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アインシュタイン

ドストエーフスキイの会「第230回例会のご案内」

ドストエーフスキイの会「第230回例会のご案内」を「ニュースレター」(No.131)より転載します。

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第230回例会のご案内

 

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                      

日 時2015年11月21日(土)午後2時~5時      

場 所場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)

       ℡:03-3402-7854

 報告者:長瀬 隆 

 題 目: アインシュタインとドストエフスキー

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:長瀬隆(ながせ たかし)

1931年生 早大露文卒。日本原水協を経て商社に勤務ソ連中国を担当。要旨に記載のペレヴェルゼフ『ドストエフスキーの創造』(1989、みすず書房)、『ドストエフスキーとは何か』(2008、成文社)および『トリウム原子炉革命』(2014、展望社)以外に、下記著作が有る。『樺太よ遠く孤独な』、『ヒロシマまでの長い道』、『微笑の沈黙』、『松尾隆』(雑誌連載)、『日露領土紛争の根源』。詳しくは http://homepage2.nifty.com/~t-nagase/ に見られたい。

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アインシュタインとドストエフスキー

   長瀬隆

レオーノフ(1899~198?)は『スクタレフスキー』、『ロシアの森』(ともに米川訳がある)などの自他ともに認められたドストエフスキーの影響の色濃い作家であるが、1961年雑誌『ズヴェズダー』のインタビュー「作家の仕事」において「アインシュタインが愛好したのはドストエフスキーだった。ここに芸術理論家たちが取り組むべき課題がある」という発言をおこなった。これを私は記憶していて、2008年刊の拙著『ドストエフスキーとは何か』の結びの章でそれを紹介し、アインシュタインが関心をもったのは、『カラマーゾフ兄弟』の中のイワンの非ユークリッド幾何学に言及した言説であると述べている。

アインシュタイン全集の訳者にして編集者の一人だったクズネッオフ(1903~?)は1962年初版の大著『アインシュタイン』の全30章のうちの7章(表題は「ドストエフスキーとモーツァルト」)においてこの問題に触れた。もっともこれ以前に彼は「エピクロスとルクレツィー、ガリレイとアリストロ、アインシュタインとドストエフスキーについての覚書」を雑誌に発表しており、レオーノフの発言がこれを読んでの反応だったとも考えられる。

『アインシュタイン』は版を重ね1967年に第三版が公刊され、1970年に上下二巻の邦訳が出た。これは1973年までに第4刷が出ているが、このうちのドストエフスキーへの言及が日本の文学界で話題になったことは無い。

クズネッオフは三版後に全面的な改定をおこない、頁数もぐっと増大した『アインシュタイン――生涯、死と不滅』を公刊した。ここでは『アインシュタイン』の7章はそれぞれ「ドストエフスキー」と「モーツアルト」の二つに分割され、またそれぞれ倍以上の量と成っている。著者自身の立場はレーニンの『唯物論と経験批判論』および『哲学ノート』に立脚しつつの、それらの発展を目指したものとみなすことができる。レーニンはドストエフスキーとアインシュタインについては何も言及せずに逝っており、両者は、ペレヴェルゼフの『ドストエフスキーの創造』(1912~1921、1989年に長瀬訳がある)を唯一の例外として、旧ソ連ではマルクス主義の盲点を成していた。

『アインシュタイン』は各国語に翻訳されていたが、ドストエフスキーに係る章が特に注目されたようであって、『生涯、死と不滅』が刊行されたのと同じ1974年にロンドンで『アインシュタインとドストエフスキー』が公刊された。タイプされた露語原稿から英訳されたもののようである。小著であり、これが1985年に邦訳されている。しかしこれもまたわが国の文学界ではまったく話題にはならなかったのではなかろうか。

クズネツォフのそれまでの著作と論文は常にアインシュタインが主体であり、ドストエフスキーはこれに従属するものとして扱われてきた。この性格は量的には最大の『生涯、死と不滅』においても変っていない。これに対して英訳単行本の『アインシュタインとドストエフスキー』では両者は初めて対等な形で並置され論じられている。その本文に「ドストエフスキーをアインシュタインの目を通して見、アインシュタインをドストエフスキーの目を通して見る」という文言があることからも明らかなように、相互的にして対等であり、その革新的な試みは成功している。

