国民の根強い原発に対する不安や、原発事故を起こしてはいけないという、国民の意思をよく受け止めたものではないか」と述べるとともに、高浜原発1、2号機の再稼働を、原子力規制委員会が例外扱いで認めたことを「安全第一といいながら、収益第一になっている」と批判したことも伝えています。

一方、実質的には原発事故による放射能「汚染水」問題さえも収束していないにもかかわらず、「アンダーコントロール」と世界に宣言していた安倍首相は、10日の記者会見で「原子力規制委員会が判断した世界最高レベルの新たな規制基準に適合した原発だけ再稼働を進めるとの一貫した方針に変わりない」と表明したとのことです。

しかし問題は、NHKの経営委員会などと同じように、安倍内閣の意向に忠実な者が選ばれているとしか思えない「原子力規制委員会」の判断自体が怪しくなって来ていることです。

明日は福島第一原子力発電所の大事故から5年を迎えますので、勇ましい言葉で「国民」を煽る一方で、利権を重視して「国民の生命や財産」に対しては責任を取ろうとしない安倍内閣の問題をとおして、21世紀のエネルギー政策を問う記事を書きたいと思います。

リンク→「原子力規制委員会」関連記事一覧

リンク→原発事故関連記事一覧

「原子力規制委員会」関連記事一覧

先ほど、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と啖呵を切って居直っていた日本の代表的な知識人・小林秀雄の「道義心」の問題を論じた記事をアップしました。

この問題は再稼働を許可した安倍政権の閣僚やことに「原子力規制委員会」に深く関わりますので、「原子力規制委員会」関連記事一覧を掲載します。

 

「原子力規制委員会」関連記事一覧

「僕は無智だから反省なぞしない」――フクシマ後の原発再稼働と知識人・小林秀雄

パグウォッシュ会議の閉幕と原子炉「もんじゅ」の杜撰さ

原子力規制委・田中委員長の発言と安倍政権――無責任体質の復活(6)

川内原発の再稼働と新聞『小日本』の巻頭文「悪(に)くき者」

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(1)

「アベノミクス」と原発事故の「隠蔽」

御嶽山の噴火と川内原発の再稼働――映画《夢》と「自然支配」の思想

「放射能の除染の難しさ」と「現実を直視する勇気」

真実を語ったのは誰か――「日本ペンクラブ脱原発の集い」に参加して

「僕は無智だから反省なぞしない」――フクシマ後の原発再稼働と知識人・小林秀雄

今日(2月27日)の「東京新聞」朝刊は、原発事故に関する二つの記事を一面のトップで伝えています。最初の記事は「高浜4号機 不安の再稼働 冷却水漏れ直後、予定通り」という大見出しと、「問われる責任 福島事故 生きない教訓」という見出しとともに掲載された下記の記事です。

*   *   *

〈関西電力は二十六日、高浜原発4号機(福井県高浜町)を再稼働させた。福島第一原発事故後の原子力規制委員会の新規制基準下では、九州電力川内(せんだい)原発1、2号機(鹿児島県)、高浜原発3号機に続き二カ所四基目。4号機では二十日、原子炉補助建屋でボルトの緩みが原因で放射性物質を含む一次冷却水漏れが起きたが、関電は同様の弁を点検するなど対策を済ませたとして、当初予定通りの日程で再稼働させた。〉

もう一つは「東電元会長ら3人 29日に強制起訴」という見出しの次のような記事です。

〈東京電力福島第一原発事故で、東京第五検察審査会から二度、起訴すべきとの議決を受けた東電の勝俣恒久元会長(75)ら旧経営陣三人について、検察官役の指定弁護士が二十六日に会見し、三人を二十九日に業務上過失致死傷罪で、在宅のまま強制起訴することを明らかにした。〉

*   *   *

これらの記事を読みながら思い出したのは、敗戦後の1946年に戦前の発言について問い質されて、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない」と語り、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と啖呵を切って居直っていた日本の代表的な知識人・小林秀雄のことです(下線は引用者)。

なぜならば、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と長編小説『罪と罰』を解釈した文芸評論家の小林秀雄の著作が、自民党の教育政策により教科書や試験問題でも採り上げられることにより「利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」という道徳観が広まったことで、自分の発言に責任を持たなくともよいと考える政治家や社長が増えたと思えるからです。

しかも、1948年の8月に行われた物理学者・湯川秀樹博士との対談「人間の進歩について」で、「私、ちょうど原子爆弾が落っこったとき、島木健作君がわるくて、臨終の時、その話を聞いた。非常なショックを受けました」と切り出した小林秀雄は、「人間も遂に神を恐れぬことをやり出した……。ほんとうにぼくはそういう感情をもった」と語り、「原子力エネルギー」の危険性を指摘してこう続けていたのです。