問題は、ヒロシマ・ナガサキ・フクシマを体験してきた私たち日本人が今日この試みをどのように評価するかにあると思われる。私としては昨2014年刊の『トリウム原子炉革命――古川和男・ヒロシマからの出発』で少なからず行ったと考えている。

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例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

 

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」関連の記事一覧

先ほど、岸元首相の「核政策」だけでなく文芸評論家・小林秀雄の「沈黙」についても言及した〈「安全保障関連法案」の危険性(2)――岸・安倍政権の「核政策」〉という記事をアップしました。

それゆえ、ここでは1962年に発行された『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(筑摩書房)をとおして小林秀雄氏の「良心」観の問題を考察した記事の一覧を副題も示す形で掲載します。(下線部をクリックすると記事にリンクします)。

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(広島に投下された原爆による巨大なキノコ雲(米軍機撮影)。キノコ雲の下に見えるのは広島市街、その左奥は広島湾。画像は「ウィキペディア」による)

 関連記事一覧

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(1)――「沈黙」という方法と「道義心」

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(2)――『カラマーゾフの兄弟』と「使嗾」の問題

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(3)――岸信介首相と「道義心」の問題

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)――良心の問題と「アイヒマン裁判」

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(5)――ムィシキン公爵と「狂人」とされた「軍人」

アインシュタインのドストエフスキー観と『カラマーゾフの兄弟』

小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計

小林秀雄の『罪と罰』観と「良心」観

 

アインシュタインのドストエフスキー観と『カラマーゾフの兄弟』

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(Oren J. Turnerによる写真1947年。「ウィキペディア」より)

 

アインシュタインのドストエフスキー観 

これまで5回にわたって文芸評論家・小林秀雄氏と数学者の岡潔氏との対談『人間の建設』(新潮社、1965年)にも注意を払いながら、1962年に発行された『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(筑摩書房)における「良心」の問題を考察してきました。

読者の中にはここまでこだわらなくてもよいと考える方も少なくないと思われますので、最後にこの問題とドストエフスキー研究者としての私とのかかわりを簡単に確認しておきます。

アメリカの大統領にナチス・ドイツが核兵器の開発をしていることを示唆した自分の手紙が核兵器の開発と日本へ投下につながったことを知った物理学者のアインシュタインは、その後、核兵器廃絶と戦争廃止のための努力を続け、それは水爆などが使用される危険性を指摘して戦争の廃絶を目指した「ラッセル・アインシュタイン宣言」として結実していました。

注目したいのは、そのアインシュタインがドストエフスキーについて、「彼はどんな思想家よりも多くのものを、すなわちガウスよりも多くのものを私に与えてくれる」と述べていたことです。(クズネツォフ、小箕俊介訳『アインシュタインとドストエフスキー』れんが書房新社、1985年、9頁)。

ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』でイワンに非ユークリッド幾何学についても語らせていますので、アインシュタインの言葉はこの小説における複雑な人間関係や人間心理の鋭い考察から、彼が哲学的・科学的な強いインスピレーションを得たと考えることも可能です。

しかし、それとともに重視すべきと思われるのは、『カラマーゾフの兄弟』では自分の言葉がスメルジャコフに「父親殺し」を「教唆」していたことに気づいたイワンが、深い「良心の呵責」に襲われ意識混濁や幻覚を伴う譫妄症にかかっていたことです。

殺人を実行したわけではなく、言葉や思想による「使嗾」だけにもかかわらず苦しんだイワンの心理をこれほどに深く描いたドストエフスキーに私は倫理的な作家を見いだしていましたが、広島や長崎に原爆が投下されたことを知った後のアインシュタインの言動も、原爆パイロット・イーザリー少佐に重なる言動が少なくないと言えるでしょう。

一方、それまでの自分の『カラマーゾフの兄弟』観を覆して、「アリョーシャというイメージを創(つく)るのですが、あれは未完なのです。あのあとどうなるかわからない。また堕落させるつもりだったらしい」と語った小林氏の解釈は、イワンの「良心の呵責」という重たい倫理的なテーマをもあやふやにしてしまっていると思われます。

 

リンク→「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(5)

リンク→『罪と罰』と『罪と贖罪』――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(1)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(5)

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(広島に投下された原爆による巨大なキノコ雲(米軍機撮影)。キノコ雲の下に見えるのは広島市街、その左奥は広島湾。画像は「ウィキペディア」による)

 

 「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(5)――ムィシキン公爵と「狂人」とされた「軍人」

『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(筑摩書房)には、水爆などが使用される危険性を指摘して戦争の廃絶を目指した「ラッセル・アインシュタイン宣言」を1955年に発表していたバートランド・ラッセルの「まえがき」も収められていました。

ラッセルはその「まえがき」を次のように書き始めています。少し長くなりますが引用して起きます。

「イーザリーの事件は、単に一個人に対するおそるべき、しかもいつ終わるとも知れぬ不正をものがたっているばかりでなく、われわれの時代の、自殺にもひとしい狂気をも性格づけている。先入観をもたない人間ならば、イーザリーの手紙を読んだ後で、彼が精神的に健康であることに疑いをいだくことのできる者はだれもいないであろう。従って私は、彼のことを狂人であると定義した医師たちが、自分たちが下したその診断が正しかったと確信していたとは、到底信ずることができない。彼は結局、良心を失った大量殺戮の行動に比較的責任の薄い立場で参加しながら、そのことを懺悔したために罰せられるところとなった。…中略…彼とおなじ社会に生きる人々は、彼が大量殺戮に参加したことに対して彼に敬意を示そうとしていた。しかし、彼が懺悔の気持ちをあらわすと、彼らはもちろん彼に反対する態度にでた。なぜならば、彼らは、彼の懺悔という事実の中に行為そのもの〔原爆投下〕に対する断罪を認めたからである」。

*   *

「あとがき」を書いたユンクによれば、イーザリー少佐は「広島でのあのおそるべき体験の後、何日間も、だれとも一言も口をきかなかった」ものの、戦後は「過去のいっさいをわすれて、ただただ金もうけに専心し」、「若い女優と結婚」してもいました。

しかし、私生活での表面的な成功にもかかわらず、イーザリー少佐は夜ごとに夢の中で、「広島の地獄火に焼かれた人びとの、苦痛にゆがんだ無数の顔」を見るようになり、「自分を罪を責める手紙」や「原爆孤児」のためのお金を日本に送ることで、「良心の呵責」から逃れようとしたのですが、アメリカ大統領が水爆の製造に向けた声明を出した年に自殺しようとしました。

自殺に失敗すると、今度は「偉大なる英雄的軍人」とされた自分の「正体を暴露し、その仮面をひきむく」ために、「ごく少額の小切手の改竄」を行って逮捕されます。しかし、法廷では彼には発言はほとんど許されずに、軽い刑期で出獄すると、今度は強盗に入って何も取らずに捕まり、「精神」を病んだ傷痍軍人と定義されたのです(ロベルト・ユンク「良心の苦悩」)。

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このようなイーザリー少佐の行為は、「敵」に対して勝利するために、原爆という非人道的な「大量殺人兵器」の投下にかかわった「自分」や「国家」への鋭い「告発」があるといえるでしょう。

イーザリー少佐と手紙を交わしたG・アンデルスは、核兵器が使用された現代の重大な「道徳綱領」として「反核」の意義を次のように記しています。「いまやわれわれ全部、つまり“人類”全体が、死の脅威に直面しているのである。しかも、ここでいう“人類”とは、単に今日の人類だけではなく、現在という時間的制約を越えた、過去および未来の人類をも意味しているのである。なぜならば、今日の人類が全滅してしまえば、同時に、過去および未来の人類も消滅してしまうからである。」(55頁)。

さらに、ロベルト・ユンクも「狂人であると定義」されたイーザリー少佐の行為に深い理解を示して「われわれもすべて、彼と同じ苦痛を感じ、その事実をはっきりと告白するのが、本来ならば当然であろう。そして、良心と理性の力のことごとくをつくして、非人間的な、そして反人間的なものの擡頭と、たたかうべきであろう」と書き、「しかしながら、われわれは沈黙をまもり、落ちつきはらい、いかにも“分別を重ねつくした”かのようなふりをしているのである」と続けているのです(264-5頁)。

*   *

これらの記述を読んでドストエフスキーの研究者の私がすぐに思い浮かべたのは、「殺すなかれ」という理念を語り、トーツキーのような利己的で欲望にまみれた19世紀末のロシアの貴族たちの罪を背負うかのように、再び精神を病んでいったムィシキンのことでした。