「目的を定めるのはぼくらの精神だ。精神とは要するに道義心だ。それ以外にぼくらが発明した技術に対抗する力がない」。

当時としてはきわめて先見の明のある発言だと思われますが、問題は「僕は無智だから反省なぞしない」と啖呵を切ることで戦争犯罪の問題を「黙過」していた小林が、原発の推進が「国策」となると今度は「原子力エネルギー」の危険性をも「黙過」するようになっていたことです。

それゆえ、代表的な知識人である小林が「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」と発言していた文章を読み直したときには、「僕は政治的には無責任な一国民として事変に処した」と発言しているのと同じだと感じたのですが、小林秀雄の「道義心」の問題は「国民の生命」に関わる「原子力規制委員会」とも深く関わっています。それゆえ、再稼働を許可した「原子力規制委員会」関連記事一覧も次のブログで掲載します。

追記:

このような記述は、小林秀雄にたいして厳しすぎると感じる人が少なくないと思われます。戦前から戦時中の日本には言論の自由がなく、東条英機に批判的な発言をした者は、犯罪者として罰せられるか、懲罰召集されて前線に送られていたためです。それゆえ、ここではドストエフスキー研究者の立場から、戦後の発言についてのみ問題としています。

なお、自分の言葉がスメルジャコフに「父親殺し」を「使嗾」していたことに気づいたイワンが、深い「良心の呵責」に襲われ意識混濁や幻覚を伴う譫妄症にかかったと描かれている『カラマーゾフの兄弟』については、「アインシュタインのドストエフスキー観と『カラマーゾフの兄弟』」を参照してください。

 

パグウォッシュ会議の閉幕と原子炉「もんじゅ」の杜撰さ

800px-Atomic_cloud_over_Hiroshima220px-Nagasakibomb

(広島と長崎に投下された原子爆弾のキノコ雲、1945年8月、図版は「ウィキペディア」より)

「パグウォッシュ会議」の世界大会が5日、「長崎を最後の被爆地に」とのメッセージで始まり、核兵器保有国に核廃絶を確約するよう求める「長崎宣言」を発表して閉幕しました。

この宣言では被爆国として運動の先頭に立つべきでありながら、いまだにアメリカの「核の傘」に入っている日本政府の核政策を強く意識して、安全保障政策の変革も要請されました。

原子力利用のあり方などが討議された3日の会議では、海外の科学者たちが「コストの高さや兵器転用の恐れ」を指摘して、「核燃料サイクルなどの日本の原子力政策を批判した」とのことです。

実際、11月5日の「東京新聞」朝刊は、「もんじゅ廃炉へ現実味 核燃料サイクル計画破綻」との見出しの一面記事で、次のように記しています。重要な記事なので少し長くなりますが、重要な箇所を引用しておきます。

*   *

原子力規制委員会は点検漏れ問題で文部科学省に対し、信頼できる運営主体を探すか、安全対策を抜本的に改善するかを勧告する。どちらかを実現しないと、廃炉は避けられない。もんじゅは国が推進してきた核燃料サイクル計画の中核的な存在。なくなれば、十兆円をつぎ込んできた計画は名実ともに破綻する。 (小倉貞俊、榊原智康)=関連<2>面

規制委は四日、現在の運営主体の日本原子力研究開発機構では、停止しているもんじゅの保全管理もできておらず、運転は任せられないとの判断を下した。 かつて「夢の原子炉」とうたわれたが、二十年以上も前に造られ、稼働期間はわずか二百五十日。冷却材に爆発的燃焼の危険性が高いナトリウムを使い、維持費もかさむ。機構は二十年前のナトリウム漏れ事故以降、甘い管理体制を改善する機会は何度もあったが一向に進まない。まだ待てというのか-。

規制委の委員五人は全員一致で、文科省への勧告という重い決断をした。/核燃サイクルは、一般的な原発系と高速炉系の二系統で、使用済み核燃料を再利用する計画。十兆円が投じられてきたが、どちらの循環も回るめどはない。原発で核燃料をMOX燃料として再利用するプルサーマルは、海外で製造した燃料を使って一部始まったが、使用済みMOXをどうするのかは白紙。もんじゅがなくなれば、高速炉系の「輪」は名実ともに消える。