この長編小説を映画化した黒澤映画《白痴》を高く評価したロシアの研究者や映画監督も主人公・亀田の形象にそのような人間像を見ていたはずです。

文芸評論家の小林秀雄氏も1948年の8月に行われた物理学者・湯川秀樹博士との対談「人間の進歩について」では、「私、ちょうど原子爆弾が落っこったとき、島木健作君がわるくて、臨終の時、その話を聞いた。非常なショックを受けました」と切り出し、こう続けていたのです。

「人間も遂に神を恐れぬことをやり出した……。ほんとうにぼくはそういう感情をもった」。

それにたいして湯川が太陽熱も原子力で生まれていることを指摘して「そうひどいことでもない」と主張すると、「高度に発達する技術」の危険性を指摘しながら、次のように厳しく反論していました。

「目的を定めるのはぼくらの精神だ。精神とは要するに道義心だ。それ以外にぼくらが発明した技術に対抗する力がない」(拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、139頁)。

*   *

湯川博士との対談を行った時、小林氏は日本に落とされた原爆が引き起こした悲惨さを深く認識して、水爆などが使用される危険性を指摘して戦争の廃絶を目指して平和のための活動をすることになるアインシュタインと同じように考えていたと思えます。

しかし、1965年に数学者の岡潔氏と対談で哲学者ベルグソン(1859~1941)と物理学者アインシュタイン(1879~1955)との議論に言及した小林氏は、「アインシュタインはすでに二十七八のときにああいう発見をして、それからあとはなにもしていないようですが、そういうことがあるのですか」ときわめて否定的な質問をしているのです(『人間の建設』、新潮文庫、68頁)。

この時、小林秀雄氏は「狂人であると定義」されたイーザリー少佐に深い理解を示したロベルト・ユンクが書いているように、かつて語っていた原水爆の危険性については「沈黙をまもり、落ちつきはらい、いかにも“分別を重ねつくした”かのようなふりをしている」ように思われます。

トーツキーのようなロシアの貴族の行為に深い「良心の呵責」を覚えたムィシキンをロゴージンの「共犯者」とするような独自な解釈も、小林氏のこのような「良心」解釈と深く結びついているようです。

 

リンク→

小林秀雄の『罪と罰』観と「良心」観

小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(3)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(2)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(1)

 

講演「黒澤明監督の倫理観と自然観――映画《生きものの記録》から映画《夢》へ」に向けて

 

 5月23日(土曜)に行われる「地球システム・倫理学会」の研究例会では、「黒澤明監督の倫理観と自然観――《生きものの記録》から映画《夢》へ」という題名で講演を行います。

リンク→「地球システム・倫理学会」研究例会(5月23日)のお知らせ

講演の準備に取り組む中で黒澤明・小林秀雄関連年表にいくつかの重要な事項が抜けていたことに気づきました。「核兵器・原発事故と終末時計の年表にリンクするとともに、黒澤明・小林秀雄関連年表に下記の事項を追加しました。

また、黒澤明とタルコフスキーという二人の名監督の深い交流とその意義をめぐる堀伸雄氏のすぐれた論文が二誌に掲載されましたので*、両者の交友と作品の事項も追加しました。

リンク→年表7、黒澤明・小林秀雄関連年表(1902~1998)

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1945年 【ロックフェラー財団会長レイモンド・フォスディックが原爆投下の知らせを聞いて「私は良心の呵責に苦しんでいる」と手紙に記す】。

1962年8月 『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』、筑摩書房。(アインシュタインと共同宣言を出したラッセル卿の「まえがき」を所収)。

1965年 小林、数学者の岡潔と対談「人間の建設」(『新潮』10月号)でアインシュタインを批判。

1973年 黒澤、モスクワで映画監督タルコフスキーとともに《惑星ソラリス》を見る。

1986年 【5月 タルコフスキーの映画《サクリファイス》上映】。

 

(* 堀伸雄「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー ~『七人の侍』に始まる魂の共鳴」『黒澤明研究会誌』第32号、および「ドストエフスキーへの執念が育んだ〈絆〉」『ドストエーフスキイ広場』第24号)。

終末時計の時刻と回避された「核攻撃命令」

安倍政権は沖縄で再び住民の意思を全く無視した形で辺野古の基地建設を強引に進めていますが、本日の「東京新聞」朝刊は1962年の「キューバ危機」の際には、沖縄が核戦争の戦場になる危険性があったという衝撃的な事実を伝えています。

 

冷戦下、米沖縄部隊に核攻撃命令 元米軍技師ら証言

2015年3月14日 「東京新聞」

冷戦下の1962年、米ソが全面戦争の瀬戸際に至ったキューバ危機の際、米軍内でソ連極東地域などを標的とする沖縄のミサイル部隊に核攻撃命令が誤って出され、現場の発射指揮官の判断で発射が回避されていたことが14日、同部隊の元技師らの証言で分かった。

キューバ危機で、核戦争寸前の事態が沖縄でもあったことが明らかになったのは初めて。ミサイルは、核搭載の地対地巡航ミサイル「メースB」で、62年初めに米国施政下の沖縄に配備された。運用した米空軍第873戦術ミサイル中隊の元技師ジョン・ボードン氏(73)=ペンシルベニア州ブレイクスリー=が証言した。(共同)

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2月4日に書いたブログ記事「小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計」では、世界が滅亡する時間を午前0時になぞらえた「終末時計」の時刻が、「残り3分」になったと発表されたことに関連して、小林秀雄の原子力エネルギー観の問題を指摘しました。

1948年の湯川秀樹との対談「人間の進歩について」で、「原子力エネルギー」を産み出した「高度に発達した技術」の問題を「道義心」を強調しながら批判していた小林秀雄は、日本を取り巻く核廃絶の運動が衰退する流れに沿うかのように原子力エネルギーの危険性に対する指摘をパッタリとやめていたのです。

ことに核戦争が勃発する寸前にまで至っていた1962年の「キューバ危機」から3年後に行われた数学者の岡潔との対談では哲学者ベルグソンの視点に立ってアインシュタインを批判していました。

しかし、日本に落とされた原爆が引き起こした悲惨さを深く認識したアインシュタイン(1879~1955)は、水爆などが使用される危険性を指摘して戦争の廃絶を目指し、それは「ラッセル・アインシュタイン宣言」として結実していたのです。一方、哲学者ベルグソン(1859~1941)は原爆の危険性を知らずに亡くなっていました。

「原子力エネルギー」の問題を「道義心」の視点から批判していた小林秀雄は、当然、アインシュタインが持った危機感を共有していたと思えるのですが、1965年の対談からはその危機感のかけらも感じられないのです。

日本の代表的な知識人である小林秀雄の現実の危険性を直視しない姿勢が、今日の原発大国・日本にもつながっていると思われます。

(2016年2月17日。リンク先を追加)

リンク→小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計

リンク→自民党政権の「核の傘」政策の危険性――1961年に水爆落下処理

リンク→岸・安倍両政権と「核政策」関連の記事一覧

小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計

アメリカの科学誌『原子力科学者会報』は、2015年01月22日に、核戦争など人類が生み出した技術によって世界が滅亡する時間を午前0時になぞらえた「終末時計」が、「残り3分」になったと発表しました。

私自身が文学を研究する道を選んだ大きな動機は、「人類滅亡の悪夢」が描かれている『罪と罰』などをとおして戦争の危険性を訴えるためだったので、「終末時計」がアメリカに続いてソ連も原爆実験に成功した1949年と同じ「残り3分」になったことに強い衝撃を受けています。

それゆえ、「ウィキペディア」などを参考に「核兵器・原発事故と終末時計」の年表を作成しましたので、年表Ⅶとして年表のページに掲載します。

リンク→年表Ⅶ、核兵器・原発事故と終末時計

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(広島と長崎に投下された原子爆弾のキノコ雲、1945年8月、図版は「ウィキペディア」より)

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日本における反原爆の運動と原発事故の問題については、前著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』で考察しました。

しかし、1965年に行われた数学者の岡潔氏との対談「人間の建設」についての言及が抜けていたのでそれを補いながら、小林秀雄の「原子力エネルギー観」と歴史観との関連について簡単に記しておきます。

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1947年に創設された終末時計は東西冷戦による核戦争の危機を評価の基準として、当初は「残り7分」に設定されましたが、文芸評論家の小林秀雄のすばらしい点はその翌年8月に行われた湯川秀樹との対談「人間の進歩について」で、「原子力エネルギー」と「高度に発達した技術」の問題を「道義心」を強調しながら批判していたことです。

しかし、年表をご覧頂ければ分かるように、日本を取り巻く核廃絶の環境はその頃から急速に悪化していき、そのような流れに沿うかのように小林秀雄の原子力エネルギーの危険性に対する指摘は陰を潜めてしまうのです。