   *   *   *

「国民」の生命をも脅かすばかりでなく、長い目で見れば「国家」を疲弊させる可能性が大きい安倍政権の核政策と安全保障政策はきわめて危険であると言わねばならないでしょう。

「パグウォッシュ会議」関連記事

リンク→小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計

リンク→年表8、核兵器・原発事故と終末時計

 

原子力規制委・田中委員長の発言と安倍政権――無責任体質の復活(6)

sho_f-1

 

九州電力が11日に川内原発1号機の原子炉が「事故時の責任不明のまま」再稼働しました。

このような事態になった経緯をいくつかのブログ記事などを参考に簡単に振り返ることにより、「国民の生命や安全」を無視して、「私利私欲」から「利権」に走る危険な安倍政権の実態に迫りたいと思います。

*   *

川内原発の再稼働は、「原子力規制委員会が策定した新規制基準に基づく」ものですが、その原子力規制委員会は2011年3月11日に発生した東京電力福島原子力発電所事故の際に、自民党政権下に設置されていた原子力安全・保安院が、経済産業省の管轄でもありその対応があまりにもずさんであったために、新たに立ち上げられた組織でした。

平成25年1月9日に発表された文書では「原子力規制委員会の組織理念」が次のように高らかに謳われていました*1。

原子力にかかわる者はすべからく高い倫理観を持ち、常に世界最高水準の安全を目指さなければならない。/我々は、これを自覚し、たゆまず努力することを誓う。(中略)原子力に対する確かな規制を通じて、人と環境を守ることが原子力規制委員会の使命である。」

*   *

2012年9月にその組織の委員長に田中俊一氏が就任した際には、強い懸念の声が聞かれました。東北大学工学部で原子力工学を学んだ田中氏が、日本原子力研究開発機構等を経て日本原子力学会の第28代会長を務め、内閣府原子力委員会委員長代理や内閣官房参与などを歴任するなど、まさに「原子力ムラ」の有力者だったからです。

それでも「初期のころの規制委は、5人の委員のうちの地震学者の島崎邦彦氏が、かなり厳しい意見を電力会社に浴びせるなど、ある程度の“原発抑止力”を発揮しようとする姿勢が見えたようにも思われた」と書いたジャーナリストの鈴木耕氏は、「だがそれは、どうも『世を欺く仮の姿』だったらしい」と続けています*2。

なぜならば、2014年9月に新たに委員に任命された田中知氏が、日本原子力学会の元会長というれっきとした原子力ムラの村長クラスで」、「原子力事業者から多額の寄付や報酬(判明しているだけで760万円以上)を受け取っていた」からです。

しかも、民主党政権時代に定められた原子力行政に関するガイドラインの「規制委員の欠格条件」には、「直近の3年間に原子力事業者等及びその団体の役員をしていた者」という項目があり、2010年〜2012年に原子力産業協会理事という役職に就いていた田中知氏は、当然、原子力規制委員になれるはずはなかったのです。

鈴木氏はこう続けています。「だが、当時の石原伸晃環境相は『民主党時代のガイドラインについては考慮しない』と国会で答弁、安倍政権として平然とガイドラインを破棄した。歯止めを簡単に取っ払ってしまったのだ。」

*   *

菅官房長菅は「原子力規制委員会において安全性が確認された原発は再稼動を進める」と発言し、原子力規制委員会の判断を再稼働の理由にしています。

しかし、2014年7月16日に「適合性審査」に川内原発はクリアしたと発表した原子力規制委員会の記者会見で、田中俊一・委員長は記者の質問にこたえて、次のような驚くべき発言をしていたのです。

「安全審査ではなくて、基準の適合性を審査したということです。ですから、これも再三お答えしていますけれども、基準の適合性は見ていますけれども、安全だということは私は申し上げませんということをいつも、国会でも何でも、何回も答えてきたところです。」

つまり、川内原発の「安全性」はクリアされていないのです。このことについては「リテラ』が分析していますので、詳しくはその記事をお読みください

川内原発の再稼動審査で行われたおそるべき「非合法 … – リテラ

*   *

その記事の中で最も注目したのは、「新規制基準では、原発の敷地内に火山噴火による火砕流などが及ぶ場合は立地不適となり、本来は川内原発もこれに抵触するため再稼働は認められないだろうと考えられていた」にもかかわらず、「九電も規制委も、川内原発が稼動している数十年の間に噴火は来ないとして立地不適にしなかった」ことである。

しかも、火山学者から「巨大噴火」の可能性を指摘されると田中委員長が「そんな巨大噴火が起きれば、九州が全滅する。原発の問題ではない」と言い放ったことを、松崎純氏は「これは子供でもインチキだと分かる詭弁だろう」と指摘しています。

このような田中氏の発言からは私が連想したのは、黒澤映画《夢》の第六話「赤富士」で原発事故の収束のために最期まで踏みとどまって国民の被害を最小限にとどめようと努力せずに、苦しみから逃れるために自殺を選ぶ原子力関係者の姿でした。そこからは「原子力にかかわる者はすべからく高い倫理観」を持たねばならないとした「組織理念」が微塵も感じられないのです。

民主党時代に制定されたガイドラインを平然と破棄し、原子力規制委員会を促進委員会のように変貌させて、国民の半数以上が反対であるにも関わらず再稼働を許可した安倍政権は、「国民の生命や安全」のことは考えていない「不道徳」な政権であるといわねばならないでしょう。

 

*1 原子力規制委員会の組織理念www.nsr.go.jp/nra/gaiyou/idea.html

*2 5 原子力規制委員会田中俊一委員長の悲しい変貌 – マガジン9www.magazine9.jp/article/hu-jin/15907/

川内原発の再稼働と新聞『小日本』の巻頭文「悪(にく)き者」

Earthquake and Tsunami damage-Dai Ichi Power Plant, Japan(←画像をクリックで拡大できます)。

(2011年3月16日撮影:左から4号機、3号機、2号機、1号機、写真は「ウィキペディア」より)

 

川内原発の再稼働と新聞『小日本』の巻頭文「悪(にく)き者」

原子力規制委員会は「周辺に活火山群がある鹿児島県の九州電力川内原発について、新規制基準にかなうと判断」していましたが、この判断に従って九州電力は川内原発1号機の原子炉を明日、再稼働させると発表しました。

また、菅官房長官は10日の記者会見で「第一義的には責任は事業者にあるが、万が一事故が起きた場合、国が先頭に立って原子力災害への迅速な対応や被災者への支援を行っていく」と語ったとのことです。

しかし、福島第一原子力発電所の大事故がいまだに収束してはおらず、原子力災害の被災者への十分な対応もできていない現状を考慮するならば、菅氏の説明はほとんど説得力を持っていないように見えます。

川内原発の再稼働の危険性については、〈御嶽山の噴火と川内原発の再稼働――映画《夢》と「自然支配」の思想で詳しく考察しましたが、記者会見での安倍首相と菅官房長官の言葉から思い出したのは、「功労なくして顕地に立ち、器識なくして要路を占め、天を畏れず、人に省みず、政事家気取をなす者の面、悪(にく)むべし。」という新聞『小日本』に記された子規の言葉でした。

圧倒的な権力を有した当時の薩長藩閥政府の「新聞紙条例」や「讒謗律」にもかかわらず、敢然と権力の腐敗を厳しく批判した新聞記者としての子規の文章には、圧倒されるような気迫があります。俳句を改革した子規の業績もこのような新聞人として現実の直視から生まれているのではないかと思います。

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』の執筆を少し先送りしてでも、「戦争法案」の成立を阻止するためにブログの記事を私が書き続けていることも、子規の気迫に促されているところもあるようです。

今回は変体仮名を標準的な平仮名に直して、明治27年3月23日の新聞『小日本』の巻頭を飾っている「悪(にく)き者」という一連の文章の前半を紹介することにします。

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)

*   *   *

 悪(にく)き者

○権謀術数は兵事に於てこそ尚(たつと)ぶ可(べ)けれ、政事就中(なかんづく)内治(ないぢ)の上に用ふ可(べ)きものに非ず。然るに今の政事社会には内治の上に之を振回(ふりまわ)し、したり顔する政事家少なからず。悪(にく)むべし。

○制を矯め命(めい)を偽はりて一世に我物顔(わがものがほ)に振舞ふ者は、悪(にく)む可(べ)き者の骨頂なり。

○正常の手段もて正常の業(げふ)を営み、富(とみ)を致してこそ名誉はあれ、人間の恥といふものを忘れ、人を欺き他を困(くるし)め、不義の財を貪り積みて扨(さて)紳商と高ぶるしれ者多し、悪(にく)むべし。

○勢家の意を迎へ、権門の心に投し、例を欧米に求めて虐政を幇(たす)け、言を英国に托して暴制を設けしめ、 才子を以て自ら居る者、学校出身の若手にまゝあり、悪(にく)む可し。

○功労なくして顕地に立ち、器識なくして要路を占め、天を畏れず、人に省みず、政事家気取をなす者の面、悪(にく)むべし。

(2015年12月22日、2017年6月5日。写真を追加)