リンク→http://zero21.blog65.fc2.com/blog-entry-130.html(湯川秀樹博士の原子力委員長就任と辞任のいきさつ)

たとえば、米ソで競うように水爆実権が繰り返されるようになる1953年から1960年までは最悪の「残り2分」となり、1962年の「キューバ危機」では核戦争が勃発する寸前にまで至りました。それを乗り越えたことにより「終末時計」は「残り12分」に戻ったものの、相変わらず「残り時間」がわずかとされていた1965年に小林秀雄は数学者の岡潔と対談しています。

ことにこの対談で哲学者ベルグソン(1859~1941)にも言及しながら物理学者としてのアインシュタイン(1879~1955)と数学者との考え方の違いについて尋ねた箇所は、この対談の山場の一つともなっています。

しかし、「(アインシュタインが――引用者注)ベルグソンの議論に対して、どうしてああ冷淡だったか、おれには哲学者の時間はわからぬと、彼が答えているのはそれだけですよ」という発言に現れているように、小林の関心は両者の関係に集中しているのです(『人間の建設』新潮文庫、60頁)。

小林秀雄はさらに、「アインシュタインはすでに二十七八のときにああいう発見をして、それからあとはなにもしていないようですが、そういうことがあるのですか」とも尋ねています(太字は引用者、68頁)。

しかし、日本に落とされた原爆が引き起こした悲惨さを深く認識したアインシュタインは、水爆などが使用される危険性を指摘して戦争の廃絶を目指し、それは彼が亡くなった1955年に「ラッセル・アインシュタイン宣言」として結実していたのです。

リンク→ラッセル・アインシュタイン宣言-日本パグウォッシュ会議

湯川博士との対談では「原子力エネルギー」と「高度に発達した技術」の危険性を小林が鋭く指摘していたことを思い起こすならば、ここでもアインシュタインの「道義心」を高く評価すべきだったと思えるのですが、そのような彼の活動の意義はまったく無視されているのです。

*  *

その理由の一端は、「歴史の一回性」を強調し、科学としての歴史的方法を否定した1939年の「歴史について」と題する『ドストエフスキイの生活』の次のような序で明らかでしょう。

「歴史は決して繰返しはしない。たゞどうにかして歴史から科学を作り上げようとする人間の一種の欲望が、歴史が繰返して呉れたらどんなに好都合だらうかと望むに過ぎぬ。そして望むところを得たと信ずるのは人間の常である」〔五・一七〕。

さらに、評論家の河上徹太郎と1979年に行った「歴史について」と題された対談でも、「煮詰めると歴史問題はどうなります? エモーション(感情、感動、編集部注)の問題になるだろう」と河上に語りかけた小林は、「なんだい、エモーションって……」と問われると、「歴史の魂はエモーショナルにしか掴めない、という大変むつかしい真理さ」と説明しているのです。

たしかに、「エモーション」を強調することで「歴史の一回性」に注意を促すことは、一回限りの「人生の厳粛さ」は感じられます。しかし、そこには親から子へ子から孫へと伝承される「思想」についての認識や、法律制度や教育制度などのシステムについての認識が欠けていると思われます。

「歴史の一回性」を強調した歴史認識では、同じような悲劇が繰り返されてしまうことになると思われますし、私たちが小林秀雄の歴史観を問題にしなければならないのも、まさにその点にあるのです*

*  *

そのような問題意識を抱えながらベトナム戦争の時期に青春を過ごしていた私は、伝承される「思想」や法律制度や教育制度などのシステムについての分析もきちんと行うためには、「文学作品」の解釈だけではなく、「文明学」の方法をも取り入れてドストエフスキー作品の研究を行いたいと考えたのでした。

それから半世紀以上も過ぎた現在、人類が同じような問題に直面していることに愕然としますが、学生の頃よりは少しは知識も増え、伝達手段も多くなっていますので、この危機を次世代に引き継がせないように全力を尽くしたいと思います。

*  *

注 *1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という同人の林房雄の問いに「ナポレオンさ」と答えた小林秀雄は、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語っていた。

重大な問題は、戦争に対して不安を抱いた林が「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけると小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていたことである。

この言葉を聴いた林は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」との覚悟を示したのである。(太字は引用者、「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁。不二出版、復刻版、2008~2011年)。

(2015年6月4日、注を追加。6月11日、写真を追加)